社長が倒れて、会社を去ることになった。新しい社長は矢沢さん。元副社長で、名門大学出身のエリートだ。父親は元銀行員、母親は教師。本人も自分の家柄を誇りに思っている。社長就任直後の飲み会で、一村さんが教えてくれた話があった。矢沢さんの父親は銀行員だった頃、町の工場への融資を打ち切ったことがあるらしい。その工場はすぐに潰れた。面倒見のいい経営者で、俺たちみたいに学歴がなくて就職できない奴らを雇ってくれていた。経営者も高卒だった。工場が潰れた時、矢沢さんの父親はこう言ったそうだ。「学歴のない人間に金を貸すのは無駄だ。勉強のできないやつは仕事もできない」と。
俺は中卒だ。家が貧乏で、高校に行くお金がなかった。家族を養うために働きに出るしかなかった。幸い、この工場が俺を雇ってくれた。社長の方針で、学歴がなくても採用してくれる会社だった。俺はここで技術を磨いて、今では副場長として働いている。一村さんをはじめ、工場の仲間たちに長い間支えてもらった。俺と同じ中卒の社員もたくさんいる。学歴なんてなくても、手を動かして技術を磨けば評価してもらえる。そう思える会社で働けたことを、俺は誇りに思っていた。
これからもずっと、みんなとここで働き続けると思っていた。
新しい社長が決まった。矢沢さんだ。就任早々、工場に視察に来た。そこで彼は言った。「エリート大学の新卒のボーナスは100万。中卒はボーナスなしだ。」
その場にいた俺と、中卒の社員23人。全員が言葉を失った。前から問題のある人だと思っていた。でも、まさか自分の立場を悪用して、ここまでするとは思わなかった。俺たちは心の底から呆れた。社長は自分の発言が何を意味するのか、理解していないようだった。
「能力に合う会社を紹介するぞ。どうだ?」
矢沢社長がそう言った時、俺はようやく電話に出た。夕方の工場で、一人で機械の調整をしていた。携帯が鳴って、画面には見慣れない番号。出てみると、聞こえてきたのは矢沢社長の声だった。
「やっと電話に出たな。今どこにいる?」
「工場です。どうされましたか?」
「そこに一村はいるか?」
「いえ、今日は休みですけど…」
「そうか。お前に話がある。この後、社長室に来い。」
そう言って、一方的に電話は切れた。何の話だろう。最近、矢沢社長は工場の人間たちに当たりが強い。でも、俺が何かやらかした覚えはない。もしかしたら、一村さんのことかもしれない。一村さんは工場長で、昔から社長に反対意見を言うことがあった。矢沢社長のやり方に納得いかないと、はっきり言っていた。
社長室に入ると、矢沢社長は窓の外を眺めていた。俺が入ってくると、振り向きもせずに言った。「長岡、お前は中卒だな。」
「はい。」
「うちの会社は学歴のない人間を雇いすぎだ。中卒の連中にボーナスを出す余裕はない。お前もわかっているだろう。」
「…社長、それはどういう意味ですか?」
「そのままの意味だ。お前たち中卒の社員は、これまで通り働け。しかし、昇給もボーナスもない。給料は据え置きだ。それが嫌なら辞めてもらって構わない。」
俺は返す言葉がなかった。この会社で技術を磨いて、評価されてきた。それなのに、学歴だけで否定される。
「エリート大学の新卒のボーナスは100万だ。中卒はゼロ。それが正しい社会の姿だ。」
矢沢社長はそう言って、笑った。
その日から、工場の空気は変わった。中卒の社員たちは、黙々と仕事をこなすだけになった。一村さんも言葉が少なくなった。俺は一村さんに相談した。「このままじゃ、みんな辞めてしまいますよ。」一村さんは深いため息をついて、「社長はわかっていないんだ。この工場がどうやって成り立ってきたのかを」と言った。
一週間後、矢沢社長がまた工場に来た。今度は一人ではなく、弁護士を連れて。社員全員が呼び出された。
「今日から、この会社は私のものです。」
矢沢社長はそう言って、書類を見せた。前の社長から会社を買い取ったらしい。株を買い集めて、経営権を握ったのだ。
「これからは、私の方針で経営する。学歴のない人間には、退職金を渡して辞めてもらう。残る者は、能力を証明した者だけだ。」
中卒の社員23人。全員が下を向いていた。俺も、一村さんも、何も言えなかった。
しかし、その時、一村さんが口を開いた。「社長、一言いいですか?」
「何だ?」
「この工場は、社長の父親に潰された工場の社員たちが作ったんです。私たちは、そこで学歴に関係なく雇ってくれた恩を忘れていません。だから、ここに残って働いてきたんです。」
矢沢社長の顔色が変わった。「何を言っているんだ?」
「あなたの父親は、あの工場の融資を打ち切った。それが原因で、工場は潰れた。残った社員たちは、ここに移って働き続けた。私は当時の工場の社員です。この工場の真の姿を知っています。」
場が凍りついた。矢沢社長は一村さんを睨みつけたが、何も言えなかった。
「あなたのやり方は、間違っています。学歴で人を判断するのは、間違いです。」
一村さんの声は静かだったが、力強かった。矢沢社長は震える手で書類を握りしめた。
「出て行け!お前はクビだ!」
「どうぞ。退職金はいただきます。でも、あなたは大きな過ちを犯しています。」
一村さんはそう言って、工場を去った。残された俺たちは、どうすればいいのかわからなかった。
翌日、俺は矢沢社長に呼び出された。「長岡、お前はどうするんだ?残るか、辞めるか。」
「…考えさせてください。」
「いつまで待てばいいんだ?」
「次の給料日までで。」
「ふん、好きにしろ。」
その夜、俺は一村さんの家を訪ねた。一村さんは妻と二人で、小さなアパートに住んでいた。「長岡、来てくれたのか。」
「一村さん、これからのこと…」
「私は、自分で新しい会社を始めるつもりだ。学歴に関係なく、技術で勝負できる会社を。」
「一緒にやらせてください。」
一村さんは驚いた顔をした。「お前でいいのか?矢沢のところで、これから昇進するかもしれないぞ。」
「そんなの、もうどうでもいいんです。この工場で学んだのは、技術だけじゃない。人の繋がりです。学歴なんかで人を見ないことです。」
一村さんは微笑んだ。「わかった。また、よろしく頼む。」
俺は会社を辞めた。中卒の社員たちも、何人か辞めていった。残った者たちは、矢沢社長の方針に従っていたが、工場の雰囲気は最悪だった。
一村さんと俺は、小さな工場を始めた。最初は仕事もなくて、苦しかった。でも、一村さんが昔取引していた会社から注文が入るようになった。俺たちの技術が評価されたのだ。
半年後、矢沢社長の会社が倒産した。ニュースで知った。矢沢社長の経営方針が裏目に出たらしい。エリートだけを優遇し、現場の技術者を軽視した結果、品質が落ちて取引先を失ったのだ。
俺たちの工場は順調に成長していた。学歴に関係なく、やる気のある人間を雇った。俺たちと同じように、就職で苦労した連中が集まってきた。
ある日、工場に一人の男性が訪ねてきた。頭を下げて、こう言った。「申し訳ありませんでした。」
見ると、矢沢社長だった。
「今さら何をしに来たんですか?」
「…謝罪したくて。私が間違っていました。一村さんから、あなたたちの話を聞きました。自分が何をしてきたのか、思い知らされました。」
俺はしばらく黙っていた。矢沢社長は続けた。「もしよければ、ここで働かせてもらえないでしょうか?」
一村さんは横で何も言わなかった。俺は考えた。許すべきなのか、わからなかった。でも、一村さんを見ると、少し笑っていた。
「…工場の中に入れますよ。でも、学歴は関係ありません。技術で評価されます。」
矢沢社長は深く頭を下げた。「ありがとうございます。」
こうして、矢沢社長は俺たちの工場で働くことになった。最初はぎこちなかったが、少しずつ溶け込んでいった。ある日、俺は思った。学歴なんて、結局ただの紙切れだ。大切なのは、人としてどう生きるか。一村さんが教えてくれたこと、工場で学んだこと。それが俺の誇りだ。
今も俺は、この工場で働いている。中卒だって、技術を磨けば誰にも負けない。そう信じて、今日も機械の前に立っている。



