「あなたはお医者さんなんですか?」——10年間、受付係として静かに生きてきた俺に、突然あの男が運ばれてきた。10年前の工事現場の事故で、俺が救えなかった患者の父親。あの日、全ての責任を俺たち作業員に押し付け、自分だけ法廷に逃げ込んだ男だ。ガラスの向こうで、手術は混乱し、執刀医は迷い、部長は「窓口の素人が何をする」と怒鳴った。そして理事長は新品の白衣を俺に差し出した。「君は医者だ」と。あの日、…
朝8時、病院のロビーはすでに患者で溢れていた。自動ドアが開くたび、冷たい風とともに新しい患者が流れ込んでくる。俺は診察券を受け取りながら、淡々と作業を続けていた。 「おはようございます。本日は内科のご予約ですね」 俺の名前は原田誠。歳は36、独身。この精鋭会総合病院で受付として働いて8年になる。カウンター越しに見える患者たちは、誰もが何らかの不安を抱えている。母親に抱かれた赤ん坊。点滴台を引いた入院患者。俺はその一人ひとりに、淡々と番号札を渡す。それだけが今の俺にできることだ。 「原田さん、おはようございます」 振り向くと、ベテラン看護師の佐々木さんが書類を抱えて立っていた。 「おはようございます。今日も朝から混んでますね」 「ええ、インフルエンザが流行り始めているみたい。原田さんも気をつけてね」 「ありがとうございます。佐々木さんこそ、無理しないでください」 会話はそれで終わった。俺はまた画面に視線を戻す。壁掛けテレビが朝のニュースを流していた。政治の話題、株価、天気予報。誰も真剣には見ていない。その時、自動ドアの向こうで足音が響いた。ヒールの音だ。リズムが早く、迷いがない。 「おはようございます、原田さん」 顔を上げると、白い白衣を着た女が立っていた。木崎洋子。この病院の心臓外科のエース。36歳、独身。実力も容姿も完璧という噂で、患者からの信頼は院内でも群を抜いている。 「おはようございます、木崎先生。今日もお早いですね」 「ええ、午後にカテーテルが2件入ってるので」 彼女はカウンターに手をついて、少しだけ俺の顔を覗き込んだ。 「原田さん、昨日のカルテの整理、助かりました。あなたが整理してくれた書類は、いつも分かりやすいです」 「いえ、仕事ですから。お役に立てたなら良かったです」 木崎は頷いて、エレベーターの方へ歩いていった。ヒールの音が遠ざかる。佐々木さんが小さく笑った。 「木崎先生、原田さんのこと気に入っているみたいね」 「気のせいですよ。先生は誰にでも丁寧な方ですから」 そう言って、俺はまた画面に目を落とした。木崎洋子という女のことはもちろん知っている。腕は確かだ。判断も早い。ただ、完璧であろうとしすぎる癖がある。追い込まれた時、その癖がどう出るか。それだけが少し気にかかっていた。もちろん、俺がそんなことを口に出すことはない。俺はただの受付だ。 昼前、ロビーに大きな声が響いた。 「おい、窓口」 顔を上げると、心臓外科部長の沢村亮が立っていた。45歳。白い白衣の襟元には、いつものブランドのネクタイ。腕時計も革靴も、全て高価なものだ。 「沢村部長、お疲れ様です。何かございましたか?」 「お疲れ様じゃないだろう。先週、緊急搬送の導線変更について連絡を回したはずだ。なぜ窓口の対応がバラバラなんだ」 「申し訳ございません。確認いたします」 「確認じゃない。すぐに直せ」 沢村はカウンターに書類を叩きつけた。周囲の患者がちらりとこちらを見る。 「承知しました。すぐに全員に周知いたします」 「お前みたいな受付係が現場の動きを乱すんだよ。医療ってのはな、知識と経験の世界だ。事務方は事務方らしく、黙って指示に従っていればいい」 俺は黙って頭を下げた。俺はもう医者ではない。ただの受付だ。沢村は鼻を鳴らしてエレベーターへ向かった。佐々木さんが小さくため息をついた。 「沢村先生、最近またピリピリしてるわね。今度の学会発表で焦ってるのよ」 「そうですか。難しい立場ですからね、部長というのは」 「原田さんは本当に怒らないわね。私だったら一発ぐらい言い返したくなるけど」 「言い返す必要のないことにエネルギーを使うのはもったいないですよ」 そう言って俺は笑った。佐々木さんは肩をすくめて、また病棟へ戻っていった。こういう人間はどこにでもいる。医者だった頃も、何人も見てきた。肩書きで人を見下す者ほど、自分の中に不安を抱えている。俺はそれを十分に知っていた。だが、それが俺の現実を変えるわけではない。俺はただの受付だ。 昼休み、俺は職員食堂の隅で定食を一人食べていた。ふと、隣の席に誰かが座った。神谷理事長だった。 「原田君、隣いいかね?」 「理事長、もちろんです。どうぞ」 理事長は穏やかな笑みを浮かべていた。俺がこの病院に来た日から、ずっと変わらない笑い方だ。 「最近どうかね、仕事は」 「おかげ様で、変わりなくやらせていただいています」 「そうか。それは何より」 理事長はお茶を一口飲んで、静かに言った。 「君の手はまだ覚えていると思うがね」 「理事長、その話はもう」 「すまん。年寄りの独り言だ。気にせんでくれ」 神谷理事長は、俺の過去を知る数少ない人物だ。10年前、白衣を脱いだ俺を、それでもこの病院で雇い続けてくれている。 午後3時過ぎ、ロビーの空気が突然張り詰めた。救急受け入れのアナウンスが流れる。 「緊急搬送、入り口準備願います」 俺はカウンター越しに救急入り口の方を見た。救急車のサイレンが敷地内に入ってくる音がする。数分後、ストレッチャーが運び込まれてきた。酸素マスクをつけられた初老の男。顔色は土気色だった。そのすぐ後ろを、スーツ姿の男が走ってくる。30歳前後だろうか。青ざめた顔で、看護師たちに必死に呼びかけていた。 「父を、父を助けてください。お願いします」 俺はその名前をすぐに思い出した。受付システムに入力された患者名、黒崎龍一。その瞬間、俺の手が止まった。その名前を忘れたことはない。10年前、あの工事現場の事故。全ての責任を現場の作業員に押し付け、自らは法廷に逃げ込んだ男。あの事故で運ばれてきた少年を、俺は救えなかった。俺はゆっくりとストレッチャーの上の顔を見た。酸素マスクの下、苦しそうに歪んだ顔。10年分確かに歳を取っている。だが、間違いない。あの男だ。 沢村が走ってきた。 「木崎先生、すぐに執刀の準備を。大動脈解離だ」 … Read more