離婚届に判を押した瞬間、夫は勝ち誇って言った。「資格もないお前に、もう僕の隣にいる価値はない」…
離婚届に判を押した瞬間、元夫の健一は勝ち誇ったように言い放った。 「君みたいな資格もない女は、もう僕の隣にふさわしくない。これからは美穂さんが僕の妻であり、このクリニックの副院長だ」 隣には真っ白な衣服を着た若い女が立っている。義母は満足そうに頷き、私を嘲笑った。私は怒鳴らなかった。泣いてすがることもなかった。ただ手元のスマートフォンを静かに見つめていた。 ここは亡き父が残したクリニックの院長室。重厚な革張りのソファに深く座った健一は、自分がこの世界の王様であるかのように振る舞っていた。 「まあ、慰謝料代わりに今のマンションには住み続けていいよ。毎月の生活費も少しは振り込んでやる」 そう言って健一は、これ見よがしにブランド物の財布を開いた。その中には黒く光るクレジットカードが何枚も入っている。義母も横から甲高い声で口を挟んできた。 「由美さん、あなたもいい年なんだから現実を見なさいな。健一は立派な院長先生なのよ。医者でもない、ただの事務員がいつまでも奥様の顔をしているなんて。世間様が笑うわ」 二人は自分たちが全ての権力と財産を握っていると信じて疑わない。私はテーブルの上の緑色の紙、離婚届を静かに見下ろしていた。右側の欄には健一の署名と判がすでに押されている。 「早く判を押しなさい。美穂さんとの婚姻届も、急いで役所に出すんだから」 健一はせかすように判子を私に押し付けた。隣に立つ美穂と呼ばれた女が冷たい目で見下ろしてくる。 「奥様、長い間お疲れ様でした。これからのクリニックの経営と健一さんのサポートは、同じ医師である私にお任せください」 自信に満ちたその言葉。私は小さく息を吐き、判子を受け取った。そして躊躇することなく、自分の名前の横に判を押した。カチッという音が静かな院長室に響いた。 健一は素早く離婚届を奪い取ると、美穂と顔を見合わせて笑った。 「よし、これで晴れて自由だ。美穂さん、すぐに役所へ行こう」 「ええ、健一さん。私たちの新しい人生の始まりね」 二人は腕を組み、私に一瞥もくれずに部屋を出て行こうとした。その背中を見送りながら、私は不意に口元を上げた。ほんのわずかな笑み。それに気づいた義母が不思議そうに眉をひそめた。 「何を笑っているのよ。負け犬のくせに」 君が悪い。私は答えなかった。ただ静かに立ち上がり、自分のバッグを手に取った。 「由美さん、私はこれから銀座へ行くわ。健一の結婚祝いに、前々から欲しかった宝石を買うの。このカードでね」 義母は自分の財布から黒いカードを引き抜き、私の目の前でヒラヒラと揺らした。それは私が数年前に義母に渡したものだ。 「健一の稼いだお金だもの。母親の私が使って当然よね。あなたにはもうこんなカードを持つ資格もないのだから」 義母は高笑いをしながら、健一たちを追って部屋を出ていった。一人残された院長室。私はゆっくりと息を吸い込み、そして静かに吐き出した。胸の奥にあった重たい鉛のような塊が、すっと消えていくのを感じる。私は部屋を出て、裏口から自分の車に向かった。運転席に座り、ドアを閉める。外の音は完全に遮断され、車内には静寂が広がった。 私はバッグからスマートフォンを取り出し、画面を開いた。時計の針は、健一たちが役所に向かってからちょうど十分が経過したことを示している。今頃窓口で二枚の紙を提出しているはずだ。一枚は私との離婚届。そしてもう一枚は美穂との婚姻届。 私はスマートフォンの銀行アプリを開いた。画面には私の個人名義で契約しているクレジットカードの管理画面が表示されている。そこには家族カードとして発行された二つの名前があった。佐藤健一、佐藤和子。 そう、彼らが院長の権力だと信じて疑わなかった、あの黒いカードは、クリニックの経費でも健一の口座から引き落とされるものでもない。亡き父から莫大な資産を受け継いだ私個人の口座から引き落とされる、ただの家族カードだったのだ。健一は自分がクリニックのトップだから自動的に富が集まってくるのだと本気で勘違いしていた。医療法人の代表権も、この土地や建物の所有権も全て私が持っていることなど、彼は一度も調べようとしなかった。毎月のように高級車を乗り換え、愛人にブランド品を買い与えていたお金。義母が毎日のように高級レストランで会合していたお金。それらは全て、私が彼らの見栄のために使わせてあげていただけのこと。 私は画面に表示された二人の名前の横にある「利用停止」という赤いボタンを静かにタップした。本当に利用を停止しますか?確認のポップアップが表示される。私の指に少しだけ力が入った。この二十年間、私は父の残したこの場所を守るために必死で裏方に徹してきた。健一の浮気も義母の心ない言葉も、全てはスタッフや患者さんたちに迷惑をかけないためだと自分に言い聞かせて耐えてきたのだ。けれど、もうその必要はありません。 私は「はい」のボタンを押した。手続きが完了したという冷たい文字が画面に表示された。これで彼らの手元にある魔法のカードは、ただのプラスチックの板になった。私はふっと息をつき、ダッシュボードに置かれた父の古い写真に目を向けた。 「お父さん、これでやっと私自身の人生を始められます」 小さく呟いたその時、スマートフォンの画面に一通の通知が届いた。これはクレジットカード会社からの決済エラーを知らせる通知だった。場所は銀座の高級宝飾店、金額は三百五十万円。義母が早速結婚祝いの品を買おうとしたのだろう。しかし、その直後に私のスマートフォンが鳴り始めた。画面に表示されたのは義母の文字。きっとレジの前でカードが使えず、パニックになっているに違いない。私は電話には出ず、電源を静かに切った。この時の義母も、そして役所にいる健一もまだ気づいていない。彼らが当然のように享受していた富と地位が、砂の城のように崩れ去ったことに。そして、数時間後、彼らの顔色をさらに青ざめさせる出来事がもう一つ用意されていることにも。 電源を切ったスマートフォンを助手席に置いて、私は車を走らせた。向かうのは健一と共に暮らしていたあの広いマンションではない。数ヶ月前から密かに契約し、荷物を運んでいた小さなアパートだ。ハンドルを握る手は、自分でも驚くほどリラックスしていた。窓の外を流れる町の景色が、いつもより鮮やかに見える。これまでの二十年間、私の肩には常に見えない重たい荷が乗っていた。院長室のドアを閉めた瞬間、その荷がすっと消えていくのを感じたのだった。 あの緑色の離婚届に判を押す時、私の指先は少しも震えなかった。健一は私が悲しみで言葉を失っているのだと勘違いしていたようだが、違う。私はただ、彼が自ら提出してくれるのをじっと待っていただけだった。 「由美、このクリニックとスタッフをどうか頼む」 それが病床で私の手を強く握りしめた、亡き父の最後の言葉だった。父は地域に根差した小さな内科クリニックを営んでいた。派手さはなかったが、患者さんに寄り添う優しい医者だった。しかし二十年前、父は急な病で突然この世を去ってしまった。葬儀の日、冷たい雨が降る中で、私はただ途方に暮れていた。残されたのは悲しむスタッフと、まだローンの残る古い建物。医療事務として父を手伝っていた私には医師免許がない。代わりの医師を探すか、クリニックを畳むしかない。そう覚悟し、家の前で一人涙を流していた夜のことだ。 当時大学病院の勤務医だった健一が、私の肩を優しく抱いた。 「僕が院長になって、君と父さんのクリニックを守るよ。結婚しよう」 その言葉に、私はどれほど救われたことだろう。私は彼に深く感謝し、裏方として全てを支え抜く決意をした。彼が医療に専念できるように、それ以外の苦労を引き受けようと誓った。しかし、その純粋な感謝の気持ちは、年と共に削られていった。健一は院長先生と呼ばれる日々に慣れるにつれ、人が変わってしまった。患者さんへの態度は横柄になり、スタッフを怒鳴りつけることも増えた。手首にはいつしか私が知らない高級時計が光るようになった。義母の和子さんが我が物顔でクリニックに出入りするようになったのもその頃だ。 「院長の妻がいつまでも安い事務服を着て受付に座るなんて、見苦しいわ。世間体が悪いから、あなたはもう裏に引っ込んでいなさい」 義母の強い要求で、私は表に出るのを控えさせられた。それでも私は自宅のデスクで毎晩遅くまで経理やローン計算を続けた。健一は医療の知識はあっても、経営のことや税金のことは全く理解していなかったからだ。ある日、私が徹夜で作った資金計画書を、健一は一瞥しただけで放り投げた。 「そんな堅苦しいのはどうでもいい。それより僕の新しい車のカタログ、どこにやった?」 床に散らばった書類を拾い集めながら、私は冷たい床の感触を感じていた。それでも耐え続けたのは、父が愛したクリニックを残したかったから。私を暗闇の中で支えてくれたのは、父の代から残ってくれたスタッフたちだった。特にベテラン看護師の圭子さんは、私の最大の理解者だった。 今から数年前、義母が勝手に待合室の絵画を自分の趣味の派手なものに変えさせた日のこと。高額な請求書を見つめながら、私は経費の帳尻を合わせるため一人でスタッフルームに残っていた。書類をまとめる手が止まり、ふと深いため息をついた時だ。私の目の前に、湯気の立つ温かい番茶が静かに置かれた。顔を上げると、私服に着替えた圭子さんが優しい笑顔で立っていた。 「由美さん、あまり無理をしないでくださいね」 私は書類を隠そうとしたが、圭子さんは私の手にある古い電卓をそっと指さした。 「私たちは、今の院長先生についてきているわけじゃありませんよ」 その言葉に、私ははっと顔を上げた。 「前のお父様が残してくれたこの場所と、裏で必死に泥をかぶって守ってくれている由美さんがいるから。だから私たち、ここで働き続けているんです」 その温かい番茶の匂いと、圭子さんの静かな一言。私はその時、こぼれそうになる涙を必死にこらえた。私が守るべきものは、健一との冷めきった夫婦生活ではない。この場所で働く人たちの人生と、父の残した思いなのだと、はっきり気づいたのだ。その日から、私の心の中で何かが決定的に変わった。 だからこそ、半年前の健一の言葉にも私は冷静でいられた。 「クリニックの将来のために、美穂さんを副院長として迎えたいんだ」 健一はそう言って、私に若く美しい女医を紹介した。私はすでに気づいていた。健一のネクタイの柄が急に派手なものに変わっていたこと。夜遅くに帰宅した彼のジャケットから、甘い香水が匂っていたこと。そして何より、美穂という女性が私を見る、勝ち誇ったような冷たい目。 「由美さんも、これまでご苦労だったね。もう経営のことは彼女に任せて、家でゆっくり休んでくれ」 それは私に対する事実上の追放宣言だった。普通の妻なら、ここで泣いて怒り、浮気の証拠を突きつけるだろう。でも私は絶対にそれをしなかった。なぜなら、もし私が感情的になり泥沼の離婚裁判を起こせば、クリニックの運営が止まってしまうからだ。スタッフの給料が払えなくなり、患者さんにも大きな迷惑がかかる。それだけは何があっても避けなければならなかった。だから私は、何も知らない、反論もできない愚かな妻を演じ続けた。健一が完全に油断し、自ら離婚届を持ってくる日を静かに待っていた。法的に完全に他人になるその瞬間まで、私は水面下で準備を進める必要があったのだ。 アパートの駐車場に車を止め、私はゆっくりとエンジンを切った。静寂に包まれた車内で深呼吸をし、助手席のスマートフォンの電源を再び入れた。画面が明るくなった瞬間、信じられない数の通知が一斉に鳴り響いた。義母からの着信履歴が三十件、健一からのメッセージも十件以上届いている。 「由美さん、どういうことなの?カードが使えないんだけど」 「おい、お袋のカードを止めたか?ふざけるな。すぐ元に戻せ」 … Read more