「中卒に給与を払う価値なんてない。来週好きで首だ」
裏神専務が履歴書を机に叩きつけ、冷たい声を響かせた。十八年間働き続けてきた俺の経歴は、学歴の欄だけで切り捨てられたのだ。
しかし俺は静かに息を整えた。裏神専務はまだ知らない。一週間後の記者会見で、自分の運命が終わることを。
俺の名前は岩森直。五十五歳。精密機械の制御装置を作る中堅メーカー、生和コントロール工業で技術部の主任として働いている。
中学を卒業した直後、父の会社が倒産した。父は借金を残して姿を消し、残されたのは疲れ切った母と、まだ小学生だった妹だけだった。高校進学を諦めた俺は、町場で昼夜問わず働きながら、独学で機械制御や回路設計を学んでいった。
参考書を買う金もなかったから、図書館で古い専門書を借り、油と鉄粉にまみれた手でページをめくる日々。二十代半ばで、振動制御を得意とする小さなベンチャー企業から声がかかった。
社員数名のその会社で、俺は初めて自ら中心となって制御アルゴリズムを構築した。しかし数年後、そのベンチャーは事業整理で解散することになった。
片付け作業の最中、創業者が分厚い封筒を差し出してきた。
「岩森の開発したアルゴリズムはこの会社の看板だった。事業は畳むが、技術まで捨てるつもりはない。これはお前の発明だ。個人として持っていけ」
封筒の中には、特許権を俺個人に無償で譲渡する正式な契約書が入っていた。
その後入社したのが、現在の生和コントロール工業だ。俺はベンチャー時代に開発した振動制御アルゴリズムを基礎に、新しい制御ユニットの開発を提案した。
当時まだ現役だった霧島相談役が、じっと図面と計算書を見つめた後、ゆっくりと頷いた。
「数字は嘘をつかん。君の覚悟も本物だ。やってみろ」
その一言でプロジェクトは動き出し、数年後、俺たちの制御ユニットは同社の主力製品となった。
そして俺の特許を会社が使えるよう、俺と会社の間で契約を結んだ。いわゆる実施許諾契約だ。
契約には条件があった。俺が技術監修を続けること。もしこの条件が守られなければ、会社は特許を使用できなくなる。さらに特許に関わる製品を公式発表する際には、発明者である俺に技術的な説明を行う機会を与えることも契約に含まれていた。
これは俺の要求ではなく、霧島相談役が「技術者の権利は守らねばならん」と強く主張して盛り込んだ条項である。霧島相談役はいつもこう言っていた。
「技術の前では学歴は飾りに過ぎん。機械を動かすのは君の腕だけだ」
その言葉に支えられ、俺はこの会社で十八年間、現場に立ち続けてきた。
空気が変わったのは、裏神専務が本社にやって来た日のことだ。
生和コントロール工業はここ数年、競争環境の変化もあって業績が頭打ちになっていた。銀行からは業績改善計画の提出を求められ、鬼塚社長は頭を抱えている。そこへ改革派の切り札として招かれたのが、新入りの裏神専務だった。
最初に見た裏神専務の印象は、正直良いものではなかった。高そうなスーツに派手な腕時計、白い歯を見せて笑うが、その笑顔には温かさがない。前職は外資系コンサルティング会社で、短期的に目覚ましい利益改善を達成したという実績が売りらしい。
鬼塚社長はその華やかな経歴だけを見て、詳しい経緯を調べることなく採用を決めたようだった。
裏神専務は着任早々、会議室に幹部と各部署の代表を集めてこう言った。
「銀行からの改善要求は待ったなしだ。この会社はぬるま湯に浸かりすぎている。俺が来たからには、徹底的に変えてやる」
会議室の空気が凍りつく。裏神専務は数字のグラフを次々と映し出しながら、人件費比率や生産性、不要工程といった言葉を連発した。その中に、俺の監修工程を示す項目がはっきりと赤い印で囲まれている。
「ここ、技術部の監修工程。これは完全に属人化だ。しかも担当者は中卒の中年技術者。こんなものは現場の自己満足でしかない」
俺は言葉を失った。しかし隣に座っていた風が小さく咳払いをしてから口を開いた。
「専務、岩森さんの監修工程は振動制御の微調整に必要不可欠です。これを抜くと、機械によっては仕様通りの精度が出ません」
裏神専務は鼻で笑った。
「そんなのはお前たちがそう思い込んでいるだけだ。今時は安くて便利な解析システムが山ほどある。人に頼る時代は終わりなんだよ」
情報システム部の指導も、静かな声で言葉を添えた。
「専務が候補に挙げている代替システムを試験的に動かしてみました。しかし振動ログの解析精度が既存のシステムに及ばず、安全認証試験の基準を満たせない可能性があります」
裏神専務は手を振り下ろすようにして、冷たく言い放った。
「専門用語を並べて抵抗しても無駄だ。現場は黙って結果だけ出せ。方針は決まった。コスト最優先だ。以上」
会議が終わった後、風が俺のデスクに近づいてきた。
「岩森さん、専務は特許のこと理解してるんでしょうか?」
「引き継ぎ資料には書いてある」
指導が静かに言った。
「昨日、専務に確認したんです。特許が個人だって。ああ、知ってる。実施許諾契約があるから会社は使える。問題ないだろうと言われました」
「契約書の中身は読んでいないようです。契約があれば使える。それだけだろうと」
風が不安そうに続けた。
「専務、技術監修が契約の条件になってること、分かってないんじゃ」
俺は小さく息をついた。
「分かってないだろうな。あの男にとって契約書は、使えるか使えないかだけだ。監修が使用条件だなんて、読み飛ばしているはずだ」
その予感は的中していた。裏神専務は技術監修が条件だということを全く理解しないまま、俺の排除を進めていく。
それからの日々は、じわじわとした圧迫の連続だった。俺の監修工程は「試験的削減」と称して一部の案件から外され、重要な技術会議からも除外された。裏神専務は銀行への改善計画書の叩き台を作り始めていた。
ある日、風が顔をしかめながら俺のデスクに資料を置いた。
「岩森さん、これ見ましたか?」
渡された資料をめくると、人件費削減計画という項目に「五十代以上の技術者を対象とした早期退職と配置転換案」と書かれている。そして技術監修という項目には俺の名前が記載されているはずだが、不自然に空欄になっていた。
「ここ、最初にパソコンで見た時は岩森さんの名前が入っていました。でも印刷したら空欄になっていて、さっきもう一度データを確認したら消されていたんです」
風の言葉に背筋が冷たくなる。その日の夕方、情報システム部のフロアで指導がパソコンの画面を指差しながら淡々と説明した。
「改善計画書のファイル編集履歴を追いました。名前を削除したのは裏神専務です。深夜に専務室の端末からアクセスした記録があります」
無機質なログの画面に、裏神専務の名前と時刻がはっきりと表示されていた。
それから数日後のことだった。「内部監査」と称して、裏神専務が技術部に乗り込んできた。俺は会議室に呼び出された。机の上には俺の履歴書と人事ファイルが並べられている。裏神専務は書類を指先でかじきながら薄く笑った。
「十八年、長くいたものだな。だが残念だが時代が変わった」
裏神専務は履歴書の学歴の欄をわざとらしく指で叩いた。
「中卒に給与を払う価値なんてない。来週好きで首だ。岩森」
喉の奥が熱くなる。母の顔、必死に働いていた若い頃の自分、妹の学費のために夜勤を続けた日々が頭の中を駆け巡った。言い返したい言葉はあった。しかし俺はそれを全て飲み込み、静かに言った。
「そうですか。では、来週の記者会見に備えます」
裏神専務が嫌なにを潜める。
「何を言い出す?お前はもう関係ない人間だ」
俺はそれ以上何も言わず、会議室を後にした。
風と指導が廊下で待っていた。風が慌てたように問いかける。
「岩森さん、本当に首なんですか?」
「来週好きで首だそうだ」
「ふざけています。何か手を打ちましょう」
俺は小さく笑った。
「打つ手はもう、だいぶ前から準備してある。ただ、一週間で証拠を固める必要がある」
指導がいつもの無表情に、ほんの少しだけ色を浮かべた。
「ログも編集履歴もすでに揃えています。ただ、これを正式な証拠として使うには、適切な手続きが必要です」
「俺が霧島相談役に話してみる」
翌日、俺は霧島相談役の自宅を訪ねた。奥に通されると、霧島相談役は静かに湯呑みを置いた。
「裏神に裏切られたそうだな」
「ご存知でしたか?」
「社内のことは大体耳に入る。あの男は技術を軽んじ、人を数字としてしか見ない。あのままでは会社は壊れる」
霧島相談役は静かに続けた。
「来週、銀行への改善計画の会見がある。あそこが最後のチャンスだ」
「最後のチャンスですか?」
「ああ、君には会見で技術説明をする契約上の権利がある。その権利を使え」
俺は頷いた。
「指導が集めた証拠を正式なものにする必要があります」
「分かっている。私が正式な内部調査を指示したという形にする。報告管理上の不審なアクセスがあったという報告を受け、相談役として調査を命じた。これなら証拠として使える」
その日から、俺たちは一週間静かに準備を進めた。指導は霧島相談役の正式な指示書を受け取り、改めてシステムログと編集履歴を調査する。風は代替システムの試験データを整理し、振動解析の問題点を分かりやすくまとめた。俺自身は特許権の契約書と、これまでの技術資料を丁寧に準備していく。
そして運命の日が来た。
生和コントロール工業の会議室は記者で埋め尽くされていた。銀行からの要請を受けた、業績改善計画の正式発表会見。メインバンクの担当者も最前列に座り、厳しい表情で資料を見つめていた。
控え室で裏神専務が進行表を確認しながら満足げに頷いた。
「今日は俺の晴れ舞台だ。この改善計画で銀行も納得するでしょう」
隣では鬼塚社長も自信ありげな表情を浮かべている。
会見が始まり、鬼塚社長が無難な挨拶を終えると、裏神専務がマイクの前に進んだ。
「今回の改善計画は、私が主導して進めてまいりました。人件費の最適化と工程の簡素化により、当社の利益率は今期中に五ポイント改善する見込みです。すでに新しい解析システムの導入も決定しており、効果は確実です」
メインバンクの担当者が頷きながらメモを取る。自信満々の声がスピーカーから響く。
「次に、製品の技術詳細については……」
裏神専務が次のスライドに進もうとした瞬間、霧島相談役が立ち上がった。
「技術説明は、特許権者である岩森から行わせていただく。契約第七条、技術発表における発明者の権利に基づく」
会場がざわめく。裏神専務が顔色を変えていった。
「ちょ、ちょっと待て。岩森はもう……」
俺はゆっくりと壇上に上がった。
「先日、私は解雇を通告されました。しかし契約上の権利は消えません。では、この改善計画の技術的な真実をお話しさせていただきます」
マイクを握った俺の手は、不思議なほど震えていなかった。スクリーンに一枚の資料が映し出される。それは俺が若い頃に所属していたベンチャー企業からの、特許譲渡契約書だった。
「この制御ユニットの心臓部である振動アルゴリズム。その特許権は私個人に帰属しています。会社は実施許諾契約に基づき使用してきました」
ざわめきが会場を走る。
「契約書には、私が技術監修を続けることが特許の使用条件として明記されています。この条件が満たされなければ、会社は特許を使用できません。つまり、製品の認証や保守ができなくなるのです」
裏神専務の顔から見る見る血の気が引いていく。
「か、監修が条件?そんな実施許諾契約があれば、会社は使えるはずだ」
俺は静かに答えた。
「使えます。ただし、契約条件を守ればの話です。私が技術監修を続けられる状態であれば、です」
「そ、そんな条件、聞いていない」
「引き継ぎ資料の八ページ目に要約があります。契約書の原本も法務部に保管されていますよ。裏神専務が読んでいれば、ですが」
裏神専務は言葉につまる。
「だが、実施許諾契約なんだから、会社が自由に……」
霧島相談役が重々しく言った。
「実施許諾契約は、使わせてもらっている契約だ。権利者の条件を守らねば使えなくなる。契約の基本中の基本だぞ、専務」
会場がざわめく。裏神専務は汗を拭いながらさらに反論しようとした。
「だが契約さえあれば、会社は自由に使えるだろう。細かい条件なんて……」
俺は静かに言った。
「重要な契約条件を確認せずに私を排除しようとした。これは単なる人事の問題ではなく、経営判断として致命的なミスです」
さらにスクリーンには、代替システムの試験結果が映し出された。風が前に出て、緊張した面持ちでマイクを握る。
「専務が導入を決定した安価な解析システムを使った場合の振動波形です。仕様書通りの負荷をかけると、このようにピークが乱れます。この状態で出荷すれば、現場の設備は半年と持たずに故障するでしょう」
裏神専務が必死に反論する。
「ま、まだ試験段階だ。本格導入前に改善できる」
風が首を振った。
「いえ、改善計画書には新しい解析システム導入によるコスト削減効果が確定事項として数値が入っています。『すでに決定しており、効果は確実』と先ほどご自身がおっしゃいました」
続いて指導が、落ち着いた声で説明を引き継いだ。
「ログの解析精度が十分でないため、異常を判断する基準が曖昧です。安全認証試験に提出すれば、一発で不合格です。なお、これらのデータは霧島相談役の正式な指示による内部調査で収集されたものです」
記者たちの視線が一斉に裏神専務に向く。裏神専務は汗を拭いながら、今度は俺を指さした。
「これは個人的な恨みだろ。首にされたからって、会社を人質に取るつもりか?」
俺は静かに答えた。
「私は契約通りに監修を続けたかっただけです。首にしたのはあなたです。そして技術的な問題を指摘するのは、技術者として当然の責任です」
「だが、会社は俺の計画で生まれ変わる。古い技術者に縛られる必要はない」
「古いのは技術者ではなく、あなたの考え方です」
俺は別の資料を映し出した。
「改善計画書の下書きには私の名前が記載されていました。しかしその後、意図的に私の名前が削除されています」
指導が編集履歴の画面を表示した。
「社内サーバーと計画書ファイルへのアクセスログです。深夜に専務室の端末から、岩森さんの名前を削除する操作が行われています。こちらも霧島相談役の指示による正式な内部調査の結果です」
スクリーンに映る日時と端末名、操作内容。数字と文字の列は裏神専務の行動を示していた。
霧島相談役が最後の資料を映し出した。会場が静まり返る。霧島相談役はゆっくりと口を開いた。
「私は会社のメンツではなく、会社の技術と社員の生活を守るためにここに立っている。隠して済む段階はもう過ぎた」
スクリーンに並んだのはメールの画面だった。送信者は鬼塚社長。宛先は裏神専務。本文にはっきりとこう記されている。
「学歴フィルターで現場を入れ替えたい。中卒・高卒は人員整理しろ。会見は君の手柄として発表しよう」
一瞬、時間が止まったように感じた。
次の瞬間、会場は大きなどよめきに包まれる。記者たちが一斉にペンを走らせ、フラッシュが光った。
裏神専務は椅子から立ち上がり、鬼塚社長を指した。
「社長がやれと言ったんだ。私は指示に従っただけだ」
鬼塚社長も慌てて立ち上がり、声を荒げる。
「ば、バカな。あのメールは一部の表現が行きすぎただけで、具体的な指示では……」
「行きすぎは指示じゃないんですか?」
責任をなすりつけ合う二人の姿を見ながら、俺は胸の奥にあった長年のかたまりが、少しずつ溶けていくのを感じていた。
俺はゆっくりとマイクを手に取った。会場は自然と静まる。
「技術を軽んじ、学歴だけで人を切り捨てようとした結果が、今のこの状態です。『中卒に価値はない』と言われました。しかし価値がなかったのは私ではなく、あなたたちの考え方だったようですね」
自分の声が不思議なほど落ち着いていることに気づきながら、俺は二人を見据えた。
霧島相談役がゆっくりと立ち上がり、最後の言葉を告げる。
「この件は臨時取締役会で厳正に審議する。現場を踏みにじり、技術を軽んじ、社員を数字としてしか見なかった者に、生和コントロール工業の看板を名乗る資格はない」
その宣言が終わると同時に、会場のあちこちから記者の質問が飛び交い始めた。フラッシュの光の中で、裏神専務も鬼塚社長も、次第に小さな存在に見えていく。
数週間後、社内には正式な通達が回った。裏神専務は解任。鬼塚社長は責任を取って辞任。霧島相談役が暫定的に会社の指揮を取ることになった。指導は情報管理とコンプライアンス強化の中心メンバーに。風は品質管理部の主任に昇格した。
その後、裏神は業界で「記者会見の人」として知られるようになった。外資系コンサル出身という肩書きは、口だけの無能の証明となり、まともな企業からは相手にされなくなった。風が業界の知人から聞いた話では、派手だった腕時計は質に入れ、安いアパートで一人暮らしをしているという。鬼塚も地方に引っ込んだが、事態はさらに悪化した。会社での不祥事が報道されると家族からも愛想を尽かされ、離婚を言い渡される。元社長という肩書きは重荷となり、地元でも後ろ指を刺される日々が続いているそうだ。
一方、俺は技術監修の責任者という肩書きを正式に与えられ、制御ユニットの次世代モデルの開発に取り組んでいた。隣の部屋から聞こえてくる若い技術者たちの「岩森さんみたいになりたい」という声に、照れくささと責任の重さを感じる。
機械のカバーに手を置きながら、俺は微笑む。技術は次の世代へと受け継がれていく。


