祖母の葬儀の真っ最中、携帯が震えた。画面には年下部長の名前。通夜を終え、告別式へ向かう途中だった。「勝手に休んで何をしてるんだ?認めた覚えはないぞ」と怒鳴る声に、私は静かに説明した。休暇申請は出している、と。しかし部長は笑いながら言い放った。「ババアが死んだからって休むような無能者はいらない。無断欠勤扱いにして、解雇も含めて検討してやる」。祖母を「ババア」と呼ばれ、私は怒りより先に恐怖を感じ…

祖母の葬儀の真っ最中、携帯が震えた。画面には年下部長の名前。通夜を終え、告別式へ向かう途中だった。「勝手に休んで何をしてるんだ?認めた覚えはないぞ」と怒鳴る声に、私は静かに説明した。休暇申請は出している、と。しかし部長は笑いながら言い放った。「ババアが死んだからって休むような無能者はいらない。無断欠勤扱いにして、解雇も含めて検討してやる」。祖母を「ババア」と呼ばれ、私は怒りより先に恐怖を感じ...

祖母の葬儀の最中に、年下部長から電話がかかってきた。あんた、勝手に休んで何をしているんだ。俺はきちんと休暇申請を出したと説明したが、部長は認めた覚えはないと叫びながら一方的に怒り続けた。

ああ、分かったよ。もういいさ。永久に休め。ババアが死んだからって休むような無能者は、もう会社にいらない。部長は俺を無断欠勤扱いにし、解雇も含めた処分を検討すると言い放った。これまでの俺への反抗も付け加えてやろう。無断欠勤の話と合わせれば、首にできなくもないだろう。笑い声を響かせる部長に、俺は恐怖を感じていた。ここまで来ると、さすがに異常だ。こんな上司と真面目に向き合う必要なんてない。

自分が首になるのなら、それも仕方ない。そう決めて、俺は部長の笑い声を断ち切った。

私が首になると、会社が潰れるかもしれませんね。それでもよろしいですか。

何を寝ぼけたことを。部長はそう吐き捨てると、勝手に電話を切った。割れながら大口を叩いたものだと思う。それでもこの時の俺には、それだけを言える余裕と、部長への意地があった。

俺の名前は竹中和史。43歳の自動車会社の営業マンだ。ごく普通に学歴を積み、就職し、地元の大手自動車メーカーの販売部門の子会社に採用された。新人の頃から営業に配属され、そのまま営業一筋。ディーラー勤務と本社勤務を経験し、現在は本社オフィスに拠点を置く営業二科に席を置いている。営業二科は法人営業を主に扱い、少数のエグゼクティブと言われる顧客も抱えている。

俺はこれまで、まともな昇進試験を受けずに会社人生を過ごしてきた。唯一受けたのは、車内で最も簡易な管理職試験のみ。主任職や係長職を受諾するための試験にパスしただけで、それ以上は試験を受けることすら考えなかった。営業で終わると納得していた。俺は自分を一般兵のままでいいと思っていた。出世欲は、どちらかと言えば邪魔だった。身軽でいるのが好きで、シンプルに物事を進めたいタイプだった。俺のそんな考え方も、妻は理解して認めてくれている。共働きでせっせと働けばいいと妻も割り切ってくれているおかげで、俺はマイペースな仕事を続けられていた。

ある年の春先、人事異動で車内の人事体系が数年ぶりに大きく変わった。役員の若返りが目玉人事とされる中、一般職の分野でも人が大きく動いた。営業一科と二科もその渦に巻き込まれ、法人営業がメインの二科に、一科で目覚ましい活躍をしていた若手が部長として送り込まれてきた。

松本剛という男で、まだ三十代半ば。全てが完璧な天才と評されていた。車内の旗艦店舗で最も優秀な営業マンで、試験もまめに受け、疲れ知らずでセミナーに参加して知識を頭に叩き込んできたという。時にはその優秀さから競合他社がヘッドハンティングを仕掛けるほどだったが、本人は今いる場所でどこまで登り詰められるかを楽しんでいるようなタイプらしい。

車内の評判とは裏腹に、松本部長自身は腰が低く、丁寧な性格だった。最初の挨拶では誰よりも丁寧に頭を下げていた。デスク周りの整理も自分で動き回り、手助けには素直に感謝する。俺が挨拶をすると、部長はやはり丁寧に応じてくれた。

これからよろしくお願いします。足りないと思うところがあれば、いつでもご指導ください。

店舗の営業で実績を積んだ若き部長に、俺は本心から教えを乞うた。自分もディーラー勤務を経験しているが、営業成績トップを維持する人は本当に只者ではないと分かっている。そして、そんな只者ではない営業マンのほとんどは、どこか癖があって自信過剰で高飛車だったりする。しかし松本部長は俺の挨拶にも何も崩さず、丁寧に返した。

ああ、こちらこそ。私は法人営業に関しては無知と言っていいほどなので、指導と協力をいただきたいのは私の方です。

部長は控えめな笑顔で、俺に握手の手を差し出した。俺は部長と握手を交わし、その日の業務に加わった。

松本部長は二科を取り仕切る者として、初日から顧客への顔出しに出ていった。取引先の会社に足を運び、その合間にエグゼクティブの特別顧客の家にも出向く。打ち合わせをしながら、デスクにいても電話やメールをさばいていた。それが済めば、また外に出ていく。部長の姿を見ながら、俺は後輩と一緒に忙しい時が過ぎるのを待っていた。

約一ヶ月の怒涛の外回りを片付け、二科の部長としてのデスクワークが本格的に始まると、必然的に残業が多くなった。部長はそんな中でも、残業は個人的なこととして周囲に同調を求めようとしなかった。

あの、私に任せられることがあれば、私もお手伝いしますよ。これまでも色々と細かな仕事は引き受けてきましたから。

松本部長の前任の部長は、いい意味で適当な仕事ができる人だった。自分の権限がないとできない仕事は引き受け、それ以外に責任者がいると感じた業務は周囲に振っていた。前任の部長はそうすることで、営業二科の底力を上げる取り組みにも熱心だった。俺は前任の部長からサポート能力を認められ、部長の補佐を頼まれていた。

考えはそれぞれだと思います。ですが、部長を一人で全て背負わなくても、二科は今のところ全員が一通りの対応ができるよう指導を受けていますから。

松本部長はまだ二科をあまり知らず、気を遣い遠慮があるのではないか。俺は差し出がましいだろうがそう考え、部長に協力を申し出た。俺の申し入れに、部長は一瞬気の抜けたような表情を見せると、次の瞬間にはほっとしたように一息ついた。

ああ、そう言ってもらえると助かります。前任から話は聞いていたんですが、私から何をどう言うべきなのか、それを考えていたところで。

年相応の松本部長の微笑みに、俺は何の疑いもなく信頼を置いた。それから俺は部長と調整しながら、部長が任された事務的な仕事を振り分けてもらうことになった。最終的な承認を部長にもらえば良い書類は俺に回し、その中のリサーチ業務は若手と分担する。そんな流れを組み立て、二科の業務は前任者時代のように全体で管理する仕組みに戻っていった。

すみません、竹中さん。来週の相談なんですが、相手側の資料と見積もりの作成をお願いできますか。

ああ、そんなことでしたら。

すみません。本来は私もやらないといけないんですが。

そんなことはないですよ。部長は会議も重なってますからね。

そうなんです。すみません。しばらく手を貸してください。

松本部長が俺や誰かに仕事を頼む時は、やはり丁寧さが基本だった。どこか気兼ねしているように、書類やデータを入れたUSBを差し出す。こちらが受け取れば、また頭を下げる。そんな部長の様子に、誰もがあの人が本当に伝説の営業マンなのかと首をかしげていた。得意先を訪問すれば、お茶をすするのも申し訳なさそうにしていると驚かれていた。営業成績がいい人にありがちな自信満々で自分が目立っている自覚たっぷりな感じが一切ない。いい人がトップセールスになれるなんてあるんですね。後輩たちは、自分たちの体験や先輩たちの昔話を信じて、異形のトップセールスである松本部長の人間性を飲み込めずにいた。

俺は後輩の言葉に引っかかることもなく、部長の性格はそういうものなのだろうと思っていた。いろんな巡り合わせがあって、部長は伝説のトップセールスになったのだ。そう思いながら、俺は部長から振られる仕事をこなしていた。

しかし、日に日に雲行きがおかしくなっていったのは、いつ頃だったのか。

あれだけ公正な人物だったはずの松本部長が、徐々に変化の兆しを見せるようになったのだ。

竹中さん、これいいですか。

いつものように俺に書類を差し出した部長だったが、その声掛けは素っ気なかった。そして、手渡そうとした書類を投げるようにこちらに寄越した。

急ぎなんで、とにかく早く。できたら明日の十三時まで。もし無理なら残業して、何が何でも早く完璧に仕上げて。

はい。部長は俺と目も合わせず、仕事の指示も早口で立てるようになった。俺が書類を受け取るのも確認せず、俺の返事も聞いたのか定かではないまま、別の社員に次の指示を飛ばす。その指示出しも、人を苛立たせるものだった。

それから部長の変化は顕著になり、何もかもを投げ出すようになっていった。数分で済むような仕事ですら、俺か誰かに振り分ける。それが自分が納得するタイミングで終わっていなければ、露骨に機嫌を損ねた。

ある時、俺は自分の業務で忙しくなり、部長の頼みを断ったことがあった。俺に断られると、松本部長は小さく舌打ちをして怒りを露にした。

ちょっと、あなた自分の立場を分かってないんですか?

あの、ええ。

あなたは万年平で、使い勝手の良さが取り柄なんですよ。

ああ、はあ。そうかもしれませんね。

そんなあなたを使ってやろうというのに、その気持ちが分からないだなんてね。

部長は俺に当てこすりのようなセリフを吐くと、もういいと言って書類を手にフロアを出ていってしまった。そんな部長の姿を、俺も含めた二科の全員が呆然と見送った。ありえないことが起きたと全員が感じていたが、それは紛れもない現実だった。そしてそれから部長は、これまでが嘘のように人が変わった。

平が何の自覚もなく自分の仕事がどうとか言い出したら終わりです。平はただひたすら目の前の仕事に食らいつけばいいのに。

最初に仕事への協力を申し出て、一般社員の中では一番の年長である俺への当たりを強くする。松本部長は俺への嫌味を日常業務に取り入れ、俺への独り言を日課にするようになった。

これ、ファイルにまとめてください。

これは経理に出した書類と、添付した領収書類のコピーですよ。

平のあなたには、こういうことも全部やってもらわないと。

ああ、でしたら俺を見て。

そんな贅沢言わないでください。あなたは黙って雑用と、人がやりたがらないことをやるべきだ。そのために万年平社員を引き受けたんでしょう。

部長は断るごとに、俺を平社員とバカにして笑った。本来は別に回しても構わない業務も俺に投げ、文句を言わずにやれと背中を叩く。仕事と言われたらやるしかない。俺はとりあえず黙々と頼まれ事を片付けた。本来の自分の業務と並行させながら、残業も使って仕事を済ませる。

そんなことをしているうちに、車内では松本部長の別の一面について噂が広まっていた。

松本君は、取り憑かれやすいらしいね。

かつて仕事をしたことがある上司の一人が、松本部長の知られざる一面について語っていた。

調子が良くなる。立場と運に恵まれると、それに飲み込まれて人が変わるみたいなんだ。店舗時代に図に乗るのがあってね。それで横柄になって、顧客からクレームをもらったりもしたみたいなんだよ。

松本部長は性格は確かにいいが、周りと自分を取り巻く状況に飲み込まれてしまいがち。伝説の営業マン時代の部長には、そんな裏の評判が付きまとっていた。上司が言うには、注意をすれば治る癖だからここまで表に出てこなかったそうだ。俺は上司からの申し出を曖昧に笑ってごまかした。今まさに営業二科の空気がおかしくなっている。上司に言いたくなる気持ちを抑え込み、俺は松本部長の裏の評判を受け止めるに留めていた。

今となってみれば、このタイミングで松本部長の営業二科での有り様を報告すべきだったのだ。だが、俺は日々の忙しさに追われ、それを見送り、部長の暴挙を許すだけになった。部長の就任から半年経つ頃には、部長は俺に単なる自分の用事まで言いつけるようになっていた。

竹中さん、コーヒー買ってきてください。

ある日、俺はコーヒーのお使いを頼まれた。缶コーヒーでもペットボトルのコーヒーでもない、カップのコーヒーが飲みたい。気分転換がてら、車内で買ったものではないコーヒーを飲みたい。そう言われた俺は、呆れながらも自分の予定があるからと断った。

部長、これから商談の準備をしないといけないんです。それに、そのまま出ないと時間に間に合わないもので。

俺は自分のスケジュールを優先して部長の頼みを断った。それに合わせて、部長に忠告もした。俺の代わりに誰かを走らせることもせず、コーヒーが飲みたいのなら自分で出かけるべきだと。すると俺の反論に、部長が口を曲げた。

あのね、竹中さん。私はあなたに仕事を恵んでるんだ。平が、部長のために働けるようにね。

いつもの部長の俺への嫌味。「平」を強調した物言いに、俺ももう何も反応ができなくなっていた。暇さえあればバカにされて、真に受けるのも馬鹿らしい。俺はそんな気分で部長の嫌味を聞き流した。

まだ時間あるでしょう。だったら、コーヒーぐらい買ってきなさいよ。

下がり顔で笑う部長に立ち上がらされた俺は、黙ってフロアを出た。そのまま無心で会社を出て、一番近くのコンビニに向かう。俺は機械的にコンビニのカップコーヒーを買い、会社に戻り部長のデスクにカップを置いた。

え、コンビニのやつ?

カップにプリントされたコンビニのロゴを指した部長が、顔を歪めた。

私はね、カフェで入れてもらったコーヒーが飲みたいんだよ。陳腐なコンビニコーヒーじゃなくて、ちゃんとしたカフェのコーヒー。

ああ、そうでしたか。ですが、もう時間がないもので。

平のくせに、時間がどうのと言うなんてね。あなたの時間なんて、大したもんじゃないよ。

俺の言葉に部長が食ってかかり、顔を赤くして怒る。普通は上司のために、少しでもいいものを用意するものだろう。部長の怒りは、どこか幼稚で浅はかだった。目先のどうでもいいことと、自分のプライドのために怒っているらしいが、そのプライドも随分と小さく分かりづらい。俺はやり合うことを避け、部長とのそれ以上の対決から逃れた。商談を理由に会社を飛び出し、そのまま自分の予定を消化する。この日、俺と部長は互いのスケジュールの違いで行き違いになり、コーヒーの騒ぎからそのまま顔を合わせずに帰宅していた。

翌日から俺と部長は冷戦状態になり、口も最低限しか効かない状態に陥った。それがしばらく続き、これからどうすべきなのか悩んでいたさなか、恒例の俺の祖母が亡くなった。百歳を目前にして、入居していた介護施設で亡くなった。通夜と告別式の日程が決まる。俺は祖母に可愛がられた最初の孫として、通夜と告別式の参列を望んだ。

俺は休暇の申請書を手に、部長の前に歩み出た。

部長、休暇の申請をさせてください。先日、祖母が亡くなりまして。孫として、両親の手伝いのために通夜と告別式の日に休みをいただけますでしょうか。

丁寧に正直に理由を述べ、頼みを聞いてもらうべく頭を下げる。すると部長は申請書を手に取ると、面倒くさそうにため息をついた。俺の顔をじっくりと見ると、小さく笑って書類をデスクに投げ捨てた。

おばあさんが亡くなったなんて。大人が休む理由としては弱いですね。奥さんとかお子さんが亡くなるならともかく。祖父母の死は、社会人にとって小さなことですよ。

部長はそう言うと、俺が出した申請書を俺に突き返した。

こんなもの出す暇があるなら、仕事を片付けてください。

すみません。今回ばかりはそうはいきません。休暇を認めていただかないと困ります。

俺が申請書の受け取りを求めると、引かない部長と押し問答になってしまった。

私は別に何も困りませんよ。

あの、真面目に聞いていただけませんか?

真面目に聞いて、そう答えてるんです。

書類は霧の中に浮いたようなもので、そのままでいれば俺の休暇は曖昧にされる。そんな危機感を抱いた俺は、休暇の申請を押し通すと決めた。

とにかく、私は申請を出しました。申し訳ありませんが、引っ込めるわけにはいきません。受け取ってもらえますか。

俺は部長のデスクに休暇の申請書を置いたままにして、その日の業務についた。そして休暇を申請した当日から、その内容の通りに休み、家族のために動いた。頭の中では、休暇が会社内で通されていないだろうことも覚悟しながらの時間だった。現実を思えば怖かったが、祖母を見送ることの方が俺にとっては大事だった。

事態が動いたのは、通夜を終えて告別式に向かおうとしている時だった。俺の携帯に、松本部長から怒涛の着信が入ったのだ。電話を取ると、激昂した部長がこちらに向かって怒鳴ってきた。

竹中さん、勝手に休んで何をしてるんだ?私は認めた覚えはないぞ。

周りにその声が聞こえてはならないと、俺は人の輪から離れ、静かな場所に落ち着いて冷静に部長に答えた。

部長、私はしっかりと休暇の申請をしています。書類はあなたのデスクに置いてきているじゃないですか。

だから、勝手に置いていっただけだ。強引に押し通したことは謝罪します。申し訳ありませんでした。ですが、今回の休暇は問題なく受け入れられるものだと思いますが。

俺は顔を突き通す形になった休暇の申請について、部長に詫びた。そして同時に、改めて休暇を認めてもらえるように頼んだ。しかし俺の思いは部長に通じず、部長は俺を笑い飛ばした。

ああ、分かったよ。もういいさ。永久に休め。ババアが亡くなったからって休むような無能者は、もう会社にいらない。

部長、それはいくらなんでも。

いいんだ。私にとってはそういうことだから。

部長の言い方に、怒りを通り越して呆れてしまう。そんな俺を嘲笑うように、部長はコーヒーの一件を蒸し返した。

私はね、上司にコンビニコーヒーを買ってくるような、そんな気のない部下もいらないんですよ。もっと言うと、木偶人形が欲しいんだ。

部長はそのまま俺の処分を口にした。

無断欠勤扱いにして、総務を通じて上層部に解雇も含めた処分を検討してもらいます。これまでの私への反抗も、付け加えようかな。それと無断欠勤の話を合わせれば、首にできなくもないでしょうね。

高笑いを響かせる部長に、俺は恐怖を感じていた。調子に乗る癖があるとしても、ここまで来るとさすがに異常だ。こんな上司と真面目に向き合う必要が、部下の自分にあるのかどうか。部長の笑い声を聞きながら、俺はふと湧いた疑問に答えを出した。

自分が首になるのなら、それはもう仕方ない。妻には謝り、最善を尽くそう。そこまで決めて、俺は部長の笑い声を断ち切った。

私を処分、首も含めての可能性だそうですが、そうなると会社が潰れるかもしれませんね。それでもよろしいですか?

割れながら大口を叩いたものだと思う。それでもこの時の俺には、それだけを言える余裕と、部長への意地があった。

何を寝ぼけたことを。

部長は俺の言葉に吐き捨てるように言うと、勝手に電話を切った。切れた電話を片手に、俺は先々を考え小さく震える。しかし、もうこうなってしまえば出たとこ勝負だ。俺はひとまず、祖母との最後の別れに向かうべく気持ちを切り替えていた。

翌日も俺の休暇は続いていた。家族と祖母の遺品を整理し、相続の話や今後の段取りを様々な人たちと話し合う。午後が近づいた頃、俺の携帯が鳴り、話し合いが一時中断した。電話の相手は松本部長で、俺が電話に出ると、部長は慌てながらある話をまくし立てた。

トータル百億の商談がパーになった。しかも、それがあなたの仕業だと。一体どうなってるんですか?

部長の絶望の叫びが電話口で響く。なぜあなたがキーマンなんですか?

部長に重要なキーマンと名指しされ、百億という数字を聞いて、俺は一人頷いた。部長が言うトータル百億の商談というのは、俺が祖母からの縁で取りまとめた一件だった。

そのことでしたら。

俺は一息つき、焦る部長をなだめるように説明した。先方の社長さんは、私の祖母の昔の教え子なんですよ。祖母は長年、小学校の教師をしていたものですから。社長さんは特に祖母を慕ってくれていた方で、つい最近、俺を担当にして超大型契約を結んでくれた。地元を代表する有名企業の社長は、かつて俺の祖母が教師をしていた時代の教え子の一人。祖母への恩を忘れず、大人になってからも礼を尽くしてくれていた。孫である俺を気遣ってくれたのもその一環で、社長は折に触れて、俺に車両の購入を相談してくれていた。今回の契約は、会社グループ全体の車両の入れ替えが目的だ。トラックも含め、今後のメンテナンスや車検の全てを、半永久的に弊社が引き受けるというのも含まれている。地元企業の社長は、会社の創立八十周年の節目として、俺に大型契約を持ち込んでくれていたのだ。車両の総額やメンテナンスと修理で予想される金額をまとめると、部長が叫んだ百億ほどになる。会社にとって、そして営業二科にとって類を見ない、前代未聞の契約だ。

そんなことは知らなかった。

そうでしょうか。部長が挨拶周りで訪問した中には、先方の社長の会社もあったはずですが。

俺の説明を黙って聞き、最後に力なく呟いた部長に、俺は落ち着いて指摘した。おそらく部長が忘れただけで、二科の重要な顧客として、俺の祖母を慕っていた社長が紹介されていたはずだ。申し訳ありませんが、私から社長に、昨日のことについて話をしてあります。黙っていては失礼かと思いまして。

地元企業の社長は、祖母の通夜と告別式に参列してくれた。俺は挨拶をして、その流れで自分の身の上について社長に打ち明けていた。自分の上司と諍いになり、自分の立場が危なくなったこと。もしかしたら会社から解雇され、社長と締結した契約を誰かが引き継ぐ可能性があること。部長との遺恨について尋ねられた俺は、正直に全てを洗いざらい話していた。俺がそんな風に漏らすと、社長は俯き、拳を握っていた。今回の契約は、祖母と俺と社長の縁があってのことだから。それで思うところがあったんだろう。俺が訳を話した後のことは想像するしかない。だが、今の状況を考えれば、社長が怒りを覚えて契約を白紙にすると申し出たのだろうことは間違いない。だから今になって、部長が慌てふためき、怒りを俺にぶつけたのだ。

だったら、だったら会社に戻りなさい。今すぐにでも戻れば、今回の休みも不問にします。そのぐらい考えてやってもいいですから。

でしたら、明後日に出社します。明日はまだ話し合いがありますので。

待て。それじゃあ遅い。

すみませんが、私が申請したのは明日までの休みですので。

俺を説得しようとする部長を振り切った俺は電話を切り、親族との話し合いの席に戻った。仕事は気がかりだが、俺はさほど重要なことだとは考えていなかった。翌日の俺は話し合いに集中し、祖母の遺品を片付けることに専念した。その合間に、次の日に会社で何をすべきか頭の中を整理して備える。

部長との約束通り、電話から二日後に出社した俺は、営業二科には行かず、営業部を束ねる本部長のデスクに向かった。

本部長、辞表を受け取っていただけますでしょうか。

本部長に辞表を渡し、提出した理由を話す。本部長は静かに俺の話を聞くと、辞表を受け取ってくれた。俺はその後、二科に顔を出して荷物をまとめた。今後のことは追々考えるつもりで、ただ無心に荷物を箱に詰めた。

ちょっと、あなた勝手に何してるんですか?

デスクを整理する俺を見つけた松本部長が、俺に駆け寄ってくる。

勝手にと言われても、処分される前に辞表を出しただけですが。

俺は部長に会社を辞めることを告げた。特に恨みつらみは言わず、辞表を出しただけだと言った。

だから、それはどうして。

部長は休暇の件はなかったことにする、今回の騒ぎはただの言葉の行き違いなだけだと、焦りながら俺を引き止めようとした。俺と部長は、辞める辞めさせないの問答を繰り広げ、俺の作業の手が止まる。するとそこに、営業本部長が姿を現した。

少しいいか?竹中君の辞表だが、私から言いたいことがあるんだ。

本部長は俺と松本部長の間に入ると、松本部長に体を向けた。

さっき竹中君から、営業二科の最近の事情を聞かされた。私も気づかずに申し訳なかったが、まずは松本部長に言っておきたい。

本部長の顔は険しく、口調も厳しかった。

松本部長、あなたがしたことはハラスメントにあたる。部下を嘲笑し、休暇の申請を認めない。握り潰そうとしたのもそうだ。それから、日頃の行動と言動。全て。それは立派なハラスメントだ。

それは待ってください。私にも事情が。

本部長に見捨てられそうになり、松本部長が食い下がる。自分の言い分を聞いてほしいと頼み、事情があるのだと本部長にすがりついた。

お願いします。説明をさせてもらえたら、誤解は解けるんです。

誤解も何も、まずは反省と説明をしてもらいたいんだがね。

本部長は松本部長を振り切り、一言だけ処分を受けてもらうと告げた。そして本部長は俺に軽く頭を下げると、そのままどこかへ去った。その後、会社内で松本部長に対する調査が速やかに開始された。部長は連日、車内のどこかに呼び出され、聞き取りを受ける。営業二科や他の人間にも声がかかり、聞き取り調査は時間をかけて進められた。俺も協力して、洗いざらい改めて一から全てを説明した。

その結果、松本部長は役職を剥奪され、平社員に降格となった。それに合わせて、一年間の減給も言い渡されたらしい。そしてこの騒動で部長不在になってしまった営業二科。そこを束ねる新部長の役目を任されたのは、誰であろう俺だった。営業本部長に指名され、急遽俺が部長として営業二科を指揮することとなったのだ。

忙しく始まった新生活は、周囲の力添えがあってどうにか軌道に乗った。しかし部長職は想像よりもやることが多く、営業マン時代にはない気苦労も付きまとった。なんとか一年乗り切る頃には、少しは白髪が増えた自分がいるという有様だった。

そんな中、仕事納めの後の忘年会で、思わぬことが起きた。

竹中さん、その時は本当にすみませんでした。私も、なんと取り返しのつかないことをしてしまったのか、申し訳ありませんでした。

少し酔った松本さんが、俺への行いを詫びたのだ。無能な社員として営業二科で俺の部下になった松本元部長。松本さんは一年間、大人しくひたすら働いていた。部長時代の振る舞いが嘘のように、憑き物が取れたかのように無心で働く松本さん。その様子に営業二科と車内の人は驚かされていたが、俺も例外ではなかった。

私は、自分の性格のダメな部分を自覚していたんです。でも、部長になって気が大きくなって、ストレスを感じたら変わってしまった。

それは分かりますよ。管理職は大変ですからね。

ほんの一年前の己を振り返り、俯く松本さんに俺は同調した。自分が管理職になって分かったストレスと仕事の重圧。時に何かガス抜きをしなくては、自分が潰されてしまう。今更何か言っても、言い訳にしかなりませんね。

いや、それが分かっただけでもいいんじゃないでしょうか。これからは、間違わないようにすればいいんですから。

俺は松本さんの謝罪と反省を受け入れ、過去を水に流そうと握手の手を差し出した。酔っているのだと感じたが、それはそれでいいのだろうとも思っていた。

部長、これからもよろしくお願いします。

松本さんが握手に応じ、これで全てが手打ちになった。今は上司と部下として、俺は松本さんと切磋琢磨している。過去は挟まず、純粋な仕事仲間として向き合う。それを心に決めて、俺は会社のために今日も誠心誠意尽くしている。

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