「明日からここに住んであげるから」
玄関先で聞こえたその言葉に、私は思わず耳を疑いました。目の前には引っ越しトラックが止まり、作業員が次々と荷物を運び込んでいます。息子の裕介とその妻のリナが、まるで自分の家に帰ってきたかのように当然の顔で立っているのです。
「え、どういうこと?聞いてないわよ」
私の戸惑いの声は、二人には届いていないようでした。
「もう決めたことだから。それに鍵も変えたし」
裕介の冷たい言葉が朝の空気を切り裂きます。鍵を変えた。信じられない言葉に、隣にいた夫の高広も声を失っていました。
私は福田裕子、58歳。新近庫で38年間勤務してきた専業主婦です。その瞬間、私の心に不思議な感覚が広がっていきました。それは怒りでも悲しみでもなく、静かな、とても静かな何かでした。
息子たちは気づいていません。自分たちが今どれほど重大な間違いを犯しているのか。
思い返せば、私たち夫婦は裕介のためにできる限りのことをしてきました。大学までの教育費は総額950万円。全て私たちの貯金から出したものです。結婚式の費用も450万円を援助し、新居のマンション購入時には頭金として500万円を提供しました。孫が生まれてからは毎月の保育料8万円も支援してきたのです。
この家は、夫と私が30年前にローンを組んで購入した大切な場所です。35年ローンを繰り上げ返済で25年かけて完済しました。総額は4200万円。決して楽な道のりではありませんでした。リフォームにも800万円をかけ、一つ一つ丁寧に手入れしてきました。今では不動産会社の査定で8500万円の価値があると言われています。
最近、裕介とリナの様子が少しおかしいと感じていました。私たちへの態度が以前とは変わってきたのです。電話をしても「忙しくて」と断られ、尋ねても「用事があるから」とすぐに帰ってしまう。でも、まさかこんなことになるなんて。
あの日、全てが変わり始めたことを今でも鮮明に思い出します。全ての始まりは、1ヶ月前のある日曜日のことでした。裕介とリナが突然訪ねてきたのです。
「ちょっと話があるんだけど」
いつになく真剣な表情で、私たち二人を歓迎し、リビングに通しました。
「あら、相変わらず広い家ね」
リナが部屋の中をじろじろと見回しながら言います。その視線には、何か含むような冷たさが感じられました。
「二人だけには広すぎるよね。この家」
裕介の言葉に、私は少し戸惑いました。
「え、どういう意味?確かに広いけど、気に入ってるからな」
高広が答えます。
「というわけで、明日からここに住むことになった」
裕介が畳みかけるように言いました。
「え?ちょっと待って、何を言ってるの?」
「俺たちがここに住むんだよ。家を売ることも考えてるけど、とりあえず住む場所が必要だから」
リナが付け加えます。
「売る?この家を?」
高広が声を上げました。
「もう決めたことだから」
裕介は淡々としています。
「でも、どうして?今のマンションはどうするの?」
「あのマンションは売ることにした。ローンが大変で、こっちの家の方が広いし、老後も安心だから」
私は頭が真っ白になりました。彼らが何を言っているのか、理解できません。
「ちょっと待って、私たちはまだ元気だし、ここに住み続けるつもりよ。それに、あなたたちが住むなら、私たちはどこに住めばいいの?」
「実家に帰ればいいじゃない」
リナが平然と言いました。
「実家って、この家のこと?」
「違うわよ、私の実家よ。あなたたちは出て行けばいいの」
私は言葉を失いました。高広も同様です。
「何言ってるんだ。ここは俺たちの家だぞ」
「だから、もう鍵は変えたんだ。もう入ってこないでほしい」
裕介が言い切ります。
「鍵を変えた?勝手に?」
「ここはもう俺たちの家だからな。勝手にしたも何もない」
私は深く息を吸いました。怒りが込み上げてくるのを必死に抑えました。
「裕介、話をしよう。感情的になるな。ちゃんと話し合えば、何とかなるはずだ」
「話し合う必要なんてないね。もう決めたことだから」
裕介は有無を言わせません。
「お母さん、もう諦めなさいよ。ここには住めないんだから」
リナが高をくくったように言いました。
私はその場を離れました。玄関まで戻ると、引っ越し作業員が荷物を運び込んでいます。
「ちょっと待ってください。これは私の家です」
作業員は困惑した顔で裕介を見ます。
「大丈夫です。続けてください」
裕介が指示します。
私は高広を見ました。彼は青ざめています。
「高広、どうする?」
「分からない。とりあえず荷物をまとめて、どこかに避難しよう」
私たちは急いで必要なものをかばんに詰めました。しかし、裕介が言った言葉が頭から離れません。
「もう二度と、この家に立ち入らないでください」
その言葉が刺さりました。こうして私たちは、自分たちの家から追い出されてしまったのです。
その夜、私たちは質素なビジネスホテルに泊まりました。高広は何も話しません。私も言葉が出ませんでした。ただ、悔しさと悲しみで胸が張り裂けそうでした。
翌朝、私たちは弁護士に相談しました。
「家の名義はどうなっていますか?」
「夫婦の共有名義です」
「それなら、無断で立ち退きを求めるのは法的に問題があります。まずは内容証明郵便を送ることをお勧めします」
弁護士の言葉に、少し希望が見えました。しかし、裕介たちがどのような態度をとるか分かりません。
私たちは内容証明郵便を送りました。そして、話し合いの場を設けることを要求しました。しかし、裕介たちからの返事はありません。
1週間が過ぎました。私たちは生活費を切り詰めながら、ホテルで過ごしていました。その間も、家の状態を確認するために、時々近くまで行きました。しかし、カーテンは閉められ、私たちの植えた花も枯れ始めていました。
ある日、私はふと、家の鍵を手に取りました。新しい鍵に変えられたとはいえ、古い鍵で試してみることにしました。すると、どうでしょう。鍵はスムーズに回りました。裕介たちは鍵を変えたと言いましたが、実際には変えていなかったのです。
私は高広に知らせました。
「これで中に入れるわ」
「入るのか?」
「ええ、私たちの家だもの」
私たちは静かに家の中に入りました。中は引っ越しの段ボールで散らかっていましたが、私たちの家具はまだ残っています。リビングに入ると、そこには裕介とリナがいました。
「どうしてここにいるんだ?」
裕介が驚いた顔で言いました。
「鍵が開いてたからね。それに、ここは私たちの家よ」
「もう出て行けよ。警察呼ぶぞ」
リナが声を荒げました。
「どうぞ、呼べばいいわ。私たちはこの家の持ち主なんだから。むしろ、あなたたちが出て行くべきよ」
私は毅然と言いました。裕介はスマホを取り出しましたが、何もできずに下ろしました。
「話し合おう」
私は言いました。
「何の話し合いだよ」
「あなたたちは、私たちを追い出そうとした。でも、それは間違いよ。私たちはこれまで、あなたたちのためにたくさんの支援をしてきた。そして、この家は私たちが必死に働いて手に入れたものなの。あなたたちのものじゃない」
裕介は俯きました。リナは私たちをにらみつけています。
「でも、もう住むところがなくて困ってるんだ」
裕介が弱々しく言いました。
「それはあなたたちの問題よ。私たちは助けることができないわ。むしろ、あなたたちは私たちに謝るべきだ」
その言葉に、裕介は何も言えませんでした。リナも沈黙しました。
私たちは話し合いを続けました。最終的に、裕介たちは、私たちの了解なしに家を占有したことを謝罪しました。そして、新しい住居を探す間、1ヶ月だけ家に滞在することを許す代わりに、私たちはその間、別の場所で過ごすことにしました。
しかし、私は心の中ではすでに決めていました。この家に戻っても、きっとこれまで通りにはいかない。私たちは、家を売ることにしました。
数ヶ月後、私たちはその家を売却しました。買い手は若い家族でした。彼らが楽しそうに家の中を見て回る姿を見て、私は少しせつなくなりましたが、それでよかったのだと思いました。
私たちは小さなマンションに引っ越しました。新しい生活に慣れるまでに時間はかかりましたが、心は静かでした。裕介たちとは、それ以来、連絡を取っていません。
ある日、高広が言いました。
「俺たちは間違ってなかったな」
「ええ、私たちは自分たちの人生を歩むべきなのよ」
私はそう答えました。私たちは、自分たちの幸せのために生きることに決めたのです。



