混浴と書かれた男湯の入口で、俺は心臓が飛び出しそうだった。「どうせ誰もいない」と思って脱衣所に入ったのに、湯上がりの女性と鉢合わせした。パンツ一枚の俺と、浴衣一枚の彼女。転びそうになった彼女を俺が受け止めて、ほぼ裸のまま抱きしめる形になってしまった。「やだ、ごめんなさい」──その夜のことだと思っていたのに、翌日施設で彼女が母の担当介護士として俺の前に現れてウインクした。「今日もコーヒーとアン…
露天風呂の前で、俺は立ちすくんだ。 男湯の前に立てられた看板にはこう書いてあった。「ただいま女湯清掃中のため、男湯が混浴となります」 嘘だろう。俺は心臓がドキドキしているのが分かった。生まれてこの方、混浴なんて経験したことがない。しかし、もう深夜に近い時間だ。女の人がわざわざこんな時間に湯に入っているわけがない。そう自分に言い聞かせて、俺は恐る恐る脱衣所に入った。 中を見渡すと誰もいない。声も聞こえない。よかった。やっぱり誰もいないよな。俺は安心して服を脱ぎ始めた。 パンツ一枚になったその時、露天風呂の方から誰かが上がってくる音がした。 「え」 俺は慌てた。まさか本当に人がいるとは思わなかったのだ。俺の反対側のロッカーで、その人物は体を拭いて着替え始めた。影から見ると、どうやら女性のようだった。俺は身を潜め、彼女が着替え終わって出ていくまでじっとしていた。別に悪いことはしていない。なのに、なぜか罪悪感があった。 すると、彼女は荷物を持ってこちらに歩いてくるではないか。 「あ、どうもこんばんは」 「こんばんは。お邪魔しちゃったかしら。ごめんなさい。どうぞごゆっくり入ってくださいね」 着替え終えた彼女は、すっぴんにもかかわらずとても美人でナイスバディだった。浴衣一枚の姿に、俺の心拍数は上がった。 「あ、ありがとうございます」 「あの、お名前は?」 「俺ですか? ただの都と言いますけど」 「都さんね。覚えておきます」 彼女はそう言ってにっこり笑い、そのまま行こうとした。しかし荷物をたくさん持っていて、そのうちの一つを落としてしまった。 「ああ、しまった」 そう言って拾おうとすると体がよろけて、彼女は転びそうになった。俺はとっさに彼女の体を両手で受け止めた。彼女の体温が肌に伝わるくらい、体が密着していた。 「す、すみません。こちらこそすみません」 「あ、ごめんなさい。助けてくれてありがとう。じゃあ、さようなら」 そう言って去る彼女の顔に、なんとなく見覚えがある気がした。いや、気のせいだろう。俺はまだ彼女のぬくもりの残り香にクラクラしながら、温泉に入ってさっぱりすることにした。 翌日、俺と母さんは旅館をチェックアウトし、温泉街を巡ってから施設に戻った。 「お帰りなさい。都さん」 「え?」 施設で迎えてくれたのは、あのコーヒーのお姉さんだった。 「あの、俺の名前、覚えてくれたんですか?」 「何言ってるんですか? 温泉で教えてくれたじゃないですか。温泉」 俺はしばらく記憶を手繰った。それでも気づかない俺に、彼女は後ろでくくっていた髪をほどき、長い前髪を上げて顔を見せてくれた。 「もしかして、あの混浴の?」 驚きすぎて、口を押さえたまま固まった。 「もしかして、温泉で気づいてなかったですか?」 笑いながら言う彼女は、間違いなくあの日の浴衣の彼女だった。 彼女の名前は有吉里。母さんの担当介護士だということだった。 「お母様との旅はどうでしたか?」 「はい、楽しかったです。母も喜んでくれて」 そう話すうちに、俺はあの混浴で抱き合ったことを急に思い出し、自分の顔が赤くなっていくのが分かった。 「私も楽しかったです。都さんにも会えたし」 彼女は俺をからかっているのか。こんな風に言って、俺の反応を楽しんでいるようにしか見えなかった。 「あ、今日もコーヒーとアンパン買いに行きますね」 彼女はそう言ってウインクすると、母の車椅子を押して部屋に入って行ってしまった。 俺の名前はただの都。コンビニの店長をしている平凡な独身男性だ。バイト時代から一筋にコンビニに勤めて、長年の努力の末に店長を任されるようになった。 俺の店は地域に根付いた店舗で、若者だけでなく年配の方もよく来る。だから常連客は皆、顔馴染みになっていく。その中に、週に二日、同じ曜日に来る女性客がいた。いつも仕事帰りなのか、ポロシャツにジャージのパンツ、白いスニーカーを履いている。後ろで一つに結んだ髪と長い前髪で、顔はちゃんと見たことがなかった。しかし、彼女はスタイルが良くて、遠目から見てもとても目立っていた。 彼女の買うものはいつも決まっていた。コーヒーとアンパン。毎回、欠かさず。バイトの連中も「コーヒーのお姉さん」とあだ名をつけるほどだった。そんな彼女にほんのり片思いしながらも、俺は現実に声をかけることなんてなかった。仕事の他にも、毎日やることがあったからだ。 俺の母は七十を超えていて、最近認知症の症状が出てきた。少し前までは自分で何でもできたのに、今では俺が留守にすると一人では心配なくらい、介護が必要になってしまった。 俺と母には他に家族はいない。父は俺が幼い頃に家を出て行った。要は離婚して、母は一人で俺を育ててくれたわけだ。 「お父さんはとても才能のある写真家でね。母さんもそんなお父さんが大好きだったのよ。いつか有名になるって信じていたわ」 遠い目をして話す母はとても幸せそうで、まだ父を愛しているのが伝わってきた。しかし俺には父の記憶はほとんどなかったし、寂しいとも会いたいとも思わなかった。 一人で母を介護し続けるのは難しくなり、俺は苦渋の決断で、近くの介護施設に入所してもらうことにした。 母が入所する日、俺は仕事を休んで一緒に施設へ向かった。母のために用意された個室に入ると、廊下をどこか見覚えのある人が通った気がした。急いで廊下に出たが、その人は角を曲がって行ってしまった。 今通ったのは、コンビニに来るあのコーヒーのお姉さんだ。通りで、彼女のポロシャツとパンツ姿に見覚えがあったんだ。 母は部屋に入っても、自分がどこにいるのか分かっていないようだった。でも取り乱す様子はなく、落ち着いていたから少し安心した。 「ねえ、都志。私がここにいること、お父さんには言った?」 「え」 … Read more