母を10歳で亡くし、作業服の父に育てられた私。婚約者の家に挨拶に行った夜、「片親で、作業服。底辺家族とは付き合えないわね」と、その母親に面と向かって言われた。婚約者も、「俺には無理だ」と俯いたまま告げた。その時、父は何も言い返せず、ただ頭を下げて、私の手を引いて帰った。あの夜、私は知らなかった。父が、年商4.5兆円の巨大企業の会長だということを。そして翌朝、父はその銀行に、一言だけ告げた。『…
インターホンを押したのは、私だった。白山家の3人が、古びたアパートの前に立っていた。高級車から降りた後も、誰も口を開かなかった。秋の夜風が、住宅街に吹き抜けていく。 ドアが開いた。作業服姿のまま、父が立っていた。私はその瞬間、膝が崩れ落ちそうになった。それでも、必死に言葉を絞り出した。 「長瀬さん、本当に申し訳ございませんでした。妻の言動は、全て私の責任です」 深く頭を下げた。夫も、息子も、隣で同じように頭を下げた。息子の蒼太が震える声で言った。 「マリさんに、本当に申し訳ありませんでした。もう一度だけ、お話しさせていただけませんか?」 だが、玄関の奥で、マリが静かに首を横に振るのが見えた。父はその視線を受け止め、淡々と告げた。 「娘はそう申しております。婚約のお話は結構です。今後は、お互い無関係にいきましょう」 私は顔を上げた。涙が滲んでいた。 「ですが、近郊の件はどうか…」 「それは純粋なビジネスの判断です。別で考えてください」 父は静かにドアを閉めた。私たち3人は、その場に立ち尽くした。夜の住宅街に、風だけが吹いていた。私の膝には、床の汚れが白く残っていた。あの夜、私はこの男を「底辺家族」と見下した。今夜は、その男の玄関の前で頭を下げている。これが、自分の結果だと、信は思った。 あの夜のことだ。遡ること数ヶ月。私は、息子の蒼太の婚約者を紹介されることになった。相手は長瀬マリ。作業服で工場勤めの男の娘だ。最初から、ろくな家柄ではないと思っていた。 「もう今日は、ご挨拶の席ですから」 私は上座に座り、マリを一瞥した。1万円台の安っぽいバッグ。作業服姿のままの父親。私は、その全てが気に入らなかった。 「長瀬さんのご家庭は、お母様はいらっしゃらないのですよね?」 マリは小さく頷いた。 「はい。10歳の時に亡くなりました」 「やはり。でしたら、環境的にも、措置が終わるかどうか、少し心配でして」 私は遠回しに、彼女の家柄をけなした。片親。作業服。工場。それが全て、私の判断の根拠だった。マリの指先が、わずかに震えているのに気づいた。それでも、私は畳み掛けた。 「蒼太には、相応しい家の娘をと考えておりました。マリさんも素敵な方なのでしょうが。家柄が…」 その時、マリの父、俊蔵が静かに口を開いた。 「お気持ちは分かります。質素な格好で参りましたことは、申し訳ありませんでした。しかし、マリは誰よりも誠実に育ちました」 私はその言葉を遮った。 「誠実さだけでは、家柄は保てませんのよ、長瀬さん」 場の空気が固まった。私は、蒼太に向かって言った。 「蒼太、あなたからも、きちんと話しなさい」 蒼太はうつむいたまま、絞り出すように言った。 「マリさん、ごめん。俺には無理だ。なかったことにさせてほしい」 その瞬間、マリの目から涙が溢れた。私は、心の中で、これで終わったと確信した。帰り際、マリの父が静かに頭を下げた。 「本日はお時間をいただき、ありがとうございました。失礼いたします」 彼らが去った後、私は夫の信に言った。 「やっぱり、あの程度の家柄では、無理だったのよ」 信は何も言わなかった。ただ、窓の外を見つめていただけだった。 その日の夜、マリは父の胸で泣いた。作業服姿の父は、ただ静かに娘の背中を撫でていた。マリは思った。なぜ、父は何も反論しなかったのか、と。しかし、翌朝、マリの職場に1本の電話が入る。 「長瀬様、お客様がいらっしゃっています。長瀬ホールディングスの西田だと名乗っておられます」 マリは首をかしげた。聞いたこともない会社名だった。会議室に通されたのは、品のある中年男性だった。 「長瀬さんでいらっしゃいますか? 私は長瀬ホールディングス専務取締役の西田浩司と申します。会長・長瀬俊蔵のご息女を探しておりました」 マリは目を見開いた。 「会長? 私の父は、ただの工場の…」 「長瀬俊蔵会長のご息女様で間違いないですね」 西田は名刺を差し出した。裏面には、グループ会社の一覧が細かく並んでいた。製造、不動産、物流、金融、テクノロジー。社数は、75社。マリの手が震え始めた。 「これ、うちの父が本当に?」 「はい。会長から連絡をいただきました。娘が大変な思いをしたと。そして、対応の指示をいただきました」 西田は続けた。 「長瀬ホールディングスは現在、国内75社を傘下に持ちます。年商は4. 5兆円。グループ総預金残高は約3兆1400億円です」 マリは、その言葉を飲み込めずにいた。あの作業服の父が、3兆円を動かす人間? 毎朝、崩れた卵焼きを弁当箱に詰めて、謝っていた父が? マリは、その日の仕事が終わると、急いでアパートへ戻った。台所から出汁の匂いがする。父が、エプロン姿で夕食の準備をしていた。 「お父さん、教えて。長瀬ホールディングスって、何?」 俊蔵は手を止め、静かに振り返った。 「知ってしまったか」 「どういうこと? … Read more