「売上表に名前も出ない事務に払う給料なんてないんだよ」…
売上表に名前も出ない事務に払う給料なんてないんだよ。その一言が、すべての終わりの始まりだった。 四月最後の金曜日、東京日本橋の上皇物産の営業フロア。藤宮しおり、二十六歳は、乾いた声を静かに受け止めていた。地味なグレーのカーディガンに、一つに結んだ髪。誰の記憶にも残らない事務員が、小さく口を開く。 「お世話になりました」 その声はフロアのざわめきにすぐ溶けて消えていった。片付いた机に残されたのは、使い込まれた黒い手帳が一冊きり。新社長の黒瀬涼介は書類から目もあげず、鼻で笑うだけだった。けれど彼は気づいていない。彼女が去ったその瞬間、会社の売上の六割を支える見えない柱が、音もなく折れたことに。 上皇物産は創業五十二年になる老舗だった。しおりが営業サポート課に来て、今年で四年。朝、フロアの照明を最初につけるのは、いつも彼女の役目になっていた。営業たちのデスクに、その日必要な資料をそっと配って回る。A社の担当席には、先方の社長が先週入院したという小さな申し送りのメモ。B社の担当席には、値上げ交渉が始まる前に伝えるべき調整案。どれも誰かに頼まれた仕事ではないけれど、しおりは毎朝それを黙って続けていた。 九時、営業会議が始まる。黒瀬が新社長に就任してから、この部屋の空気は一変していた。壁一面に張り出された個人ごとの売上グラフ。数字の低い者は全員の前に立たされ、理由を問い詰められる。 「数字で見せられない人間は、ここにいる意味がないんだよ」 それが黒瀬の口癖だった。しおりは目立たないようにするため、いつも部屋の一番隅に座っている。自分から発言することはない。名前を呼ばれることも、まずなかった。新しく入った高橋が隣の同僚に小声で尋ねる。 「あの人って、結局何をする人なんですか?」 同僚は曖昧に肩をすくめるだけで、答えを持っていなかった。 疑似記録を書くノートに、しおりは小さな文字で何かを書き足していた。それは会議の記録ではない。顧客一人ひとりの名前と、その人が次に必要とするであろう聞き取りの覚え書き。亡くなった父の形見である黒い手帳から移した習慣だった。誰にも気づかれない。それでよかった。問題が起きないこと。それだけが自分の仕事なのだと信じていたから。 その日の午後、大口顧客の一社から電話が入った。受けたのはまだ入って半年の高橋だったが、相手は名乗るより先にこう切り出したという。 「藤宮さんはいらっしゃいますか?」 高橋が代わりに用件を伺うとすると、電話の向こうの声が少し硬くなる。 「え、藤宮さんでないと困るんです」 仕方なく取り次ぐと、しおりは受話器を取り、低い声と丁寧な言葉で静かに言葉を交わすだけ。それだけのやり取りで、相手の声色が和らいでいくのが周りにも伝わった。通話を終えた彼女は、また何事もなかったように疑似記録ノートへ戻っていく。高橋はどうにも腑に落ちない顔をしていた。 「なんで指名で呼ばれるんだろう」 その疑問に答えられる者は、フロアに一人もいない。 夕方、黒瀬がフロアを横切る途中、しおりのデスクの前でふと足を止めた。机に広げられた顧客ごとのメモを一瞥し、小さく鼻を鳴らす。 「チマチマと営業の真似事か。こういうのは数字を作る人間の仕事なんだよ。君は言われた入力をしていればいい」 しおりは手を止め、「はい」とだけ短く返した。反論はしない。説明したところで、この人には届かないと分かっていたからだ。黒瀬は満足そうに去っていく。だが、そのデスクの引き出しには契約更新のたびに集まった書類が静かに重ねられていた。売上上位十社のうち七社の備考欄に、同じ一文が並んでいる——「窓口は藤宮さんの継続を希望」。黒瀬はその備考欄を一度も読んだことがなかった。 黒瀬の改革は数字の上では順調に見えた。新規契約の件数、電話をかけた本数、訪問した回数。壁のグラフは右肩上がりで、成績のために拍手が起こる。けれどしおりの目には、まるで別の景色が映っていた。新規は増えても、古い取引先からの問い合わせが少しずつ減っている。それは注文が減っているのではない。相談が減っているのだ。困った時、真っ先に電話をくれていた顧客たちが、静かに口を閉じ始めていた。 その夜も彼女は、誰もいなくなったフロアで黒い手帳を開いた。今日、声のトーンがわずかに沈んでいた担当者。納期の返事がいつもより一泊だけ遅れた会社。その一つひとつに印をつけ、翌朝そっと連絡を入れる準備をしていく。派手なことは何一つしない。ただ相手が不安に飲み込まれる前に、先回りして小さな手を打つだけ。それは手帳の一番最初のページに記された言葉の通りだった。 「商品を売るな。人を売れ。信頼は数字の裏に宿る」 父はこの業界で伝説と呼ばれた営業だった。しおりが幼い頃に病で逝き、残されたのはこの使い込まれた手帳一冊。窓の外の明かりを彼女はじっと見つめる。このやり方を、あと何年一人で支えていけるだろう。数字ばかりを追うこの会社は、何よりも大事なものがまるで見えていない。見えない柱は一度抜いてしまえば、二度と戻らないのに。胸をよぎったその予感を、しおりは誰にも打ち明けなかった。口にしたところで、きっと笑われて終わるだけだから。 四半期の締め、黒瀬は全社員をフロアの中央に集めた。経費削減の恒例だった。最初にやり玉に上げられたのが、しおりのいる営業サポート課か。 「直接数字を生み出さない部署に、これだけの人件費をかけるのは無駄だ。サポート課の業務は今後すべて若手営業へ振り分ける」 その方針が、しおりの顔を見ることもなく言い渡された。その日の夕方、彼女は珍しく自分から社長室のドアを叩いた。 「差し出がましいのは承知しています。ですが、上位のお取引先だけは担当を急に変えない方がいいかと」 黒瀬は書類から目を上げようともしない。 「顧客は会社と取引してるんだ。担当が誰かなんて関係ないだろう」 そして面倒そうに吐き捨てた。 「大体、たかが事務が口を出すな。君のお父さんとやらも昔は営業だったそうだが、根性論で数字が作れる時代はとっくに終わったんだよ。今はデータだ」 会ったこともない人間に父まで論じられた。しおりの指先が、ほんの一瞬だけ止まる。それでも彼女は何も言い返さず、静かにドアを閉めて社長室を出た。 その週末のことだった。最大顧客・大和興産の会長から、しおりの携帯に一本の電話が入る。大和興産は上皇物産の売上の実に四割を占める最重要の取引先。 「藤宮さん、一つだけ確かめたいことがあってね。君はまだあの会社にいるのかい?」 穏やかで、それでいてどこか探るような声だった。その質問が本当は何を意味しているのか、しおりには痛いほど分かってしまった。 その一部始終をずっと見ている男がいた。営業部のベテラン、入社二十八年、今年で五十四になる古賀だ。派手な成績こそないが、社内の誰よりも現場を知り尽くしている。黒瀬の改革が始まってから、彼は幾度となく違和感を口にしていた。経費削減の方針が告げられた翌日、古賀は社長室へ乗り込んだ。 「社長、サポート課を削るのだけは考え直してもらえませんか? 特に藤宮さんは、外から見えない仕事を一手に引き受けてるんです」 黒瀬は書類にペンを走らせたまま鼻で笑う。 「古賀さんも随分古い人間だな。見えない仕事なんてのは、大抵やってるつもりなだけですよ」 古賀は込み上げた言葉をそのまま飲み込むしかなかった。その夜、居酒屋で彼はしおりに缶コーヒーを一本差し出した。 「悪いな。俺の力じゃ止められなかった」 しおりはほんの少し口元を緩める。 「古賀さんがかばってくださっただけで、十分です」 古賀は照れ臭そうに首の後ろを掻いた。 「藤宮さんよ。俺はずっと不思議だったんだ。なんで大和興産の会長が、うちみたいな会社を切らずにいてくれるのか。この前直接会った時、言われたよ。『あの会社には藤宮という宝がいる。理由はそれだけだ』ってな」 手の中の缶が、彼女の指先でかすかに揺れる。 「君がいるとなあ、なんだか安心なんだよ。うまくは言えんが、会社が守られてる気がするんだ」 そんな言葉をかけられたのは、生まれて初めてだった。 「ありがとうございます」 その声はほんの少しだけ震えていた。 しおりがいつも人の影にいる道を選んだのには、理由があった。彼女は元々、人の心の機微を驚くほど細やかに読み取る子供だった。相手が次に何を言うのか、何を求めているのか。それが言葉になる前に分かってしまう。その力は幼い頃から彼女を少しだけ孤独にしていた。大学を出て最初に入ったのは、誰もが知る大手メーカー。配属されたのは営業の第一線だった。入社二年目、しおりは社内の新規契約記録を塗り替えてしまう。顧客の懐へ誰よりも早く深く入り込めたからだけれど、その数字が一人歩きを始めた途端、周りの目つきが変わっていった。 「あの子だけずるい」「どうせ根回しを売ってるだけでしょう」 … Read more