「社長、左遷か首か選べとおっしゃいましたね。じゃあ、首で」
その言葉を聞いた瞬間、新社長の高弘は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに嘲笑を浮かべた。
「そうか。やっと身の程を知ったか」
俺は古矢、30歳。この精密機械メーカーの技術開発部で12年間働いてきた。中学を出てから実家の町工場で3年間修行し、18歳でこの会社に入った。機械いじりが好きで、高校に行くより現場で技術を学ぶ道を選んだ。つまり、俺の学歴は中卒だ。
だが、その中卒の俺が、実家の工場と共同開発した超精密研磨技術の特許を取得し、その技術は会社の主力製品の製造に欠かせないものになっていた。先月も、特許使用料として800万円のボーナスが支給された。実家の親父が「息子がほとんど開発した技術だから、特許使用料は息子のボーナスにしてくれ」と会社と契約を結んでくれたのだ。
先代社長の仙台さんは、俺の技術を認めてくれていた。「学歴なんて関係ない。君の技術力は本物だ」と言ってくれた。だが、仙台さんが引退し、海外の大学院を出た息子の高弘が新社長に就任することになった。
高弘に会ったことはなかったが、漠然とした不安があった。花田さんが「新社長は学歴ばかり重視するって噂があるの」と心配そうに言い、矢野さんも「甘やかされて育ったボンボンで、俺たちみたいな叩き上げの人間は煙たがられるかもしれん」と眉をひそめた。
その不安はすぐに現実となった。高弘が社長に就任した直後、全社員を集めた就任挨拶で「経営効率化のため、全部門の業務プロセスを厳しく見直す。内部監査部門による監査を実施する」と冷たい声で宣言した。
数日後、俺は高弘に呼び出された。役員室に入ると、高弘が監査報告書を片手に冷たい目で俺を見つめていた。
「内部監査の結果が出た。古矢君、君への800万円のボーナスは、一般的な給与体系から大きく逸脱した功績給と報告されている」
「なぜ中卒ごときにボーナス800万?」
高弘は侮蔑の表情で俺を見た。俺はその瞬間、高弘が俺を罠にはめようとしていると察した。特許技術の使用に関する契約の重要な部分を無視し、中卒という学歴と一般的な給与体系から俺を貶めようとしているのだ。
俺は契約について説明しようとした。
「俺と実家の工場による共同開発の特許使用料として、正当な契約に基づいて…」
「ちょっと待て」
高弘が俺の説明を遮った。
「お前みたいな学歴のない人間がそんな高額をもらうのはおかしい。特許が取れる頭があるとは思えん」
俺は必死に特許技術の重要性を説明した。
「確かに私は中卒ですが、特許はほとんど私が開発しました。この技術がなければ、会社の主力製品は製造できません」
「はっ、中卒が開発した技術なんて、高が知れてるだろう」
高弘は鼻で笑った。俺は目を見開いて言い放った。
「それは違います。この特許技術があるから、高精度の製品が作れるんです」
「うるさい!」
高弘が怒鳴った。
そのやり取りを聞いたのか、矢野さんが心配そうに部屋の外から声をかけてきた。
「すみません。何かトラブルでしょうか?」
「矢野か。ちょうどいい。部屋に入れ。古矢の処遇について相談していたところだ」
矢野さんが入ってきて、俺と高弘の間に流れる緊張した空気を察した。
「古矢君の処遇と言いますと?」
「こいつへの800万円のボーナスを見直すつもりだ。こんな高額はどう考えても不適切だろう」
高弘が冷たく言い放つと、矢野さんは即座に反論した。
「社長、それは違います。古矢君の特許は我が社の主力製品の製造に欠かせません。800万円は妥当な対価です」
「中卒の人間に800万円が妥当だと?学歴に見合わない高額報酬を払うなど、今後同断だ」
高弘は一蹴したが、矢野さんは食い下がった。
「古矢君の技術がなければ、製造ラインが止まります。現場のことを理解してください」
「現場しか知らない人間に、経営のことが分かるものか」
高弘の声がヒートアップしていく。俺は屈辱で体が震え始めた。中卒という学歴だけで、俺の全てが価値のないものとして扱われているのだ。
「古矢。社長として命令する。左遷か首か、どっちか選べ」
高弘は薄ら笑いを浮かべながら言い放った。矢野さんが顔を青くした。
「社長、それは行きすぎです」
「黙れ。私が社長だ」
「学歴で人を判断するのは間違っています」
「学歴で判断するのが社会の常識だ。古矢への高額報酬は非常識なんだよ」
俺は怒りが込み上げるのを感じた。俺は高弘を見据えて、はっきりと答えた。
「社長、左遷か首か選べとおっしゃいましたよね。じゃあ、首で」
高弘は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに嘲笑を浮かべた。
「そうか。やっと身の程を知ったか」
「古矢君、落ち着いてくれ」
矢野さんは慌てて俺を静止しようとしたが、俺は覚悟を決めていた。会議室を出ると、すぐに実家の町工場に電話をかけた。
「親父、会社を首になった。特許の使用契約を停止するよ」
電話の向こうで親父が驚いた声をあげた。
「え、首?一体何があったんだ?」
「新社長に学歴のことで散々馬鹿にされて、左遷か首か選べって言われたんだ」
「なんだと?そんな理不尽な…」
親父の声には怒りと戸惑いが混在していた。
「だがいきなり契約停止って、800万円の話だぞ。本当にいいのか?」
「ああ、俺はもうこの会社にはいられない。親父にも迷惑をかけるが」
「迷惑だなんて思ってない。お前は立派な技術者だ。馬鹿にされる言われはない。特許の使用停止の件は分かった」
親父は開き直ったのか、力強い声で俺を支えてくれた。契約書には「俺の退職時に本契約は無効となる」という条項が明記されている。親父が「息子がいなくなったら意味がない」と主張して入れた条項だ。
翌日、俺は会社に退職届を提出すると同時に、特許使用停止の通知書も提出した。この特許は会社の主力製品3つの製造に使われており、これなしでは製造が不可能になる。花田さんが青ざめて聞いてきた。
「古矢君、これは冗談よね?」
俺は首を横に振った。
「契約書通りです。俺が首になったので、特許使用契約も終了です」
矢野さんも駆けつけてきた。
「古矢君、これじゃ製品が作れなくなる」
矢野さんは必死に止めようとしたが、俺の決意は硬かった。高弘に馬鹿にされた屈辱を、俺は絶対に忘れない。俺が自分の気持ちを正直に説明すると、花田さんは表情を改めた。
「同調して弱気になっちゃったけど、悪いのは社長よね。あんなひどいことを言われたら、誰だってやめたくなるわ」
矢野さんも深くため息をついた。
「確かに、ここまで馬鹿にされて残ろうとは思わないよな。すまなかった、古矢君」
俺は2人に深々と頭を下げた。
「矢野さん、花田さん、長い間お世話になりました」
矢野さんの目に涙が浮かんだ。
「古矢君…」
花田さんが涙ぐみながら言った。
「古矢君は何も悪くないのよ。あなたの技術がどれだけすごいか、みんな知ってるんだから」
俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。でも、高弘に屈するわけにはいかない。
「ありがとうございます。皆さんにお世話になったことは、決して忘れません」
そう言って俺は会社を後にした。高弘の嘲笑した顔が頭から離れない。あの男は俺の価値を全く理解していない。人を学歴だけで判断する態度に、心底腹が立つ。
実家に戻ると、親父が心配そうに俺を迎えてくれた。
「お疲れさん。大変だったな」
「すまない。親父の配慮を無駄にしてしまって」
「気にするな。お前は正しいことをしたんだ」
親父が俺の将来を思って契約に入れてくれた条項が、俺の退職によって発動することになってしまった。それでも俺は親父に頭を下げながら改めて思う。人の価値は学歴で決まるものじゃない。その人がどれだけ真摯に技術と向き合い、会社に貢献してきたかが大切なのだ。高弘にはそれが分からない。これで会社の主力製品は製造できなくなる。高弘がどんな顔をするか、俺には容易に想像できた。
俺が退職して3日後、矢野さんから電話がかかってきた。
「古矢君、一応現状を報告しておきたくて連絡したんだ。君が退職した翌日から、製造ラインが完全に止まってしまったよ。それ以来、社長の様子が異常なんだ」
俺は予想していた展開だったが、矢野さんの話に黙って耳を傾けた。
「社長は最初『技術なんてすぐ見つかる』と強がっていたが、誰に聞いても『古矢の技術なしでは無理だ』と言われて、顔面蒼白になってる」
矢野さんの声には困惑が込められていた。
「技術者を外部からヘッドハンティングしようとしているが、みんな尻込みして契約に至らない。古矢君の特許技術による精度の高さは、簡単に真似できるものじゃないんだよ」
俺の特許技術の価値を理解していなかった高弘が、ようやく現実に直面したのだ。矢野さんは電話の最後に、半ば自嘲気味に呟いた。
「『中卒の技術者1人で会社が止まるはずない』と喚いてばかりさ。本当に愚かな人だ」
1週間後、今度は花田さんから連絡があった。
「古矢君、社長がようやくあなたの重要性を思い知ったみたいよ。取引先から契約解除の通告が次々と来てるの」
花田さんは呆れた声で続けた。
「製品が納期通りに届かないことで、長年築いてきた信頼関係が一気に崩れてしまったの。銀行も融資の見直しを検討してるって言われちゃって…でも、全て自分が招いた結果よね」
そして俺が退職してから2週間後、矢野さんと花田さんが一緒に実家の工場を訪れた。2人とも疲れきった表情だったが、俺を見ると安堵の表情を浮かべる。矢野さんが口を開いた。
「古矢君、君の実家の工場との取引関係だけは続けてもらえないだろうか?もちろん、君に会社へ戻れなんて言うつもりはない」
花田さんも続けた。
「会社の経営は大変だけど、それは社長の自業自得でも、他の社員たちの生活もある。古矢君の実家との部品取引だけでも続けてもらえれば、少しでも収入が確保できるの」
矢野さんが深刻な表情で言った。
「売上が前月比で70%も落ち込んで、このままだと来月の給料も危ない。可能なら、実家の工場との取引だけは続けたい」
俺は2人の気持ちがよく分かった。2人とも俺の味方でいてくれながら、同僚たちの生活も心配しているのだ。
「分かりました。実家との取引は続けます。社員の皆さんには何の罪もありませんから」
俺がそう言うと、矢野さんと花田さんは安堵の表情で工場を後にした。
一方で俺は、実家の町工場で父親と一緒に、これまで以上に精度の高い新しい技術開発に取り組んでいた。親父は俺の技術力を誰よりも理解してくれている。
「お前の技術はこの業界でもトップクラスだ。変なプライドを持った社長なんかに負けるな」
親父が俺の肩を叩いてくれた。他社から最終職の話も来ていたが、まだ返事はしていなかった。どの会社も俺の特許技術と経験を高く評価してくれている。
「条件も悪くない話ばかりだな。年収1500万円以上を提示してくる会社もあるじゃないか」
親父が届いた書類を見ながら言った。でも、俺の心はまだ決まっていなかった。あの会社で12年間働いてきた思い出は、簡単には割り切れない。
「あの会社からお前宛てに、また電話が来とるぞ」
親父が苦笑いしながら言った。高弘からの電話は毎日のように来ていたが、俺は一切出なかった。留守番電話には高弘の慌てた声が残されている。
「古矢、話し合いをしよう。条件を見直すから連絡してくれ。会社が大変なことになってる」
どれも切羽詰まった内容ばかりだ。俺は取引の担当者ならともかく、高弘の電話は一切無視を決め込み、黙々と新しい技術の研究を続けた。実家の設備は決して最新ではないが、俺の技術があれば十分だ。新しいアイデアがいくつも浮かび、俺は技術者としての充実感を感じていた。
「やっぱりお前は天才だな。こんな精度の高い加工は、大手企業でもなかなかできないぞ」
親父が俺の作業を見ながら感心してくれる。
そんなある日、意外な人物が実家の工場を訪れた。実家の工場に現れたのは、なんと高弘だったのだ。いつもの高圧的な態度は影を潜め、顔は青ざめている。目の下には深い隈が刻まれ、見る影もなく憔悴しきっていた。惨めな高弘の姿に、俺は一瞬言葉を失った。
「古矢、頼む。会社に戻ってくれ」
高弘は掠れ声を絞り出した。あの傲慢な男が頭を下げている。
「会社が潰れそうなんだ。君の技術がなければ、もう立ち直れない」
高弘の声は震えていた。俺は冷静に答えた。
「俺は中卒で価値がないんじゃなかったんですか?」
高弘の顔がさらに青ざめる。
「あれは私が間違っていた。君の技術の重要性を理解していなかった」
俺の心の中であの時の屈辱が蘇る。
「どんな条件でもいい。年収2000万でも3000万でも出す」
高弘は必死に頭を下げ続けた。俺は首を振った。
「金の問題ではありません。あなたが俺を人として見下したことが許せないんです」
高弘の顔に焦りの色が浮かんだ。そして俺はとどめの条件を突きつけた。
「俺が戻る条件は1つだけ。あなたが社長をやめることです」
高弘は絶句した。
「そ、それは無理だ。私は社長だぞ。お前ごときに指図される筋合いはない」
一瞬、昔の高圧的な高弘が顔を出す。しかし俺は冷静に言い返した。
「そうですか。それなら話は終わりですね。俺は他の会社からも誘いを受けてますから」
俺が立ち上がると、高弘は慌てた。
「待て、待ってくれ」
俺は振り返って言った。
「会社が潰れてもいいんですか?全社員が路頭に迷ってもいいんですか?あなたのプライドのために」
高弘の顔が真っ赤になった。会社の危機的状況を思い出したのだろう。しかし高弘はまだ上がいた。
「分かった。分かったよ。だが条件がある。君が戻るなら、私は取締役として残る。少なくとも経営には口を出させてもらう」
俺は首を振った。
「それは受け入れられません。あなたは完全に会社から身を引くべきです」
高弘の顔が歪んだ。
「なんだと?私が会社の経営をどれだけ考えてきたと思ってるんだ。私には何の落ち度もない」
まだ自分の非を認めようとしない高弘に、俺は呆れた。
「あなたのせいで会社が潰れかけているんです。それでも落ち度がないと?」
高弘が苛立ちを隠せずに言った。
「私は海外で経営学を学んだ経営のプロだ。お前なんかに指図される筋合いはない」
俺は冷静に答えた。
「では、あなたのプロの経営で会社を立て直してください。俺はもう他社に移ります」
再び俺が立ち上がろうとすると、高弘は慌てて止めた。
「待て。分かった。分かったから、株主総会で辞任を提案する」
高弘が震え声でそう言った時、俺は静かに振り返った。しかし高弘は最後の悪あがきを見せた。
「だが、私の辞任が会社にとって損失だということが、いずれ分かるはずだ。所詮、お前は中卒の技術者に過ぎない」
俺は高弘を見据えて言った。
「人の価値は学歴で決まるものじゃありません。それを忘れないでください」
高弘は悔しそうに唇を噛みしめながら、しぶしぶ頭を下げた。親父が工場の奥から出てきて、高弘を睨みつけていた。
「息子を見下したことは許さん。だが、あんたが自分の間違いを認めて頭を下げるなら、息子にも考えがあるだろう」
親父の言葉に、俺は静かに頷いた。矢野さんや花田さん、そして他の従業員たちの顔が頭に浮かんだ。俺を理解し支えてくれた仲間たちのためにも、高弘には自分の愚かさを思い知らせてやりたい。
「社長が完全に辞任されるなら、俺も会社に戻ります」
それを聞くと、高弘は力なく立ち上がり、消え入るような声でつぶやいた。
「会社から身を引く」
そして高弘はうつむいたまま工場を後にしたのだった。
数日後、臨時株主総会が開かれる。会社の経営危機と高弘の失策が株主たちに報告され、高弘は満場一致で社長を解任となった。新しい経営体制のもとで、俺は技術責任者として復帰することが決まる。年収も大幅にアップし、特許使用料とは別に、正当な技術者としての処遇を受けることになった。
高弘はその後、会社から完全に追放された。業界内でも悪評が広まり、父親が築いた会社を潰しかけた無能な2代目として、どこからも相手にされなくなったという。
俺が復帰すると、製造ラインは即座に再開した。取引先との関係も修復され、会社は急速に立ち直る。矢野さんが嬉しそうに言った。
「古矢君、君が正しかったことが証明されたな。あの男もようやく自分の愚かさを思い知ったはずだ」
花田さんも安堵の表情で答えた。
「古矢君の価値を馬鹿にした報いを受けたのよ。当然の結果だわ」
俺は改めて思った。人の価値は学歴や肩書きではなく、その人が会社や仲間のためにどれだけ貢献できるかで決まるのだと。中卒の俺だって、自分の技術と努力で会社を支えることができる。俺はみんなの生き生きと働く姿を見て、そう実感するのだった。



