「ちょっと、あなた、なんて顔してるの?それが上司の話を聞く態度かしら?そんなこともわからないなんて、頭おかしいんじゃない?」
上白石はさらに続けた。
「あなた、確かも瀬君よね。話は聞いてるわ。今時、中卒なんて珍しいもの。っていうか、中卒のくせに生意気なんだけど。これはお仕置きが必要ね。左遷か、懲戒解雇か、好きな方を選びなさい。」
俺は毅然とした態度で言い放った。
「私は左遷も懲戒も望みません。」
そして、これ以上この女と話しても無駄だと判断した俺は、こう言った。
「では、退職で。それで上白石さんの気が済むのであれば、私はこの会社を辞めましょう。」
俺はすぐさまデスク周りの荷物をまとめると、足早にオフィスから出て行った。
俺の名前はも瀬雪久。今年で三十歳になる、どこにでもいるような普通のサラリーマンだ。子供の頃から文房具が大好きだった。ボールペンに消しゴム、定規まで、あらゆる文房具を集めては、その魅力に胸を躍らせていた。お気に入りの文房具が揃うと、勉強へのやる気も不思議と湧いてくるものだ。文房具に興味のない人間にとってはどうでもいいことかもしれない。だが、少なくとも俺にとって、文房具は人生になくてはならない大切なものだった。
うちはあまり裕福な家庭ではなかったので、文房具を買ってもらえることは滅多になかった。だからこそ、余計にその価値は俺の中で高まっていったのだと思う。中学卒業と共にいくつかの職を経た後、俺は十年前に念願のランダムステーショナリーに入社した。ランダムステーショナリーは、その社名の通り、様々な文房具を製造販売している会社だ。配属されたのは営業部。正直に言えば企画開発部に行きたかったが、文句は言っていられない。俺は毎日与えられた仕事を一生懸命こなしてきた。
今、俺はフレンチ文具との契約締結に向けて必死になっている最中だ。フレンチ文具は文房具の小売店で、日本全国にチェーン展開している業界ナンバーワンの企業である。今回、うちが新しく開発したシャープペンシルをフレンチ文具に取り扱ってもらうために、俺は毎日営業に奔走しているのだ。
そのシャーペンは俺の同僚である企画開発部のメンバーが開発したものだ。新商品の売りは、絶対に芯が折れないということ。他社にも芯の折れにくさを売りにした似たような製品はあるが、うちの新商品はあくまで絶対に芯が折れないのだ。そこが他社との決定的な違いだ。この商品が売れるかどうかは、業界最大手であるフレンチ文具が取り扱ってくれるか否かにかかっていると言っても過言ではない。商談を任された俺は、まさに責任重大だった。何としてでも成功させなければ。
しかし、プレッシャーを感じているからといって肩の力を入れすぎると、空回りしてしまうことがある。緊張感の按配は、営業部の人間にとってとても大事なことだ。それは俺がこの十年間で学んできた経験則である。
そんなある日、営業部の部長である佐々木さんが病気でしばらく休職することが決まった。佐々木さんはいつも部下を気にかけてくれる、頼れる上司だった。こんな人がいなくなるのは営業部だけでなく、ランダムステーショナリー全体にとって大きな痛手である。しかし、病気ならば仕方ない。俺たち営業部の人間は、これまで以上に結束を固めて、フレンチ文具との契約合意に向けて頑張ろうとしていた。
佐々木さんがいなくなってから一週間が経過した頃、彼の代わりに営業部長を新たに務める女がやってきた。それは以前まで企画開発部にいた上白石だった。俺は企画開発部の同僚から上白石の良くない話を聞いていたので、正直どきっとした。そういえば、上白石は前々から営業部への配属を希望していたらしい。今回はその希望が通ってしまったわけだ。
彼女は俺たちに対して、やけに傲慢な口調で自己紹介を始めた。
「この私が営業部にやってきた以上、今までの生ぬるい環境からはおさらばしてもらうわ。そのつもりでいてね。」
この女は何を言っているのだろうか。俺たちの環境が生ぬるいものだったことなど、これまで一度もない。確かに前任の佐々木さんはとても温厚な人だったが、だからといって仕事がいい加減だったわけでは決してない。むしろ、仕事において的確なアドバイスをしてくれるからこそ、俺たち部下は伸び伸びと仕事ができていたのだ。
俺が上白石の言葉に不服そうな表情を浮かべていると、彼女は俺の近くまでコツコツと高いヒールを鳴らしながらやってきた。俺は昔から感情が顔に出やすいタイプだ。そのせいでいらぬ争いに巻き込まれたことも随分とあった。今回もそんな予感がする。そんな俺の直感は、残念ながら的中することになってしまった。
「ちょっと、あなた、なんて顔してるの?それが上司の話を聞く態度かしら?そんなこともわからないなんて、頭おかしいんじゃない?」
そして彼女は、俺が反論する隙も与えずにさらに続けた。
「あなた、確かも瀬君よね。話は聞いてるわ。今時、中卒なんて珍しいもの。っていうか、中卒のくせに生意気なんだけど。これはお仕置きが必要ね。左遷か、懲戒解雇か、好きな方を選びなさい。」
この女は何てことを言っているのだろうか。この程度のことで左遷や懲戒を命じられるなんて、とんでもない話だ。たった今現れたばかりの上司にこんなことを言われるとは。やはり同僚からの上白石についての噂は、何ひとつ間違っていない真実だったのだと、俺はこの時理解した。
こういう、自分が正義だと思い込んでいる相手はかなり厄介なものである。一度攻撃のターゲットを決めたら、その相手が動けなくなるまで追い詰めてくるからだ。そのしつこさをもっと別の方向に活用すればいいのに。こういうことをするような連中は、他人を攻撃することだけに快感を感じるのだろう。まったく、厄介極まりない話である。周りの人間からしてみれば、これほど扱いづらい人間はいない。そして最悪なのは、そういう奴が上司になってしまっているケースだ。今回の状況はまさにそれだった。
まったく、どうして佐々木さんの代わりに選ばれたのが、よりにもよってこんな女だったのだろうか。この人事を決定した経緯に関しては理解に苦しむ。もっと他にまともな人間は社内にいくらでもいるはずなのに、本当に不思議だ。
上白石は俺の学歴をやたら攻撃してくると同時に、自分が有名な私立大学出身であることを自慢してきた。新卒で入ってきたばかりの社員ならともかく、この女はもういい年齢だというのに、未だに出身大学しか誇れるものがないのだろうか。なんとも哀れな女である。しかし、彼女自身はそのことにまったく気がついていないらしい。何度も何度も俺に対して「あなた、中卒なのによくうちの会社に入れたわね。あ、もしかしてコネ入社とか?」と言ってくる。他人を侮辱するのが楽しくて仕方ないという風だ。きっと学生時代からこうして誰かを攻撃し続けてきたのだろう。それを想像するだけで吐き気がしてくる。
こんな女の下で果たして俺は、これから今まで通りの仕事ができるのだろうか。その答えはすぐに出た。断固として、ノーである。こんな理不尽極まりない女の下では、とてもいいパフォーマンスをすることはできない。なぜなら、俺たち部下がすることに対して、彼女はきっと邪魔をしようとするからだ。噂では、上白石は以前在籍していた企画開発部でも、部下の手柄を横取りすることが度々あったらしい。その度に部下は泣き寝入りするしかなかったようだ。上白石は自分さえよければそれでいいという考え方なのだろう。
俺はひとまず状況を整理することにした。彼女の部長就任が決まってしまっている以上、俺にできることは一体何だろうか。俺はその時、あることを思いついた。それしか方法はないと考えたのである。俺は決意の表情で上白石をじっと見つめた。上白石はまたしても「何よ、そんな目で私を見ても。あなた、生意気なんだけど」と俺に言い放った。
こいつは部下が全員自分に服従しなければ気が済まない質らしい。上司と部下というものは、別にどちらが生物として正しいということを表す関係などでは決してない。上司だからといって、部下がその全てに従う必要などありはしないのだ。だが上白石はそんなことなど知らないらしい。というか、例え知っても決して理解しようなどという気持ちには至らないような気がする。こういう人間は絶対に人の上に立ってはならない。そんなことになれば、必ず下の人間が泣きを見るに決まっているからである。
俺は上白石に、毅然とした態度で「私は左遷も懲戒も望みません」ときっぱりと告げた。その言葉を受けて、上白石はますます俺に対して怒りを燃やしている。
「あなた、何様のつもりよ。上司の言うことは絶対でしょ。こんなこと、社会人としての常識でしょう。この私に逆らおうっていうの?あなた、正気?頭、大丈夫?」
と、俺を全否定した。このまま俺が彼女に何か言っても、この平行線が交わることは決してないだろう。まさに馬の耳に念仏である。これ以上上白石と話しても無駄だと判断した俺は、彼女にこう言った。
「では、退職で。それで上白石さんの気が済むのであれば、私はこの会社を辞めましょう。」
そんな俺の言葉を、上白石は全く予期していなかったらしい。まるで鳩が豆鉄砲を食らったかのように、彼女は目を丸くしている。気を取り直した上白石は「そんな、私のせいみたいな言い方、やめて欲しいんだけど。まあ、辞めたいなら勝手に辞めれば」と俺に言った。周りの同僚たちは俺を止めてくれたが、俺の意思は硬かった。俺はすぐさまデスク周りの荷物をまとめた後、足早にオフィスから出て行った。
これから次の職を探さなければ。俺は、歩んできた自分の人生を改めて振り返ってみた。しかし、人生は悪いことばかりではない。俺は前を向いて歩くことに決めた。
その翌日のことである。自宅にいた俺の元に、ある人物から電話がかかってきた。俺はその人から指定された場所へと向かうことにした。その場所とは、ランダムステーショナリーの社長室だった。
部屋に入ると、俺をここに呼んだ当人である現社長の中村さんが、重厚な机の前に腰かけていた。そしてもう一人、社長室のソファーに座っていたのは、上白石だった。俺は中村さんに促されて、上白石の向かい側に腰かける。上白石は随分と不機嫌そうな顔をしていた。そして彼女は中村さんに尋ねた。
「社長、どうして今更、も瀬君をこんなところまで呼んだんですか?彼はもうランダムステーショナリーの人間ではないのよ。」
中村さんは「今日は、そのことで話があるんだ」と話を切り出した。そして上白石にある資料を差し出す。上白石は軽んじた顔をしながらその資料を受け取った。そしてしばらく資料に目を落とした後、彼女は「え、ま、まさか、そんな…」と驚きながら大きな声をあげた。その顔はまさに顔面蒼白といった具合だ。そばから見ている俺にも、彼女の顔から血の気がサーッと引いていくのがわかった。
「この資料は、うちの営業部の売上成績だ。そこに書いてある通り、うちの営業でトップの成績を収めていたのは、何を隠そう、も瀬君なんだよ。」
中村さんはそう告げた。そして、厳格な態度で上白石に続けた。
「君は、そんな優秀なも瀬君を、あろうことか首にしたわけだ。話は営業部の人間からすべて聞いている。上白石君、君はも瀬君を解雇することで、うちの会社を落とし入れたいのかい?」
上白石は大慌てで否定した。
「とんでもない。そんなわけないじゃないですか。私はただ、も瀬君があまりにも不遜な態度を取っていたので注意しただけです。」
さらに上白石は言い訳を続けた。
「それに、私は彼に左遷か懲戒かどちらかを選ぶように言っただけで、この会社を辞めるって言い出したのは、他ならぬも瀬君本人ですし。」
理不尽極まりない人間というものは、上の立場の人に追求されると途端に言い訳を始めるものである。上白石も、ご多分に漏れずその通りだった。中村さんは大きなため息をひとつついた。そして上白石に、呆れた口調で訪ねた。
「社員の処分というものは、いくら直属の上司だからといって、君一人で決めていいものではない。そんなこともわからないのかい?」
上白石は「それは…」と言ったきり、俯いて黙り込んでしまう。都合が悪くなると急に黙り込むなんて、まるでわがままな子供そのものだ。彼女はもう四十八歳だというのに、ここまで幼稚だなんて。どうやら彼女は、ただ年齢を重ねただけで、中身がまるでない人間のようだ。
中村さんは俺に、頭を下げながら言った。
「も瀬君、昨日は彼女が君に随分と暴言を吐いたらしいね。君の同僚たちから報告が上がっているよ。私もトップの人間として謝罪したい。申し訳なかった。」
俺は恐縮して、中村さんを促した。
「そんな、中村さんが悪いわけではありませんから、どうか顔を上げてください。」
そして俺は上白石をじっと見つめた。上白石は、そんな俺の目つきが気に入らなかったらしい。彼女は「何よ、そんな目でこの私を見るなんて。そういうところが生意気だって、昨日も言ったでしょ」と俺に言い放った。すると中村さんは「すぐにやめないか、みっともない」と上白石を注意した。上白石はその言葉を受けて、はっとしてまた俯く。
中村さんは俺に言った。
「も瀬君、君がいなくなることは、うちの会社にとってとんでもない痛手だ。新商品のシャーペンの商談を担っているのも君なのだからね。どうか私の顔に免じて、戻ってきてはくれないだろうか。」
俺はその言葉を聞いて、一つだけ条件を提示することに決めた。それはもちろん、上白石のことである。
「社長からそんなことを言っていただけるなんて光栄です。しかし、私は上白石さんの下で働くことはできません。もちろん、営業部長が別の方に交代するのならば、話は別ですが。」
そんな俺の言葉に、上白石は激昂した。彼女は俺に向かって思いきり怒鳴りつける。
「はあ?あなた、自分が一体何を言っているのか分かっているの?ありえないんだけど。大体、ただの平社員であるあなたなんかに、そんな条件を提示する権利なんてないでしょ。少しは身の程をわきまえなさいよ。」
中村さんは上白石に対して、もう一度苦言を呈した。
「おい、そうやってむやみやたらに怒鳴りつけるのはやめなさい。さっきから何度も言っているのが分からないのか、君は。」
しかし、そんな言葉も、もはや完全に自分自身の怒りに支配されてしまっている上白石には届かなくなっていた。上白石は中村さんの言葉に従わず、しきりに俺に向かって繰り返した。
「ふざけないでよ。せっかく希望してた営業部の、それも部長にやっと慣れたっていうのよ。」
そんなこと、俺の知ったことか。俺は思わずそう言ってしまいそうになったが、そこはぐっと耐えることにした。そんなことを言ったところで、この女の怒りの火に油を注ぐだけである。こういう時ほど冷静さが大事なのだ。
上白石はさらに狂言を始めた。
「も瀬君、私を潰す気?そうよ、きっとそうなのね。」
よくもまあ、そんなことを思いつくものだ。この女の被害妄想は、常人の域をはるかに超えている。その想像力を別の方向に生かすことはできなかったのだろうか。それにしても、言いがかりもいいところだ。大体、こんな女を潰したところで、俺自身には何ひとつメリットはない。そんなこと考えなくても分かることだ。まったく、なんて恐ろしい女だろうか。他人をないがしろにして自分のことしか考えずに生きていると、こんなにとんでもない人間になってしまうようだ。そもそも、彼女のことはもはや人間とは言えないのかもしれない。モンスターと呼んだ方がふさわしい気がする。俺は呆れてもう何も言えなくなっていた。
中村さんは上白石には何を言っても無駄だと悟ったらしい。彼女を無視して、中村さんは俺に言った。
「その件に関しては、追って報告させてもらいたい。今回の上白石君の言動は、非難に値するものだ。処分は免れないだろう。」
上白石はとうとう、中村さんに対してもその言葉に噛みつき始めた。
「ちょっと、社長、あなたまでこんな平社員の味方をするなんて。ああ、もう、どいつもこいつも!」
とわめく。なんて耳障りな声だろう。今ここに耳栓があれば、すぐに装着したいくらいだ。それはどうやら中村さんも同じ気持ちのようだった。俺は中村さんと思わず顔を見合わせる。こんな状況では、苦笑いすることくらいしかできない。
もうこれ以上ここにいても拉致があかない。俺は中村さんに挨拶して、社長室から出て行こうとした。すると上白石は俺の腕をガシッと掴んで「何よ、逃げる気?」と言い放った。彼女はどうやら完全に正気を失っているらしい。俺は上白石の手を振り払い、足早に社長室から出ていく。廊下にまで、彼女の怒号は響き渡っていた。
その後、上白石は営業部の部長から外されることに決定した。上白石には、その処分を飲むしか選択肢はなかったようだ。別の部署に配属された上白石は、そこでも同僚や取引先とのトラブルを連発した。その結果、とうとう彼女には解雇が言い渡されたらしい。職を失った上白石は、次職を探し求めたが、どの企業も彼女の傲慢さを理由に受け入れることはなかったようだ。
逆上した上白石は、車を運転していた時にタクシーと接触事故を起こした。平行線の話し合いに陥った彼女は、相手の運転手に手を出してしまったらしい。上白石は警察に連れて行かれることになった。彼女が自分自身を省みることのない限り、待っているのは希望のない未来だけである。
一方、俺はといえば、まさに絶好調である。例のフレンチ文具との商談もトントン拍子にうまくいき、契約は成立に達した。これも営業部一丸となって頑張った結果である。商談を担当した俺だけではなく、みんなが頑張ってくれたおかげだ。そして先日、遂に発売された新商品のシャーペンも、売上好調である。どうやらSNSでの口コミがどんどん広がっているらしい。開発者である企画開発部の同僚も、かなり喜んでいた。
俺はこれからも、人々の役に立つ文房具を提供するために、一生懸命働いていきたいと思う。



