結婚式当日。純白のドレスに身を包み、ブライズルームで待つ私の元に、新郎も彼の親族も誰一人として現れなかった。困惑するスタッフたち。その幻想を切り裂くように届いたのは、あまりにも残酷な絶縁宣言だった。
「今日の結婚式、俺も俺の両親も親族も全員不参加。お前らだけで披露宴でもやれば?」
理解が追いつかない私に、追い打ちをかけるように一枚の画像が送られてきた。映っていたのは、タキシード姿の彼と、派手なドレスで彼に寄り添う職場の後輩。背景は高級ホテルのスイートだろう。二人はシャンパングラスを掲げ、勝ち誇ったように笑っている。
「俺は社長令嬢の翔子と結婚して、将来はこの会社の社長を継ぐんだ。お前みたいな平凡な女との結婚ごっこはもう終わりだ。」
点と線が繋がり、全てを悟った瞬間、私の心から悲しみという感情は消え去った。代わりに湧き上がったのは、全てを焼き尽くすような怒りと、それを冷やかに見下ろす冷静さだった。
私は木下ひろみ。同じ会社の同期として入社した殿内明と、3年間の交際を経て婚約した。明は明るく社交的で、同僚からの人気も高い。しかし、私と二人きりになると、時折子供っぽい一面を見せるのが玉に瑕だった。
例えば、私が大事なプレゼンのために準備していた書類をわざと隠して困らせる。「ねえ、ここに置いておいたはずの企画書、知らない?」「え?知らないなあ。ちゃんと管理しない広美が悪いんじゃないの?」私が必死に探し回る姿を見て、あっさりと笑うのが常だった。「なんてね。ほら、ここだよ。」
また、楽しみにしていたデートの待ち合わせでも、直前になって場所を変更することが一度や二度ではなかった。私が必死に新しい場所へ走り回る様子を、彼は満足そうに眺めている。「もう、どうして急に場所を変えるのよ。」「ごめん、ごめん。でも広美が一生懸命走ってくる姿、可愛かったよ。」悪びれずに笑う彼に、私は呆れつつも強く言い返せなかった。
もちろん、彼の幼稚な振る舞いに言いようのない不安を覚えることもあった。このまま結婚して本当に大丈夫なのだろうかと。でも、きっと彼も結婚して家庭を持てば、責任感が芽生えて大人になってくれるはず。私はそう自分に言い聞かせ、期待を抱いていた。
結婚が決まり、まず取りかかったのは両家の顔合わせだった。場所は都内でも指折りの高級料亭。個室からは手入れの行き届いた日本庭園が望める、名やかな雰囲気に満ちている。父も母も、この日を心から楽しみにしていた。
しかし、予約した時刻を過ぎても彼と彼の両親は現れない。最初は交通渋滞だろうと話していたが、30分、1時間と経過する頃には不安が募ってきた。「お父さん、お母さん、一度明に電話してみるね。」
電話の向こうから聞こえてきたのは、やけに軽い彼の声だった。「もしもし、広美?どうしたんだ、急に。」その声は騒がしく、背後からは楽しげな音楽と笑い声が聞こえる。「どうしたって?今日は家の顔合わせの日だって忘れたの?もう1時間以上も待ってるのよ。」私の焦りをよそに、彼はけらけらと笑いながら信じられない言葉を口にした。「ああ、ごめん、ごめん。すっかり忘れてたよ。今、家族で温泉旅行に来てるんだ。」「は?温泉旅行?」「そうそう。昨日親父が急に行こうって言い出してさ。いやあ、ここの露天風呂最高だよ。」
あまりのことに言葉を失う私に、彼は「じゃあ、そういうことだから」と一方的に電話を切ってしまった。この顛末を両親に伝えると、温厚な父がこれまで見たこともないほど激昂した。「なんだ、それは!あまりにも非常識だ。こんな無責任な男に大事な娘をやがせるわけにはいかん。」母も目に涙を浮かべ、私の肩をさすった。「広美、本当にあの方と結婚して幸せになれるの?」
両親の怒りと悲しみはもっともだった。しかし、私はここで全てを白紙に戻す決断ができなかった。「ごめんなさい。でも、明は悪気がある人じゃないの。ただちょっと子供っぽいだけで。私がしっかりするから。お願い、今回のことは許してあげてほしい。」彼の幼稚な性格を誰よりも知っていたはずの私が、涙ながらに両親を説得した。この時、両親の忠告に素直に耳を傾けていれば良かったのだと、後に深く後悔することになる。
結局、私が明と共に後日改めて謝罪することで、なんとか両親に納得してもらった。こうして結婚準備は仕切り直しとなった。
だが、彼の不誠実な態度はその後も変わることはなかった。結婚式場の下見やウェディングドレス選びの打ち合わせなど、二人で決めなければならない大切な予定を、彼はことごとくすっぽかし続けた。「もしもし、今日式場との打ち合わせだったでしょ。どこにいるの?」私が電話をかけると、彼はいつも決まって同じような言い訳を繰り返した。「ああ、ごめん。大学時代の友達に急に呼び出されちゃってさ、こっちも断れない付き合いなんだよ。」「でも先週も同じ理由じゃなかった?」「うるさいなあ。男には男の付き合いがあるんだよ。式の準備なんてどれも同じようなもんだろ。広美に任せるよ。」そう言って、彼は私の意見を聞く前に電話を切ってしまう。結局、式場のパンフレットを一人でめくり、何十着と並ぶドレスの中から運命の一着を選ぶのも、いつも私一人だった。引き出物を選び、招待状のデザインを決め、書類と向き合う日々。隣にいるはずの彼の不在が、私の心に少しずつ影を落としていった。
それでも私は、華やかな結婚式を迎えれば彼も変わってくれるはずだと、最後の望みを捨てきれずにいた。
結婚式の準備が大詰めを迎え、心身ともに疲れが溜まっていたある日、出社するといつもは静かな朝のオフィスが、受付を中心にやけに騒がしいことに気がついた。高い笑い声が響く輪の中心にいたのは、後輩の東山翔子だ。彼女は数人の女性社員に囲まれ、これ見よがしにスマートフォンの画面を突きつけながら自慢話を繰り広げていた。「見てみて。この間の日曜日、彼氏と新しくできた遊園地に行ってきたんだ。すごくない?」仲間の一人がわざとらしく大きな声をあげる。「わあ、素敵な写真だね。翔子ちゃんの彼氏さん、モデルみたいにイケメンじゃない?」
私もそっと輪に加わり、彼女のスマートフォンに表示された画像を覗き込んだ。その瞬間、私は息を飲んだ。そこに映っていたのは、満面の笑顔で翔子を後ろから抱きしめる、私の婚約者・明の姿だったからだ。背景には見覚えのある遊園地のシンボルキャラクターがはっきりと映っている。それは先週の日曜日。明が急な出張が入ったからと、式場との最終打ち合わせをドタキャンした、まさにその日だった。
頭が真っ白になり、全身の血の気が引いていくのが自分でもはっきりと分かった。後輩の東山翔子は、社長令嬢という絶対的な立場を笠に着て、社内でも有名なトラブルメーカーだった。彼女は他人の恋人や婚約者であろうと、少しでも気に入れば手を出して略奪することを繰り返していた。これまでにも彼女の気まぐれな恋愛ゲームのせいで、将来を誓い合ったはずのカップルが何組も破局に追い込まれてきた。誰もが眉を潜めていたが、相手が社長の一人娘ということもあり、誰も逆らえないでいる。
まさか、あの明がその毒牙にかかっていたとは。私はその場で問い詰めたい衝動に駆られたが、ここで騒ぎを起こせば会社に居場所がなくなるのは自分の方だ。奥歯を強く噛みしめ、何事もなかったかのようにその場を離れることしかできなかった。
そして、様々な思いが渦巻く中、運命の結婚式当日がやってきた。純白のウェディングドレスに身を包み、完璧なヘアメイクを施された私は、ブライズルームで静かにその時を待っていた。しかし、式の開始時刻が30分後に迫っても、明も新郎側の親族も誰一人として現れない。式場のスタッフが慌ただしく動き、困惑した表情で私に状況を尋ねてくる。胸騒ぎを覚えた私が、震える指で明に確認のメッセージを送ると、間髪入れずに返信が届いた。
「悪いけど、今日の結婚式、俺も俺の両親親族も全員不参加。お前らだけで披露宴でもやれば?」文末に付けられた、嘲笑うかのような絵文字が私の心を深くえぐった。何が起きているのか理解が追いつかない私に、追い打ちをかけるように次のメッセージが送られてくる。それは、タキシード姿の明が同じく華やかなドレスを着た翔子と、高級ホテルのスイートルームらしき場所でシャンパングラスを傾ける自撮り写真だった。写真に添えられていたメッセージを見て、私は全ての点と線が繋がり、真実を悟った。
「そういうことだから。俺は社長令嬢の翔子と結婚して、将来はこの会社の社長を継ぐんだ。お前みたいな平凡な女との結婚ごっこはもう終わりだ。」
あまりに一方的で、身勝手な絶縁宣言。普通なら泣き崩れて全てを呪うのかもしれない。しかし、私の心に湧き上がってきたのは悲しみではなく、全てを焼き尽くすような燃え滾る怒りと、不思議なほどの冷静さだった。私はスマートフォンの画面を静かにタップし、彼に一言だけ返信を送った。「OK、了解したわ。わざわざ連絡ありがとう。」わざと満面の笑顔を浮かべた絵文字をたっぷりと添えてやった。すぐに「強がるな、惨めな女」と返信が来たが、私はその通知を一瞥しただけでメッセージを開かず、静かに既読無視した。
そして私は固く拳を握りしめ、鏡に映るウェディングドレス姿の自分をまっすぐに見つめ、静かに立ち上がった。私の向かった先は、私の両親や親族が待機している控え室だ。突然のウェディングドレス姿の私の登場に、皆が驚きの表情を浮かべる。「広美、どうしたんだ?もうそんな時間か?」「明さんたちはまだいらっしゃらないの?」私は集まってくれた親族一同の顔をゆっくりと見渡し、深呼吸を一つした。「みんな、聞いてください。今日の結婚式は中止になりました。」
控え室は水を打ったように静まり返り、誰もが言葉を失った。私は明から送られてきたメッセージの文面と、翔子と抱き合う写真を皆に見せ、ことの経緯を冷静に、淡々と説明した。全てを話し終えると、最初に沈黙を破ったのは父だった。「あの男、娘の晴れの日になんてことをしてくれたんだ。」母も涙を浮かべて私のそばに駆け寄ってくる。「広美、可哀想に……辛かったでしょ。」親族たちが口々に明への怒りと私へのねぎらいの言葉を叫ぶ中、叔父がパンと手を打った。「もう待て、みんな。怒るのは当然だ。だが、これで泣き寝入りでいいのか?」叔父は私の顔をじっと見つめ、力強い声で言った。「広美、お前は悪くない。悪いのは全部、お前を裏切ったあの男だ。せっかくこんなに素晴らしい会場と最高の料理を用意したんだ。このままお開きにするなんて、それこそ相手の思う壺じゃないか。」
その言葉に叔母も大きく頷く。「そうですわ。これはあんな男との悪縁を断ち切る最高の機会よ。タイトルはこうしましょう。『木下広美の悪縁を断ち切り、新たな再出発を祝う会』。」その突拍子もない提案に、一瞬誰もが呆気に取られた。しかし、私の心には不思議と力が湧いてくるのを感じた。そうだ、ここで悲劇のヒロインになって泣いている場合ではない。私は顔を上げ、笑顔で宣言した。「ありがとう、おじさん、おばさん。私、やるわ。」私の決意に両親も力強く頷いてくれた。「そうだ、それでこそ私の娘だ。今日は盛大にお前の再出発を祝おうじゃないか。」
私たちは会場のスタッフに事情を説明し、急遽パーティーの趣旨を変更してもらった。そして私はマイクを握りしめ、ゲストたちが待つ披露宴会場の扉を開けた。会場内は、新郎側が誰も来ていない状況に困惑と不安の空気が包まれている。私はゆっくりとメインテーブルに進み、全てのゲストに向かって頭を下げた。「本日は私のためにご列席いただき、誠にありがとうございます。皆様にお伝えしなければならないことがあります。新郎の殿内明さんは、本日ここには来ません。よって、この結婚は白紙となりました。」会場がどよめきに包まれる。しかし、私は構わず続けた。「ですが、せっかく皆様にお集まりいただいたこのご縁を、このまま終わりにはしたくありません。誠に勝手ながら、これよりこの会を、木下広美の新たな再出発を祝う会とさせていただきたく存じます。」
私がそう言い切った瞬間、静寂を破って大きな拍手が巻き起こった。声の主は、明の不誠実な態度を以前から知っていた会社の同僚や大学時代の友人たちだった。「そうだ、広美、よく言った!あんな男、こっちから願い下げだ。俺たちがついてるぞ!」「広さんの未来に乾杯!」その声に呼応するように、会場のあちこちから「そうだ、おめでとう!」という温かい声援と拍手が送られた。司会者が「それでは皆様、グラスのご準備を。木下広美さんの輝かしい未来に乾杯!」と叫ぶと、会場のボルテージは最高潮に達した。披露宴会場はアップテンポな祝福の曲に変わり、会場は本来の結婚式以上に不思議な一体感と熱気に包まれた。
パーティーが最高潮の盛り上がりを見せていたその最中、親族席の端で静かに料理を味わっていた一人の老人が、ゆっくりと立ち上がった。彼は私の遠縁にあたる増田岩男さんだ。幼い頃に数回会ったきりで、正直なところ顔もおぼろげだったが、今日の私のためにわざわざ遠方から駆けつけてくれたのだ。その増田さんが、ポケットから携帯電話を取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。穏やかな表情とは裏腹に、その声は会場の喧騒の中でもはっきりと響く、威圧感のあるものだった。「山社長かね、増田だ。君の会社への出資の件だが、今この瞬間を持って全て白紙にさせてもらう。」
会場の隅で交わされたその会話を聞き取れた者はいなかった。しかし、その電話がこの後の大波乱の引き金となる。電話から30分も経たないうちだった。披露宴会場の扉が勢いよく開かれ、一人の男が慌てた様子で飛び込んできた。額に汗を浮かべ、肩で息をしている。その男は、私と明が務める会社のトップ、東山社長だった。東山社長は会場内をきょろきょろと見回し、増田さんの姿を認めると、一直線に彼の元へ駆け寄っていく。そして周囲の目もはばからず、その場に深々と土下座をした。「増田会長、一体どういうことでしょうか?出資の件を白紙になど、そんなご冗談は……」
突然の社長の登場と土下座に、会場は再び騒然となる。会社の同僚たちは何が起きているのか分からず、ただ呆然と立ち尽くしている。増田さんは足元にひれ伏す東山社長を冷たく見下ろし、静かに言い放った。「冗談ではない。そして、君が謝罪すべき相手は私ではない。」増田さんはそう言うと、私の方へ視線を向けた。「君は彼女に謝るべきだ。」東山社長は怪しげな顔で私を見つめる。「木下君、なぜ君がここに?いや、君の結婚式だったな。だが中止になったと聞いているが。」増田さんは呆れたようにため息をついた。「中止になったのではない。君のところの大事な社員と、君の可愛いお嬢さんによってめちゃくちゃにされたのだ。」
その言葉に東山社長ははっとした表情で顔を上げた。「そもそも、自社の社員同士の結婚式だというのに、社長である君が出席すらしていないのはどういうわけかね。」東山社長は慌てたように弁明を始めた。「そ、それは……内の娘からこう報告を受けておりましたので。結婚は中止になった。理由は、新郎である木下ひろみが浮気をしていたからだと。」
そのあまりにも身勝手な嘘に、私は怒りで唇が震えるのを止められなかった。事実は全くの逆であることをようやく理解した東山社長は、顔面蒼白になりながら必死に出資の継続を懇願し始めた。しかし、この茶番劇を引き起こした張本人である明と翔子の姿はどこにもない。増田さんが静かにその点を指摘すると、東山社長は震える声でスマートフォンを取り出し、娘である翔子に電話をかけた。「翔子か?今どこにいる?すぐに殿内君と二人で結婚式場まで来なさい。これは業務命令だ。」電話の向こうから、不機嫌そうな翔子の声が漏れ聞こえてくる。
数分後、会場の扉が再び開き、腕を組んだ明と翔子が、面倒くさそうに顔をしかめながら現れた。「ちょっと、何なのよ、パパ。せっかくのいいところだったのに、デートの邪魔しないでよ。」二人は自分たちが引き起こした騒動の中心に立っていることなど、まるで理解していない様子だった。彼らは広大な披露宴会場で、新郎側のテーブルが全て空席になっている異様な光景を見渡すと、まるで面白い見物でも見つけたかのように、腹を抱えて大声で笑い始めた。「うわ、マジかよ。本当に俺たち抜きで披露宴やってるぜ。」「あの女、どんだけ結婚式したかったんだよ。」「信じらんない。見てよ、あのウェディングドレス。主役の男がいないのに一人で気取って、見じめすぎて引くんだけど。」「ねえ、今どんな気持ち?」
二人の悪意に満ちた声が、静まり返った会場に不快に響き渡る。私の友人や同僚たちが怒りに顔を真っ赤にして、今にも飛びかかっていきそうなのを、私は目で制した。大丈夫、心配しないで。この愚かで哀れな二人には、これから一生忘れられないほどの社会的制裁が下されるのだから。
その時だった。それまで私の足元に土下座し許しを請うていた東山社長が、地獄の底から響くような唸り声をあげながら、鬼のような形相でゆっくりと立ち上がった。その凄まじい気迫に、さすがの明と翔子も一瞬だけ嘲笑を止め、怪しげな表情を浮かべる。東山社長は震える指で増田さんを差し示し、絞り出すような声で言った。「殿内君、君たちは自分が一体誰に対して、どれほど無礼で致命的な発言をしたのか、本当に分かっているのか?」翔子は面倒くさそうに腕を組み、鼻で笑った。「は?パパ、何言ってるのよ。さっきから大げさなんだって。ただの冴えない、みすぼらしいおじいさんじゃないの。」
その言葉が引き金となった。東山社長の顔から完全に血の気が引き、この世の終わりのような表情を浮かべた。「おじいさんだと?みすぼらしいだと?この方がどなたか、本当に本当に知らないと申すのか。」東山社長は絶叫に近い声で、増田さんの本当の正体を説明し始めた。「このお方は、世界中にその名を轟かせる多国籍企業グループ、増田ホールディングスの創業者にして現会長であらせられる、増田岩男様だぞ。」
その名前に、経済に疎い私ですら、テレビや新聞でその名を見ない日はないほどの巨大コングロマリットであることを知っていた。会場の同僚たちからも「え、あの増田会長?嘘だろう」という信じられないといったどよめきが上がる。東山社長の絶望に満ちた説明はさらに続く。「我が社が賭けに出て進めていた新規事業への、数十億円規模の多額の出資。その最終決定権をただ一人で握っておられるのが、何を隠そう増田会長ご本人なのだ。」「え、じゃあ、パパがいつも言ってた、会社が潰れるかどうかがかかってる大事な出資って……」「そうだ。増田会長からのお情けがなければ、我が社は来月にも倒産する。我々社員全員が、家族も諸々路頭に迷うことになるんだぞ。」
東山社長は涙ながらにそう言うと、今度は憎しみに満ちた目で明の方へと向き直った。「そして殿内君、君の父親が部長として務めている会社も、君の叔父が役員を務めている会社も、全ては増田会長の広大なグループ傘下にあるちっぽけな子会社だということを、君は知っていたのかね?」「そ、そんな嘘だ!」明の顔は紙のように白く、みるみるうちに青ざめていく。これまで自分の味方だと思っていた世界、自分の成功を約束してくれると信じていた世界が、一瞬にして音を立てて足元から崩れ去っていく感覚だろう。
全ての視線が主役となった増田会長へと集まった。増田会長は、崩れ落ちそうになっている明を一瞥すると、慈しむような、それでいてどこか哀れむような目で私を見つめ、静かに口を開いた。「広美のことは、亡くなった私の妻にどこか似ていてね。昔から実の孫のように、それはそれは可愛がっていたんだよ。彼女の晴れの日を台無しにした人間は、たとえ誰であろうと、私が許さん。」その穏やかで、しかし絶対的な重みを持つ一言が、明の心を完全にへし折る最後の一撃となった。明は言葉にならない唸り声を漏らし、ガタガタと全身を震わせると、そのまま糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
その場に崩れ落ちた明を冷たく見下ろし、東山社長は宣告を言い渡した。「殿内明君を、本日付けで解雇とする。異論はないな。」明は焦点の合わない目で何かをつぶやこうとしていたが、もはや言葉を発することすらできないようだ。次に、東山社長は憎しみのこもった目で、実の娘である翔子を睨みつけた。「翔子、お前のような身勝手で人の心を持たない女が、私が一代で築き上げた会社を滅ぼすんだ。」「ば、パパ、何を言って……」「黙れ!お前を今日限りで勘当する。親子の縁もこれまでだ。今後、私からの金銭的な援助は一切ないものと思え。クレジットカードも全て止めた。家からも出ていけ。」
突然叩きつけられる絶縁宣言に、翔子は「嘘でしょ……」と力なくつぶやき、その場に崩れ落ちた。自分の絶対的な権威であった父親から見捨てられ、富と地位を失う恐怖にようやく気がついたのだろう。
まさにその時だった。披露宴会場の扉が乱暴に開け放たれ、十数人の男女が流れ込んできた。明の両親と、顔合わせをすっぽかした親族一同だ。彼らはどこかでこの騒ぎを聞きつけ、自分たちの身に危険が迫っていることを察知したらしい。先頭に立っていた明の父親が増田会長の姿を認めるや、顔面蒼白になって叫んだ。「あ、増田会長……なぜ会長がこのような場所に?」彼らは先ほどまでの強気な態度など微塵も感じさせず、我先にと私と増田会長の前に駆け寄る。そして明の父親を筆頭に、全員が床に体を擦りつける勢いで土下座をした。「こ、この度は息子の明が大変なご無礼を……どうか、どうか我々の会社だけはお助けください。」「広美さん、ごめんなさい。出来の悪い息子の代わりに私が謝ります。だからどうか、会長にお口添えを……」
その見苦しいまでの手のひら返しに、会場の誰もが冷ややかな視線を送っていた。あれほど私たち家族をないがしろにしてきた人間たちが、自分たちの立場が危なくなった途端にこれである。増田会長は足元で震える彼らを一瞥すると、心の底から軽蔑したような冷たい声で言い放った。「顔を上げなさい。神聖な祝いの場を、これ以上あなた方の汚い土下座で汚していただきたくない。」その言葉は静かだったが、いかなる罵倒よりも彼らの心をえぐったに違いない。顔合わせを理由もなくすっぽかし、顛末さえ被害者である広美に全ての責任をなすりつけた。そして今、自分たちの保身のためだけに謝罪の言葉を口にする。どこまでも身勝手で非常識な連中だ。増田会長は、取りつく島もなく彼らを突き放した。明の親族たちは絶望の声を漏らし、土下座したまま動けなくなってしまった。
私はその無残な光景を、ただ静かに見つめていた。これが、私がかつて愛し、家族になろうとした人々の哀れな末路だったのだ。
あの壮絶な一日が幕を閉じてから数ヶ月の月日が流れた。私の耳にも、明と翔子が辿った悲惨な末路が、風の噂となって聞こえてきている。会社を即日解雇された明は、当然ながら業界内であの不名誉な話が瞬く間に広まった。再就職先など見つかるはずもなく、最終的には父親が土下座して頼み込み、誰も行きたがらない地方の零細子会社で、なんとか雇ってもらうことになったそうだ。彼が送られた先は、コンビニすらないような山奥の寂れた村。娯楽施設などあるはずもなく、夜は20時には全ての店が閉まってしまう。そこで明を待っていたのは、日の出から日没まで泥にまみれて働き続ける過酷な肉体労働の日々であると聞いた。プライドだけは高かった彼が、今頃どんな思いで毎日を過ごしているのか、想像に難くない。
一方の翔子は、東山社長から全ての資産を没収され、文字通り無一文で放り出された。彼女は「明との真実の愛があれば、お金なんていらない」と豪語していたらしい。しかし、その明が貧困にあえぎ、自分を華やかな世界へ連れて行ってくれる存在ではないと分かった途端、あっさりと彼を捨てたそうだ。翔子は東京に残り、自力で贅沢な暮らしを続けようと画策した。だが、まともな社会常識も協調性も身につけていない彼女を、まともな会社が雇ってくれるはずもなかった。結局、あっという間に貯金は底をつき、家賃滞納で高級マンションを追い出されたと聞く。その後の彼女の行方を知るものは誰もいない。
増田会長は、一旦は東山社長への出資を完全に撤回した。しかし、その後の東山社長が明を即刻解雇し、実の娘である翔子を勘当するという厳しい態度で責任を取ったことを考慮し、会長は「経営者としての判断は間違っていなかった」と評価し、出資については前向きに再検討を進めているそうだ。
そして私、木下広美はあの後すぐに会社を退職した。増田会長が「君のような誠実な人材は、是非私の元で働きなさい」と強く勧めてくれたからだ。今は会長が経営するグループ企業の本社で、新しいキャリアをスタートさせている。毎日が勉強の連続で、慌ただしくも非常に張り合いのある日々だ。
先日、会長室に呼ばれた際、増田会長は優しく微笑んでこう言った。「広美君、最近いい顔つきになったな。辛いことを乗り越えた人間は、強く、そして美しくなるものだ。」私は感謝の言葉しか見つからなかった。「会長、本当にありがとうございます。」
新しい環境にも慣れてきた頃、私にささやかな出会いが訪れた。同じ部署で働く、一つ年下の後輩の男性だ。お昼休みに読んでいた漫画雑誌の話で、偶然にも彼と同じ作品のファンであることが判明した。それから私たちは、休憩時間や仕事帰りに趣味の話で盛り上がるようになった。彼はいつも穏やかで、私の話を真摯な瞳で聞いてくれる、とても誠実な人だ。
先日、彼の方から「もしよかったら、今度のお休み、一緒に新刊を買いに行きませんか?」と、少し恥ずかしそうに誘ってくれた。もちろん、私は笑顔で頷いた。あの日、明との未来を失った時、私は全てを失ったと思っていた。本当の幸せは、すぐそこまでやってきていたのだ。



