雪の降る田舎町で、私は看板をふと見上げて足を止めた。ベビーカステラの屋台の前に立つ女性。背中には双子を負って。3年前に死んだはずの妻が、そこにいた。私は震える声で「はずき」と呼びかけたが、彼女は見知らぬ人のように冷たく言った。「お客様、人違いだと思います。私は鈴木み子です。」そして、子供たちの鼻の先にあるあのほくろを見た瞬間、心臓が止まる思いだった。あの子たちは、私の子供だ。真実を知らなけれ…
雪が激しく舞う田舎町の商店街で、私は死んだはずの妻の声を聞いた。心臓が止まるかと思った。3年前に事故で亡くなったと聞かされた妻、桜井はずきが、古びたダウンジャケットにエプロン姿でベビーカステラを焼いていたのだ。背中には一人の子供を負い、前にはもう一人を抱っこ紐で抱いている。双子のように見えた。 私は震える声で呼びかけた。 「はずき……俺だよ。順だ。」 女性は顔を上げたが、その目には何の感情もなかった。見知らぬ人を見るような、冷たい目だった。 「お客様、人違いだと思います。私は鈴木み子です。」 その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。死んだはずの妻が生きている。なのに、なぜ俺を覚えていないのか。私の視線は子供たちの目元に留まった。その目元は、どこかでよく見たものだった。私自身の目元とそっくりだったのだ。そして、子供たちの鼻の先には小さなほくろがあった。私にも全く同じ位置にあるほくろだ。藤堂家に代々伝わる遺伝だった。 「あの……ベビーカステラ、いかがですか?」 女性が恐る恐る口を開いた。私は必死に気を取り直し、500円分を買ってその場を離れた。ベビーカステラの袋から漂う甘い香りが、恋愛時代にはずきと一緒に食べたあの味を思い出させた。 「私、子供の頃すごく貧乏だったんです。ベビーカステラが一番美味しいおやつでした。だから今でも大好きなんです。」 はずきがはにかみながら言った言葉が蘇る。 車に戻り、私はしばらくぼんやりと座っていた。3年前のことだ。はずきが事故で死んだとだけ聞かされた。しかし、遺体がどこにあるのか、葬儀はどこで行われたのか、何も知ることができなかった。ふと、おかしいという思いが頭をよぎった。 私は財布から古い名刺を取り出した。私立探偵の名刺だった。震える手で携帯電話を握りしめた。真実を知らなければ。あの日、一体何があったのか。 その夜、私は眠れなかった。頭の中には、ベビーカステラを焼く女性の姿と、私を認識できなかったあの目が浮かび続けた。 私は所斎で古いアルバムを取り出した。はずきの明るい笑顔が目に飛び込んでくる。5年前の春、私は父の会社で専務に昇進したばかりだった。31歳という若さで役員になったのだから、周囲の期待は大きかった。しかし、当の本人は毎日が戦争のようだった。 そんなある夜、11時を過ぎた頃、私は静かなオフィスで一人書類を検討していた。その時、控えめなノックの音が聞こえた。 「失礼します。もしよろしければ、コーヒーはいかがですか?」 顔を上げると、見慣れない若い女性が立っていた。きちんとしたスーツ姿で、手にはコーヒーを持っている。 「本日入社いたしました、新入社員の桜井はずきと申します。」 はずきはそっと微笑みながらコーヒーを差し出した。それが最初の出会いだった。 最初はぎこちなかったが、はずきは違った。残業していると必ずコーヒーを持ってきてくれた。疲れているように見えると、静かにお菓子を机の上に置いていった。いつしか私はその笑顔を待つようになっていた。書類の話をしていたのが、いつしか趣味の話、家族の話へと広がっていった。 そしてある春の日、私ははずきに声をかけた。 「桜井さん、週末は時間ある? 一緒にどこか出かけないか。」 はずきの頬がほんのり赤くなり、こくりと頷いた。 初めてのデートは川沿いの公園だった。二人で自転車を並べてこぎ、夕暮れの空を一緒に眺めた。その日、私は小さな熊のぬいぐるみをプレゼントした。 「なんとなく、はずきさんに似ていたから。」 「私がクマに似てるんですか?」 はずきはケラケラと笑った。私も釣られて笑った。はずきはそのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめながら言った。 「ありがとうございます。本当にすごく可愛いです。」 付き合ってちょうど1年になる日、私は公園のベンチではずきの前に膝まずいた。 「僕と結婚してくれないか?」 はずきの目に涙が浮かんだ。返事の代わりに頷きながら、私を抱きしめた。 結婚式はとても温かいものだった。両親は二人ともはずきを心よく迎え入れてくれた。新婚生活は夢のようだった。はずきは毎朝早く起きてお弁当を二つ作った。週末には商店街でデートをした。べビーカステラを買って、二人で分け合って食べた。私はこの人と一生こうして生きていきたいと思った。 しかし、幸せは長くは続かなかった。結婚して半年ほど経った頃、義母の稽古子が突然倒れた。子宮がんという診断だった。病院の廊下で私は座り込んだ。はずきがそんな私の手を固く握ってくれた。その時、一人の介護士が入ってきた。綾部花代という女性だった。花代は40代半ばだったが、見た目はそれよりずっと若く見えた。口がうまく、エコのことを海外まで上手く話した。しかし、はずきは奇妙な感覚を覚えた。花代は人の前では優しいが、一人になると冷たく計算高いような目をする時があったからだ。 「あなた、あの介護士さん、なんだか変じゃない?」 はずきは言ったが、私は気に留めなかった。 ところが義母の容態が急激に悪化し、ある日の明け方亡くなってしまった。医師も首をかしげていた。そして49日が終わった直後、父の安造会長が衝撃的な発表をした。 「花代さんと再婚することにした。」 私は思わず立ち上がった。 「父さん、母さんの49日が開けたばかりじゃないですか。」 「花代さんは君の母親を献身的に介護してくれた。その恩に報いたいんだ。」 しかし父の決心はすでに固まっていた。こうして花代は新しい奥様となった。 最初の家族での食事の席で、花代の本性が現れた。 「はずきさん、これからは私があなたの小母さんよ。」 花代は笑いながら言ったが、目は全く笑っていなかった。そしてはずきの作った料理をちらりと見ると、鼻で笑った。 「元々何もない家の出の人は家事が上手だって聞いてたけど、あなたは違うみたいね。」 「小母さん、今何とおっしゃいましたか?」 私が冷たく言うと、は花代は手をひらひらさせた。 「あらあら。まあそういうことよ。冗談よ、冗談。そんなにカリカリしないで。」 笑ってごまかしたが、その目は依然として冷たかった。はずきはご飯を一口も喉に通すことができず、ただ俯いていた。まさに針のむろだった。 その時から花代の陰謀が始まった。花代には古くからの共犯者がいた。会社の財務担当の木村達夫だった。二人は密かに会社の金を横領し始めた。安造会長の薬にこっそりと体力を奪う薬物も混ぜた。会長は次第にぼんやりとし、判断力が鈍っていった。 「あの嫁が邪魔ね。会長のそばにいてあれこれ嗅ぎ回っているじゃない。」 「ご心配なく。人をつけてありますから。」 はずきはそんなことも知らずに日常を送っていた。夜眠れない時は、クマのぬいぐるみを取り出して抱きしめた。恋愛時代に私がプレゼントしてくれたあのぬいぐるみだ。 しかし、その日の午後のことだった。はずきは会長の指示で内部監査資料を整理していた。書類の山を一枚一枚めくっていると、不審な点に気づいた。会社の法人カードの利用明細に、出所不明の金額が計上されていたのだ。一定額が正体不明の口座に送金されている。三千万円、五千万円、時には一億円にもなった。総額をざっと計算すると、十億円をはるかに超えていた。はずきは震える手で関連書類をさらに探した。契約書の束が出てきたが、取引先の名前は聞いたこともないものばかりだった。ペーパーカンパニーだった。偽の契約書だったのだ。はずきは契約書の一番下の署名欄を見た。藤堂安造の名前が書かれていた。しかし、何かがおかしかった。会長が直筆で署名した書類と比べてみると、明らかに違っていた。会長のサインは最後の払いが上に跳ね上がる癖があったが、この書類のサインは払いが下に下がっていた。偽造されていたのだ。 … Read more