昼休みに社員食堂で食事をしていたら、親会社から出向してきたばかりの人事部長が突然隣に座ってきた。最初は穏やかな口調だったのに、次の瞬間「高卒なのにね」と笑いながら言われた。私は思わず拳を握りしめたが、その場は堪えて食事を続けた。すると彼は「高卒社員は選別して整理していく」とまで言い放った。私は耐えきれずに反論し、周囲から拍手が起きた。数日後、彼に会議室へ呼び出され、「ボーナスゼロか左遷か、ど…
「お前は優しいからな。ちゃんと選択肢をやるよ」 親会社から出向してきた部長が、そう言って俺に告げた。学歴主義の意見に真っ向から反論した結果、ボーナスゼロか左遷かを選べというのだ。むちゃくちゃすぎて呆れてしまう。選ぶまでもない。俺は部長が想像もしない言葉を口にした。 俺の名前は水野。37歳の会社員だ。今はある中小企業の業務サポート課で働いている。ありがたいことに仕事を認めてもらっている。俺の歳で課長と聞くと驚かれるかもしれないが、業務サポート課は比較的新しい課であり、俺が立ち上げに強く関わっているため、周囲の人間は俺が課長をしても納得という認識だ。数年前までは別の会社にいたのだが、結婚と同時に退職した。 前の会社はいわゆるブラック企業で、しかも俺は高卒ということで周囲に見くびられていた。前の会社で働いていた頃は、一生このまま心身を削っていくのだろうと諦めていたが、仕事関係で妻と出会ってから人生が変わった。 「あなたみたいに真面目で優秀な人が、このままじゃいけないわ」 妻はそう言って、俺の転職のためにあれこれと力を貸してくれたのだ。 業務サポート課では様々な部署の手助けをしている。各部署の事務処理や社内システムのトラブル対応、書類作成などの定型業務。時には社員教育の支援も行う。新事業部や総務部とも似ているが、サポートの範囲はそれ以上に幅広い。様々な部署に協力する独立した課である。華やかな仕事とは決して言いがたいが、俺たちの仕事が様々な業務をスムーズにしているのだ。結果的に社員の心にもゆとりが生まれるに違いない。 そんなある日のことだ。部下との雑談の最中、親会社からある人物が出向してくると聞いた。 「その人、うちの人事部長として働くそうですよ」 「人事部ねえ」 俺は顎をさする。出向してきた人物が部長職につくことは、そう珍しくないだろう。親会社としては子会社であるうちの人事制度を強化、あるいは方針を統一したいのかもしれない。部下との会話から数日が経った昼休憩の時、俺は社員食堂に来ていた。食事の乗ったトレーを適当なテーブルに置くと、 「ここ、一緒にいいかな」 と声をかけられる。とっさに「どうぞ」と返事をした。 「今朝の朝礼でも挨拶しましたが、佐藤と申します。どうぞよろしく。確か業務サポート課の水野課長ですよね」 目の前の人物こそ、先日部下との会話に上がった人事部長だ。他にも席が開いているのに、なぜ俺のそばに? 俺は一瞬疑問に思ったが、如才なく佐藤は言った。 「人事部長として、特に管理職の人間はすぐに顔と名前を覚えたんです。その中でも水野課長はなかなか興味深かったので、思わず声をかけてしまいました」 「そうなのですか」 口調も表情も柔らかいはずなのに、妙な居心地の悪さを感じる。 「そうですよ。だって水野課長は高卒でしょ。しかもお若いですよね。比較的新しい課とはいえ……いや、高卒なのに大したものです。高卒なのにね」 ああ、そうか、と納得がいった。この感じ、ブラック企業で嫌というほど感じたものだ。その口から出る「高卒」という言葉には、ありありと侮蔑が混じっていた。感覚で胸が重くなったが、いきなり波風を起こすわけにもいかない。さっさと食事を済ませて戻ろう。俺はなるべく早いペースで食事を食べていく。 そんな俺の意図を察したのか、佐藤は「そうそう」と再び切り出した。 「私は常々、学歴こそ最も重視すべき指標だと考えています。実際、私も国立の中でも上位の大学を出ているんですよ。高卒の君とは見ている風景が違うから、ちょっと理解できない話かもしれませんが」 どうやら佐藤は学歴至上主義というタイプの人間らしい。俺が黙っているのをいいことに、気分良さそうに言葉を続けていく。 「私が人事部長に着いたからには、色々と改革していこうと思っているんですよ。まず、君のような高卒社員は選別して整理していきたい。君の課は高卒の部下も多く所属していますよね」 俺はさすがに眉を潜めた。俺たちのテーブルから出ている空気感が、周りにいた社員たちにも伝わったらしい。周りの人間が俺たちに視線を向けて話しているのが、かすかに伝わってくる。 「やば、先輩告げ口されてない?」 「あれ、親会社の人間だからっていきなりこれかよ」 周囲の声などお構いなしと言った風に、佐藤の表情は穏やかだ。 「正直言って、高卒に任せられる仕事は限られています。それに努力して学歴を手に入れた人間と、そうでない人間を同列に扱うのは不公平です。そうでしょ?」 この言葉に、俺は耐えられなくなった。 「お言葉ですが、佐藤部長がおっしゃることは間違っていると思います。私も部下の何人かは高卒ですが、努力して結果を出していますよ。会社が正当な評価をしているのです。それを高卒というだけでどうにかできると思っているのなら、傲慢では」 強い口調で言い返すと、一瞬だけ佐藤はひるんだように見えた。まさか俺が言い返してくるとは思っていなかったのだろう。俺自身、さっきまでは御機嫌を取って済まそうと思っていた。しかし部下たちや、他の高卒の社員たちまで関わるなら話は別だ。 俺は最後に残った味噌汁を飲み干すと、トレーを持って立ち上がる。そして佐藤に冷やかな視線を向けた。 「学歴が高いことは素晴らしいことだと思います。決して否定はしませんよ。でも、学歴だけで切り捨てるような会社は、魅力的には感じません。佐藤部長の改革は会社を成長させるどころか、衰退させる可能性がある。少なくとも私はそう思います」 俺が言い終わると、周囲から拍手が起きる。どうやら聞き耳を立てていた社員たちが拍手しているらしい。 「じ、じゃあ私はこれで」 俺は一気に恥ずかしくなり、そそくさとトレーを返却しに向かう。その背後で、顔を真っ赤にして睨みつける佐藤に気づくことなく。 食堂の一件から数日後のこと。俺は空き会議室に呼び出されていた。呼び出した人物は佐藤である。一応、人事における必要な面談と聞いているが、食堂での出来事もあり俺は気まずいと感じていた。対する佐藤は、にこやかな表情だ。 「水野課長、お疲れ様です。どうぞおかけになって」 「はあ。失礼いたします」 俺は佐藤と向かい合うようにして座る。佐藤は机の上で手を組み、本題を切り出した。 「食堂での君とのやり取りで、私は改めて高卒という存在について考えたんですよ」 いきなりなんだ、と不思議に思ったが、佐藤はつらつらと続けていく。 「親会社から出向してきた私に対し意見するだけでなく、恥をかかせた。このままにしていていいものかとね」 これは部下から聞いたのだが、俺と佐藤のやり取りは噂となり、佐藤としてはかなり仕事がやりづらくなったようだ。ここまで言われればある程度は予想できる。おそらく佐藤は、先日の食堂の仕返しのために呼び出したのだ。そう察した次の瞬間、佐藤は思いもよらない言葉を口にした。 「一応、君は課長という立場の人間だ。首にするには相当な理由が必要だろうな。だけど、減給やボーナスをなしにする。窓際部署や、他の子会社へ左遷くらいならどうだ? 人事部長の権限を駆使すれば、それくらいは簡単にできるだろうさ」 そこまで言って、佐藤は得意げにふんと鼻を鳴らす。 「そういうわけだから、高卒の中途社員はボーナスゼロ円か左遷、どっちか選べ。私は優しいからな。ちゃんと選択肢をやるよ」 いくら親会社の人間で人事部の部長とはいえ、そこまで無茶が通ると本当に思っているのだろうか。人事部長として提案や評価に関する権限を持っていても、度を過ぎた発言であり職権乱用と言えるだろう。俺は拳を握りしめた。ふざけているとしか言いようがない。俺は落ち着くために深く息を吐く。それからにこりと笑って見せた。 「そうですか。わかりました。じゃあやめます。第三の選択肢を取らせていただきますね」 まさか俺がやめると言ってくるとは想定外だったのだろう。佐藤は一瞬ポカンとして、それから吹き出した。 「おいおい、まさか自分からやめてくれるなんてな。ボーナスゼロか左遷で地獄を見せてから首に追い込んでやろうと思っていたのに、まさか自ら退職とはな」 そんなことを考えていたのか。俺は呆れたが、ここであることを教えてやることにした。出向してきたばかりの佐藤は、おそらくこの事実を知らないだろう。 … Read more