静は朝5時半に目が覚めた。目覚まし時計が鳴る前に、体が勝手に起きる。5年間、この習慣が途切れたことはない。夫が亡くなってから、彼女は毎朝こうして起き上がり、髪を整え、薬を飲み、箒で玄関前を掃く。誰も見ていない時間帯でも、手を抜くことはなかった。亡くなった夫は「お前は人目を気にしすぎる」と言ったが、静には違う意味があった。恥ずかしくないように、己を律しているのだ。 6月、神奈川県茅ヶ崎市。梅雨の雨が降り続く静かな住宅地で、静は年金暮らしの68歳。夫の遺した家で一人暮らしをし、週3日は地元のクリーニング店でパートをしている。給料は時給930円。先月、物価の上昇で10円だけ上がった。それでも静は感謝していた。 午後1時、仕事を終えて帰宅した静は、決まった時間に郵便受けを確認する。今日届いたのはチラシと、日本年金機構からの封書だった。老眼鏡をかけて丁寧に開けると、縦書きの数字が並んでいる。今年の4月から年金額が改定され、手取りが増えるはずだった。しかし、彼女の計算とは違う数字がそこにあった。 所得税の控除額が微増し、介護保険料の段階も上がっていた。差し引かれた手取り額を3度確かめる。唇が動いたが、声は出ない。5,000円。彼女が毎月の生活費として見込んでいた額よりも、実際の手取りは5,000円少なかった。静にとって5,000円は食費の1週間分だ。毎晩7時半にスーパーへ行き、半額シールの貼られた弁当を買うのは、そのためなのだ。 はがきを片付け、水を飲もうとした時、電話が鳴った。この時間帯にかかってくることはほとんどない。受話器を取ると、男の声がした。 「株式会社三不動産管理と申します。黒橋様でいらっしゃいますか。実は、松崎千代様の件でご連絡をさせていただいております」 静の手が固まった。松崎千代は、隣の町内に住む72歳の女性だ。去年の5月、千代は静の家に泣きながら訪ねてきた。 「今の家から引っ越さなければならなくなった。新しい所を探しているけど、高齢の一人女性はどこも断られる。連帯保証人になってくれる人がどうしても見つからない。お願いだから、助けてほしい」 静はすぐには承諾しなかった。しかし翌日、千代はまた来て、入居審査の書類を持ってきた。「あなたにしか頼めないんです。あなたは真面目な方だから」と泣きながら懇願された。静は断れなかった。千代の苦境は、明日の自分の姿かもしれないと思った。そして、断った時に、千代が近所に何を言うかが怖かった。高齢になって地域の中で立場を失うことは、静にとって想像以上に恐ろしいことだった。結局、静は書類に名前を書き、実印を押した。 電話の男の声は淡々と続く。 「松崎様から2ヶ月分の家賃のお支払いがありません。現在ご連絡も取れない状況でして。保証人である黒橋様に第2弁済をお願いしたく、ご連絡差し上げました。家賃5万8,000円の2ヶ月分と管理費、遅延損害金を合わせますと、15万円を超える見込みです」 静は何も言えなかった。頭の中で数字がゆっくりと沈んでいく。15万円。手に持った受話器が冷たくなる。男は続けた。 「近々、書類をご自宅へお送りします」 電話を切った後、静は台所の椅子に腰を落とした。雨音だけが部屋に響いていた。彼女は頭の中で計算を始める。今月の手取り年金、パート収入。固定費を引いた後に残る生活費。そこから15万円を捻出するには、答えは一つしかなかった。押し入れの奥の通帳。夫が死ぬ前に残してくれた150万円。「老後に何かあった時のための金だ」と、夫は言っていた。 あの日、夫の葬儀を終えてから5年間、一度も開かなかった通帳。それが彼女にとって最後の砦だった。しかし、その夜、静は何もできなかった。スーパーにも行かず、冷凍庫の麦飯と梅干で夕食を済ませ、早めに床についた。それでも眠れなかった。 翌日、静は自分で確かめに行こうと思った。千代が住んでいた賃貸マンションへ。郵便受けは紙の束で溢れ、電気料金の督促状や不動産管理会社からの封筒が半分はみ出していた。3階の308号室のドアをノックしても、返事はない。管理人室で中年の男性に尋ねると、男性は言った。 「4月の初めに出ていきましたよ。朝から業者を呼んで、荷物を全部運び出していった。どこへ行くかも何も言わずに。管理会社にも連絡なしで、鍵だけポストに」 静は何も言えなかった。4月の初め。今は6月。2ヶ月以上が経っている。千代は2ヶ月分の家賃を滞納し、静を保証人にしたまま、黙って消えたのだ。最初から計画していたのか、追い詰められて逃げたのか。答えはどこにもなかった。 自宅に戻ると、静は1年前にサインした保証人書類の控えを読み返した。確かに自分の名前と住所がある。実印で押した印影は、1年経っても鮮やかだった。胸の奥に、怒りとも後悔ともつかない熱いものが広がる。自分への苛立ちに近かった。なぜあの時、もっと慎重にならなかったのか。 翌日、静はクリーニング店に出勤した。作業をしていると、店主の栗田が声をかけてきた。 「黒葉さん、ちょっといいですか? 来月から少し勤務の日数を調整させて欲しい。週3日を週2日で。売上が厳しくて、人件費を抑えないといけない」 静は「はい、分かりました」とすぐに答えた。間を置いたら、動揺が顔に出ると思ったからだ。週2日になれば、1ヶ月の収入は3万円を下回る。そこから15万円を捻出するのは、不可能に近かった。 帰り道、静は郵便局の隣に小さな法律相談所の看板を見つけた。土曜日の午後に無料相談が開かれている。予約不要、先着順、1人30分。静は立ち止まり、その張り紙を読んだ。息子に電話しようかと思った。大阪に住む息子、幸夫。42歳で、妻子がいる。正月に短い電話をするだけの間柄になって3年になる。 「もしもし。お母さんだけど」 「ああ、どうしたの? 今ちょっと外にいるんだけど。何分後に電話していい? 今、得意先と出てきたとこだから」 息子の声は穏やかだったが、話を聞く準備ができていないことは分かった。静は言った。「大丈夫。大したことじゃないから」 電話を切った。受話器を戻しながら、静は思った。大したことではないのか。15万円。老後のための金を取り崩さなければならない。それを「大したことではない」と言ってしまったのは、息子に気を使ったからではない。息子の声の温度を知っていたからだ。夫が晩年に見せた顔と、どこか似ている。話しかけても、今は受け止められないという顔。静はいつもその表情を見てから、黙ることを覚えてきた。 翌日、郵便受けに再度、三不動産管理からの封筒が入っていた。督促状だ。支払い期限は6月20日。今日は6月11日。9日しかない。 土曜日、静は法律相談所を訪れた。相談員は30代後半の男性で、書類に目を通しながら言った。 「法的には、連帯保証人として支払い義務が生じています。相手方の連絡先や行方がどうであれ、請求が来れば拒否することは難しい状況です。ただ、支払いについて分割交渉をすることは可能です。管理会社に事情を説明し、一括ではなく数回に分けて支払うことを打診してみる価値はあります」 分割交渉。静は頭の中でその言葉を繰り返した。今まで考えていなかった選択肢だ。 月曜日、静は管理会社に電話をかけた。担当者の星野という男は、「分割は原則として認められていない。ただし、申し立て書を提出していただければ、社内で検討します」と言った。書類を郵送すると期限に間に合わないため、直接事務所に来てほしいと言われた。場所は大和市。電車で1時間。明日、火曜日に行けば、期限までに間に合う。 火曜日の朝、静は前日に洗って干しておいたシャツとスラックスを着た。完全に乾いていなかったが、ドライヤーを当てて誤魔化した。交通費は往復で1,800円ほど。大きい出費だったが、行かないことには始まらない。三不動産管理の事務所は、雑居ビルの2階にあった。担当者の星野は40代半ばの細身の男で、愛想はないが丁寧だった。静は申し立て書を書いた。収入が年金とパートのみで一括支払いが困難であること。希望の分割回数は3回。5万円ずつ3ヶ月で支払う計画だ。星野は書類を確認しながら言った。 「現在の収入が確認できる書類はお持ちですか? 年金額が分かるものと、パートの収入が分かるものを郵送でいただけますと、審査がスムーズです」 静は帰宅後、年金通知と給与明細の控えをコピーし、簡易書留で送った。あとは結果を待つだけだった。 6月20日、金曜日。朝から体が緊張していた。午前9時を少し過ぎた頃、電話が鳴った。星野からだ。 「今回提出いただいた書類と添付資料を確認しました。ご収入の状況は理解できました。ただ、弊社の規定として、連帯保証案件での分割払いは原則として認められておりません。今回もその規定を適用させていただくことになりました。誠に申し訳ございませんが、本日期限内での一括払いをお願いします」 静は「分かりました」と即答した。準備をしていたからだ。電話を切り、引き出しから督促状を取り出し、振込先を確認した。それから押入れを開け、緑色のファスナーケースを取り出した。5年間、触れなかったもの。夫が残していった金。通帳の表紙を指先で一度撫でた。それから、通帳と実印をバッグに入れた。 銀行で15万3,600円を引き出し、郵便局で振り込んだ。窓口で処理をしながら、静は不思議と解放感も、悲しみも感じていなかった。ただ、重いものを地面に置いたような感覚だけがあった。手は軽くなったが、置いたものがそこにあること自体は変わらない。帰り道、八百屋でキュウリを買った。「今日は午後から晴れるみたいですよ」と店員が言った。天気の話だ。悪意はない。静は「そうですか」と答え、家に帰った。 夜、いつもの時間にスーパーへ行き、半額になった幕の内弁当を買った。豆腐も買って、夕食にした。食べながら、静は今日1日のことを整理した。朝の電話、銀行、郵便局。それらが1つがりの出来事としてまとまっていく。終わったのだ。少なくとも、この一件は。 翌朝も5時半に目が覚めた。体は重くも軽くもなかった。顔を洗い、髪を整え、薬を飲み、朝食を作った。久しぶりに朝、お茶を入れた。つばめの声が聞こえる。今日は1羽だけが電線に止まっていた。箒で門の前を掃き、家に入る時、玄関の段差でふと立ち止まった。なぜ止まったのか分からなかった。ただ、今朝はいつもより静かだという感覚があった。昨日まで頭の中にあった「期限」という言葉が、今日はもうそこにない。その空白が、少しの間だけ静を立ち尽くさせた。 午前10時過ぎ、玄関のチャイムが鳴った。インターホンには野村せ子が映っている。自治会で何でも知っていて、何でも喋る女だ。静は玄関を開けた。野村は手に和菓子屋の袋を持っていた。 「あら、いらっしゃってよかった。これ、昨日もらい物があって、少し多かったから」 静は受け取り、お礼を言った。野村はそこで引き下がらなかった。 「黒葉さん、最近大変でしたね。うちの旦那が、あなたの郵便受けに不動産屋の封筒がたくさん来ているのを見かけたって。何かトラブルがあったんじゃないかと、私も心配して」 静は顔に何も出さないように気をつけた。「実はですね、以前知人の賃貸の保証人になっていた件で少しご連絡をいただいていまして、昨日、解決しました。ご心配をおかけしました」 野村は少し目を開いた。「解決したんですか。それは良かった。どちらの知人の方ですか?」 「少し遠い方でして。こちらの方ではないんです」 これ以上は詳しく話さないという意思表示を、できるだけ穏やかに伝えた。野村は少し間を置き、笑顔を作った。「そうですか。何にせよ解決してよかったですよ。保証人って本当に怖いですから」 「はい。良い勉強になりました」 野村は「またね」と言って帰っていった。静は玄関を閉め、受け取った袋を開けた。水饅頭が4つ入っている。夏らしい菓子だ。野村が持ってきたのは、様子を見に来るための口実だろう。だが、封筒の件を知られていたことは今日はっきりした。解決したと伝えたことで、これ以上掘り返されることは少なくなるかもしれない。そう考えることにした。 … Read more