父の葬式の席で、母が弁護士に詰め寄って「遺産はいくら?」と大声で聞いた時、私は凍りついた。母は聞いた金額に「八千万!」と叫んで手を叩いて喜び、姉と「これで大金持ちね」「車買えるね」とゲラゲラ笑った。しかし弁護士の次の一言で、二人の顔色が一変した。「書類上、あなたたちは他人ですけど」。父には私と姉のどちらにも血が繋がっていない…いや、正確には姉だけが。私は母の顔を見た。母は血の気が引いた顔で、…
「八千万」。弁護士から聞いた金額に、母は飛び上がらんばかりの勢いで叫んだ。それは亡き父の遺産の額だった。 「それって確かなのよね」 「はい。詳しい数字は後ほど書類と共にご家族様にお伝えしますが、それくらいはあるかと」 母は手を打って喜び、周りの人々はぽかんとしていた。母は気分よくビールを飲み干すと、姉に言い放った。 「良かったわね。これで私たち大金持ちよ。だからこの間、車ぐらい買っても大丈夫って言ったでしょ。遺産八千万とこの家は、嫁である私が相続するのよ」 その言葉に釣られて姉もゲラゲラと笑い出す。父の葬儀の席で、そんな二人の姿を私はただ呆然と見つめていた。 「ちょっと、いいですか?書類上、あなたは他人ですけど」 弁護士の声と同時に、その話を聞いていた父の部下たちが堪えきれなくなった笑いを爆発させ、その場は大爆笑の渦に包まれた。この時、母は自分がどれだけ世間知らずだったのか、思い知らされることになる。 私の名前はゆき子。実家暮らしの二十八歳、独身で高校の国語教師をしながら慎ましく暮らしている。私の家族は父と母、そして姉と私の四人家族だ。しかし、私と姉に血の繋がりはない。母には離婚歴があり、元夫との子供が姉、現夫との子供が私なのだ。 少し複雑ではあるものの、まあ一応家族は家族。今の言い方で冷たい印象を持たれるかもしれないが、私がそういう言い方をするのには訳がある。 おそらく母は父のことが好きではなかった。父はとある企業の社長をしていて、かなりの財産の持ち主だった。しかし父は何事にも堅実なタイプで、特に金の使い方に関しては本当に厳しく、かなりの倹約家だった。 父の口癖は「量(はか)りて入(い)るを為(な)す」。意味は、入る額をしっかり計算し、それに見合った使い方を心がけようということらしい。父は毎度のように言っていた。 「人間は使った金の金額よりも、稼いだ金額の方に目が行く。しかしどれだけ収入が多くても、使ってしまえばそれまでだ。普段から金があるからと高を括っていれば、そのうち痛い目を見るものだ」 話し方からして堅苦しい人だと分かるだろうが、そんな父を私は誰よりも尊敬していた。きっとこういう人だからこそ、成功してきたのだろう。 それなのに母と姉は父を見下し、毎日のように父のいないところで悪口を言っていた。 「全く、この間新作のブランドバッグが欲しいって言ったら、あの人なんて言ったと思う?『それは何のためにだ?』って言ってきたのよ」 「何それ?やばすぎ。っていうか、お母さんなんであんな人と結婚したのよ」 「お金持ってるからに決まってるでしょ。私だって、ここまでケチだって知ってたらあんなおじさんと結婚なんてしないわよ」 私はその手の会話になると、すぐにその場から離れるようにしていた。父のことを悪く言われるのを、黙って聞いていることはできなかった。 私は心の中で「本当によう言えたものだ」と思っていた。ブランドバッグだなんだと言ってはいるが、父は数ヶ月に一回は母が欲しいと言った服やバッグを買ってくれていたし、そもそも母は働いてすらいない。姉だって面接に落ちまくり、やっと就職しても「朝起きれないから」「上司がうざいから」と言ってすぐに辞めてしまう。二人は完全に父のおかげで生活できているのに、それをあたかも自分たちの方が偉いかのように好き放題言っている姿を、私は見苦しいと思っていた。 父の前では甘えん坊のいい妻を演じているのに、本当に腹黒い嫌な母親だ。 それに、私が彼女らを嫌いな理由はそれだけではない。母は私のことを邪険にし、姉だけを贔屓するのだ。 「エミリは愛想があって親戚にも可愛いって評判なのに。ゆき子はどうしてそんなに暗くて地味なの?」 「お母さん、そんなこと言ったらゆき子がかわいそうでしょ」 「あら、そう。ごめんなさいね。エミリは気遣いまでできて優しい子ね」 こんな会話は日常茶飯事。しかも決まって父のいない時にするのだ。確かに姉は母に似て綺麗で華のあるタイプ。反対に私は完璧と言っていいほど父に似ていて、父は昔ながらの男性といった感じで眉間にしわがあり、顔からも硬い印象が漂っている。そんなところまでも父そっくりだった私。私のことを可愛がらない母を見ていて、「やはり父との子だから気に入らないのだろうな」と物心ついた時から薄々感じていた。 そんな様々な要素が重なって、私は母とそれに便乗する姉が好きではないのだ。小さい頃は嫌味な言葉に傷つきもしたが、大人となった今はもう気にも留めていない。それも父の教えがあったからこそだった。 昔、父の会社で社員が問題を起こし、ニュースになったことがあった。その社員は行方をくらまし、会社に負債が残ってしまったのだが、社長である父は各方面に謝罪して回り、必死に働いてその負債を返し切った。その時、父に聞いたことがあった。 「ねえ、どうしてお父さんは悪くないのに、ニュースの人たちはお父さんのこと悪く言うの?こんなのおかしいよ」 「確かにお父さんは問題を起こしてない。でもな、社員の命は自分の命。身内のミスを受け入れるのもお父さんの務めなんだよ」 「でも…」 「じゃあ、ゆき子は父さんや母さんがもし事故にあったとしたら、助けてくれないのか?」 「うん。絶対に助ける」 「そうだろ?父さんにとって社員は家族も同然なんだ。だから困っていたら助けなきゃいけない。分かるか?」 「分かった」 「ゆき子はいい子だ。人にしたことは必ず自分に帰ってくる。情けは人のためならず、ってな。言いたいやつには言わせておけばいい。その悪口もいつか自分に帰ってくるさ」 実際、父に何か返ってきたのかと言われたら分からないが、私は幼いながらにそんな父を格好いいと思っていた。だから私はどんなにバカにされても、言い返さずに耐えてきたのだ。母と姉は私の頑張りを認めることはなかったが、私は仕事や勉強に関しては姉よりもできたので、何も言われずに済んでいた。 そんなある日のこと。いつものように仕事に行って学校で作業をしていた時だ。ちょうど中間試験の真っ最中ということもあり、採点作業に追われていて、夜の八時だというのに職員室にはまだ数人の先生が残っていた。やっと区切りがついて背筋を伸ばしたところで、携帯が鳴った。母からの着信だった。母から私に電話だなんて、かなり珍しいことだ。 「もしもし。電話なんてどうしたの?」 「ゆき子、今どこにいるの?」 「どこって?まだ学校にいるけど。でももう少しで帰るよ。何か買ってきて欲しいの?」 「あのね、実はさっきお父さんが倒れて、救急車で運ばれた」 「え?」 「今病院で手術中よ。病院の待合室があるから、あなたも来てちょうだい」 思いもよらない事態に頭が混乱して、携帯から流れる音声がどんどん遠ざかって聞こえた。あんなに元気だった父が倒れたなんて。今朝だって、いつも通りの時間に起きて、いつものトーストとコーヒーを飲んで出て行ったのに。私は必死で朝見た父の顔を思い出そうとしたが、混乱が混じり思い出すことができない。とにかく震える手で荷物をバッグに放り込み、学校を出た。電車に乗っている間も心のざわつきは抑えられず、それでもただ一秒でも早く病院に着くことだけを考えていた。 病院の入口を抜けると、そこには母と姉の姿があった。静まり返った廊下は、時々看護師や白衣を着た医者が小走りで移動している。私は急いで母たちの元に駆け寄った。 「お父さんの容態は大丈夫なの?」 「さっき手術が終わって、集中治療室に移されるところよ。これから説明があるらしいわ」 そう話していると、医者から個室に通され、狭い部屋の中で説明があった。一通り説明を受けてもまだ頭が混乱して追いつかず、ゆっくりと質問をしながらまた説明をしてもらった。父の病名は急性心筋梗塞。原因はおそらく運動不足と脂質の取り過ぎ、そしてタバコだろうということだった。確かに父は一年ほど前から禁煙していたものの、それまではかなりのヘビースモーカーだった。それに加えて、毎朝のコーヒーにも決まって砂糖を入れていた。私は時々心配していたのだが、まさかそれがここまで大事になるなんて予想もしていなかった。見せてもらったレントゲンの写真には、肺から心臓に繋がる血管が詰まって、何本にも伸びている様子が映っていた。医者は「ご自身の中では自覚症状があったでしょう」と一言付け加えた。 父の性格上、辛いことや厳しいことは家族には見せない。そんな強がりなところがある。きっと辛かっただろうに、私たちに言わずに過ごしていたのだろう。思わず私の頬に涙が流れた。 「今はまだ息があるものの、持って三日だろう」と医者から告げられた。「集中治療室に入ることができますけど、どうされますか?多分、息があるうちにお会いできるのは今日だけかと」 その言葉に、私はすぐに「お願いします」と返事をした。しかし母と姉は「そういうの苦手だから」と拒否をしたのだ。その返事にはさすがに私も医者も引いてしまったが、医者の案内で私だけ集中治療室へと入っていった。 中は暗くて、心電図のモニターが何台も鳴り響いている。進んでいくと、そこには様々な装置をつけられた父が寝ていた。あまりの姿に目を背けたくなったが、私はしっかりと父の手を握って呼びかけた。 「お父さん、今までありがとう。でも、こんなさよならなんてお父さんらしくないよ」 父の手は冷たく、私の声に反応することはなかった。 … Read more