父の葬儀場で、私は妻に電話をかけていた。
「おい、今どこにいるんだ?父さんが亡くなった。すぐに来てくれ」
妻の返事は氷のように冷たかった。
「今、家族で温泉旅行に来てるから行けない。そっちで何とかして」
7年間の結婚生活で、これほどまでに誠意を感じなかった瞬間はなかった。数日前まで、私は彼らにとって「人のいい優しい夫」だったはずだ。義母は私の前でため息をつき、義兄は「義兄さんはお人よしですよね」と私を嘲笑った。だが、まさか父の葬儀まで無視されるとは思ってもみなかった。
しかし、彼らはこれから起こることを全く予想していなかった。
「社長、今日もいらっしゃったんですね」
1階のカフェの店員が明るい声で挨拶した。その声がロビーに響き渡った瞬間、義理の家族たちの顔が真っ白に変わった。
「社長?まさか、このビルがあなたのものだとでも言うの?」
私の一言に、彼らは文字通り凍りついた。ほんの数秒で覆された状況。見下していた「貧乏な子」、木村健二が650億円のビルのオーナーだったという衝撃の真実。
今から、あなたも想像だにしなかった痛快な逆転劇が始まる。
—
木村健二は38歳の平凡な会社員だった。中堅企業で月給25万円を受け取りながら暮らす彼は、7年間の結婚生活の間、妻の実家から絶え間ない嘲笑と侮辱を受けていた。
その日もいつも通り午前7時に起きてスーツに着替えた。鏡に映る姿は、どこにでもいるサラリーマンと変わらない。少し痩せた顔に誠実そうな印象。義母がいつも言うように「人の良さそうな顔」だった。
毎朝は決まって金の話から始まった。義母の還暦祝いに5万円の真珠のネックレスを準備したと言うと、妻・弓の顔には失望の色が浮かんだ。
「たったそれだけ?私の姉さんは20万円の着物を贈ってあげたのに」
食器を洗う水の音が夜けに大きく聞こえた。胸が苦しくなる。また義姉との比較だ。結婚以来、うんざりするほど聞かされてきた言葉だった。
義姉・美咲の夫、達也は大手企業の課長で年収も検事の場合近くあり、港区にマンションも持っていた。それを知らないわけでもないのに、弓はいつも健二と彼を比較した。
「ごめん。次はもっと良いものにするから」
健二がそう言っても、弓はすでに洗い物を終えて部屋に入りながら呟いた。
「その『次』を、いつも『次』って」
その言葉がナイフのように胸に突き刺さった。それでも、それ以上は何も言わなかった。すでに慣れっこになった朝の風景だったからだ。
義兄の順は32歳の地方公務員で、いつも健二を見下していた。
「義兄さんは人が良すぎますよ。もう少しガツガツ行けばいいのに」
表向きはアドバイスのようだが、その裏には「義兄さんは無能だ」という意味が込められていた。
昼休み、1人で会社の近くの定食屋に座り、豚汁定食を食べながら考えた。今夜はまたどんな言葉を聞かされるんだろうか。義母のため息、義姉の嫌み、義兄の皮肉。考えるだけで胃がキリキリと痛んだ。
義母はもっと直接的だった。
「健二さんは本当に優しいんだけど、もう少し『何か』があったらいいのにね」
「優しいけれど物足りない」というニュアンスだった。結婚当初から義理の家族は健二を快く思っていなかった。義母は、娘がもっと良い男と結婚できたはずなのに、健二のような平凡な男と結婚したことを残念がっていた。義姉の美咲もいつも同じように健二を評価した。
「優しいだけじゃね」
その夫の達也は港区のマンションに住み、高級車を乗り回していた。家族の集まりでは、彼は自然と会話の中心になった。
「最近の不動産市場、どうなると思います?うちの会社ではこういう戦略で港区の地価がまた上がりましたよ」
それに比べれば、健二は本当に見すぼらしく見えただろう。健二が口を開こうとしても、「木村さんの意見はどう?」と形式的に聞かれるだけで、誰も彼の話に真剣に耳を傾けようとはしなかった。
「うちの末の娘さんは、もう少し積極的だったらいいんだけど」
義母も似たようなことをよく言った。「積極的でない」というのは、結局のところ「金を稼げない」という意味だった。
家族の集まりの度、健二は隅の席で静かに食事をするだけだった。会話に入ろうとしても、自然と健二だけが側から外される雰囲気が作られた。
「さあ、順の小心祝いだ」「美咲たちの港区への引っ越し、おめでとう」「達也さんの部長昇進」
全ての話題は義理の家族を中心に回った。健二はまるでその場にいない人間のように扱われた。たまに健二に話が振られても、「木村さんは最近変わりない?」といった形式的な質問ばかり。健二がどんな仕事をしているのか、どんな困難に直面しているのか、本当の関心は誰にもなかった。
唯一の慰めは、父・誠一と過ごす時間だった。先週末も父と近所の居酒屋で杯を交わした。65歳の父はいつも健二の話を最後まで聞いてくれた。
「健二、最近随分疲れている顔をしているな」
「父さん、俺があまりに無能だからかな」
「バカなことを言うな。お前は十分に頑張っている」
父の手は長年の苦労を物語っていたが、それでも温かかった。その手が健二の肩を叩いてくれるたびに、心が少しずつ解けていくのを感じた。
「義理の家では、俺はいないものとして扱われます。義母は俺の顔を見るたびにため息をつき、義兄は朝に晩にバカにする。弓まで、最近はあっち側についているみたいで」
「それでも、弓ちゃんはお前を愛して結婚したんじゃないのか」
「最初はそうだったかもしれません。でも、今はもう分かりません」
父は杯を置き、遠くの空を見つめた。その表情には何か深い考えが秘められていた。
「健二、人生には辛い時期があるものだ。だが、お前は間違いなく良い人間だ。いつか彼らもお前の価値に気づく日が来る」
「いつかですか?もう随分立つのに」
「信じろ。健二、必ず全てを証明してくれる」
そして父は少し黙ってから、健二の手を強く握った。
「父さんがお前にしてやれることがあれば、何でもしたい。あまり思い詰めるな」
その時は父の言葉をただの慰めだと思っていた。65歳、公務員年金で質素に暮らす父が、健二のために何ができるというのだろうか。しかし今思えば、父はすでに全ての準備をしていたのだ。生涯を倹約に捧げながら、息子のために想像もできないようなことを成し遂げていたのだ。
父の家は築30年の古いアパートだった。壁紙は古び、家電はどれも10年以上前のものばかり。それでも父は1人で住むにはこれで十分だと満足していた。冷蔵庫にはいつもキムチと数品の常備菜しかなく、テレビは20インチのブラウン管。エアコンもなく、夏は扇風機で耐えていた。
「父さん、エアコンを1台買ってあげましょうか?」
「いや、扇風機で十分だ。金は大切にしろ」
そういう人だった。そんな父だから、義理の家でも「誠一さんはまあ品があるわね」と認めてはいた。しかし、それも結局は健二と比較しての発言だった。「誠一さんは元公務員だから品があるけど、健二はね」といった具合だった。
「お人よし」という言葉。表向きは褒め言葉のようだが、実際には「無能」という意味で使われていた。結婚生活の間、数えきれないほど聞いた単語だった。
私が務める会社は社員10名ほどの中堅だった。マーケティング部で働く健二はいつも誠実に業務をこなしていたが、特に目立つ存在ではなかった。
「木村君、今日は弓さんの還暦祝いなんだって。義理の家では君のことどう思ってるんだ?」
隣の席の鈴木課長が善意で訪ねてきた。しかし健二にとっては非常に答えにくい質問だった。
「まあ、何とかやってます」
「ああ、義理の家との付き合いは気を使うよな。俺も結婚当初はそうだった。でも時間が経てば慣れるさ」
課長は知らなかっただろう。健二にとってはすでに7年が過ぎているのに、状況は良くなるどころかますます悪化しているということ。
その時、スマホにLINEが届いた。義兄の順からだった。
「義兄さん、今日母さんの還暦祝いだけど、レンタカー借りてきてよ。電車で来られたらうちの家族のメンツが立たないから」
レンタカーだけでも1万5000円。今月の生活費もギリギリの状況で、また新たな負担だった。しかし断ることはできなかった。断れば、また1ヶ月義理の家で嫌味を言われ続けることになるからだ。
午後3時頃、父から電話があった。
「健二、家…」
声がいつもと違った。力がなく、呂律が回っていない。健二は何かがおかしいと直感した。父の声にはいつもの落ち着きが全く感じられなかった。
「父さん、どうしたんですか?」
「頭がすごく痛いんだ。健二、目眩がする…」
その瞬間、心臓が止まるかと思った。父の声が次第に小さくなり、電話が切れた。
健二は即座に席から立ち上がった。周りの同僚たちが驚いた顔で見ていたが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
「課長、急用ができたので相対します」
健二は鞄を掴み、オフィスを飛び出した。エレベーターを待つ時間も惜しく、階段を駆け下りた。会社から父の家までは電車で40分ほどだったが、タクシーを拾った。車内で健二は何度も父に電話をかけたが、誰も出なかった。不安がどんどん大きくなっていく。父は普段から電話に出るのが遅い方だったが、今日は何かが違った。
急いで父の家に駆けつけた。アパートの前に着いた時、すでに119の救急車が止まっていた。近所の人が通報してくれたらしかった。
「脳出血の疑いがあります。すぐに病院へ」
救急隊員の言葉に頭が真っ白になった。救急車の中で、意識を失っている父の手を握った。その手はあまりにも冷たかった。65歳の父は普段は健康そのものだった。毎朝散歩し、規則正しい生活を送っていた。そんな父が突然倒れるなんて信じられなかった。
救急車はサイレンを鳴らしながら病院へ向かった。健二は父の手を強く握りしめていたが、父からの反応は一切なかった。
病院に到着し、救急処置室に運ばれる父を見送りながら、震える手で弓に電話をかけた。
「もしもし。父さんが倒れたんだ。脳出血らしい。すぐに病院に来てくれ」
「ええ、本当に?今、どこの病院?」
「成獣事業員だ。早く来てくれ」
「分かった。でも、私たち今箱根に温泉旅行に来てるんだけど…」
健二の心臓が再び奈落の底に落ちるようだった。弓の声には戸惑いよりも面倒臭さが滲んでいた。
「大したことじゃないでしょう」
その一言が健二の胸を手っついで殴りつけたようだった。それでも…
「父さんが…今、家族旅行中だから行けない。こっちで何とかして」
電話が切れた。7年間の結婚生活で、これ以上の絶望を感じた瞬間はなかった。いや、絶望を超えて怒りが込み上げてきた。
健二は1人、成獣事業員の救急処置室前の椅子に座っていた。時計は午後4時30分を指し、父は集中治療室で生死の境を彷徨っていた。
医師が出てきた。50代半ばほどの、経験豊富そうな男性だった。
「ご家族の方ですね」
「はい」
「患者さんの状態は非常に深刻です。脳の出血がひどく、ここ48時間が峠になるでしょう」
「意識はいつ頃戻るのでしょうか?」
「正直に申し上げますと、まだ予断を許しません。最善を尽くしますが、覚悟はしておいてください」
「覚悟」という言葉に足が震えた。父を失うかもしれないという現実が重くのしかかってきた。
「付き添いの方はお1人ですか?ご家族は?」
「あ、はい。とりあえず私1人です」
妻が温泉旅行で来られないとは、とても言えなかった。医師がどんな顔をするかを見るより明らかだったからだ。
その夜、治療室の外の硬い椅子で眠りに着いた。体を預けているとスマホが鳴った。弓からだった。
「もしもし。誠一さん、どう?」
「まだ意識が戻らない。先生が48時間が峠だって」
「ああ、そう。大変だね。私たちも明日東京に戻るから、その時に1度寄ってみるよ」
「寄ってみる」という表現が心に引っかかった。まるで通りすがりに立ち寄るかのような響きだった。
翌朝、看護師が面会時間を教えてくれた。
「ご家族の方、少しだけ中に入れますよ。5分ほどでお願いします」
集中治療室で見た父の姿は衝撃的だった。体中に付けられた様々な機械。酸素マスクをつけた姿。昨日まで私と酒を酌み交わしていた父と同じ人物だとは思えなかった。
「父さん、早く起きてください。健二がここにいますよ」
しかし父は微動だにしなかった。その時、看護師が入ってきた。
「患者さんの血圧が少し不安定です。ご心配でしょうが、外でお待ちください」
外に出て再び椅子に座った。その時、義兄の順からLINEが来た。
「義兄さん、誠一さんの具合どうですか?僕たち明日東京に戻るんで、その時に病院行きますね。今は家族みんなでいるんで、理解してください」
「理解して」という言葉が胸を刺した。「家族みんなでいる」ということは、結局私はその家族に含まれていないという意味だった。
病院の夜は長く寒かった。健二は硬い椅子の上で身をよじりながら、眠れない夜を過ごした。自動販売機のコーヒーでのどを潤し、窓の外に見える夜明けの景色を眺めながら、ただ父の無事を祈った。父の手はいつもより冷たく青白かった。あんなに温かかった手が、こんなに冷たくなるなんて。酸素マスクの奥に見える父の顔は穏やかに見えたが、どこか遠くへ行ってしまうような気がした。
「患者さんの状態は昨日よりは安定しています。しかしまだ安心はできません」
担当医が健二に説明してくれた。希望が持てる知らせだったが、それでも不安な気持ちは収まらなかった。
その日、会社の同僚たちが見舞いに来てくれた。鈴木課長と部のメンバー数人だった。
「木村君、大変だろう。何か必要なことがあったらいつでも連絡してくれ。お父さんの容態はどうなんだ?俺たちで交代で付き添うから、君も少し休めよ」
会社の同僚たちの温かい心遣いが、却って悲しみを増幅させた。本当の家族であるべき人間たちは温泉で楽しんでいるのに、他人である同僚たちがこんなにも心配してくれている。同僚たちは果物の籠と見舞金まで持ってきてくれた。大金ではなかったが、その気持ちが本当にありがたかった。義理の家からは病院の心配しかされなかったのに、同僚たちは健二の身の上を心から案じてくれた。
「木村君、もし病院代で困ってることがあったら言えよ。俺たちで何とかするから」
鈴木課長の言葉に健二の目頭が熱くなった。こんな温かさを本当の家族からは感じられないという現実が一層悲しかった。
同僚たちが帰った後、健二はまた1人になった。集中治療室の前の待ち合い室には他の患者の家族もいた。誰もが同じような表情で不安げに待っていた。隣に座っていたおばあさんが健二に話しかけてきた。
「息子さん、お1人で大変ですね。ご家族はどちらに?」
「あ、ちょっと別の用事がありまして…」
健二は真実を話すことができなかった。家族が温泉旅行で来られないなんて、どうして言えるだろうか。
「あらまあ、こんな時に1人でいるなんて、どれほど心細いことでしょう。うちの息子も集中治療室にいるんだけど、家族みんなで交代で付き添っているんですよ」
おばあさんの言葉に健二の心はさらに重くなった。他の家では家族で看病をしているのに、自分は1人で孤独に耐えている。その現実を痛感した。
2日目の夜、弓から電話があった。
「もしもし。誠一さんの容態、少しは良くなった?」
「まだ意識が戻らないんだ。先生がもう少し様子を見る必要があるって」
「そっか。大変だね。私たち明日戻るから。その時に病院に行くね」
「ああ、早く来てくれ。1人でいるのがすごく辛いんだ」
「分かった。もうちょっと頑張って」
しかし弓の声には、真の心配よりも義務感が色濃く感じられた。まるでやらなければならないタスクをこなしているかのようだった。
3日目の午後、ようやく弓と義理の家族たちが病院に現れた。義母、美咲、順まで全員が揃っていた。急いで来たのか、服装もラフなままだった。
「あら、健二さん、大変だったわね」
義母の第一声だった。心配するような口調だったが、どこか形式的に聞こえた。
「誠一さん、容態はいかがですか?」
義姉の美咲が訪ねた。
「まだ意識は戻っていません。先生はもう少し様子を見る必要があると」
「まあ、大変だこと。病院代はどうするの?」
義母の心配は父の健康よりも病院代が先のようだった。
「とりあえず私が立て替えています」
「義兄さんの給料で払えるんですか?集中治療室の費用ってバカにならないでしょう」
順が心配そうな顔で言った。しかし、その心配の中には「我々に負担をかけるな」という意味が隠されているように感じられた。
「大丈夫です。何とかします」
「でも、私たちも手伝うべきじゃない?」
弓がそう言ったが、その声にはあまり乗り気でない様子が伺えた。
「いいのよ、弓。あなたの義理の父さんのことなんだから。健二さんが何とかするのが筋でしょう」
義母が弓を制した。結局、他人事だということだった。
医師が出てきて状況を説明してくれた。
「患者さんの状態は少しずつ上向いています。しかし、まだ安心できる段階ではありません」
「意識はいつ頃戻るでしょうか?」
健二が訪ねた。
「早ければ明日、遅ければもう1週間ほど様子を見る必要があります」
「まあ、1週間も…」
義母がため息をついた。長引く看病が負担だという表情だった。
短い面会を終えると、彼らはそそくさと帰っていった。3日ぶりに初めて来たというのに、滞在時間はわずか30分だった。
「健二さん、私たち先に帰るわね。旅行もあるし、また明日来るから」
「もう帰るんですか?もう少しいてくださればいいのに」
「旅行で疲れてるんだから。また明日」
彼らが去った後、健二はさらに深い孤独を感じた。3日間1人で看病し、家族がちょっと間を訪れてすぐに帰ってしまうと、寂しさが一層募った。
その夜は一層長く感じられた。集中治療室の前の椅子に座りながら、健二は多くのことを考えた。彼らは本当に家族なのだろうか。本当に危機的な状況で、こんなにも冷たく振る舞える人たちと一生を共に生きていかなければならないのか。
午前2時頃、看護師が出てきた。
「付き添いの方、患者さんが一瞬意識を取り戻されました。中へどうぞ」
健二は急いで集中治療室へ駆け込んだ。その夜、奇跡が起きた。父が一時的に意識を取り戻したのだ。
「健二…」
父の小さな声が聞こえた。健二は涙を流しながら父のそばへ駆け寄った。
「父さん、気がつきましたか?」
「健二、父さんのせいで大変だったな」
「大丈夫です。父さん、早く元気になってください」
父はか細い声で言った。
「健二、父さんはお前にしてやれなかったことが多すぎる」
「そんなこと言わないでください。父さんは十分によくしてくれました」
「いや、嫌しすぎたかな?お前にもっと多くのものを残してやりたかったんだが…」
「父さん、そんな話はやめて、早く元気になってください」
父が健二の手を強く握った。その手には生涯の愛情が込められていた。
「健二、聞き出しを…父さんの部屋の机の引き出しを見てくれ。母さんが…母さんが残した言葉が…」
父の声が次第にかれていく。
「鈴木弁護士、鈴木徹弁護士の名刺があるはずだ。そこを尋ねなさい」
「父さん、今はそんな話はやめて、ゆっくり休んでください」
「お前に、お前に渡すものがあるんだ。引き出しを…聞き出しを…」
その言葉を最後に、父は再び意識を失った。看護師が急いで入ってきて状態を確認した。
「一時的に意識が戻られたんですね。良い兆候です。引き続き様子を見ましょう」
しかし、それが父との最後の会話だった。その後2日間、父は2度と意識を取り戻すことはなかった。健二は病院に泊まり込み続けたが、義理の家族たちが再び訪れることはなかった。
「木村さん、お辛いでしょうが、もう少し待ちましょう」
医療スタッフも最善を尽くしてくれたが、父の状態は悪化の一途を辿った。4日後、金曜日の午前4時、父は静かに息を引き取った。その瞬間、健二は父の手を握っていた。
「父さん、父さん…」
しかし、もう返事はなかった。看護師が来て言った。
「ご臨終です。お辛いでしょうが、葬儀の準備を始めなければなりません」
健二は慟哭した。生涯自分を愛してくれた唯一の人がこの世を去ってしまったのだ。そして、その最後の瞬間まで1人だったという事実がさらに胸を締めつけた。
父が亡くなった後、ようやく義理の家族たちから連絡があった。
「本当に…亡くなったの?」
弓の声には驚きはあったが、深い悲しみは感じられなかった。
「分かったわ。今からそっちに行って、葬儀の準備を手伝うから」
しかし健二はすでに全てが終わったことを悟っていた。父の最後を共にしなかった彼らとは、もはや一緒にいることはできないと。
最上の蛍皇の明りの下、健二は1人で父の家を見つめていた。父の穏やかな笑顔が納められた白黒写真の前で、彼はこの数日間の出来事を思い出していた。
「健二さん、葬儀費用はどうするの?」
義母の声には相変わらず冷たい響きがあった。まるで健二が彼ら家族に借りを追っているかのように振る舞った。
「義母さん、全て私が準備しました」
健二の答えに義母は鼻で笑った。
「なんであなたに何かあるっていうの?うちの弓が苦労するだけじゃないの」
弓は隣でただスマホをいじっているだけだった。義兄の順が一言付け加えた。
「義兄さん、正直言って、葬式も質素にした方がいいんじゃないですか。どうせ来る人もそんなにいないでしょうし」
その言葉に健二の胸は張り裂けそうだった。父は生涯誠実に生きてきたのに、最後の旅でこんなにも見すぼらしく扱われるなんて。
結局、葬儀に参列してくれた人は健二が予想した通り少なかった。会社の同僚数人と父の知人3名だけだった。鈴木課長が早くから手伝ってくれなければ、1人ではどうにもならなかっただろう。
「木村君、元気を出せよ。お父さんは天国から見守ってくれているよ」
鈴木課長の慰めの言葉に健二は頷いたが、心の片隅には寂しさが押し寄せていた。
義理の家族たちは午後の遅い時間に、仕方なくといった様子で現れた。義母の顔には早く終わってほしいという表情が浮かんでいた。縄文中も仕切りに時計を気にしていた。
「ご愁傷様です」
形式的なお辞儀を1つすると、彼らは親戚同士で集まって別の話をし始め、健二には見向きもしなかった。
「お姉ちゃん、私たち早く帰ろうよ。子供たちの塾の時間もあるし」
義姉の言葉に、弓が健二の方を見た。
「あなた、私たちもそろそろ帰るわね」
健二は信じられなかった。父の葬儀だというのに、まるで義務で参列した遠い親戚のように振る舞っている。
「弓、まだ葬儀は終わっていないんだぞ」
「そんなの、あなた1人でもできるじゃない。私たちまでここにいる必要ないでしょう」
その瞬間、健二は悟った。自分がこれまでどれほど孤独な結婚生活を送ってきたのかを。
葬儀を全て終え、父のアパートに帰ってきたのはすでに夜も更けてからだった。ガランとした部屋に1人で座っていると、父の不在が身に染みた。健二は父が生前使っていた机の引き出しを開けてみた。そこには本当に「弁護士、鈴木徹」と書かれた名刺があり、その下には父の直筆の手紙が丁寧に折りたたまれて置かれていた。封筒には「愛する息子健二へ」との丁寧な字で書かれていた。
健二は震える手で手紙を開いた。
「健二へ。この手紙を読んでいるということは、父さんが先に旅立ったということだろうな。父さんが生きている間、お前にきちんと話してやれなかったことがたくさんある。父さんが生涯倹約して生きてきたのには理由があるんだ。お前にもっと大きなものを残してやるためだった。お前の母さんが亡くなる時、父さんに頼んだ言葉があったんだ。『あなた、健二にはね、ではなく大きな石ずを築いてあげてください。あの子がこの世で堂々と生きていけるように』その言葉を守るため、父さんは30年間全てを切り詰めて不動産に投資してきた。お前が食べたがっていたものも買ってやれず、良い服も買ってやれなくて済まなかったが、もっと大きな絵を描いていたんだ。鈴木徹弁護士を尋ねなさい。港区六本木にある法律事務所『正義』だ。彼が全てを説明してくれるだろう。父さんが生涯かけて築き上げたものの全貌を知れば、きっと驚くはずだ。そして、父さんが最後に言いたいことがある。人は本当に愛する人と共に生きるべきだ。金のため、世間体のため、無理に我慢して生きるのは本当の人生ではない。もしお前が幸せでないのなら、勇気を出して新しい選択をしてもいいんだ。父さんはお前がどんな選択をしようと、お前を信じ、応援している。愛しているよ。息子へ。父より」
手紙を読んでいる間、健二の目から涙が止まらなかった。父が生涯黙って自分のために準備してくれた愛が、これほどまでに大きかったなんて。そして最後の頼みまで、まるで健二の心を全て見透かしているかのようだった。
その夜、弓と話すことになった。
「弓、正直に言ってくれ」
健二が真剣な表情で切り出した。弓は相変わらずスマホを見ていた。
「何?どういう話?」
「君は俺を愛しているか?」
その質問に弓の手が止まった。スマホから顔を上げ、健二を見つめたが、答えはすぐに出てこなかった。
「急にどうしたの?そんな話」
「ただ気になっただけだ。俺たちが結婚してもう7年になる。俺は今まで君を本当に愛してきたつもりだ。でも、君がどうなのか分からない」
弓はしばらく黙っていた。その沈黙自体が健二にとっては答えだった。
「健二さん、愛がそんなに大事?私たちは家族じゃない」
「家族か。じゃあ、もし俺が大金持ちだったら、君の家族は俺に違う態度を取ったかな?」
弓は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに正直に答えた。
「当たり前でしょう。世の中ってそういうものじゃない。お金がある人にはみんな親切にするし、ない人には…まあ、そうじゃない」
あまりにも正直な答えだった。何の躊躇も言い訳もない。ありのままの真実だった。
「じゃあ、君も同じか。俺に金があったら、もっと俺を愛したか?」
「愛というよりも、もっと楽だったとは思う。正直言って、今の私たちの生活がカツカツなのは事実じゃない」
健二の心の中で何かが完全に崩れ落ちた。結婚して7年間抱き続けていた最後の希望さえも、その瞬間に消えた。父の手紙にあった最後の言葉が頭の中に響いた。「本当に愛する人と共に生きるべきだ」という言葉が。
「弓、離婚したい」
弓が驚いて健二を見つめた。
「何言ってるの?急にどうして」
「急じゃない。実はずっと考えてきた。俺たちはお互いを愛していない。君も今認めたじゃないか」
「健二さん、結婚生活なんてそんなものよ。最初の愛情がずっと続く夫婦なんて、どこにいるの?」
「俺はもうこんな風には生きられない」
弓の顔が次第に固くなっていった。
「健二さん、誠一さんが亡くなって、頭がおかしくなったんじゃないの?離婚したら、あなたどうやって生きていくの?慰謝料だってあるのよ」
「そういうのは俺が何とかする」
「何とかするって、今のあなたに何の財産があるっていうの?」
弓の声が次第に鋭くなっていった。いつもとは違う健二の断固とした態度に戸惑っているようだった。
「弓、お互い正直になろう。君だって俺とずっと一緒にいたいわけじゃないだろう。むしろこの機会に整理した方がお互いのためだと思う」
弓はしばらく健二を見つめていたが、突然涙を流し始めた。
「健二、私、あなたをたくさん傷つけていたのね。ごめんなさい」
その時になってようやく、弓も自分がどれだけ健二を虐げてきたかに気づいたようだった。しかし、もう遅すぎた。健二の心は完全に冷え切っていた。
「謝っても何も変わらない。俺たちはそもそも違う人間だったんだ。俺は真実の愛を求めていたけど、君は安定した生活を求めていた。どちらも間違ってはないけど、お互いには合わなかったんだ」
その夜、健二は父の部屋で眠った。最後に父のぬくもりが残るこの部屋で、彼は新しい人生を始める決意を固めた。父が生涯をかけて準備してくれた贈り物が何なのか気になったが、それよりも大きな贈り物はすでに受け取っていたと感じた。勇気を出す最後の機会を与えてくれたのだ。
翌朝、健二は鈴木徹弁護士を尋ねる予定だった。父の遺産が何であるかを確認すると同時に、離婚手続きについても相談するつもりだった。
翌週の月曜日、健二は会社に有給休暇を申請した。父の葬儀のためだと伝えると、鈴木課長も快く許可してくれた。
「木村君、辛い時期だろうから、ゆっくり休んでこい。会社のことは気にするな」
課長の温かい配慮に感謝を述べ、健二は港区六本木にある法律事務所「正義」を訪ねた。電車に乗りながらも心は複雑だった。父は一体どんな話を残してくれたのだろうか。
法律事務所「正義」は30階建ての高級オフィスビルの15階にあった。ガラスのドアを開けると、洗練されたモダンな内装が目に飛び込んできた。受付の女性が親切に出迎えてくれた。
「こんにちは。鈴木徹弁護士にお会いしたいのですが、木村健二と申します」
「あ、木村健二様ですね。弁護士がお待ちしております。こちらへどうぞ」
鈴木徹弁護士は50代前半に見える、知性的な印象の人物だった。グレーのスーツをきっちりと着こなし、その目元には長年の知恵が宿っていた。
「木村健二様でいらっしゃいますね。誠一様のご子息様で」
弁護士の声には深い尊敬の念が込められていた。
「はい。そうです。父から先生を尋ねるようにと」
「誠一様の訃報をお聞きし、本当に胸が痛みました。15年間、月に1度私を尋ねてくださっていたんですよ。本当に慈悲深く、懸命な方でした」
鈴木弁護士は健二を座り心地の良さそうなソファへ案内し、温かいお茶を出してくれた。
「15年間もですか?」
「はい。初めてお会いしたのが2010年でしたから。その時、誠一様が小さな店舗ビルを1つ購入される際に、私に法的な助言を求められました。公務員の給料から生活費を引いた残りの全額を不動産投資に使いたいとおっしゃっていました」
弁護士の説明を聞きながら、健二は次第に驚きを隠せなくなった。父がそんな計画を立てていたなんて、全く知らなかった。
「最初は本当に小さなスタートでした。足立区にある小さなテナントビルです。20坪ほどの建物でした。しかし誠一様の先見の明は本当に素晴らしいものでした」
鈴木弁護士は本棚から分厚いファイルを取り出してきた。15年間の取引履歴が全てまとめられていた。
「誠一様はいらっしゃるたびに市場分析の資料を自作されました。公務員でありながら、不動産市場に対する理解度はプロの専門家を凌駕していました」
ファイルを開きながら弁護士は説明を続けた。
「2010年に足立区のビルを購入され、2年後にそれを売却して江戸川区のもう少し大きなビルに移られました。そうやって常により大きなビルへ、より良い立地へと移りながら資産を増やして行かれたのです。2015年には港区に進出され、2018年には六本木近辺へ。そして最後に2020年に現在のビルを購入されました」
健二は父の緻密な計画に感嘆するしかなかった。表向きは質素に暮らしながら、こんなにも大きな絵を描いていたとは。
「誠一様は常々おっしゃっていました。『私の息子がこの世で堂々と生きていけるように、石ずを築いてやりたい』と。そのため、1度としてその収益で個人的な贅沢をされることはありませんでした」
弁護士が1枚の書類を健二の前に置いた。
「不動産規模と評価額です。現在、誠一様の名義となっている不動産です」
健二が目にした住所は信じられないものだった。港区六本木5丁目21番地。まさに六本木のど真ん中、最高級のビジネス街だった。
「これが本当に父の名義なんですか?」
「はい、その通りです。15階建てのオフィス兼商業ビルです。1階から3階が店舗、4階から15階がオフィスとなっております」
弁護士は別の書類を取り出して見せた。
「現在の時価で評価すると、約500億円になります。鑑定評価書もここにございます」
500億。その数字が現実のものとして感じられなかった。健二は一瞬目眩を感じた。
「ちょ、500億円ですか?本当に?」
「はい。不動産市場が大きく値上がりしましたから、特に港区は。誠一様は本当に卓越した目で投資をされていました」
弁護士は通帳を取り出して見せた。
「現在、このビルの月々の賃料収入は約3500万円です。1階の店舗は賃料が高く、オフィスも六本木という立地から非常に高額です。誠一様は生涯、このビルの賃料だけで月3000万円以上の収入がございました。しかし、1度としてそのお金を個人的にお使いになることはありませんでした」
健二は衝撃のあまり言葉を失った。父が月3000万円の収入がありながら、なおも古いアパートで質素に暮らしていたということが信じられなかった。
「そのお金はどこへ?」
「全ての収益を再投資されるか、定期預金として貯蓄されていました。こちらの通帳履歴をご覧になれば」
弁護士が見せてくれた通帳には、驚くべき金額が記されていた。定期預金と普通預金を合わせて約150億円があった。
「総額で650億円ほどということですね」
「誠一様は常々おっしゃっていました。『金は目的ではなく、手段だ。私の息子が本当に望む人生を生きられるようにしてやることが目的なのだ』と」
弁護士の言葉を聞いていると、父の手紙が再び思い出された。「本当に愛する人と共に生きるべきだ」という最後の言葉が。
「遺言書です」
弁護士が丁寧に封印された書類を取り出した。
「全ての財産をご子息様であるあなたに相続させるという内容です。相続税を差し引いても、相当な金額が残るでしょう」
健二は震える手で遺言書を受け取った。父の丁寧な字で書かれた遺言書には、簡潔だが深い意味が込められていた。
「私の全財産を愛する息子木村健二に相続させる。この財産でお前が本当に望む人生を生きることを願う。木村誠一」
「相続手続きはどうなりますか?」
「書類はすでに全て整っておりますので、複雑なことはありません。およそ3ヶ月ほどで全ての手続きが完了する見込みです。すぐにでも必要であれば、ビル管理会社を通して賃料収入は即座に受け取れます。毎月定期的に入ってきますので、生活に困ることはないでしょう」
そうして、たった1日で健二は平凡な会社員から650億円の資産家になった。信じられないことだった。
鈴木弁護士との相続に関する話を終えた後、健二は少し躊躇した。しかし父の手紙を再び思い出し、勇気を出した。
「先生、もう1つお願いしたいことがあります」
「はい。何でしょう?」
「離婚訴訟をお願いしたいのです」
鈴木弁護士は一瞬驚いた表情を見せた。
「離婚訴訟ですか?なぜ急に?」
「実はずっと前から考えていたことです。ですが、父が亡くなって決心が固まりました」
健二はこの数年間にあった出来事を順を追って説明した。義理の家族からの霊宮、弓の心変わり、そして決定打となった父の葬儀での出来事まで。
「父の葬儀での彼らの振る舞いを見て悟りました。私たちはお互いを愛していないのです」
弁護士は真剣な表情で健二の話を聞いていた。
「そのようなことが…終わりでしたか。しかし、離婚は慎重に決断されるべきです。特に今の状況では」
「今の状況というと?」
「誠一様の遺産を相続されることになりますよね。その状態で離婚となると、財産分与の問題が複雑になる可能性があります」
鈴木弁護士は詳しく説明してくれた。
「一般的に、婚姻期間中に形成された財産は夫婦の共有財産と見なされます。しかし今回のケースは少し特殊です」
「どの点でですか?」
「誠一様の財産は婚姻前から形成され始め、婚姻期間中も健二様個人の勤労や努力とは無関係に形成された財産です。さらに、これは相続財産です」
弁護士は判例集をめくりながら説明を続けた。
「相続財産は原則として固有財産として分類されます。特にこのケースのように、被相続人が明確な意思を持って特定の人にのみ相続させるという遺言を残した場合、その傾向はさらに強くなります」
「では、弓が財産分与を要求することはできないということですか?」
「完全に不可能ではありません。しかし、限定的になるでしょう。特に婚姻期間が比較的短く、奥様側が財産形成に寄与した部分がないとなれば、なおさらです」
健二は安堵のため息をついた。
「では、どのように進めれば良いでしょうか?」
「まずは協議を試みられるのが良いでしょう。奥様が合意してくださるのであれば、それが最も早く簡単な方法です」
「弓がすんなり合意してくれるかどうか…」
「そうでなければ、調停離婚や審判離婚を検討する必要があります。ただ、現状では奥様が財産のことを知ると、立場が変わる可能性もあります」
弁護士の言葉に健二は頷いた。
「先生、もし私の相続の事実を秘密にしたまま離婚を進めることは可能でしょうか?」
「うーん。可能ではありますが、簡単ではないでしょう。相続手続きが進むにつれて、公的な記録が残りますから」
「どれくらいの時間がかかりますか?」
「協議離婚であれば、早ければ1ヶ月以内にも可能です。しかし調停や審判まで行くと、数ヶ月から1年ほどかかることもあります」
弁護士はメモを取りながら尋ねた。
「離婚理由を明確に整理する必要があります。これまでお話しいただいた内容ですと、性格の不一致、価値観の相違、そして義理の家族との対立といったところですね。他に何か理由はありますか?例えば不貞行為など」
「いえ、そういったことはありません。私たちはただお互いを愛さなくなっただけです」
弁護士は頷き、記録した。
「承知しました。まずは離婚の意思を奥様に伝え、協議の可能性を探ってみてはいかがでしょうか」
「はい、そうします」
「では、このように進めましょう。まず健二様が奥様に離婚の意思を伝え、協議離婚の可能性を確認してください。もし奥様が拒否されるようであれば、その時点で法的な手続きに入ります。相続手続きと並行して進めることは可能です」
「慰謝料はどうなりますか?」
「現状では健二様は有責配偶者ではありませんので、慰謝料を支払う義務はないかと思われます。むしろ義理の家族の過剰な介入や侮辱的な言動があったのであれば…」
「いえ、そういうことは要求しません。ただ綺麗に整理したいだけです」
弁護士は健二の言葉に頷いた。
「良いお心がけです。では、まず奥様と対話を試みて、その結果をお知らせください」
事務所を出る前、弁護士が最後に訪ねた。
「本当に固く決心されたのですね。一度離婚手続きが始まれば、後戻りは難しいですよ」
健二は少し考えた。弓と過ごした7年間の結婚生活が脳裏をよぎった。しかし、その中で心から幸せだった瞬間を見つけるのは難しかった。
「はい。間違いありません。父が最後の手紙で言っていました。本当に愛する人と共に生きるべきだと。その言葉が離婚を意味するとは限らないかもしれませんが…いえ、私は弓を愛していません。そして弓も私を愛していない。お互いのためです」
弁護士は理解したという表情で頷いた。
「承知しました。では、準備書類をまとめておきます。ご連絡をお待ちしております」
法律事務所を出て、健二は思い足取りで家に着いた。1日で650億円の相続人となり、離婚手続きまで始めることになった。電車に乗りながら、健二はスマホで弓にメッセージを送った。
「今夜、大事な話がある。家で待っていてくれ」
弓からはすぐに返信が来た。
「どういうこと?もしかして誠一さんの遺産関係?」
健二は返信しなかった。今夜、全てを終わらせるつもりだった。しかし彼はまだ知らなかった。数日後、自分の正体が偶然にも義理の家族たちに知られることになるという事実を。
家に帰った健二は、父の手紙を再び取り出して読んだ。
「健二、人は本当に愛する人と共に生きるべきだ。金のため、世間体のため、無理に我慢して生きるのは本当の人生ではない」
父の言葉が健二に勇気を与えた。今こそ新しいスタートを切る時だった。今夜、弓に離婚の話を切り出す予定だった。まだ自分の相続の事実は伏せたまま、純粋に感情的な問題として話を進めるつもりだった。そうすることで、弓の本心を確認できるだろうと思ったからだ。
健二は深呼吸をして心を決めた。父が生涯をかけて準備してくれた新しい人生が、今まさに始まろうとしていた。
家に到着した健二は、弓と夕食を囲み、リビングにいる時だった。
「弓、離婚しよう」
健二が静かに言った。弓は最初驚いた顔をしたが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「本当にそう思ってるの?」
「ああ、俺たちはもう愛し合っていない。お互いにとって良くないと思う」
弓はしばらく考えてから頷いた。
「実は私もそんなことを考えてた」
健二は驚いた。弓がこんなにもあっさり同意するとは思わなかったからだ。
「本当にいいのか?」
「うん。正直に言って、私たちの結婚生活、幸せじゃなかったでしょう。あなたも私も」
弓の率直な答えに健二は納得を感じた。やはりお互いに本心はなかったのだ。
翌日、弓が実家に離婚の知らせを伝えた。健二は義理の家族たちがどんな反応を示すか気になった。夕方、義母から電話があった。
「健二さん、弓から聞いたわよ。離婚するんだって」
「はい。義母さん、申し訳ありません」
しかし義母の反応は予想とは違った。
「まあ、仕方ないわね。率直に言うと、私たちも心配してたのよ」
「心配ですか?」
「弓があまりにも苦労しているようだったから。経済的にもギリギリだったし」
健二は信じられなかった。まるで自分が弓の足を引っ張っていたかのような言い方だった。
「義母さん…」
「いやいや、悪い意味じゃないのよ。ただ、お互いに合わなかったんだと思うわ。この機会に整理するのも良いことかもしれないわね」
電話を切った後、健二は虚脱感に襲われた。7年間の結婚生活が、こんなにも簡単に終わってしまうものだったとは。
数日後、順から連絡が来た。
「義兄さん、離婚するって聞きました」
「ああ、すまない」
「いえいえ。実は僕たち、予想はしていました」
順の言葉に健二はまた驚いた。
「予想していた?」
「はい。義兄さんと姉さんが、あまり合ってないように見えましたから」
それに、順は少し言い淀んでから続けた。
「正直に言うと、義兄さんの収入では姉さんが望む生活をさせてあげるのは難しかったじゃないですか」
健二は言葉を失った。結局、金の問題だったのだ。
「弓さんもこれで自由になったんですから、もっと良い人を見つけてください。うちの姉さんも別の人を探せますし」
順の言葉から、健二は彼らの本心を知った。自分との離婚をむしろ歓迎していたのだ。
次の週には、義姉の美咲まで訪ねてきた。
「健二さん、残念だったわね。離婚することになって」
「いえ、実は私が弓に何回か言ったのよ。現実的に考えなさいって」
「は?」
何のことか分かった気がしたが、尋ねずにはいられなかった。
「現実的にですか?」
「ええ、弓ももう若くないし、良い条件の男性と出会うなら早く決断しなきゃって」
美咲の言葉に健二は衝撃を受けた。自分が「良い条件」ではないことを前提としたアドバイスだった。
「弓もこれで何にも縛られずに新しいスタートを切れるじゃない。健二さんもそうでしょう」
「そう思われるんですね」
「そうよ。無理に我慢して一緒にいるより、ずっといいわ」
健二はその時になってはっきりと悟った。義理の家族たちにとって、自分は弓に不釣り合いで、仕方なく我慢して付き合うべき相手だったのだ。
離婚届を作成する日、義母が健二を別室に呼んだ。
「健二さん、いや、木村さん、これまでうちの娘として苦労をかけたわね」
義母の口調から、健二は妙なものを感じた。「苦労」という表現自体が、健二を哀れんでいるかのようだった。
「とんでもないです」
「弓もこれで新しい機会を探せるし、あなたも同じよ。あなたもあなたの身の丈にあった、良い人を見つけなさい」
「身の丈にあった」という表現に、健二は苦笑した。最後まで自分を低く見ていた。
鈴木弁護士の予想通り、協議は順調に進んだ。弓も義理の家族たちも協力的だった。
「財産はどうするの?」
弓が訪ねた。
「マンションは君が持っていい。俺は何もいらない」
「本当にいいの?」
「でもマンションのローンも残ってるのに」
「それも俺が処理する。綺麗に整理しよう」
健二はマンションの所有権とローンを全て清算してやった。幸い、父の預金の一部を前もって引き出すことができた。弓は感謝したが、その感謝も本心からというよりは義務的なものに感じられた。
区役所に離婚届を提出する日、弓と一緒に行った。
「本当に離婚するんだね」
弓がつぶやいた。
「後悔してるか?」
健二が尋ねた。
「うーん。これが正しいと思う。健二さんもそうでしょう」
「ああ」
2人とも、名残惜しさよりも安堵感の方が大きかった。7年間の結婚生活がこれほど淡々と終わることが、むしろ自然に感じられた。離婚届に印鑑を押しながら、健二は思った。これで本当に自由だ。
離婚後、健二は元々住んでいたマンションを出て、父のアパートに引っ越した。まだ父のぬくもりが残るその家で、新しい人生を準備したかった。義理の家族たちとはきっぱりと挨拶を交わした。彼らは皆、明るい表情をしていた。まるで厄介が片付いたかのように。
「健二さん、元気でね」
義母の挨拶に健二は頷いた。
「弓さんもお元気で」
「弓をよろしく」という言葉は口にしなかった。もはや関係のないことだったからだ。
1人になった健二は、初めて真の自由を感じた。誰にも気を遣わず、誰の視線も気にしなくていい自由。
鈴木弁護士から連絡があった。
「相続手続きがほぼ完了しました。来週からは賃料収入を受け取れますよ」
「ありがとうございます」
「そして、離婚も綺麗に整理されたようで何よりです。複雑にならずに済みましたね」
「ええ、むしろ相手の方が望んでいたようです」
弁護士は苦笑した。
「世の中、皮肉なものですね」
数ヶ月後、彼らがどんな反応を示すことか。健二もその言葉に苦笑した。しかし、もはや関係ないことだった。自分の新しい人生が始まろうとしていたのだから。
数日後、健二は自分が所有するビルを正式に視察することにした。自分が本当のビルオーナーになったことを実感してみたかった。しかし彼は知らなかった。その日、六本木のビルで誰と再会することになるのかを。
離婚が成立してから2週間が過ぎた金曜の午後だった。健二はついに自分が所有するビルを正式に視察することにした。相続手続きも全て完了し、今や法的に完全なビルオーナーだ。
「本当に俺のビルなんだな」
六本木にそびえ立つ15階建てのビルを見上げながら、健二はまだ信じられないという表情をしていた。数週間前まで彼は平凡な会社員だった。それが今や650億円規模のビルのオーナーなのだ。
1階のロビーに入ると、管理所長の田中さんがにこやかに出迎えてくれた。
「社長、本日はどちらを視察されますか?」
「まずは全体の状況から把握したい。設備の状況や施設のコンディションなどを」
「かしこまりました。資料を準備しております」
健二と管理所長がロビーの片隅のテーブルで、ビルの管理状況について話し始めた。賃料収入の状況、空室状況、修繕計画など、オーナーとして知っておくべき全てのこと。順を追って説明されていた。
「月々の賃料収入が本当に3500万円もあるんですね」
「はい。六本木という立地のプレミアムもあり、賃料はかなり高水準です。特に1階の店舗は…」
その時だった。ビルの入り口から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「ここがあの有名な六本木のビルなのね。本当に大きいわ。15階もあるなんて」
その声を聞いて健二は驚愕した。振り返ると、義母と弓。そして義兄の順がロビーに入ってくるところだった。義姉の美咲とその夫の達也も一緒だった。
なぜここに?健二は狼狽したが、彼らに気づかれないように素早く体の向きを変えた。しかしロビーはそれほど広くなく、完全に身を隠すのは難しかった。
「うわあ、本当に豪華。ここの1階のカフェ、ネットですごく有名なんだって」
弓が周りを見渡しながら感嘆した。
「そうだよな。六本木のど真ん中だもんな。ここの家賃ってどれくらい高いんだろうな」
「こんなビルのオーナー、本当に羨ましいよ」
達也が羨ましそうに言った。
「こんなビルが1つあれば、一生働かなくてもいいよな。家賃収入だけでとんでもない額になりそうだ」
順がビルを見上げながら言った。
健二は彼らの会話を聞きながら苦笑した。わずか2週間前、自分との離婚を祝っていた彼らが、今はこのビルのオーナーを羨んでいる。
彼らは1階のカフェに向かった。健二は安堵のため息をついたが、その瞬間だった。1階のカフェの親切な女性店員が健二に近づいてきた。20代後半の明るい笑顔の店員で、健二がビルを頻繁に訪れるうちに顔見知りになっていた。
「社長、今日もいらっしゃったんですね」
店員の明るく大きな声がロビー全体に響き渡った。特に「社長」という単語が洗礼に聞こえた。
「いつものアメリカンをお持ちしますか?それとも今日は別のお飲み物にされますか?」
カフェに座り、メニューを見ていた弓たち一家の手が止まった。会話も突然止んだ。弓がゆっくりと首を回し、声がした方向を見た。そして健二と目があった。
数秒間の静寂が流れた。弓の目がどんどん大きくなっていく。
「健二…」
震える声が静かなカフェの中に響いた。他の家族たちも全員が健二の方を見ていた。
カフェの店員は状況が分からず、話を続けた。
「社長、そういえば今日、午後に新しく入居された会社の方がご挨拶に伺いたいとおっしゃっていましたが、お時間はいつ頃がよろしいでしょうか?」
「社長?」
義母が口を押さえながら小さな声で呟いた。しかし静かなロビーでは、その声は健二にも聞こえた。
順が椅子から立ち上がった。
「まさか…まさか、あの人が…」
美咲が手で口を塞いだ。
「嘘…嘘でしょう」
健二はもはや逃れられないと悟った。ゆっくりと彼らが座るテーブルへと歩み寄った。管理所長も後からついてきた。
「こんにちは」
健二の挨拶に、誰も答えられなかった。義母が口を開けたまま健二を見つめているだけだった。
「それって、どういうことなの?」
弓が呆然とした表情で訪ねた。
「どういうことって?」
「だって、カフェの店員があなたのことを『社長』って…」
「ああ、それですか」
健二は淡々と答えた。
「このビルが私のものだということです」
その瞬間、テーブルに座っていた全員の顔が真っ白に変わった。まるで幽霊でも見たかのように。
「何ですって?」
義母が震える声で聞き返した。
「このビル全体が私の所有物です」
健二の落ち着いた説明に、達也が椅子から滑り落ちそうになった。
「そ、そんな…冗談でしょう?」
「冗談に聞こえますか?」
その時、管理所長が完璧なタイミングで現れた。
「社長、他階の視察は明日にされますか?それとも今からご一緒いたしましょうか?」
管理所長の言葉が最後の確認となった。もはや疑う余地はなかった。
「そんな…」
美咲が手で口を塞ぎ、呟いた。
「どうして、どうしてこんなことが…」
順も言葉を続けられなかった。弓はただ健二を呆然と見つめているだけだった。口を開けたまま。
健二は彼らの衝撃を受けた表情を見つめながら、複雑な感情を抱いた。わずか2週間前まで、彼らは自分を「貧乏な子」と呼び、見下していた。
「父が30年間かけて準備してくれたものです」
健二が静かに言った。
「あ、あの貧乏な元公務員のおじさんが?」
順が信じられないという表情で言った。
「ええ、あの『貧乏な元公務員のおじさん』が、生涯質素に暮らしながら、この全てを準備してくださったんです」
健二の言葉に一瞬の静寂が流れた。義母が震える声で訪ねた。
「じゃあ、じゃあ離婚する時、あなたはもう知ってたの?」
「はい。知っていました」
「なぜ?なぜ言わなかったのよ?」
弓が過ろじて口を開いた。
「言う必要がありましたか?どうせ皆さんは、私が貧しいと思っていた時も、私を愛してはいなかったでしょう」
健二の冷静な答えに、彼らは何も言えなかった。
「そして、正直に言えば…」
健二は言葉を続けた。
「皆さんが離婚を歓迎していたことも知っています。弓が『これでもっと良い条件の男と出会える』とおっしゃっていましたよね」
順の顔が真っ赤に染まった。
「美咲さん、それは違いますか?皆さんの立場からすれば、当然の考えだったでしょう」
健二は全く怒りを見せなかった。むしろ理解しているかのように言った。
「ただ、分かっておいてください。皆さんが考えていた『良い条件』は、すでにここにあったということです」
達也が頭を抱え込んだ。
「こんなことが…」
「私も離婚してよかったと思っています」
健二が淡々と言った。
「これでようやく、本当に私を愛してくれる人を探せますから」
彼らは誰も何も言えなかった。2週間前、「貧乏なとりこ」を祝っていた彼らが、今、650億円のビルオーナーの前で言葉を失っていた。
「健二さん…」
義母が過ろじて口を開いた。
「今更何を言っても、何もおっしゃらなくて結構です。もう全て終わったことですから」
健二は時計を見ながら言った。
「私はビルの視察を続けなければなりませんので、これで失礼します。コーヒー、ごゆっくりどうぞ」
健二は彼らを背に、管理所長と共にエレベーターへ向かった。後ろから弓の声が聞こえた。
「健二さん、待って…」
しかし健二は振り返らなかった。エレベーターのドアが閉まり、彼らの姿が見えなくなった。
エレベーターの中で、管理所長が遠慮がちに尋ねた。
「社長、お知り合いの方々でしたか?」
「ええ、昔の知り合いです」
健二は淡々と答えた。
「今はもう、他人ですが」
エレベーターが上昇していく中、健二は窓の外を眺めた。父が準備してくれた新しい人生が、今本当に始まろうとしていた。
六本木のビルでの再会から1週間が過ぎた。健二はあの日、義理の家族たちから何十件もの電話やメッセージを受け取ったが、全て無視した。もはや彼らと対話する理由も必要もなかったからだ。
しかし、健二の心の中には別の思いが芽生えていた。7年間受け続けた無視と侮辱は、そう簡単には忘れられない。特に父の葬儀での仕打ちは、決して許せるものではなかった。
「父さん、俺が堂々と生きられるようにしてくれたんだから、これまでの侮辱にもけりをつけなきゃいけないですよね」
父の家の前で、健二は静かに誓った。
翌日、健二は再び鈴木徹弁護士を尋ねた。
「先生、ご相談したいことがあります」
「はい。何でしょう?」
健二は少し躊躇してから、正直に打ち明けた。
「実は、7年間私を苦しめてきた人たちがいます。合法的な方法で、彼らに同じ苦しみを与えたいのです」
鈴木弁護士は真剣な表情になった。
「健二さん、復讐は良い方法ではありません。却ってあなた自身を苦しめることになりかねませんよ」
「しかし、このままでは済ませられません。彼らが私にしたこと、特に父の葬儀での言葉を思い出すと…」
健二の声から、抑えきれない怒りが感じられた。鈴木弁護士は健二の気持ちを理解したように頷いた。
「だとしても、本当に合法的な方法だけで、ということですね」
「もちろんです。犯罪者になるつもりはありません。ただ、彼らが私にしたように、経済的な圧迫を与えたいだけです」
健二の決意が硬いことを知った鈴木弁護士は、専門の調査チームを紹介してくれた。
「こういうことには正確な情報が必要です。まずは相手方の経済状況を把握しましょう」
1週間後、調査結果が出た。健二はその内容を見て驚いた。義兄の達也が務める「大話建設」という会社が、現在非常に資金繰りに窮しているというのだ。
「いくつかの大型プロジェクトが立て続けに失敗し、運転資金が不足している状態です。現在、新たな投資家を探しています」
調査チームのリーダーが報告した。
「本当ですか?」
「はい。そして、義姉の美咲様が最近購入されたマンションのローンを組んだ『中央投資開発』も同様です。不良債権問題で資金繰りが悪化し、こちらも投資家を探しています。さらに、義母様がお金を借りた消費者金融『先進ファイナンス』も…3者とも投資家を探している状況です」
「これはすごい偶然ですね」
「偶然というより、皆さん身の丈に合わない無理な投資をされていたようです。能力以上のローンを組んでいたということですね」
調査チームのリーダーの言葉に、健二は苦笑した。自分を「貧乏」だと見下していた人々が、実際には借金まみれだったのだ。
鈴木弁護士は健二のために最高の専門家チームを結成してくれた。各分野クラスの実力者たちが集められた。M&A専門の法弁護士、金融法専門のリ弁護士、そして不動産有価証券関連専門の低弁護士だ。
「健二様のご要望通り、全ての手続きを合法的に進めます」
弁護士が説明した。
「大話建設の場合は、通常の投資家として参加し、経営権の一部を確保した上でリストラを実施するという方法です」
「中央投資開発は不良債権を買い取り、債権者としての地位を確保します」
リ弁護士が付け加えた。
「先進ファイナンスは、一素会社ごと買収してしまうという案も検討しています」
弁護士が最後に説明した。健二は彼らの専門性の高さに関心した。やはり金があれば、最高の専門家を雇えるのだと実感した。
1ヶ月後、最初の結果が出た。法弁護士から連絡があった。
「健二様、大話建設の買収が完了しました」
「本当ですか?」
「はい。健二様が筆頭株主となられました。そして、ご指示通りリストラを開始しました」
数日後、達也は衝撃的な知らせを聞くことになった。
「木村達也課長、本部長室まで来てください」
「はい、分かりました」
達也が本部長室に入ると、冷たい空気が流れていた。
「木村課長、これまでご苦労だった」
「突然、どういうことでしょうか?」
「会社の経営状況が悪化し、リストラを行うことになった。君は業務能力評価の結果、残念な点が多かったため…」
達也は信じられないという表情をした。
「平社員に降格となる」
「そ、そんな馬鹿な…」
「すでに決定事項だ。嫌なら退職してもらっても構わない」
達也は言葉を失った。突然のことだったが、会社の経営が厳しいことは知っていたため、なす術もなかった。
同じ時期、順にも晴天の霹靂とも言える知らせが届いた。
「木村順様へ、重要なお知らせを送付いたしました」
中央投資開発からの通知書だった。
「信用情報の再評価の結果、不適格と判断されました。つきましては、マンションローンの全額を30日以内に一括で繰り上げ返済していただくようお願いいたします」
順は狼狽した。
「どういうことだ?俺は1度も延滞したことないのに」
しかし通知書は厳格だった。契約書に基づき、金融機関が必要と判断した場合はいつでも繰り上げ返済を要求できるという内容だった。
義母も同じだった。先進ファイナンスから突然連絡があった。
「お客様は延滞リスクの高い顧客として分類されたため、即時返済を要求いたします」
「延滞リスクですって?私は1度も延滞したことなんてありませんけど」
「会社のポリシーが変更になりました。30日以内に全額ご返済ください」
これら全ての出来事が偶然ではないということ。彼らはまだ知らなかった。健二が合法的な手続きを通して、この全てを可能にしたことを。
大話建設の筆頭株主となり、経営陣にリストラを指示した。中央投資開発の債権を買い取り、順のローンに介入する権利を得た。先進ファイナンスを買収し、義母のローン条件を変更する権限を得た。全てが完璧に合法的な手続きのもとで行われた。
その日の夕方、達也から突然電話があった。
「健二さん、もし時間があったら会えないかな。急な用事ができてしまって…」
健二は達也の切羽詰まった声を聞きながら、心の中で笑った。計画が動き出していた。
「どうされました?」
「電話じゃちょっと…会って話したいんだ」
「分かりました。どこで会いましょうか?」
「俺が健二さんの会社の近くまで行くよ」
翌日の夜、達也は見すぼらしい姿で健二の前に現れた。いつもの自信に満ちた姿はどこにもなく、疲れきった表情をしていた。
「健二さん、実は…」
達也が思い切って口を開いた。
「会社で突然リストラがあってね、給料は半分になるし、役職も下げられてしまったんだ」
健二は驚いたふりをした。
「そんなことがあったんですか?それは大変ですね」
「それで調べてみたら、新しい投資家が入ったらしいんだ。もしかして、健二さんの知り合いに…」
達也の言葉が終わる前に、健二が言った。
「ああ、それですか。私がその投資家です」
達也の顔が真っ白に変わった。
「な、何ですって?」
「私が大話建設の新しい筆頭株主になりました」
達也は信じられないという表情で健二を見つめた。
「じゃあ、じゃあ俺のこの仕打ちは…」
「ええ、私が指示したことです」
健二が淡々と告げた。
「達也さん、心配しないでください。すぐに首にはしませんから」
達也が安堵のため息をつこうとした瞬間、健二は言葉を続けた。
「その代わり、条件があります。給料をさらに半分にし、役職をさらに3段階下げます」
「健二さん、頼む…」
「7年間、私をどう扱ってきたか覚えていますか?特に父の葬儀で言った言葉を」
達也は言葉を失った。
数日後、順と義母も同じ真実を知ることになった。順はマンションローンの問題で健二に助けを求めたところ、健二が中央投資開発の新しいオーナーであることを知った。義母は先進ファイナンスからの突然の返済要求を受け、健二に泣きついたところ、健二が先進ファイナンスを買収したという事実を聞かされた。
1週間後、彼ら全員が集まる場が設けられた。健二が要求した会合だった。場所は健二が所有する六本木のビルの15階の会議室。六本木の街が一望できる素晴らしい眺めの部屋だった。
達也、順、そして美咲まで全員が来ていた。弓も一緒だった。彼らは皆、見すぼらしい姿をしていた。1ヶ月前の堂々とした姿は、見る影もなかった。
「皆さんをここへ呼んだのには理由があります」
健二が会議室の前に立って言った。
「皆さん、これで本当に公平になりましたね」
健二の声は冷たいが、落ち着いていた。
「私もどん底からここまで上がってきました。皆さんもこれから、どん底から始めてください」
誰も答えられなかった。
「ただ、1つ違いがあるとすれば…」
健二は少し間を置いてから続けた。
「私には愛する父がいましたが、皆さんにはそういう存在がいないということですね」
その言葉に、義母が泣き崩れた。
「健二さん、私たちが悪かったわ。お願いだから…」
しかし、健二の心はすでに冷え切っていた。
「これからが始まりですよ。7年間、私にしてきたこと全てを、お返しします」
健二はそう言い残し、会議室を後にした。後ろから彼らの鳴き声が聞こえたが、振り返ることはなかった。
復讐が始まった。
復讐を完了してから3ヶ月が過ぎた。健二は表面的には満足していたが、心の奥底では妙な虚しさを感じていた。復讐が終わってしまうと、次に何をすべきかと途方に暮れていた。
その時、鈴木弁護士から思いがけない連絡があった。
「健二さん、誠一様に関する重要な発見がありましたので、ご連絡いたしました」
「重要な発見ですか?」
「誠一様の個人金庫から、日記と手紙が見つかりました。健二様にご覧いただくべきものかと」
翌日、健二は弁護士事務所で父の遺品を受け取った。30年間、1日も欠かさず書かれていた日記だった。最初のページを開くと、涙が込み上げてきた。
「1999年3月15日。健二が生まれた。妻のじこに本当によく似ている。小さな指の1本1本が、あまりにも愛おしい。この子が大きくなって、どんな人々と出会うのか、今から心配だ。良い人たちだけに巡り合って、幸せに生きてほしい」
ページをめくるたびに、父の深い愛情が伝わってきた。
「2010年5月20日。健二が結婚すると言ってきた。嬉しいが、一方で心配でもある。義理の家族が我々を少し見下しているように感じる。健二は気づいていないふりをしているが、私には全て見透かしている。しかしまだ、その時ではない」
「2015年8月3日。健二がとても辛そうだ。義理の家で見下されていることに気づいているのだろう。胸が痛むが、健二が本当に愛していない人々から自由になりたいと願う時まで、もう少しだけ待ってみよう。その時が来たら、私が準備したものを全て譲り渡すのだ」
最後のページには、健二に宛てた手紙が挟まれていた。
「健二へ。この手紙を読んでいるなら、父さんの最後の贈り物を全て受け取った頃だろうな。しかし、これからお前に最後の宿題を出そうと思う。それは『許し』だ。お前を苦しめた人々を許せということではない。彼らはすでに自分たちの選択の代償を払っているはずだ。私が言いたいのは、お前自身を許しなさい、ということだ。これまで愛されなかったと考え、自分自身を攻めてきたであろうお前を許し、そして本当の幸せを探しなさい。金でも復讐でもない。真の愛と尊敬に基づいた幸せを。父より」
父の手紙を読んだ後、健二の心は変わり始めた。そこから、私の人生は本当に変わり始めました。
自分のビルの1階でカフェを経営する、佐藤恵さんという女性と親しくなりました。28歳の明るく温かい女性で、最初は健二を「社長」としてしか見ていませんでしたが、次第に人間的な関係へと発展していきました。
「社長、最近すごく明るくなりましたね。以前は何か重たいものを背負っている感じがしましたけど」
恵の率直な言葉に、健二は笑った。
「恵さんのおかげかもしれません」
「本当に純粋な人と出会うと、心が温かくなりますね」
「私も社長とお話する時間が好きです。他の人は私をただのカフェの店長としか見ないけど、社長は私の本当の話を聞いてくれますから」
そうして2人は少しずつ距離を縮めていきました。恵は健二の過去については尋ねませんでしたが、現在の健二をありのままに受け入れてくれました。
義理の家族たちに対する感情も変わっていきました。もはや恨みではなく、哀れみのような感情が湧き始めたのです。父の手紙が健二の心を変えたのでした。
健二は鈴木弁護士に頼みました。
「先生、彼らが本当に窮して、食べるものにも困るような状況になったら、静かに助けてください。匿名で」
「本当によろしいのですか?」
「はい。復讐はもう十分です。これからは、父の言葉通り許したいと思います」
半年後、健二は恵と正式に交際を始めました。恵は健二の財産には全く興味がなく、ただ健二という人間そのものを愛してくれました。さらに半年後、健二は勇気を出してプロポーズしました。
「恵、僕と結婚してください」
恵の目に涙が浮かびました。
「本当に本気ですか?」
「うん。君と一緒なら、本当に幸せになれると思う。僕が本当に愛しているのは、君だ」
「私も健二さんを愛しています。初めて会った時から、何か特別な人だと思っていました」
結婚式の日がやってきました。小さくても幸せに満ちた結婚式を挙げ、新婚旅行はヨーロッパへ行きました。パリのエッフェル塔の前で恵と一緒に写真を撮った時、健二は本当に全世界を手に入れたような気分でした。
「あなた、本当に幸せよ」
「僕もだよ。こんな幸せがあるなんて、知らなかった」
帰国後、2人は計画通りカフェ事業を拡大しました。「ぬくもカフェ」という名前でいくつかの支店を出しましたが、それは単なるカフェではなく、本当に困っている人々が訪れて温かい食事をしたり、相談に乗ってもらえたりする空間として作られました。
健二は父に静かに語りかけました。
「父さん、今、本当に幸せです。本当の幸せが何なのか、分かりました。そして、この全てが父さんの愛のおかげだということも。ありがとうございます、父さん」
父の最後の贈り物は、金ではありませんでした。それは、真の幸せを見つける方法だったのです。



