「清掃員は近づくな」——峰岸の声に刃物のような鋭さを感じたのは、創業九十周年の式典の朝だった。この二年、作業服で床を磨き続けてきた俺に、二十八歳の新人行員は誰よりも強く牙を剥いてきた。だが、あの日は違った。式典の朝、俺を裏口へ押しやる峰岸の手を、正面玄関から現れた本店の遠取が、整列する行員たちの前でぴたりと止めた。俺は、仕事を追われた五年前のことを思い出していた。清掃員として膝をつき始めたあ…
「清掃員は近づくな」 その声の低さに、耳の奥がじんと痺れた。創業九十周年の式典を控えたこの朝、視点中がどこか浮き足立っているのは感じていた。膝をついて記念碑の周りを拭いていた手が、思わず止まる。この二年、峰岸の下打ちにも聞こえないふりで通してきた。だが、この声に刃物のような鋭さを感じたのは初めてだった。 次の瞬間には、俺が手にしていたはずのモップが峰岸の手の中に移っていて、肩を強く掴まれた体が裏口の方へよろめいた。ロビーにいた行員たちの気配が一斉にこちらを向いたのが分かった。言葉を返す気にはならなかった。俺はただ、道具箱の取っ手を握る手に力がこもるのを感じていた。裏口へ向けて、足が一歩動きかけていた。 そこへ、正面玄関の外でクラクションもなく、低いエンジン音だけが静かに止まった。ロビーの奥にまで届いた重いドアの音に、峰岸の肩から力がふっと抜けていくのが分かった。気づけば、赤絨毯の両側には窓口の行員も障害の連中も、次々と列を作り始めていた。それでも人混みに混ざれずにいるのは峰岸だけ。握ったモップを下ろす間もないまま、戸惑ったようにこちらを見下ろしている。 出入り口に、白髪の男の姿があった。オールバックに撫でつけた髪。胸には古びた記章。ノーブランドのスーツをまとい、出迎えの列を一つも見ずに通り過ぎていく。歩みが向かう先は、記念碑の前。まだ裏口へ足を向けたところで動けずにいた俺だった。 目があった瞬間、時間が止まったような静寂が落ちた。膝で磨いてきたはずの記念碑の文字が、いつもよりずっと遠くに見えた。視点中の行員三十人が見つめる中、遠取は俺に向かって深く頭を下げた。頭を上げるまでの数秒、何かを確かめるような目で、誰も声を出さないまま、じっと俺の顔を見つめていた。峰岸だけが、握ったモップを取り落としそうになっている。 「橋村さん、私はあなたに謝らなければならない。本店の廊下を追われたあの日、あなたは大口融資先の粉飾を見抜き、三百億円の損失からこの銀行を守った」 何が起きているのか。俺自身、すぐには飲み込めずにいた。だが、峰岸の顔から余裕という余裕が抜け落ちていくのだけは分かった。久しく忘れていた誰かの声が、耳の奥で不意に蘇りかけている。二年間、床に膝をついてきたことの全てが、この一瞬のために積み重なっていたような気がした。その言葉は波のように、背後から広がっていった。 — 全ては、その数週間前に始まった。 朝七時半の商店街は、まだシャッターの奥で眠っている。パン屋の換気扇から漏れる焼きたての匂いだけが、人より先に通りへ出勤していた。 俺の名前は橋村。今年で三十五歳になる。清掃会社に入って五年。この町の銀行・遠銀行高倉支店を任されて二年目になる。時給は千二百円ほどで、窓口に座る初任給にも届かない。それでも、俺はこの仕事を悪くないと思っている。角を曲がると、通りの先に石造りの建物が見えてくる。三階建ての古い構えに縦長の窓が並び、朝日が壁の凹凸を浅く照らしている。それが、この町の小さな支店だ。行員とパートを合わせて三十人が働いている。 自分の理由は、家から近いからと会社には言った。だが、本当の理由はそれだけではない。それを誰かに話したことは、一度もない。 夜明けのロビーは、蛍光灯が半分だけついていて、ワックスの匂いが冷えた空気の底に沈んでいる。百五十坪の床には古いタイルが貼られ、何十年分の靴音を吸って鈍く光っていた。柱には「創業九十周年」と染め抜かれた垂れ幕が、今月から掛かっている。正面玄関の脇には、膝の高さの黒い石が添えられている。黒い御影石には「此処 昭和十一年」とあり、その下に「創業の地」と小さく掘られていた。 俺には、この仕事についてから毎朝欠かさず決めていることがある。どこよりも先に、その記念碑の前の床から磨き始めることだ。膝をつき、腰から白い磨き布を外してタイルの目地に沿ってゆっくりと手を走らせる。床は正直だ。手を抜いた日は曇り、手間をかけた分だけ翌朝の光が変わる。この時間だけは、ロビーは俺と床だけのものになる。 五年前まで、俺はこの銀行の本店にいた。数字だけを読み、書類の上だけで人を採点する側の人間だった。今は同じ看板の下で膝をついて床を手入れする側にいる。どちらが上でどちらが下か。そんな話をするつもりはない。ただ、あの頃に見えなかったものが、この低さからは不思議とよく見える。それだけの話だ。 — 八時二十分、行員たちが通用口から流れ込んでくる。 「橋村さん、おはようございます。今日もその辺、ピッカピカですね」 窓口係の瀬夏だ。この支店で俺を名前で呼ぶのは、入行五年目になる彼女一人だけだ。俺は軽く会釈を返した。すると、横を光る靴が硬い音を立てて通り過ぎた。峰岸という、この春に入ったばかりの新人行員で、融資課の見習いをしている。 「ちょっと、開店前のロビーをうろうろしないでもらえます?清掃の邪魔なんで」 モップの柄を指の先でつつくように押してくる。俺は何も言い返さないまま、黙って道具だけを壁際に寄せておいた。不思議と腹は立たなかった。彼の中で人間は所属と肩書きで一列に並べられていて、作業服の男はその列の一番外側にいる。かつての俺も、形は違えどよく似た物差しを胸のポケットに差していた。だから、彼に怒る資格が俺にはない。 フロアの奥から、融資課長の貝原の声が聞こえてくる。この支店の収益の六割は自分が作っていると豪語する男で、峰岸は子犬のように従っている。 「峰岸、お前は先月の獲得ゼロだろうが。結果を出してから言え」 叱られた新人の声だけが、誰もいないロビーまで転がってきた。続けて、柔らかい声が場を包み直す。支店長の岩瀬が、貝原の最後にゆっくりとした口調で式典の話をしている。 「来月の式典まであと一ヶ月。本部からもお客様が見える。店を隅々まで綺麗にしておこう」 朝礼が終わると、岩瀬は必ずロビーを一周する。銀縁メガネの奥の目を細め、両手を軽く合わせて、開店前の店の顔を確かめて歩く。 「橋村さん、今朝もご苦労様。床がいいと店の顔が締まるね」 支店長にまで名前を覚えられている清掃員は、世の中にそう多くないだろう。俺は帽子のつばに手を当てて、短く礼をした。穏やかで敵のいない人。行員たちが影でそう評しているのを、床を磨きながら何度か耳にしたことがある。 — 九時、正面のシャッターが上がり、支店の一日が始まった。開店して三十分も経たないうちに、ATMコーナーの前で声が上がった。作業服姿の年配の男が、機械の画面を睨みつけたまま声を荒げている。釣り銭切れの画面のまま機械が止まり、お金が戻らなくなったらしい。真っ先に駆けつけたのは峰岸だった。 「お客様、故障ではなくエラーです。手順通りに操作していただかないと」 「手順通りにやって、これなんだよ。人の金を飲んどいて、その言い草があるか」 マニュアル通りの言葉が、火に油を注いでいく。騒ぎを聞きつけた岩瀬が、ゆっくりとした足取りで割って入った。 「お客様、朝のお忙しい時間に申し訳ないことです。私は支店長の岩瀬と申します」 深く腰を折って丁寧に名乗りながら、峰岸に茶を出させる。声の温度だけで、男の肩から角が取れていくのが分かった。俺は乾いた雑巾で床を丁寧に拭き直す。その時、ATMの足元の暗がりに小さな銀色が見えた。膝をついて機械の下に布を差し入れると、五百円玉が一枚、誇りと一緒に滑り出てきた。エラーの原因は機械の中ではなく、釣り銭口の縁から転げ落ちた一枚だったらしい。俺はそれを拾い上げ、峰岸に渡した。峰岸は罰が悪そうに受け取り、男に返して騒ぎは収まった。 岩瀬が俺の方を見て、眼鏡の奥で目を細めた。 「助かったよ。いやあ、名探偵だね」 床の高さにいる人間には、床の高さのものが見える。それだけの単純なことだが、この店でそれを知っている人間はまだ少ない。 — 昼休み、搬入の脇の段差に腰を下ろして弁当を広げると、携帯が震えた。清掃会社の所長からだ。 「橋村よ。例のポスターの件、銀行に伝えといたぞ」 ロビーの柱に貼られたキャンペーンポスターの数字が、一桁ずれていたのだ。清掃員が行員に直接指摘するわけにもいかず、会社を通して伝えてもらった。 「ま、あんまり銀行さんの中身に首を突っ込むなよ。うちは床が商売なんだからな」 「分かってます」 午後のロビーは、年金支給日が近いせいか年配の客が多かった。杖の先が床をつく音、順番待ちの咳払い。その隙間を縫うように、俺は手すりと灰皿を拭いて回る。 「奥さん、定期に寝かせておくだけじゃもったいない。今はもっといい商品があるんですよ」 融資コーナーの衝立の向こうで、今日も何かの契約がまとまっていく気配がする。やがて、衝立の影から白髪の老夫婦が書類の入った封筒を抱えて出てきた。二人とも、いい買い物をしたのか、それとも分からないのか。曖昧な顔をしていた。出口まで送りに出た峰岸が、老夫婦の背中に深々とお辞儀をしてから、少しの間だけ動かなかった。その横顔が、なぜか曇って見えた。 戻り際の貝原が、控えていた峰岸の肩を叩いて何かを教え込んでいる。 「いいか?シルバー層はな、銀行の言うことを断らない世代なんだ。昔の信用が染みついてる。その信用を数字に変えるのが融資の腕だ。分かったら顔と名前を覚えてこい」 金色のボールペンが指の間でくるりと回った。その言い回しのどこかに、小さな棘のような引っかかりを感じた。とはいえ、清掃員の身でそこまで首を突っ込んでいい話ではないはずだ。 俺がゴミ箱の袋を変えていると、背中に峰岸の声が刺さった。 「そこのゴミ、まだ残ってるんですけど。あと、通路を拭くなら人のいない時間にやってもらえます?」 「分かりました。後でします」 … Read more