「ちょっと、その車、ここはお客様専用の駐車場ですけど」
ある日、私がパート先の小さなケーキ屋でショーケースを磨いていると、またあの車が駐車場に止まった。真っ赤なボディ。窓越しに確認して、私は小さくため息をついた。何度注意しても、同じ車が止まっている。
私はエプロンの紐を結び直すと、店の外へ出た。運転席から降りてきたのは、見事なまでに派手な服を着た女性。ママ友の長谷部ゆえさんだった。
「あら、宮本さん。こんにちは。こんな良い天気の日に働くなんて、主婦は大変ね」
彼女はわざとらしい笑顔を浮かべると、私の注意を無視して立ち去ろうとした。私は肩に手を置いて引き止めた。
「ゆえさん、こちらはお客様専用の駐車場です。ご利用以外での駐車はご遠慮いただいております」
「あのさ、後でケーキ買うつもりだから、それでいいでしょ」
「それは何度も伺っています。ですが、まだ一度もご来店いただいたことはありませんよね」
これは初めてではない。彼女はこれまで何度も無断駐車を繰り返し、そのたびに「後で買う」と言いながら、一度も店に入ったことがなかった。
「他のお客様の迷惑にもなりますし」
「迷惑って言うけどさ、駐車場が空いてるならいいでしょ。それに、車が一台でも止まってた方が、お客さんがいるみたいで宣伝になるじゃない」
「そうだとしても、店の利用目的でない駐車を許すわけにはいきません」
私がそう言うと、ゆえさんの表情が明らかに苛立ちへと変わった。
「宮本さんって真面目すぎるのよ。パートでしょ。あんたが困ることないじゃない。っていうか、証拠でもあるの? 私が何度も無断駐車してるっていう証拠」
「何度か直接お声がけしましたけど」
「そんな記憶ないわ。勘違いでしょ。毎日いろんなお客さんが来てるんだから」
確かに、以前のことを証明する手立てはなかった。防犯カメラもない。私は言葉に詰まって黙り込んだ。彼女はその様子を見て、勝ち誇ったように笑った。
「私、後で買いに来るって言ったし。大事なお客様を疑うことになるわよ。防犯カメラの映像でもあれば話は別だけど」
私は唇を噛んだ。本当に防犯カメラはない。彼女はそれを知っていたのか、得意げな顔で私を見つめている。
「とにかく、今日はたまたま用事があったからついでに停めてるだけ。じゃあ、急ぐから」
そう言って歩き出そうとした彼女を、私はもう一度呼び止めた。
「待ってください。以前のことは証明できませんが、今この場で無断駐車していることは事実です。せめて購入してからにしてください」
少し強い口調で言うと、ゆえさんは再び大きなため息をつき、私を睨みつけた。
「宮本さん。あんまり調子に乗らない方がいいわよ」
「それはどういう意味ですか?」
彼女は私に近づき、耳元で低い声で囁いた。
「私ね、実は森組のレディースヤザなのよ」
森組。大規模な暴力団組織。私は目を見開いた。ゆえさんはその反応を見て、満足そうに笑う。
「そうよ。普通の主婦のあんたでも、さすがに森組くらいは知ってるでしょ」
「ええ、まあ。それは存じていますけど」
「ここら辺は森組のシマなのよ。本来なら場所代を払ってもらわないといけないけど、小さなケーキ屋だし見逃してあげてたの。でも、あんたがそんな態度を取るなら、しっかり場所代を支払ってもらわないといけないわね。店長にも伝えないと。そしたらあんた、首になっちゃうかもしれないわね」
彼女は低い声で脅してくる。私は表情を変えずに彼女を見つめ、小さく息を吐いた。そして、不敵に微笑んだ。
「ゆえさん。森組のレディースヤザだとおっしゃいましたけど、本当によろしいんですか?」
「は? 何がよくて言うのよ」
「おかしいですね。私も森組の幹部なんですが、ゆえさんを集会で見たことがないんですよ。本当に大丈夫ですか?」
私が腕を組んで不思議そうに言うと、ゆえさんの顔が一瞬固まった。しかしすぐに笑い出した。
「ははっ、冗談きついわね。あんたみたいな貧乏主婦が森組の幹部だって? もしかして森組を語って、私を脅そうってわけ? 嘘だってバレたらどうなるか分かってるの? 命知らずすぎでしょ」
私は冷めた目で彼女を見つめ、スマートフォンを取り出した。短いメッセージを送信する。
「ちょっと、何してるのよ」
「森組の若頭を呼び出しました。そうすれば、私が森組のヤクザだってことも分かるでしょうし、ゆえさんが本当に森組に所属しているのか、確認してもらえますから」
「嘘でしょ。私を脅そうとしたって無駄なんだから」
数分後、黒塗りの高級車が駐車場に滑り込み、私たちの近くに停まった。後部座席から降りてきたのは、森組の若頭であり、私の夫である公平だった。
「どうした? じこ。急にパート先に来てほしいなんて」
「ごめんなさい。仕事で忙しいのに」
公平が私の横に立ち、状況を確認するように周囲を見渡した。ゆえさんは困惑した表情で、突然現れた公平と高級車を見つめている。
「ゆえさんも知ってるでしょ? 森組の若頭で、私の夫の公平よ」
「え、若頭が宮本さんの夫?」
彼女の声から余裕が消え、そわそわと落ち着かない様子になる。
「いや、知らない顔だが」
公平が首をかしげる。私は肩をすくめて説明した。
「実は、うちの店に無断駐車してることを注意したら、ゆえさんが自分は森組のレディースヤザだって言い出したの。それで、ここは森組のシマだからって、場所代まで要求してきたのよ」
公平は腕を組んで、ゆえさんを頭の先から爪先までじっくりと見た。
「なるほどな。俺は見たことねえが、本当に森組のヤクザなのか?」
若頭らしい、ドスの利いた声だった。ゆえさんはその声に肩を震わせ、顔から血の気が引いていくのが分かった。
「あ、あの、私はその、すみません。勘違いでした」
震える声でそう叫ぶと、彼女は慌てて車に飛び乗り、エンジンをかけて走り去っていった。
「何が勘違いだ。組の名前を語るなんて、命知らずな奴だな」
公平が呆れたように呟く。私はため息をついた。
「公平のおかげで助かったわ」
「気にするな。じこは何も悪くないだろう。これで諦めたと思うが、また何かあったら言ってくれよ」
「ええ、ありがとう」
私はそう言って微笑んだが、どこかこれで終わらないような嫌な予感がしていた。
その予感は、残念ながら当たってしまった。
翌朝、私と公平が家の車庫へ行くと、そこには見るも無惨に破壊された車があった。フロントガラスは粉々になり、ボディは無数の凹みでボコボコになっている。
「なんてひどい。誰がこんなことをしたの?」
「あら、随分と大変そうね。それじゃあ車を買い替えないと。誰かが深夜に忍び込んで、ゴルフクラブとかで大暴れでもしたのかしらね」
聞き慣れた声がして振り返ると、下卑た笑みを浮かべたゆえさんが、車庫の入り口に立っていた。
「ゆえさん。もしかして、あなたがやったんですか?」
「やだなあ、証拠もないのに人を疑うなんて。ヤクザは言いがかりをつけるのね。あら、そろそろ行かなくちゃ。宮本さんも今日は仕事でしょ? 車がないと出勤も大変だろうけど。せいぜい頑張ってね」
そう言い残して、彼女は去っていった。私は拳を強く握りしめた。
「これは面倒なことになったな」
「ええ。きっと、ゆえさんが昨夜忍び込んで車を壊していったのよ」
「それは確実だろうな。だが証拠がねえ」
我が家には防犯カメラなど設置していない。彼女が犯人だと証明する手立てはないのだ。
「相手は森組を語るだけじゃなく、喧嘩を売ってくるような命知らずだ。きっとこれで終わるはずがない」
「私もそう思う。次は絶対に許さないわ」
その日、車がないため自転車でどうにか職場へ向かった。午前中は何事もなく、いつも通りの忙しい時間を過ごした。しかし午後になり、私が一人で店にいると、それを見計らったかのように再びゆえさんが現れた。
「あら、てっきり今日は休んでるかと思ったわ」
「ゆえさん。何のご用ですか?」
私が厳しい表情で睨むと、彼女は不愉快そうに顔を歪めた。
「そんな怖い顔で睨まないでよ。客に対して失礼すぎるわよ」
「そうですか。それで、何になさいますか?」
私が必死に怒りを抑えて淡々と言うと、彼女は馬鹿にしたように笑った。
「失礼な店員のせいで買い気が失せたから、今日は帰るわ。大事なお客を逃して残念だったわね。でも、これで終わりだと思わない方がいいわよ」
それだけ言うと、彼女は結局何も買わずに店を出ていった。
その深夜のことだった。
ゆえさんは昼間の言葉通り、これで終わりにするつもりなどなかった。再び私たちの家の庭へ現れたのだ。しかも一人ではない。七人もの仲間を連れて、それぞれがハンマーなどの武器を手にしていた。見た感じはヤクザというより、チンピラ崩れのような連中だ。
「この私に恥をかかせて、本当に許せない。車を壊しただけじゃ気が済まないわ。みんな、好きなだけ暴れてちょうだい」
ゆえさんの掛け声で、仲間たちは庭で暴れ回り始めた。そのタイミングで、隠れて様子を見ていた私と公平は頷き合い、庭へと飛び出した。
「ゆえさん。今夜は随分と大勢できたのね」
私は怒りを抑えて冷静を装いながら、彼女たちの位置を確認する。公平も黙ったまま立っているが、視線は鋭く周囲の状況を把握していた。
「まさか見張ってるなんて」
ゆえさんは私たちの姿に少し怯んだものの、睨みつけてくる。
「よくも家に戻って来られましたね。それもこんな卑劣なことをするとは、さすがに私も思いませんでしたよ」
「は? 卑劣ですって? 証拠もないのに人を疑う方が卑劣じゃない。今だって証拠も何もないし」
ゆえさんが声を荒げると、仲間たちも多勢に無勢だと思っているのか、ニヤニヤと笑っている。その時、私の背後から夫の声が響いた。
「おい、てめえら」
ずっと沈黙を貫いていた公平が口を開き、手に持っていたスマートフォンを掲げた。
「さっきまで庭を荒らしてた動画は、ばっちり録画させてもらったぜ」
「何ですって?」
ゆえさんの顔色が変わり、仲間たちがざわつき始める。公平はニヤリと笑った。
「見るか? 音声も完璧に入ってるぞ。お前らの声、よく通るな。これを証拠として警察に提出してやるよ。これで仲良く全員、豚箱行きだな」
公平の言葉に、ゆえさんは歯を食い縛り、悔しそうな表情を浮かべた。
「う、みんな! このまま警察になんて行きたくないでしょ! やっちゃいなさい!」
ゆえさんの掛け声で、仲間たちが一斉に私たちに飛びかかってきた。だが、私も公平も森組のヤクザとして様々な修羅場をくぐり抜けてきた者だ。チンピラ崩れの連中に負けるはずがない。
「あらあら、甘いわね」
「おいおい、少しは骨のある奴はいねえのかよ」
私たちはあっという間に全員を次々と倒していき、気がつけばゆえさん以外は地面に突っ伏してうめき声をあげていた。一人だけ残されたゆえさんは、小さなナイフを取り出したが、私は一瞬で詰めて手首を掴んだ。
「危ないものを持つんじゃないわよ」
手首をひねると、痛みでナイフが地面に落ちる。
「ヤクザにここまで喧嘩を売られたんじゃ、このまま警察に突き出して終わりってわけにはいかないわね。命は覚悟してもらわないといけないわね」
私の低い声に、ゆえさんは息を飲み、短い悲鳴をあげた。
「ご、ごめんなさい。お願いします。許してください」
彼女の仲間たちも、地面に倒れたまま怯えた瞳で命乞いを始めた。しかし公平はそんな彼女たちを冷たい目で見下ろしていた。
「俺も鬼じゃねえからな。命だけは勘弁してやるが、一人三千万を車と庭の修繕費の慰謝料として支払ってもらおうか」
「そんな大金、払えません!」
私に手首を掴まれたまま、ゆえさんは震えた声を出した。
「そう。それなら残念だわ。払えないなら、私の部下たちに制裁を受けてもらうしかないわね。部下は公平や私みたいに優しくないわよ。腕や足の一本は覚悟してもらわないと」
「いい、でも、本当にお金が払えなくて。許してください。お願いします。もう少し安くしてください」
ゆえさんはガタガタと震え始め、恐怖で涙を流しながら必死に懇願してきた。私はそんな彼女の姿に呆れて、公平を見る。公平はため息をついて、小さく肩をすくめた。
「仕方ねえなあ。それなら、いい金貸しを紹介してやる。金貸しに会うか、金を借りて借金を背負うか、選べ」
「金貸しを紹介してください。お願いします」
公平の提案に即座に飛びつくゆえさん。公平は頷き、スマートフォンを取り出してどこかに電話をかけ始めた。私が手を離すと、ゆえさんは腰が抜けてしまったのか、その場に座り込んでしまった。
電話を終えた公平は、ゆえさんと地面に倒れたままの仲間たちを見下ろした。
「よかったな。てめえら、金貸しが金を貸してくれるらしいぜ」
十分もしないうちに金貸しが訪れ、私たちの口座には二億以上の金額が振り込まれた。
「夜中にすみませんね」
「いえいえ。若頭の依頼なら、いつだって駆けつけますよ。それで、この方たちですね」
金貸しはペコペコと頭を下げながら、ゆえさんたちを値踏みするように見つめた。
「あの、返済方法は月いくら支払えばいいんですか?」
すっかり安堵した様子のゆえさんは、うっすらと笑みを浮かべながら金貸しへ問いかけた。しかし、金貸しはニヤリと笑った。
「おいおい、何を言ってやがる。俺たちはヤクザの知り合いの金貸しだぞ。そんな生温い返済なんてあるわけねえだろ。体で稼ぐんだな。そちらの女性の方は、海外でキャバクラ嬢として働いてもらいましょう。その他の方は健康的な体をしていそうですし、人体実験の仕事をしてもらいましょうか」
ゆえさんだけでなく、仲間たちも金貸しの言葉に絶望的な表情で固まってしまった。きっと、適当に切り抜けて困ったら自己破産すればいいとでも楽観的に構えていたのだろう。しかし、時はすでに遅かった。ゆえさんたちは金貸しの用意した車に乗せられ、ゆえさんは海外に売り飛ばされ、仲間たちは研究所へと連れて行かれてしまった。
後日、金貸しから聞いた話では、ゆえさんも仲間たちも、精神的にも肉体的にも辛い日々を送っているということだった。
それから二年後、私の元に連絡が入った。ゆえさんと仲間たちは、苦痛の日々に耐えきることができず、自ら命を絶ったという。
連絡を受けた直後、私は窓から綺麗に修繕された庭を眺めた。ゆえさんの子供のことを考えると、胸が少しだけ痛んだ。しかし、ゆえさんの子供は夫が引き取り、別の場所で新しく生活を始めたらしい。別の人生を歩む方が、きっと彼女の子供のためだろう。そう自分に言い聞かせた。
そして今日も私はエプロンを締め、小さなケーキ屋で笑顔でパートをしながら、夫と愛しい子供のために忙しい日々を過ごしている。



