納品期限が切れたので帰ります。俺は端的にそれだけを言った。今日はうちの会社の特許安全装置を取引先に納品する日だ。だというのに担当者に五時間もの間放置された。こんな不誠実な相手に心を尽くす必要はない。取引先を背に、俺は拳を握りしめた。
俺の名前は北側。四十二歳の会社員だ。産業機械を製造する会社で技術部長として働いている。小さな会社ということもあり、俺は現場を知る技術者として自ら足を運ぶ機会も多い。説明や納品まで手掛けることも珍しくない。
最初は小さな会社だと侮られたが、特許を取得した安全装置がうちの大きな武器だ。この安全装置のおかげで安心して働ける。お得意様にそう言っていただけると、技術者として誇らしくなるものだ。
その安全装置を納品している取引先の中に、とある金属加工メーカーがある。大きい規模の会社であり、グループ系の工場をいくつも抱えているのだ。うちの特許安全装置はその十工場で稼働している。高温の炉や重機が並ぶ製造現場において、安全装置は文字通り働く人間の命に直結するものだ。
装置にはうちが独自に組んだ特殊な回路が内蔵されており、特許の核でもある。炉や設備に異常が生じた際、瞬時に検知して稼働を止める。シンプルに聞こえるが、非常に重要であるのは言うまでもない。
そんな重要なものを、俺たちはずっと提供し続けていた。
「明後日への納品は確か明後日だったね」
仕事中、社長に声をかけられて俺は顔を上げる。社長は会社名こそ出さなかったが、声のトーンと明後日という言葉で例の金属加工メーカーを指していることはすぐに分かった。
「はい。さすがに今度は大丈夫だと思います」
俺は言いながら苦笑した。取引先との関係自体は良好なものの、一つ問題がある。それは取引先担当で購買部長でもある堀西の存在だ。というのも、堀西はいい加減な性格の男で、打ち合わせや納品日をよく間違えるのだ。
今回の納品は現行の装置の改良版を届けると同時に、特許安全装置の使用契約を更新するという重要な役目もあった。だからこそ日付に余裕を持って済ませたかったのだが、堀西が間違えたせいでギリギリになってしまったのである。
よりによって期限当日とはな。まあ、さすがに先方も同じ失敗はしないだろう。時間もあるため、この日を逃すと契約上安全装置を使えなくなってしまう。そういった背景もあるため、社長も心配なのだろう。
「ええ、私からも明日改めて堀西部長へメールしておきます」
「北川君、ありがとう。じゃあ明後日は頼むよ。問題があればすぐに報告してくれ」
そう言って社長は去っていった。うちの会社は小規模ということもあり、社長と社員の距離が近い。社長は忙しいにも関わらず社員の面倒見が良く、みんなから好かれているのだ。
それにしても堀西部長には困ったものだ。俺はパソコンに向かいながら心の中で呟く。堀西には他にもいくつか問題点がある。こちらを露骨に見下し、高圧的な言動を取る人間性だ。自分たちの会社がうちより格段に規模が大きいことを理由に、自分たちの方が上だとはっきり言ってくる。
しかも噂によれば、堀西は上層部に気に入られており、役員の中に強い後ろ盾がいるらしい。それが誰なのかは噂なので分からないが、よくそのことを持ち出して社内でも幅を利かせているという。いい加減で高慢、そんな人間と信頼関係を築くのは困難だ。
取引先との縁ができたのは三年前と比較的最近だが、その間俺たちは誠実に対応してきた。改良版の特許安全装置は非常に精密なものだ。そのため運送担当にトラックを運転してもらい、慎重に運んだ。つまり俺の運転する営業車と運送担当のトラックの計二台で取引先へと向かうことに。
納品当日、取引先に到着したのは約束の時間の少し前だった。トラックを取引先の搬入口近くに止め、運送担当に待機してもらう。俺はエントランスへ向かった。
ただ引き渡すだけならいいのだが、特許仕様に関する更新もあるため、そういうわけにはいかない。堀西に確認してもらい、書類にサインなどしてもらう必要もある。受付で堀西部長を呼んでもらうと、ただいま確認いたしますのでおかけになってお待ちくださいと言われ、俺は近くのソファに座った。
しかし、なかなか声をかけられない。ちらりと視線を向けると、受付担当の女性社員が受話器を持って困った表情をしている。何か問題でもあったのだろうか。不安に思っていると、ようやく声をかけられた。
「申し訳ございません。堀西は席を外しているようでして」
外しているようだと言われても、喉まで出かかったが、この人に言っても仕方のないことだ。
「そうですか。今日この時間にお約束していたんですが、契約に関わる件なので待たせていただいても」
俺が言うと、受付担当は承諾してくれる。俺はひとまず待機してもらっている配送担当に事情を話す。
「長くかかるかもしれないから、俺が運転してきた営業車で先に戻ってくれないか? ついでと言ってはなんだけど、社長にこの件を報告しておいてくれると助かる」
いい加減な堀西のことだ。俺のことを待たせておけばいいと思っている可能性がある。それに運送担当は他にも後に仕事が控えているのを知っていた。俺は運送担当にそう伝えると、分かりました。お帰りの際は連絡くださいと言って営業車に乗り込んだ。
それから俺はエントランスへ戻り、堀西を待った。念のためこちらからも電話を入れてみたりしたが、繋がらない。受付担当の社員も、待たせていることが申し訳ないのか。手が空き次第確認を取ってくれていたが、一向に堀西と連絡が取れなかった。契約の更新も絡んでいる以上、特許安全装置を置いて帰るわけにもいかない。またされ、イライラが募る。その度に俺は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。
一時間、二時間と時間が経ち、受付の女性だけが申し訳なさそうに何度も頭を下げてくれる。女性には何の罪もないが、さすがにと怒りが頂点に至りそうになったところで、受付担当の女性社員が再び声をかけてきた。
「北側様」
ようやく連絡がついたのかとほっとして立ち上がる。しかし、俺の希望はすぐに打ち砕かれた。
「堀西部長の在席を知っている者が見つかりまして、その者が言うには北側様とのお約束の時間の直前に来客があったようです」
正社員が言うには、堀西は俺との約束直前に飛び込みで営業をかけてきた別の会社の人間の対応をしたようだ。現在その営業と別室で話し込んでいるという。
俺の表情に怒りや不快が滲み出ていたのだろう。
「北側様も申し訳ございません」
女性社員が心底申し訳なさそうに頭を下げる。この女性に怒っても仕方がないし、この女性は堀西に連絡を取ろうと行動してくれていたのを見ている。俺は小さく咳払いをし、首を横に振った。
「あなたは悪くありません。とにかく待たせていただきます。少なくとも期限の時刻までは」
言いたいことは山のように腹の底に溜まりきっていた。俺は一度エントランスの外へ出ると、会社に電話する。社長に繋いでもらい、一連の事情を話すと、電話の向こうから困惑した声が返ってきた。
「先に帰ってきた者から報告は聞いていたが、まさか。言葉も出んな。こちらを馬鹿にしているにも程がある」
俺は社長の言葉に頷く。
「ええ、ですから、残りおよそ三時間の間に堀西部長が現れなければ。分かっている。なんならもう帰ってきても構わないくらいだ」
「いる者を向かわせるから、安全装置と一緒に帰ってきなさい」
社長の言葉を俺は否定した。
「いえ、あえて待とうと思います。期限までに堀西部長が来ても来なくても、これは問題行為です。こちらは誠意を尽くしたのにと」
俺の言葉に、社長はふむと声をもらす。
「確かに堀西部長の行為の問題が大きいと主張できれば、担当者を変えて欲しいという要求も通りやすいか」
「ええ、それに」
俺は声を落とした。
「考えにくいことですが、仮に期限の時間までに現れなかった時、待たされていたこちらには一切の落ち度がないことになります。受付担当の女性は尽力してくれましたが、先方はなぜか堀西部長の代わりの人間を寄越す真似もしない」
「なるほど。だが、ここで帰ってしまえば、こちらが放棄したと指摘されるリスクがある」
俺は技術者だ。弁護士でも交渉のプロでもない。だが、誠実でいることだけはどんな武器にも勝さると信じている。
「分かった。北川君には申し訳ないが、もう少し待ってくれ。その代わり期限の時刻を過ぎたら速攻で運送の者をそちらへ向かわせる。安全装置と一緒に帰ってきなさい」
「承知いたしました」
俺はそう言って再びエントランスへ戻る。
結論から言って、俺は合計五時間もの間放置された。堀西からの連絡もなく、当然姿を表すこともなかったのだ。俺はゆらりと立ち上がり、受付へと足を運ぶ。
「納品期限が切れたので帰ります」
受付担当の女性が何か言うのを待たずして、俺は背を向けた。俺が社長との電話を済ませた後も、どこかへ連絡をしたりと働きかけてくれていたのを見ていた。だから、この人を責めることはしない。だが。
俺は外に出て空を見上げた。堀西の行動は論外だ。受付の連絡が言っているにも関わらず、代理の者を寄越そうともしない。堀西自身にも取引先そのものに対しての信用も、俺の中では地に落ちていた。
会社に戻ると、俺はすぐに社長に報告する。こうなっては仕方ない。契約は契約だ。それにあまりに不誠実だ。
「堀西部長に使用中止の通知を伝えてくれ」
「はい。すぐに」
俺は最後にもう一度堀西に電話をかけた。しかし、やはり出ない。仕方なく社用メールから連絡を入れることにした。内容は、現時点で納品期限及び特許安全装置の使用期限を超過している。そのため速やかに使用停止を求めるというものだ。ボタンを押し、俺はこれで終わりだと感じていた。
メールを送信してから二週間ほど経った頃のことだ。堀西が突然うちの会社を尋ねてきた。正式な約束もなく、いきなりのことだった。お帰りいただくよう伝えたのだが、受付の社員によるとどうしても動かないらしい。
この時点で、俺は堀西がやってきた理由に心当たりがあった。いずれ連絡してくる可能性は考えていたが、まさか直接乗り込んでくるとは。
仕方ないと俺が応対すると、堀西が俺を見るなり深く頭を下げた。
「北側さん、この度は申し訳ございませんでした」
普段の堀西からは想像もつかない行動だ。堀西の大声と行動によって、周囲の目が俺たちの方へ集まり、どよめきが広がっていく。
「来ていただいたのに申し訳ありませんが、正式なお約束がないのに対応で聞きかねます。お引き取りください」
俺が憮然と言うと、堀西は何を思ったのかその場に土下座する。自分の話を聞くまで動かない。俺にはそう見えて、不快感が増した。
「何の騒ぎだ?」
騒ぎを聞きつけた社長が駆けつけ、さらに周囲の注目を集めた。堀西部長が誰が土下座をしているのかを把握すると、社長は眉を潜める。
「北川君、堀西部長を応接へお通しして。来てしまったものは仕方ない。話を聞こう」
「はい、社長」
確かにここで土下座をされ続けても迷惑なだけだ。俺は社長の言う通りにすることにした。
応接室へ通した後も、堀西の態度は変わらなかった。というより、必死に謝罪を繰り返すばかりで中身がない。とにかく許してほしい。伝わってくるのはそればかりだ。
「堀西部長がお見えになってからずっと疑問だったのですが、それは何に対しての謝罪なのでしょうか?」
俺の問いに、堀西は頭を下げたまま硬直する。
「それはもちろん、先日私が五時間もの間北側さんをお待たせして。それから。それから」
社長がちらりと堀西を睨むと、堀西が息を飲む。
「それと、あの。安全装置なしでの工場の稼働を」
この瞬間、俺と社長は視線を交わした。思った通りだと、俺は内心呟く。最初に俺が予想していた心当たりとは、まさにこのことだったのだ。
しばらく俺たちが黙っていると、沈黙に耐えかねたのか、自分の中の感情が頂点に達したのか。堀西が声を張り上げた。
「確かにご迷惑はおかけしました。ですが、リークまでしなくたって」
リーク。その単語に、俺と社長は頷き合う。
「私が安全装置に関して最後にメールをしてから一週間ほど経った頃のことです。御社の技術部長をはじめとした複数の技術者から連絡をいただきました」
俺は思い出しながら話をする。安全装置の使用が中止になったのは本当ですか? 代わりが見つかるまで安全装置なしで稼働させろと堀西部長が言っていて困っている。ようするにこんな内容だった。
うちの安全装置を完全なる堀西の落ち度で使えなくなり、堀西は焦ったのだろう。だからと言って、まさか安全装置なしで稼働なんて。放置された時以上に怒りが込み上げたのを、今でも覚えている。
技術者たちが反対する中、堀西は役員のコネを話に持ち出し黙らせようとしてきたそうだ。しかも、他のエリアの工場ではうちの特許安全装置をそのまま使用しているところもあるようだ。
「もうむちゃくちゃですよ、そんなの」
特許侵害として法的対応も視野に入れていると、社長から先方へ伝えてあった。そもそも安全装置なしで稼働なんて考えられない。現場で働く人間の命に直接関わる最悪の行為だ。役員の後ろ盾を使うことでいくつかの工場は堀西の指示通り安全装置なしで稼働しているようだが、正直理解できない。
「堀西部長がお約束の日にきちんと誠意を見せてくだされば、こんなことにはなりませんでした」
俺が静かに告げると、堀西は顔面蒼白で俺を睨む。
「ただ、うちの特許安全装置を無断で使用し続けているという話なら、双方の話し合いで済んだかもしれません。だが、人命に関わるなら話は別です」
社長がそう静かに告げた。社長には様々な人脈があり、その中に雑誌記者をしている友人がいるそうだ。俺が技術者たちから事態の深刻さを聞いた時、このままでは現場で働く人間の命が危ないと判断した。俺はすぐに社長に報告し、その友人記者へのリークを提案。社長も即座に頷いてくれた。
「会社のSNSは大炎上して、社長も対応に追われています。私も問い詰められました」
堀西は頭を抱え込む。リーク後、社長が全てを把握し、すぐに堀西は呼び出されたそうだ。堀西は安全装置なしで一部の工場を稼働させていたというのは本当かと問い詰められたらしい。うちの安全装置は滞りなく納品され、契約も更新されたと、この日までは思っていたそうだ。それほど社内の情報共有ができていない会社なのだろう。取引先社長もどうかしているな。俺はそう思ったが、ひとまず話を聞くことに徹する。
「そもそも、なんで北側を五時間も放置したんですか? よくもそんなことができましたね」
社長の問に対し、堀西は罰の悪い顔で視線をそらした。
「実は、他の会社の営業と話が盛り上がって」
ここで知ったのだが、堀西は待たされていた時に知らされた通り飛び込み営業をしてきた人間の対応をしていたそうだ。それ自体は二時間ほどで終わったそうなのだが、問題はこの後だ。何を思ったのか、まだ就業時間にもなっていないのに、その営業と飲みに行ったのだという。
その一言が、俺の中で何かを静かに凍らせた。怒りではない。それ以上の冷たい何かだ。部下に納品の約束がありませんでしたかと聞かれたそうだが、堀西はこう笑っていったという。
「北側の会社なんぞ、待たすだけ待たせておけばいい。期限だなんだと言うが、うちが契約を切ると困るのは向こうだ。別に明日だっていい話だろ」
横暴どころか、悪意に近い言葉である。完全に忘れられた方がまだマしだったかもしれない。
後から聞いた話だが、堀西は以前も小規模な取引先を同様に扱い、それでも問題にならなかったことがあったらしい。それが今回の慢心に繋がったのだろう。
「安全装置の代わりが見つかるまで、ちょっと内緒にしていただけのつもりだったんだ。大体大げさなんだ。ちょっとの間だけなのに」
繰り返し「ちょっと」と繰り返す堀西に、俺と社長は睨みつける。
「バカなことを。あなたの辻褄合わせのために、人の人生に害が生じてもそう言えるんですか?」
俺が大声で言い放つと、堀西は縮こまる。
「だから、今は許してくれ」
言い訳を、社長が遮った。
「もっと早くそうなるべきでしたよ。最初、北川君から話を聞いた時は、すぐに御社にクレームを入れました。使用を停止すべきだともね。でも、あなたたちは無視した。だからリークしたんです」
社長の言う通りだった。俺たちは一度正式にクレームを入れたが、おそらく途中で揉み消されたのだろう。俺が待ちぼうけを食っていた時も、受付担当の女性が必死に連絡してくれていたのに、代理の人間が現れなかったことにも通じる。おそらく堀西の会社は内部構造から何かがおかしくなっているに違いない。
「結局、あなたは何をしに来たんですか?」
最後に俺が尋ねると、堀西は言った。
「安全装置を、再度契約させてくれ」
再契約の要求だけでも非常識なのに、それからリークは謝りだったということにしてくれと堀西は続ける。自分のことしか考えていない。ほとほと呆れた俺と社長は、揃って大きなため息をつく。
「これ以上お話することはありません」
堀西が何か言いかけた時、社長は静かにスマホを手にする。すぐに警備員が到着し、反抗する堀西を引きずるようにして退出していく。堀西は何か叫んでいたが、俺たちには何も届かなかった。
リークから一ヶ月、グループ十工場を含む先方の全工場が操業停止となった。再開の目途は立っていないという。このまま永久に閉鎖したとしても不思議ではないだろう。後に取引先社長から正式な謝罪を受けたが、うちが再度契約をすることはなかった。社長から聞いた話では、堀西部長は懲戒解雇になったという。それだけでなく、今回の損害に関する責任についても話し合いが続いているらしい。
俺は技術者だ。工場が止まったことを喜ぶ気持ちは正直ない。だが、現場で働く人間の命が守られたことだけは確かだと思っている。人を軽んじ、安全を蔑ろにした代償は、あまりに大きすぎたのだ。



