夕食後のお茶の時間、突然息子が私を見て言った。「母さん、もう二度とうちの式に来ないでください」隣では嫁が「私たちはもう他人なんです」と付け加えた。三十八年間、学費も結婚資金も全て息子のために捧げてきたのに。しかし翌朝、彼らは「他人」の私に三千万円の定期預金と連帯保証人を要求してきた。嫁は言った。「お金は出していただきますが、私たちの生活には干渉しないでください」。私は通帳を手に、静かに決意し…
「母さん、もう二度とうちの式には来ないでください」 息子の口から放たれたその言葉に、私は自分の耳を疑った。夕食後の穏やかな時間、いつものようにお茶を飲みながら団らんしていたはずなのに、突然空気が凍りついた。 「え、あひ、今なんて」 震える声でようやく聞き返した私に、息子は冷たい視線を向けたまま繰り返した。 「聞こえなかったんですか? もううちには来ないでくださいって言ってるんです」 隣に座る嫁の千春も、まるで申し合わせたように口を開いた。 「お母さん、私たちはもう他人なんです。いい加減そのことを理解してください」 他人。私たち親子が。三十八年前、この子を産んだあの日から、私はずっと母親として生きてきたのに。医学部の学費も、結婚資金も、全て息子の幸せを願って工面してきたのに。 「私が、私が何かしましたか」 絞り出すように問いかけると、息子は嫌そうにため息をついた。その表情にはもう、私への愛情のかけらも見えなかった。 胸の奥で何かが音を立てて崩れていくのを感じた。これが私と息子の最後の家族としての時間になるとは、この時はまだ知るよしもなかった。 家に帰る道すがら、私は自分の人生を振り返らずにはいられなかった。三十六年間、保険士として地域の健康を守り続けてきた私。朝は五時に起きて家事を済ませ、夜遅くまで働いて、それでも息子のためなら何でもしてきた。 夫が亡くなってからの十年間は特に必死だった。大学の学費、四年間で五百万円。一人暮らしの仕送りに毎月八万円。就職活動の交通費、スーツ代。全て私の貯金から工面した。 結婚する時には、新生活のためにと三百万円を包んだ。 「母さん、いつもありがとう。恩返しするから」 あの時の息子の笑顔を信じていたのに。それなのに今の私は「他人」なのだそうだ。血のつながった親子が、どうして他人になれるというのだろうか。 思えばここ数年で、息子夫婦の態度は少しずつ変わっていった。孫の顔を見せに来る回数が減り、電話の声も素っ気なくなり、私の誕生日さえ忘れられるようになった。 「お母さんはもう役目を終えたんですよ」 千春の言葉が頭の中で繰り返される。役目。私は息子を育てるための道具だったということだろうか。必要な時だけ使って、用が済んだら捨てる。そんな扱いを受けるために、私は人生を捧げてきたのだろうか。 保険士としてこれまで何百人もの家族を見てきた。親子の絆の大切さを説いてきた私が、まさか自分の息子にこんな仕打ちを受けるなんて。 涙も出ない。ただ心が深い闇に沈んでいくような感覚だけが残った。 翌朝、息子から電話がかかってきた。昨夜のことを謝るのかと一瞬期待した私が、なんて愚かだったことだろう。 「母さん、昨日の話の続きなんだけど」 事務的な口調に胸が締め付けられる。 「定期預金の満期、来月だったよね。三千万円」 唐突な質問に戸惑った。なぜ私の貯金のことを知っているのだろうか。 「それがどうかしたの? 」 「いや、ちょうどいいタイミングだなと思って。俺たち新しい家を買うことにしたんだ。それでその三千万円を頭金に使わせてもらおうと思って」 耳を疑った。昨日「他人」だと放った息子が、今度は私の貯金を要求してきたのだ。 「あひ、あなた、何て言ったか覚えてる? 」 「何の話? 」 「とにかく満期になったら俺の口座に振り込んでくれればいいから。当然のことでしょう。親が子供を援助するのは」 他人扱いしておいて、お金だけは当然もらえると思っているのだろうか。 「それからもう一つお願いがあるんだけど」 まだあるのか。呆れを通り越して怒りが込み上げてきた。 「会社の業績が悪くてボーナスがカットされたんだ。毎月の生活費の援助、今まで五万円だったけど十五万円に増やしてもらえる? 子供の塾代もかかるし、千春もパートを辞めたから働きにならないから」 「待って。あひ、私はもう他人なんでしょう? 千春さんもそう言ったわよね」 電話の向こうで、息子が嫁と何か話している声が聞こえた。そして今度は千春の声に変わった。 「お母さん、誤解しないでくださいね。他人というのは精神的な距離の話です。経済的な援助はこれまで通り、いえ、むしろ増やしていただきたいんです」 「精神的な距離? どういう意味かしら? 」 「つまりお金は出していただきますが、私たちの生活には干渉しないでいただきたいということです。孫の教育方針にも口を出さないで、家にも来ないで。でもお金だけは毎月きちんと振り込んでください」 この瞬間、全てが見えた。息子夫婦にとって、私はただのATMだったのだ。 「それって都合が良すぎるんじゃないかしら」 「都合がいい? お母さん、よく考えてください。あひの会社、このご時世いつリストラされるか分からないんですよ。今は共働きでやっとローンを払ってる状態。お母さんは保険士で安定した退職金もあったでしょう。年金だって私たちより恵まれてるはずです」 まるで私の財産を当てにして生活設計をしているようだった。 「私の退職金も年金も、老後の生活のためのものよ」 … Read more