「水、取り替えておけよ」——夫のその言葉で、私の世界は一瞬にして音を立てて崩れ落ちた。 失明したはずの私の夫が、空になった水タンクの場所を、真っ直ぐに指し示したのだ。私は震える手を握りしめ、三つのパートを掛け持ちして働き続けた三百六十五日を思い出した。朝の四時から深夜一時まで。寝る間も惜しんで捧げた月十八万円の給料。その全てを、彼は「俺に任せろ」と取り上げた。…
「水、取り替えておけよ。」 夫の声が、いつものように聞こえてきた。私は玄関で靴を脱ぎながら、「はいはい、今やりますよ」と心の中でつぶやいた。 でも、次の瞬間、キッチンに入った私の目に飛び込んできたのは、水を飲んだ形跡がない、空っぽのシンクだった。タンクには、一滴の水も入っていない。 心臓がどくんと大きく跳ねた。失明しているはずの夫が、水が入っていないことを把握したのだ。 私の手が小刻みに震え始めた。もしかして、まさか――頭の中である恐ろしい考えが渦を巻き始める。この一年間、私が信じてきたもの。夫のために捧げてきた全ての日々。それがもしも、全部嘘だったとしたら―― 息がうまく吸えなくなっていく。「ねえ、あなた」振り絞るように声を出そうとした時、私の中で何かが音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。 私は佐伯清子、六十八歳。夫の秀とは四十二年前に結婚した。平凡ではあったが、二人で築き上げてきた日々は確かに幸せなものだと信じていた。 あの日までは。 一年前のことだった。夫が様子を変えて帰ってきたのは、いつもより遅い夜のことだ。 「蛍光灯が……目が何も見えないんだ」 震える声でそう告げる夫。慌てて病院に駆け込むと、医師は深刻な表情で診断結果を伝えてきた。 「網膜性の視神経損傷の可能性があります。回復は難しいかもしれません」 その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが決まった。「大丈夫よ。私があなたを支えるから」夫の手を握りしめながら、心から誓ったのだ。 それから三百六十五日。私の人生はまるで別のものに変わっていった。 朝四時に起き、深夜一時に眠る。睡眠時間はわずか三時間。パートを三つ掛け持ちし、休みは一日もない。コンビニの早朝勤務、介護施設、そしてスーパーのレジ。働いて働いて働き続ける日々。家に帰れば、待っているのは終わりのない家事だ。 私は三十八年間、教師として働いてきた。それなりの蓄えもある。でも夫のためなら――そう思って、全てを捧げてきた。 朝四時、まだ暗いうちから私は家を出る。最初のパート先は駅前のコンビニ。早朝勤務は四時半から八時まで。品出しとレジを黙々とこなしながら、私はいつも思うのだ。あと少し、あと少し頑張れば、と。 八時に終わると、急いで次の職場へ向かう。九時から十五時までは介護施設での仕事。利用者の方々の食事介助や入浴介助。体力的にはきつい仕事だが、誰かの役に立てることがせめてもの救いだった。 そして夕方十七時からは、スーパーのレジに立つ。終業は二十二時。そこから帰宅すると、時計の針は二十二時半を回っている。 でも、私の一日はまだ終わらない。 「おい、清子。まだ飯か。腹が減ったぞ」 玄関を開けた途端、夫の声が飛んでくる。疲れ切った体に、さらに重い物が乗せられていくような感覚だった。 「ごめんなさい。今すぐ作りますね」 急いでキッチンに立ち、夕食の準備を始める。夫の好きな料理を手早く作っていく。自分の昼食は百円のパン一個だけだったのに。 「風呂の温度、ぬるいぞ。もっと熱くしろ」 「洗濯物の畳み方が雑だ。やり直せ」 次々と飛んでくる要求に、私は「はい、はい」としか答えられない。時計が深夜一時を指す頃、やっと布団に入ることができる。でも三時間後には、また起きなければならないのだ。 三つのパート先から得られる収入は、月に十八万円ほどだった。決して多くはないが、二人で暮らしていくには十分な額だ。でも、その全額を私は夫に渡していた。 「俺は目が見えないんだ。金の管理は俺に任せろ」 夫はそう言って、給料日には必ず通帳を要求してくる。 「私の……小遣いは? せめて昼食くらい」 恐る恐るそう尋ねた日のことを、今でも鮮明に覚えている。 「贅沢言うな。お前、家にいる時間もあるんだろう。俺がどれだけ苦しいと思ってるんだ」 その言葉に、私は何も言えなくなった。そうだ、夫は失明してどれだけ苦しい思いをしているだろう。私が我慢すれば、それで済むことなのだから。 でも、心のどこかで小さな違和感が育ち始めていた。 ある日、私が床に落とした小銭を拾おうとした時だった。 「あ、それなら俺が拾っておいたぞ」 夫がそう言って、テーブルの上に硬貨を置く。失明している人が、床に落ちた小銭を――。 廊下の段差も、いつの間にかスムーズに歩いている夫。テレビのリモコンも、迷わず手に取る姿。おかしいと思う瞬間が、少しずつ増えていった。 でも、私はその度に自分に言い聞かせる。きっと慣れてきたんだわ。失明していても、住み慣れた家なら動けるようになるものよ。医師だって、失明の可能性があると言っていたじゃないか。疑うなんて、夫に申し訳ない。 そんな思いで、私は自分の心を押し殺し続けていた。 ある日、パートの休憩時間に同僚が言った。 「清子さん、最近すごく痩せたわね。大丈夫?」 鏡を見ると、確かに頬がこけている。体重はこの一年で八キロも減っていた。でも、夫のため――そう思えば、耐えられる気がした。 一方、私が三つのパート先で汗を流している間、夫は家で何をしていたのだろう。それを知ったのは、ずっと後のことになる。昼寝を楽しみ、スマホでゲームをし、テレビを見て笑っている姿。「母はバカな女だ」――そんな言葉まで口にしていたことを。 でも、その時の私はまだ何も知らない。ただひたすらに夫のために働き続ける日々。それが私の全てだった。 運命の日は、何の前触れもなく訪れた。 その日、介護施設の機械が故障したのだ。午後からの勤務が急遽休みになり、私はいつもより早く家に帰ることになった。時計の針は午後三時を指している。普段なら私がいない時間、夫は一人でどう過ごしているのだろう。そんなことを考えながら、玄関の鍵を開けた。 「ただいま」 小さく声をかけると、今度は夫の声が返ってくる。 「お、清子。水、取り替えておけよ」 その瞬間、私の足が止まった。水、取り替えろ。嫌な予感が背筋を駆け上っていく。急いでキッチンに向かうと、そこにあったのは水を飲んだ形跡がない、空っぽのシンクだった。タンクには、一滴の水も入っていない。 「えっ」 思わず声が漏れる。心臓が激しく脈打ち始めた。 … Read more