正月の朝、玄関のチャイムが鳴り、扉を開けると、孫のみさが真冬の寒さの中、サンダル履きで立っていた。唇は紫色に変色し、薄い半袖のワンピース一枚で、全身をガタガタと震わせている。私は慌ててみさを抱きしめた。その体のあまりの細さと冷たさに、息が止まりそうになった。
「どうしたの?みさ、一体何があったの?」
声が震えていた。みさの腕には青あざが点在し、頬骨が浮き出るほど痩せこけている。これが本当に私の孫なのかと、目を疑うほどだった。
「バーバ、お腹空いた。3日間何も食べてないの。」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓が激しく脈打ち始めた。3日間。正月の三が日を、この子は何も食べずに過ごしていたというのか。市役所に40年勤め、数えきれないほどの相談を受けてきた私の直感が、激しく警鐘を鳴らしていた。この子に一体何が起きているのだろうか。
私は田中けい子、63歳。市役所に40年勤め、福祉や住民課の法務係を歴任してきた。来年の定年を控え、穏やかな老後を過ごしていたはずだった。10年前に夫を亡くしてからは、一人息子の亮の家族が何よりの心の支えだった。孫の顔を見ることが、私の生きがいだったのだ。
息子には大学の学費として600万円、結婚資金として300万円、マイホーム購入の頭金として800万円を援助してきた。孫のみさが生まれてからは、可愛い孫のためならと、毎月10万円の教育資金を5年間欠かさず渡し続けた。総額にすると2300万円を超える金額になる。孫のためなら退職金も年金も惜しくなかった。それが祖母としての当然の喜びだと、私は心から信じていたのだ。
しかし最近になって、気になることがいくつかあった。お盆に帰省した時、みさの服が2年前と全く同じだった。正月の挨拶も、今年はインフルエンザで来られないという連絡があったきりで、それ以降は何の音沙汰もなかったのだ。それなのに、なぜみさが一人でここに来たのだろう。しかも、こんなボロボロの姿で。私の胸の奥で、言いようのない不安が静かに膨らみ始めていた。
私はまずみさをお風呂に入れてあげた。冷え切った小さな体を湯舟に入れると、みさは気持ちよさそうに目を閉じた。その姿を見ながら、私の胸は張り裂けそうな思いでいっぱいだった。湯舟の中でみさの体をよく見ると、あちこちに青あざがあることに気がついた。腕にも足にも、不自然なあざが点在している。私は何も言えず、ただみさの背中を優しく撫で続けることしかできなかった。
お風呂から上がったみさに、温かいおかゆを作って食べさせた。みさは夢中でおかゆを掻き込み、あっという間に3杯も平らげてしまった。よほどお腹が空いていたのだろう。その姿を見ているだけで、涙がこぼれそうになってくる。
「みさ、少し話を聞かせてくれる?怒らないから、本当のことを教えてちょうだい。」
私はみさの手を握り、ゆっくり優しく語りかけた。みさは少しためらった後、ぽつりぽつりと話し始めた。
「ママがね、いつも言うの。あんたがいなければ海外旅行に行けるのにって。」
私は息を飲んだ。まさか嫁さんがそんなひどいことを言うなんて、信じられなかった。
「パパは私のこと金食い虫って呼ぶの。お前がいるから贅沢できないって、いつも怒るの。」
金食い虫。7歳の子供に向かって、実の父親がそんな言葉を投げつけていたというのか。私の中で怒りの炎が静かに燃え上がり始めていた。
「ご飯はね、パパとママが食べ終わった残りなの。お肉とか刺身は絶対にもらえないの。いつもカップラーメンか冷凍のチャーハンを半分だけ。」
毎月10万円もの教育資金を渡していた。5年間で600万円にもなる。そのお金は一体どこに消えていたのだろうか。私の手が小刻みに震え始めた。
「習い事はどうしてるの?ピアノとか英会話とか習ってるんじゃないの?」
「習い事なんて何もしてないよ。ママは高いって言うけど、新しいバッグはたくさん買ってるの。キラキラした綺麗なバッグ。」
みさは続けた。
「この前ね、ママが電話で誰かと話してたの。『じゅうとうからの金で今月もエステざんまいだわ』って笑ってた。」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れていくのがはっきりと分かった。孫のためにと思って必死に渡していたお金が、全て嫁さんの贅沢に消えていたのだ。
「パパは新しい車を買ったの。すごく大きくて高い車。『母さんからの援助があるから余裕だ』ってママに自慢してた。」
亮までがそんなことを言っていたのか。私が老後のために必死に貯めたお金を、当然のように使い込んでいたのだ。怒りで頭の奥がじんじんと痛くなってきた。
「でもね、私の服は古着屋さんで買ったものばかりなの。学校の友達はみんな可愛い新しい服を着てるのに、私だけいつも同じ服。」
みさの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。私はみさを強く抱きしめた。この子の体がどれほど細いか、骨と皮だけになっていることを改めて実感して、胸が締めつけられた。
私は胃を痛めながら亮に電話をかけた。呼び出し音が何度かなった後、ようやく亮が出た。
「何?」
「あなた今何してるの?みさがうちに来たわよ。」
「ああ、みさが勝手に出て行ったのか。放っておいてくれよ。俺たち今ハワイにいるんだ。正月くらいゆっくりさせてくれ。」
ハワイ。子供を真冬に一人で置き去りにして、ハワイにいるというのか。私は耳を疑った。電話の向こうから嫁さんの高い声が聞こえてきた。
「お母さん、みさのことは気にしないでください。あの子かまってちゃんなんです。嘘ばっかりつくから放っておいてるんですよ。」
かまってちゃん。嘘つき。自分の子供をそんな風に呼ぶ親が、この世にいるとは。私は怒りで頭がクラクラした。もう何を言ってもらちが開かないと思い、電話を切った。
私は震える手で嫁さんのSNSを確認した。そこには信じられないような投稿がずらりと並んでいた。
「正月ハワイ旅行。じゅうとうからの援助で贅沢ざんまい。子供は置いてきた。やっと自由になれた。」
二人は今、ハワイ旅行を満喫している。私の目の前が真っ暗になっていくような気がした。40年間市役所の福祉で様々な家庭を見てきた。虐待やネグレクトの相談を数えきれないほど受けてきた。それなのに、まさか自分の孫がその被害者になっていたなんて。
私は震える手でみさの頭を優しく撫でた。
「大丈夫よ、みさ。バーバが絶対に守ってあげるからね。」
私の中で何か大きな決意が固まりつつあった。
その夜、みさを寝かしつけた後、私はみさが持ってきた小さなリュックの中身を確認することにした。中には着替えが一枚と、ボロボロになった小さな日記帳が入っていた。表紙には可愛いうさぎのイラストが描かれているが、角はすり切れ、何度も読み返した後が残っている。私は震える手で日記帳を開いた。
そこには7歳の子供が一生懸命書いた字が並んでいた。
「今日もご飯もらえなかった。お腹空いた。眠れない。」
ページをめくるたびに、胸が締めつけられるような言葉が次々と目に飛び込んできた。
「ママ、私のこといらない子って言った。私、いらない子なの。生まれてきてごめんなさい。」
生まれてきてごめんなさい。7歳の子供にそんなことを思わせるなんて、一体どんな育て方をしていたのだろうか。
「パパに殴られた。痛かった。でも泣いたらもっと怒られるから我慢した。」
我慢。殴られていたのか。あの腕や足にあった青あざは、そういうことだったのか。私の手が激しく震え始めた。日記帳を持つ指先に力が入らなくなっていく。
「きのうママが電話で誰かと話してた。『みさを施設に入れちゃえばお金全部私たちのものだ』って言ってた。」
施設に入れる。私からの援助金を一人占めするために、実の子供を施設に入れようとしていたのか。信じられない思いでさらにページをめくった。
「私、生きていていいのかな?誰も助けてくれない。死にたいって思った。」
その「死にたい」という文字を見た瞬間、私の視界がぐらりと大きく揺れた。7歳の子供が死にたいと書いている。これがどれほど異常で恐ろしいことか、福祉に関わった私には痛いほど分かった。私は日記帳を胸に強く抱きしめ、声を殺して泣いた。涙が止まらなかった。なぜもっと早く気づいてあげられなかったのだろう?なぜあの子の異変に気づけなかったのだろう?お盆に会った時、もっとよく見ていれば、もっと話を聞いていれば。後悔と怒りが私の心の中で激しく渦巻いていた。
翌朝、みさが目を覚ました時、私は穏やかな顔で朝食を用意していた。温かい味噌汁とふわふわの卵焼き、そして炊きたてのご飯。みさは嬉しそうに頬張りながら、ぽつりと言った。
「バーバ、私ね、怖いことがあると録音してたの。」
「録音?」
「うん。ママのスマホの使い方をこっそり見て覚えたの。怖い時に録音しておくと、後で確認できるでしょ。だから怖いこと言われた時は録音してたの。」
みさは自分のリュックから古い型のスマートフォンを取り出した。昨夜は日記帳のことで頭がいっぱいで気がつかなかった。私が以前使っていたものを、みさがこっそり持っていたらしい。画面にはひびが入っていたが、まだ動くようだった。
「これ聞いてもいいかしら?」
みさが小さく頷いたので、私は再生ボタンを押した。最初に聞こえてきたのは亮の声だった。
「母さんは金づるなんだよ。孫を使えばいくらでも金が出てくる。ちょろいもんだ。何も疑わないんだから。」
続いて嫁さんの高い笑い声が響いた。
「本当にね、あの人、みさのためって言えば何でも出すもの。教育資金だの習い事だの。適当に言っておけばホイホイ振り込んでくるのよ。騙されてるって全然気づいてないの。」
金づる。騙されている。私が孫のためにと思って必死に渡していたお金を、二人はそんな風に笑っていたのか。怒りで視界が赤く染まるような気がした。
録音は続いていた。
「でもさ、みさがいると何かと面倒なんだよな。学校の行事とか病気した時とか。金だけもらって、あいつは施設にでも入れちまうか。」
「そうね。でも施設に入れたら、お母さんが援助をやめるかもしれないわ。孫がいるから出してるんでしょうし。」
「じゃあどうする?このまま続けるか?」
嫁さんの声が急に冷たく低くなった。
「みさがいなくなれば全部解決するのよ。事故に見せかけてね。階段から落ちたとか、川で溺れたとか、いくらでも方法はあるわ。」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓が止まりそうになった。事故に見せかける。それはつまり、みさを殺そうとしているということではないか。背筋が凍りつくような恐怖が全身を駆け抜けた。
「お前、本気で言ってるのか?」
「本気よ。あの子がいなくなれば、お母さんの財産も全部私たちのものになるでしょ。お母さんだって、孫がいなければ全額息子のものよ。考えてみなさいよ。何千万円もの話なのよ。」
亮は何も言わなかった。否定もしなかった。その長い沈黙が、私には何よりも恐ろしく感じられた。実の息子が、自分の娘を殺すという話を否定しなかったのだ。
録音が終わり、部屋に重い静寂が戻った。私は震える手でスマートフォンを握りしめていた。これは単なるネグレクトではない。明確な殺意だ。実の親が自分の子供に対して殺意を抱いている。40年間様々な虐待のケースを見てきたが、これほど恐ろしいものは初めてだった。
みさが不安そうに私の顔を見上げていた。
「バーバ、私、何か悪いことした?」
「いいえ、みさは何も悪くないのよ。何も悪くないの。」
私はみさを強く抱きしめた。この小さな体に、どれほどの恐怖と悲しみが詰まっていたのだろう。どれほど孤独だったのだろう。考えるだけで胸が張り裂けそうだった。
その瞬間、私の中で完全に何かが切れた。もう許さない。絶対に許さない。40年間市役所で培ってきた知識と人脈の全てを使って、息子夫婦に相応の報いを受けさせてやる。
「みさ、バーバが絶対にあなたを守るからね。」
私は静かに、しかし確実に決意を固めていた。
その日の午後、私はみさを連れて行動を開始した。40年間市役所で働いてきた経験と人脈を、今こそ総動員する時が来たのだ。深呼吸をして心を落ち着かせる。感情的になってはいけない。冷静に、確実に、一つ一つ準備を進めなければならない。
まず向かったのは、かかりつけの小児科医だった。佐藤先生は私が福祉時代から何度も連携してきた信頼できる医師だ。事情を説明すると、すぐにみさの診察をしてくれることになった。
「田中さん。これは明らかに栄養失調の少女です。7歳児の標準体重を大幅に下回っています。骨密度も心配なレベルですね。このまま放置していたら、成長に深刻な影響が出ていたでしょう。」
佐藤先生はみさの検査結果を見ながら、深刻な表情で続けた。
「それから、体中にある青あざについてです。これは明らかに外部からの打撃によるものです。転んでできるような傷ではありません。医学的見地から見て、誰かに殴られた痕跡だと考えられます。」
「診断書を書いていただけますか?」
「もちろんです。詳細な所見を全て記載します。児童相談所への通報も、私の方からさせていただきます。これは明確なネグレクトと身体的虐待の証拠になりますから。」
診断書を受け取り、私は深く頭を下げた。佐藤先生の協力に心から感謝した。その後、みさを信頼できる近所の友人に預けてから、私は一人で次の場所へ向かった。みさには少し休んでいてもらいたかったのだ。
次に訪れたのは弁護士事務所だった。山田先生は、夫の法務時代からの付き合いで、家庭問題や児童虐待のケースに詳しい弁護士だ。
「けい子さん。この録音データは法的に有効な証拠になります。特に殺意を示唆する発言は極めて重大です。刑事告訴も視野に入れて検討すべきでしょう。」
山田先生は録音を最後まで聞き終えると、厳しい表情で言った。
「児童虐待防止法違反、そして詐欺罪での告訴も可能です。援助金の返還請求についても、虚偽の理由で金銭を騙し取っていたことが立証できれば、全額返還を求めることができます。」
「それから、孫の親権についても相談したいのです。」
「祖父母による親権変更の申し立ては可能です。これだけの虐待の証拠が揃っていれば、家庭裁判所もきっと認めてくれるでしょう。お孫さんを守るために、すぐに書類の準備を始めましょう。」
弁護士事務所を出た後、私は児童相談所へ向かった。福祉時代の後輩である中村さんが、今は児童相談所の相談員として働いている。
「田中さん、これは非常に深刻なケースです。すぐに調査に入ります。」
中村さんはみさの日記のコピーと録音データを確認しながら、顔を曇らせた。
「医師の診断書もある。ネグレクトと身体的虐待、そして殺意を示唆する発言まで。緊急性が高いケースだと判断します。場合によっては一時保護の手続きも進めることになりますね。」
「お願いします。あの子を絶対に守りたいの。」
「もちろんです。田中さんには福祉時代、本当にたくさんのことを教わりました。今度は私が田中さんの力になる番です。必ずお力添えします。」
夕方、みさを友人に迎えに行き、自宅に戻った。みさがぐっすりと眠りに着いた後、私はこれまでのみさの教育資金として息子夫婦に渡してきた金額を改めて計算し始めた。通帳の記録を一つ一つ丁寧に確認していく。毎月10万円を5年間。600万円ものお金を、私はみさのためにと信じて渡し続けてきた。そのお金がみさには一円も使われず、全て嫁さんのエステやブランド品に消えていたのだ。騙されていたという事実が、改めて胸に突き刺さるように痛かった。
ふと、亮が言っていた言葉を思い出した。「扶養手当てが増えたから助かるよ」と。あの時は深く考えなかったが、今思えばおかしな話だ。私は自分の保険に入っているので、息子に扶養されてはいない。むしろ私が援助している側なのに。
私は内容証明郵便の下書きを始めた。40年間の役所で培った書類作成の技術が、今こそ役に立つ。援助金の返還請求書、親権変更申立書、相続排除の申立書。一つ一つ丁寧に、隙のないように作成していく。亮の会社への通報書類も用意した。扶養手当ての不正受給は明確な詐欺行為であり、懲戒処分の対象になる。さらに、遺言書も書き換えることにした。現財産はみさのための信託財産とし、息子夫婦には一切の相続権を与えない内容にする。
「交渉役場には、明日の朝一番で行こう。」
全ての書類が揃った時、時計の針は深夜を回っていた。机の上には完璧に準備された書類の束が並んでいる。私は静かに微笑んだ。
「40年間、準備の大切さを学んできました。罠のない法的手続きは完成しましたよ。ハワイから戻ってくる息子夫婦を、地獄が待ち受けている。」
正月休みが開けた1月7日の朝、全ての準備が整った。内容証明郵便は昨日発送済みで、今日には息子夫婦の元に届くはずだ。遺言書の書き換えも完了し、弁護士の山田先生との打ち合わせも終えている。
午前10時、私の携帯電話が鳴った。画面には亮の名前が表示されている。昨夜ハワイから帰国したのだろう。
「母さん、何なんだよこれは。内容証明郵便ってどういうつもりだ?」
亮の声は怒りで震えていた。しかし私は冷静に答えた。
「そのままの意味よ。みさの教育資金として渡していた600万円、全額返還していただきます。」
「はあ?何言ってんだよ。あれは贈与だろ。返せなんて義務はないはずだ。」
「虚偽の理由で金銭を騙し取る行為は詐欺に該当します。みさの教育のためと言いながら、一円もみさには使わなかったでしょう。エステにブランド品、海外旅行。全部私のお金で楽しんでいたのよね。」
電話の向こうで、亮が言葉に詰まる気配がした。
「それから、児童相談所にも通報済みです。今に職員がそちらに伺うはずよ。」
「児童相談所だと?ふざけるな。俺たちは何も悪いことなんか…」
「7歳の子供を一人で放置して、3日間何も食べさせず、昨日までハワイ旅行を楽しんでいたのは誰かしら?」
私の言葉に、亮は黙り込んだ。
「みさは今、私のところにいます。あの子はもうあなたたちのところには戻しません。」
「待てよ、母さん。みさは俺の娘だぞ。勝手なことをするな。」
「勝手なこと?自分の娘を金食い虫と呼び、いらない子と言い、挙句の果てに事故に見せかけて殺そうとしていた人間が、よくそんなことを言えるわね。」
電話の向こうで、息を飲む音が聞こえた。
「なんでそれを…」
「みさが録音していたのよ。あなたたちの会話を全て。金づるだとか、騙されてるだとか、事故に見せかけてだとか。全部録音されているわ。」
長い沈黙が流れた。
「母さん、頼む。それだけは勘弁してくれ。俺が悪かった。全部、嫁が言い出したことなんだ。俺は反対したんだよ。」
「録音を聞く限り、あなたは何も反対していなかったように聞こえたけれど。」
亮は何も言い返せなかった。
「とにかく、児童相談所がそちらに伺います。話し合いましょう。」
私は一方的に電話を切った。
午後、私は弁護士の山田先生と一緒に息子夫婦の家を訪れた。玄関を開けたのは嫁さんだった。その顔は青ざめている。
「お母さん、これは一体どういうことですか?弁護士まで連れてくるなんて。」
「話し合いには専門家が必要でしょう。上がらせてもらうわね。」
リビングに入ると、亮がソファーに座っていた。私たちを見るなり、すぐに立ち上がった。
「母さん、頼むから訴訟だけはやめてくれ。金は必ず返すから。」
「お金の問題だけではないのよ。」
私は録音データの入ったスマートフォンを取り出した。
「これを聞いてもらえるかしら?」
再生ボタンを押すと、亮と嫁さんの声が部屋中に響き渡った。
「母さんは金づるなんだよ。孫を使えばいくらでも金が出てくる。」
「みさがいなくなれば全部解決するのよ。事故に見せかけてね。」
嫁さんの顔が真っ白になった。
「これ、いつの間に録音してたの?」
「みさが、怖い時に録音しておくと後で確認できるからって。7歳の子供が、親から身を守るために録音していたの。どれだけ怖かったか分かる。」
嫁さんは膝から崩れ落ちた。
「お母さん、違うんです。これは冗談で言っただけで、本気じゃなかったんです。」
「冗談?自分の子供を殺すことが、冗談になるの?」
山田先生が書類を取り出した。
「田中亮さん、田中さん。本日付けで、児童虐待防止法違反及び詐欺で刑事告訴の準備を進めています。また、親権変更の申し立ても家庭裁判所に提出済みです。」
亮が慌てて口を開いた。
「待ってくれ。刑事告訴だと?俺は会社を首になる。」
「それは自業自得でしょう。」
私は冷たく言い放った。その時、玄関のチャイムが鳴った。嫁さんが恐る恐るドアを開けると、スーツ姿の男女二人が立っていた。
「児童相談所の者です。田中みさちゃんの件で、お話を伺いにまいりました。」
職員たちは家の中に入り、みさの部屋を確認し始めた。冷蔵庫の中身、子供部屋の状態、全てを記録していく。
「冷蔵庫に、お子さん用の食事がほとんどありませんね。」
「子供部屋にも、おもちゃや絵本がほとんど見当たりません。」
「それは、ちょうど買い物に行く前で…」
嫁さんの言い訳を、職員は冷たい目で見つめた。
「医師からの診断書も届いています。栄養失調と複数の打撲。これは明確な虐待の証拠です。」
亮の携帯電話が鳴った。会社からだった。
「田中君、扶養手当ての件で確認したいことがある。君は母親を扶養家族として申請しているが、実際には母親から経済的援助を受けていたという情報が入った。事実であれば、不正受給として懲戒処分の対象になる。」
電話の向こうから聞こえてくる上司の冷たい声に、亮の顔から完全に血の気が引いた。
「母さん、会社にまで連絡したのか?」
「当然でしょう。詐欺行為は全て明らかにしなければならないもの。」
嫁さんが私の足元にすがりついてきた。
「お母さん、お願いします。全部私が悪かったんです。みさにひどいことをしたのは私です。亮は関係ありません。だから会社への連絡だけは取り消してください。」
「今更そんなことを言われても、信用できるわけがないでしょう。」
私は嫁さんを見下ろしながら、冷静に言った。
「あなたたちは私を金づると呼んでいました。騙されてると笑っていました。みさをいらない子と呼び、施設に入れようとし、挙句の果てには殺そうとしていた。」
「それは本気じゃ…」
「本気かどうかは関係ありません。7歳の子供が、その言葉を聞いて『死にたい』と日記に書いていたの。あなたたちのせいで。」
私はバッグからみさの日記帳を取り出した。
「『死にたいって思った』。この言葉を見ても、まだ冗談だったと言えるの?」
嫁さんは声をあげて泣き始めた。亮も顔を覆ってうずくまっている。
「お金は必ず返します。何でもします。だから、みさだけは…」
「みさはもう、あなたたちの子供ではありません。親権変更が認められれば、私が正式にみさの親権者になります。」
「そんな、俺たちの娘なのに…」
「実の娘を金食い虫と呼び、殴り、食事も与えなかった人間が、娘という言葉を使う資格はありません。」
私は最後に言い放った。
「みさは、あなたたちのことをもう覚えていたくないそうよ。それがあの子の答え。これ以上あの子を傷つけることは許しません。」
玄関に向かいながら、私は振り返らなかった。背後で嫁さんの泣き声と亮の謝罪が聞こえていたが、もう何も感じなかった。私の中の、母親としての情は、あの録音を聞いた瞬間に完全に消え去っていた。
「山田先生、あとはよろしくお願いします。」
「分かりました。全てを手順通りに進めます。けい子さん、よく頑張りましたね。」
外に出ると、冬の冷たい空気が頬を撫でた。空は晴れ切った青色で、どこまでも広がっている。ようやくみさを守ることができた。私は深く息を吸い込み、友人の家で待っているみさの元へと歩き出した。
あれから3ヶ月が経った。季節は巡り、桜が満開の春を迎えていた。私とみさの新しい生活は、想像以上に穏やかで幸せなものになっている。
「バーバ、今日の給食ね、全部食べられたよ。」
学校から帰ってきたみさが、ランドセルを揺らしながら嬉しそうに報告してくれる。あの頃の痩せこけた顔はもうどこにもない。頬はふっくらとして、健康的な赤みが戻っていた。
「偉いわね、みさ。今日のおやつは、みさの好きなホットケーキにしましょうか。」
「やった!バーバのホットケーキ大好き!」
みさの体重は標準まで回復し、身長も3ヶ月で3センチ伸びた。栄養状態が改善されたことで、体だけでなく心も健やかに成長している。学校の成績も見違えるように上がり、友達もたくさんできた。笑顔を見せることが増え、毎日が楽しいようだ。
親権変更の申し立ては、緊急性が高かったので2ヶ月前に正式に認められた。私がみさの親権者となり、これからはずっと一緒に暮らしていける。あの日、真冬の寒さの中を震えながら私の家にたどり着いたみさを思い出すと、今でも胸が締めつけられる。でも、もう大丈夫だ。この子は私が守る。
息子夫婦のその後については、山田先生から定期的に報告を受けていた。亮は会社を懲戒解雇された。扶養手当ての不正受給が発覚し、社内での信用を完全に失ったのだ。同僚からも白い目で見られるようになり、居場所がなくなったという。今は日雇いの仕事をしながら、なんとか生活しているらしい。嫁さんは実家に戻ったものの、両親との関係も悪化し、今はアパートで一人暮らしをしているという。あれほど自慢していたブランド品は全て売り払い、パートを掛け持ちしながら生活しているそうだ。エステに余裕などもないだろう。
二人は結局離婚した。お互いを攻め合い、最後は見苦しい争いになったと聞いている。因果応報という言葉が頭に浮かんだ。自分たちが巻いた種を、自分たちで刈り取っているのだ。
600万円の返還請求については、分割での返済が決まった。全額回収には時間がかかるだろうが、それはみさの将来のために大切に貯めていくつもりだ。
ある日、亮から一通の手紙が届いた。
「母さん、今更ですが本当に申し訳ありませんでした。みさを傷つけたこと、母さんを騙していたこと、全て自分の責任です。嫁の言葉に流されたなんて言い訳になりません。みさをよろしくお願いします。もう二度と迷惑はかけません。」
私は手紙を読んで、複雑な気持ちになった。息子への愛情が完全に消えたわけではない。育てた子供だから、情が残っているのは当然のことだ。でも、みさを守るために下した決断に後悔はなかった。
みさは時々、両親のことを口にすることがある。
「バーバ、パパとママは今どうしてるのかな?」
「そうね。みさは会いたい?」
みさは少し考えてから、小さく首を横に振った。
「ううん。バーバといる方が幸せだから。温かいご飯も食べられるし、怖いこともないし、毎日安心して眠れるの。」
その言葉を聞くたびに、私はみさを強く抱きしめたくなる。この子が安心して暮らせる場所を作れたことが、何よりも嬉しかった。
私は来年、市役所を定年退職する。40年間の勤務を終えた後は、みさとの時間を大切にしながら、穏やかな日々を過ごすつもりだ。休日には二人で公園に出かけたり、図書館で本を読んだりしている。みさは最近料理に興味を持ち始めて、一緒に台所に立つことも増えた。卵を割るのも上手になった。
「バーバ、私ね、大きくなったら誰かを助ける仕事がしたいの。」
「どんな仕事?」
「困っている子供たちを助ける仕事。私みたいに怖い思いをしている子を助けてあげたいの。バーバみたいに、誰かを守れる人になりたい。」
その言葉を聞いた時、涙が溢れそうになった。辛い経験をしたからこそ、人の痛みが分かる優しい子に育っている。みさならきっと、素敵な大人になれるわ。
「バーバが全力で応援するからね。」
「うん。約束だよ、バーバ。」
窓の外では桜の花びらがヒラヒラと舞っている。温かな春の日差しが部屋に差し込み、みさの笑顔を優しく照らしていた。あの真冬の朝、小さな声で私の家にたどり着いたみさ。裸足にサンダル、薄い半袖一枚で震えていたあの姿を、私は一生忘れないだろう。あの時私が行動を起こさなければ、この子は今頃どうなっていただろうか。考えるだけで恐ろしい。
でも、今は違う。みさは愛情に包まれ、安心できる場所で暮らしている。家族だからと言って、理不尽を我慢する必要はない。大切な人を守るためには、時に厳しい決断も必要なのだ。40年間の市役所での経験が、私にそれを教えてくれた。
「バーバ、大好き。」
「バーバも、みさが大好きよ。」
この温もりが、私の最高の宝物だ。もしあなたが不条理な状況に置かれているなら、一人で抱え込まないで欲しい。必ず助けてくれる人がいる。そして、あなたにも必ず幸せを掴む力があるのだから。



