「お前の親友との間に、1歳の息子がいるんだ」手術室の扉が開く直前、夫が私の耳元でそう囁いた。脳腫瘍の手術を前にして。親友だと思っていた女が、勝ち誇った笑みで夫の腕の中の赤ん坊を抱いていた。彼らは私が死ぬ前提で、財産の話までしていた。私は何も言わず、ただ手のひらを握りしめた。そこには小型の録音機が隠されていた。そして私は知っていた。あの子供が、夫の子供ではないことを。私は彼らの嘘をすべて暴く準…
手術室の扉が開く直前、夫の健一が私の耳元で囁いた。「お前の親友との間に、1歳の息子がいるんだ。」 ストレッチャーを押していた看護師が不自然に目をそらした。空調の低い音だけが廊下に響いていた。私は怒鳴らなかった。泣き叫ぶこともなかった。ただ胸の上で組んだ両手を静かに握りしめた。 健一は勝ち誇ったように薄く笑っていた。これで私を絶望のどん底に突き落としたと信じているのだろう。けれど、この時の健一はまだ知らなかった。私がその事実をすでに半年前から知っていたこと。そして、私が握りしめている手のひらの中に、小型の録音機が隠されていることを。 「ごめんなさい」 健一の後ろから、一人の女性が顔を出した。高校時代からの親友であるミカだった。彼女の腕の中には小さな男の子が抱かれている。 「この子は、健一さんとの子よ」 ミカは申し訳なさそうな声を出した。しかし、その目には明らかな優越感が浮かんでいた。 私は脳腫瘍の宣告を受け、今日がその手術日だ。生存率が低い危険な手術だと健一たちには伝えてあった。だからこそ、彼らはこのタイミングを選んだのだ。私が二度とこの世界に戻ってこないと思い込んでいるから。 「お前の財産は、俺とミカ、そしてこの子で大事に使わせてもらうよ」 健一は周囲に聞こえないような低い声で言った。その言葉を聞いて、私はゆっくりと息を吐いた。私の心は悲しみよりも、深い冷たさで満たされていた。 私は目を閉じた。頭の中を義母の顔がよぎる。病室に見舞いに来た義母は、いつもよりずっと上機嫌だった。「由美さん、家のことは心配しないでね。全部、新しい人がうまくやってくれるから」 その言葉の裏にある意味を、私は痛いほど理解していた。義母もまた、ミカと健一の裏切りを知っていたのだ。いや、知っているどころか、歓迎していた。私の経営する会社の利益で、吉沢家の住宅ローンを払い、生活費を援助してきた。彼らは私をただの金のなる木としか見ていなかった。そして今、その木が枯れようとしている。だから新しい苗木としてミカを迎え入れたのだ。 私は点滴の管が繋がれた腕を少しだけ動かした。器具の擦れる音が妙に大きく聞こえた。 「怖いかもしれないけれど、安心して眠ってね」 ミカが白々しい涙を浮かべて私の手を握ろうとした。私は静かにその手を避けた。ミカの手が空を切る。一瞬だけ、彼女の顔に苛立ちが走った。 「由美? そうですか?」 私は枯れた声で短く答えた。健一とミカが軽蔑の表情を顔を見合わせる。 「『そうですか』とは何だ。ショックで頭がおかしくなったか」 健一が鼻で笑った。 「では、吉沢家への資金援助、全て止めますね」 私ははっきりとそう言った。健一の顔から、さっと血の気が引くのが見えた。ミカも、泣いていた子供を強く抱き直し、息を飲んだ。 「な、何を言っているんだ? お前はもう時間が」 「佐藤さん、手術室に入りますよ」 看護師の声が、健一の言葉を遮った。ストレッチャーがゆっくりと前に進み始める。健一が何かを叫ぼうとして、扉の向こうに消えていった。 私は手術室の明るい照明を見上げながら、静かに息を吐いた。健一たちは大きな勘違いをしている。私の脳腫瘍は、セカンドオピニオンの結果、良性であることが分かっていた。そして今回の手術は、安全にそれを取り除くためのものだった。私は死なない。後遺症も残らない。彼らを完全に油断させるために、最悪の診断結果だけを伝えていたのだ。 私の手元には、顧問弁護士の木村先生と進めてきた完璧な準備が揃っている。会社の口座の凍結、吉沢家への送金停止の手続き、そして離婚届と慰謝料の請求書。すでに私の財産は彼らの手の届かない場所に移してある。吉沢家のローン引き落とし口座も、明日には空になるはずだ。 手術の麻酔が効き始める中、私は目を閉じた。これまで私を縛りつけていた鎖が、一つずつ外れていくのを感じた。私は無事に目が覚めるのを待つだけだ。 — 深い闇の中から、少しずつ光が差し込んできた。遠くで規則正しい電子音が鳴っている。 「佐藤さん、終わりましたよ。聞こえますか?」 名前を呼ばれ、私はゆっくりと目を開けた。視界がぼやけていたが、白い天井が見えた。麻酔で体は鉛のように重く感じる。それでも、私の意識ははっきりとしていた。頭に鈍い痛みはあるが、確かな命の鼓動を感じる。 「手術は完璧に成功しましたよ。安心してください」 担当の医師が私の顔を覗き込んで微笑んだ。 「腫瘍は全て綺麗に取り除きました。良性でした」 その言葉を聞いた瞬間、私の目から涙がこぼれた。泣き叫ぶような派手な涙ではない。ただ張り詰めていた糸が切れたように、静かに涙が流れた。 「ありがとうございます」 私は震える声で、それだけを伝えるのがやっとだった。これで私は、亡くなる恐怖に怯える必要はない。私は生き残ったのだ。あの二人が望んだような悲惨な結末は訪れなかった。 胸の奥で、冷たい決意が再び燃え上がるのを感じた。私が絶対に生き残らなければならない理由があった。それは、亡き父が残した会社と社員を守るためだ。父は小さな金属加工の会社を一から築き上げた。社員は家族だと言って、油まみれになって働いていた。5年前、その父が突然の病で亡くなった。 悲しむ暇もなく、私は社長の座を引き継いだ。その重圧は、言葉にはできないほど大きなものだった。夜も眠れず、一人で会社の机に向かう日々が続いた。 そんな私を支えてくれると約束したのが、夫の健一だった。 「僕が由美を支えるから、一人で抱え込まないで」 父の葬儀の日、彼は私の肩を抱いてそう言った。私はその優しい言葉を、心から信じてしまったのだ。 けれど、結婚してからも、健一は会社の手伝いをしなかった。彼は自分の趣味を優先し、私の収入に頼るようになった。それでも、私は文句を言わずに働き続けた。彼が家にいてくれるだけで、心の支えになると自分に言い聞かせたのだ。 同時に、義母である和子は、私を都合のいい財布として扱った。吉沢家のリフォーム代、車の買い換え、毎月の生活費。「長男の嫁なんだから、家を支えてくれて当然でしょう」と、義母は悪びれることもなく私に金銭を要求した。私は波風を立てたくなくて、黙って支払いを続けた。父の会社を守るためには、家庭の平穏が必要だったのだ。 世間体や近所の目もあった。会社の社長が家庭の揉め事で噂になるのは避けたかった。だからこそ、私は自分の感情を押し殺して耐えた。義母の心ない嫌みも、法事の席での冷たい扱いも、健一が少しずつ夜遅く帰るようになっても、黙っていた。 全ては、父の大切な会社を守るための我慢だった。 そんな孤独な私の心に寄り添ってくれたのが、親友の美香だった。高校時代からの付き合いで、彼女には何でも話せた。父が亡くなった時も、彼女は毎日連絡をくれた。「由美は一人じゃないよ。私がずっと味方だからね」という言葉に、私はどれほど救われたことだろう。 だからこそ、健一と美香の裏切りを知った時の絶望は、深く暗いものだった。信じていた夫と、一番の味方だと思っていた親友。二人は私の背後で笑い合い、私の命の終わりを待っていたのだ。 — 病室のベッドの上で、私は自分の人生を思い返していた。悲しみはすでに通り過ぎていた。残っているのは、自分の人生を持て遊んだ者たちへの静かな怒りだけだ。 少し息が整ってきた頃、看護師が私の荷物を持ってきてくれた。私は夫のことを尋ねた。すると、看護師は少し言いにくそうに目を伏せた。 「ご主人様は、手術室に入られた後、すぐに帰られました」 「お連れの女性とお子さんも一緒にですか?」 … Read more