Tři týdny po mém návratu domů mi zavolal soukromý vyšetřovatel a řekl: „Richarde, Daniel si najal psychiatra, který ti má vystavit posudek o demenci, aniž by tě kdy viděl.” Stál jsem na dvorku s…

Když jsem se po jedenácti měsících vrátil domů, myslel jsem si, že rodinná večeře s mým synem a mou ženou bude nejšťastnějším okamžikem mého života. Ale když jsem viděl, jak je moje žena hubená a tichá, zeptal jsem se: „Dostáváš těch deset tisíc dolarů, které ti každý měsíc posílám? ” Ztuhla a zašeptala: „Miláčku, nikdy … Read more

1 September 2026

Cheyenne Bryant’s NEW Attempt To Prove Her PHD To Jamal Bryant Is HUMILIATING

Cheyenne Bryant’s recent attempt to validate her PhD credentials has exploded into public disgrace after it was revealed her degree came from an eight-week-old unregistered school. The controversy escalated when her self-issued cease and desist letter against Jamal Bryant backfired, exposing deep inconsistencies in her academic claims. The 𝒹𝓇𝒶𝓂𝒶 began with Cheyenne Bryant asserting her … Read more

1 September 2026

“Per lui non abbiamo ordinato niente.” Mia sorella spinse un cestino di pane verso mio nipote di dodici anni, davanti a tutto il ristorante, mentre tutti gli altri a tavola ricevevano filetto…

Il rumore della risata di mia sorella non lo dimenticherò mai, mentre spingeva un cestino di pane verso mio nipote davanti a tutto il ristorante: “Per lui non abbiamo ordinato niente”. I piatti di filetto fumavano ancora. L’odore del burro fuso si mescolava al profumo dei dolci. I miei nipoti sollevavano le forchette felici, mentre … Read more

1 September 2026

「森本さんの娘さんとのお見合いが控えている中で申し訳ないが、第13支社へ行ってほしいんだ。」…

俺は今でも忘れられない。あの日、俺の人生がひっくり返るまで、俺はただの平凡な会社員だった。高校を卒業してすぐ地元の建設会社に就職し、家族を支えるために必死で働いてきた。5人兄弟の長男として、そして父が蒸発し、母が一人で俺たちを育ててくれたからこそ、俺は早く稼いで恩返しをしたかった。 入社して8年、28歳になった頃、俺は同期の中でも出世頭と言われるまでになった。そんな俺を目にかけてくれたのが、取引先の森本社長だった。高卒の俺に酒の飲み方や高級料理のマナーまで教えてくれた恩人だ。その森本社長から、突然こんな提案を受けた。 「正典君、うちの娘とお見合いをしてみないか? 」 相手は森本社長の娘、柚月さん。社長令嬢と聞くと気難しい印象だが、彼女は違った。工業高校の建築科を出て、大学では都市デザイン工学を学ぶ才女。髪型が崩れるのも気にせずヘルメットを被り、現場を熱心に見学する姿を何度も見かけた。俺が彼女に初めて会ったのも現場だった。 「お見合いさせてください。是非! 」 俺は即答した。ずっと互いに気持ちがありながら、立場の違いから一歩を踏み出せずにいた二人。ようやくその想いが実る時が来たんだと、俺は心が躍っていた。 しかし、人生はそう上手くいかない。そのお見合いの前日、俺は地獄へ突き落とされた。会社の部長室に呼び出され、冷めた笑みを浮かべる部長が言った。 「森本さんの娘さんとのお見合いが控えている中で申し訳ないが、第13支社へ行ってほしいんだ。」 第13支社。それは本社から遠く離れた南の離島にある。俺が動揺していると、部長はそれを楽しそうに眺めていた。周りにいる部長派の連中もクスクスと笑っている。これは決定事項で、何を言っても覆らない。俺は拳を握りしめたが、表情だけは冷静を保った。ここで取り乱したら彼らの思う壺だからだ。 こうして俺は、ずっと恋心を抱いていた柚月さんとのお見合いの前日に、左遷を命じられたのだ。翌日、目の前で涙を浮かべる柚月さんを置いて、俺は逃げるように帰った。俺は最低な人間だ。 それから8年。俺は離島の支社で小さなリゾートホテルや別荘の建設・修繕の仕事をしている。本社で部長派と社長派がバチバチやっていたのが嘘のような穏やかな毎日。仕事の前に海に出て波に乗り、午後は穏やかな海を眺めながら仕事をする。事務員に「また海を見てるんですか? 」と叱られることもよくある。 8年も経てば、柚月さんのことも薄れていくと思っていた。彼女ももう30歳になる頃だ。きっと素敵な家庭を築いているだろう。そう言い聞かせていた。それでも彼女を思い出すと、未だに胸の奥がちくりと痛む。 そんなある日、俺がぼんやりと窓の外を眺めていると、外から声をかけられた。 「今日も暇そうだなあ。」 この島に移住してきた星野さん。俺より2歳年上の頼れる兄貴的存在だ。小さな牧場を経営し、観光客相手に乗馬体験をしている。不登校の学生や問題を抱えた子供たちの受け入れもしているらしい。 「仕事ならちゃんとあるよ。」 そう言い返すと、星野さんの後ろから見たことのない小柄な女性がひょこっと現れた。肌は透き通るように真っ白で、島に来たばかりだとすぐに分かった。 「こらこら、星野さん。お仕事中の人の邪魔をしちゃだめよ。」 「ああ、こいつは俺の従姉妹で、今日から牧場を手伝ってくれるんだ。」 「二宮さやと申します。よろしくお願いします。」 彼女は笑顔で自己紹介をした。その綺麗な顔に、俺はドキッとした。性格もルックスも星野さんとは真逆なのに、どこか似ている気がした。柚月さんを思い出したからだろうか。自分でもよく分からなかった。 「それで今晩、うちでさやの歓迎会をするんだ。どうせ家に帰ってもすることないんだろう。正典、お前も来いよ。」 俺の回答も聞かずに星野さんは去っていった。俺は手土産に、この島特産の果実酒を持って行くことにした。星野さんが大好きな酒だ。 歓迎会の晩、エプロン姿のさやさんが出迎えてくれた。テーブルには、普段星野さんと二人で飲む時には絶対に出てこないような豪華な料理が並んでいる。 「自分の歓迎会なんだから座ってろって言ってるのに、全然言うこと聞かないんだよ。」 「だって牧場の仕事で忙しいのに、余計なことはさせられないでしょう。私の料理が食べたくないって言うなら考えるけどね。」 彼女は大人しそうに見えて、意外とはっきり物を言うタイプのようだ。 「そういえばさ、そんなにあいつの料理が気に入ったのか? それなら嫁にもらってくれよ。あいついつまで経っても結婚しねえんだからさ。」 星野さんが小声で言った。さやさんはまだ独身らしい。 「あんなに綺麗なのに独身だなんて信じられないな。」 俺がそう言うと、星野さんの表情が少し暗くなった。 「まあ、色々あるんだよ。色々な。」 これ以上は聞かない方が良さそうだと、鈍感な俺でも分かった。 翌朝、約束通りさやさんに乗馬を教わることになった。彼女は馬術大会で県の代表になるほどの腕前らしい。初めて乗る馬の背中は思っていたよりも高く、少し怖かった。しかし、馬の歩くリズムに合わせているうちに、恐怖心は消えていった。塩風を感じると、今までに感じたことのない爽快感が広がった。 「これ、最高ですね。」 「そう言ってもらえて嬉しいです。」 彼女はそう言うと、馬の顔をこちらに向けて近づいてきた。 「そういえば、昨日星野さんから変なこと言われませんでしたか? 」 「変なこと? 」 「何か私のことで。」 真剣な目で見つめられ、俺は嘘をつけず昨晩のことを正直に伝えた。 「ああ、昨日は結構酔ってたんですかね。星野さんって、酔うと冗談ばかり言うんだから。」 そう言って話をはぐらかすと、さやさんは俺に背を向けて海の方へ行ってしまった。ただ、彼女の背中は小刻みに震えている。もしかして泣いてる? 慌てる俺に、さやさんは言った。 「あなたも、星野さんがそんな簡単に『嫁にもらってくれ』って言う人じゃないこと、知ってるでしょう。」 そう言って彼女は馬ごと海へ入っていった。肩が隠れるくらいの深さまで行くと、口笛を吹く。すると俺の馬も海へ入っていく。馬の背中越しに波を感じると、何とも言えない快感があった。目を閉じて波の音に耳を澄ませていると、さやさんが近づいてくるのを感じた。 「私、星野さんを追いかけてこの島まで来たんです。あの人のことが好きだから、少しでも彼の近くにいたくて。」 思いもよらない告白に、俺ははっと現実に戻った。 「確か、二人は従姉妹ですよね。」 … Read more

1 September 2026

Slib, který jsem dala své vnučce, mě donutil čelit pravdě, kterou jsem si celé roky odmítala připustit – a cena za to byla vyšší, než jsem si kdy dokázala představit.

Slib, který jsem dala své vnučce, mě donutil čelit pravdě, kterou jsem si celé roky odmítala připustit – a cena za to byla vyšší, než jsem si kdy dokázala představit. V den svatby svého jediného syna jsem objevila tělo v jeho garáži, tajné manželství, unesené dítě a tvář muže, kterého jsem vychovala, ale nikdy skutečně … Read more

1 September 2026

Charlotte finds the truth in Brennan’s body and reveals it to Danny | General Hospital Spoilers

In a 𝓈𝒽𝓸𝒸𝓀𝒾𝓃𝑔 late-night discovery, Charlotte found the lifeless body of Jack submerged in a hotel pool, thrusting her and Danny into the center of a deadly mystery. This gruesome scene ignites a high-stakes 𝒹𝓇𝒶𝓂𝒶 filled with dark secrets, deadly mistakes, and intense police scrutiny in the town. Charlotte’s reckless choice to sneak into the … Read more

1 September 2026

たまたま入ったカフェの隣の席で、夫が若い女性にこう言っているのを聞いた。「妻は2年前に亡くなったから、この後うちに来ていいよ」って。しかも、それを聞いた翌日には、義母と一緒に帰宅した夫が連れてきたその女性を、ピカピカに掃除したベッドで待ち構えてやった。もう10年連れ添った結婚記念日の直前に、夫は私を「死んだ妻」扱いして浮気していた。私は怒るよりも先に、頭の中である計画が浮かんでいた。夫を追い…

同僚と入ったカフェで、私は夫の浮気現場に鉢合わせした。隣の席で、夫・かずとは若い女性にこう言っていた。「妻は2年前に亡くなったから、この後うちに来ていいよ」 私はぶち切れた。過去2回、彼を許したことがある。2度目は「離婚する」と宣言したのに、まだ懲りていなかった。私は復讐を決意した。だが、本当の悪人の存在にはまだ気づいていなかった。 私は滝沢美紀、35歳。夫のかずとは優しくて頼れる人だが、正確に大きな問題があった。特に困っているのは責任転嫁をするところだ。生活費を使い込んだ時は「私が話を聞かなかったからだ」と主張した。浮気を問い詰めると「女性の方から迫ってきた」と言い訳する始末。「全部あいつのせいだ。俺に責任を押し付けやがったんだよ」と、何を聞いても絶対に自分に非はないと語った。 最初は信じていたけれど、今は疑いの目を向けてしまう。私を愛しているという彼の気持ちも嘘だったのかもしれないと思えるようになっていた。 そんな私たちの出会いは仕事の席だった。当時かずとが務めていたのは精密機器を取り扱う会社。地元では有名で、大手企業との取引もあったと聞いている。私は勤務する小さなデザイン事務所とは縁がないと思っていた。しかし、何を間違ったのか私の会社に仕事の依頼が来る。内容はパンフレットのデザインだった。対応したのは上司の鮫島直美。私が入社した時には彼女はすでに会社のエースだった。社長の娘だから多少は遇されていたところがあると思う。それでも実力はあると感じていた。 来たのはかずとだけ。彼は私たちにも丁寧に頭を下げて帰っていった。「ちょっと来て」と直美が私に手招きをする。「この仕事、あなたが担当しなさい」と手にしていた資料を渡してくる直美。私は受け取りながら聞き返した。「え、いいんですか?」「ええ、あの人、私の嫌いなタイプだったから」と直美は不愉快そうに顔をしかめる。「そういう問題じゃないの。適当な話し方をするところが嫌なのよ」と。 こうして私はかずとと仕事をすることになった。大きな企業との仕事は初めてだ。私は構えていたが、面倒な修正もなく仕事はあっさりと終わった。「お疲れ様でした」「こちらこそありがとうございました」と挨拶を交わしたところで、かずとが名刺を差し出す。「裏に個人的な連絡先が書いてありますから」と。慌てて名刺を裏返すと、そこにはボールペンで携帯電話の番号が書かれていた。「仕事じゃなく個人的な連絡先なので。今は恋人もいないし、今日でもいいですよ」と迫られる。連絡待っていますね、と言われ、流れで誘われたことに驚いてしまう。心のどこかで妙に手際がいいと思いつつも、どうしても彼が気になった。結局数日後に私の方から連絡し、交際することになった。 結婚したのは交際3年目の春だ。年齢的にも20代半ばを過ぎ、そろそろと考えていた時のプロポーズだった。思い返せば、かずとはかなり手慣れていた気がする。気づけたら良かったのだが、私はそのまま彼と結婚してしまった。当然結婚後は苦労させられることになる。 最初の仕事の後もかずとの会社からは定期的に仕事の依頼があった。ただ担当者は変わる。私は数回に1度くらいの割合で対応していた。それが長く続いていたのだが、結婚した途端、私に仕事が回ってこなくなる。「夫婦で担当すると変な噂になるかもしれないでしょ」と直美はそう話した。確かに妙な憶測を呼ぶのは困る。仕事には真摯に取り組んでいるが、会社側の配慮だと受け入れることにした。 そんなある日のことだ。他の人の仕事が詰まっていて、ついに私が担当になった。久しぶりだと思いながらかずとの職場を訪ねる。出迎えてくれたのは、受付の若い女性と口をきく彼の後ろ姿だった。そっと近づき、背後から彼の耳を思いきり引っ張る。「痛いだろう」と。「何するんだ?」と勢いよく振り返るかずと。私と目が合い、急に黙った。「痛いのは私の心よ。新婚なのに、なんで女性に声をかけているのかしら」と問い詰める。「あ、いや、ちょっと挨拶をな」と言い訳するかずと。私は彼の後頭部を軽く叩いた。「何が挨拶よ。いい加減にしなさい」と。 帰宅後、かずとを問い詰める。彼はヘラヘラと笑いながら言い訳を始めた。「いや、あれは本当に話していただけで」「その割には受付の女性は嫌そうな顔をしていたわよ。公的に誘ってたんじゃないの?」「は、俺はそんなことはしねえよ。お前だって知ってるだろう」と自信満々に説明されると、そうだったような気もする。少し考えた私はため息をつき、「勘違いだとしても迷惑そうだったらやめるべきじゃない?」と伝えた。「そうよね」と彼は静かに頷いた。「とにかく次からは勘違いされないようにしてね」と念を押すと、「わかった」と不服そうに返事をした。これで話は終わった。 しかし、中途半端に注意したことが裏目に出る。私がそう気づいたのは2ヶ月ほど後だった。ちょうどかずとが出張から戻った日の夜のことだ。玄関先にキャリーバッグを置いた彼は疲れた顔で部屋に入ってきた。彼が風呂に入っている間、私はキャリーバッグを開け、中に入っていたお土産の紙袋を探った。すると、一番底にレシートが入っていた。ゆっくりと開いた途端、思わず「あっ」と声が出てしまう。私がレシートだと思ったのは、ホテルの領収書だった。利用したのはダブルルームで、人数は2名。どう考えても同僚と一緒に泊まったとは思えなかった。 かずとがお風呂から上がってくるのを待つ。彼がリビングに入ってきた途端、私は冷たい口調で尋ねた。「これ、誰と泊まったの?」「は?誰って?へ」と目を見張るかずと。私は追及した。「どうしたの?かずと一緒に出張へ行ったのは誰なのかしら?」「これは俺が1人で」と言い訳をする。「じゃあどうして焦っているの?顔色も悪いし汗も描いているわ」と指さすと、「今はその風呂上がりだから」と苦しい言い訳。「じゃあもう1つ。上司の方の連絡先を教えて。一緒に出張に行った人のことを聞くから」と言うと、かずとの表情が固まる。「いや、でもほら、外部に漏らすわけにはいかないし」と慌てる。私は確信した。彼の出張が嘘だったということを。 「どうなの?素直に謝れば許すかどうかを考えてあげるけど」と伝えると、かずとは顔をあげて「ごめん。その出来心で」と白状した。「出来心?出張じゃなかったってことかしら?」「はい」と項垂れる。詳しく問いただすと、一緒に行ったのはキャバクラ勤務の女性だそうだ。浮気相手というより、相手にお金があるとアピールしたかったとのこと。旅費を全て負担し、ダブルルームに泊まったのも女性だけ。「じゃあかずとはどうしたの?」「俺はシングルルームに」と声が小さくなる。実際、彼は自分が宿泊したシングルルームの領収書を財布から出した。確かに日付は同じ。彼の話は事実だろう。 「話は分かったわ。あとはお母さんにも聞いてもらいましょう」と言うと、かずとは急に慌て始めた。「お母さんを呼ぶつもりか?」と。私は平然と頷いた。「あなたがしたのは浮気も同然。ここで許したらまた同じことをするでしょ」と。翌日の夜、義母が来ていた。かずとは玄関で正座させられていた。義母が「反省よ。ほとんど犯罪という感じのことをしたんだから」と睨みつける。義母は「誠意を示してもらわないといけないわよね」と言い出した。「ミキさんが欲しいものを買いますので許してください」とかずとが言うと、義母は「でも次はないわよ。私が許さないから」と厳しい言葉を飛ばした。義母のお説教が始まり、終わったのは2時間後のことだった。かずとは私に頭を下げた。「ミキ、本当に悪かった。許してくれ」「分かった。今回はミのようなものだし許すわ。その代わり次はないわよ」と伝えると、彼は泣きそうな顔で頷いた。 今回の騒ぎの後、かずとは人が変わったように真面目になった。夜遊びは一切しないし、休日は家事を手伝ってくれる。そんな時に誘われたのが義母が指導する華道教室だった。以前から興味があった私は2つ返事で参加し、すぐにのめり込んでいった。そんな私を見たかずとは眉を潜めていた。「なんで急に」とからかうような口調にむっとする。「何を趣味にしても私の勝手でしょ。浮気が趣味の人よりはな」と返すと、「お前、終わったことを蒸し返すなよ」と彼は少し引いていた。「そうね。1度目は私にも落ち度があったから許しただけ」と私が言うと、彼はよそを向き、自室にこもってしまった。何か妙だ。違和感を覚えるが、その正体は分からなかった。 違和感の正体に気づいたのは、結婚5年目の記念日だった。私はいつもより早く仕事を切り上げ、スーパーであれこれと食材を買った。少し奮発して普段は買わない高いワインなども手に入れた。帰宅すると、かずとが携帯電話をいじりながら缶ビールを飲んでいた。「結婚記念日だから」と早く帰ってきたのかと思うと嬉しくなる。しかし、彼は「結婚記念日。今日だっけ?」と軽く言った。少しがっかりしたが、本当の絶望はその次に訪れる。「結婚記念日だからじゃなくて、仕事をやめたから家にいるんだよ」と彼は平然と言った。仕事をやめた。どうやら経理担当者が不審な請求書を見つけ、調査が始まったらしい。そのうちの1つの担当者がかずとで、架空請求に関与していたと疑われた。彼は「疑われて腹が立っただけだ」と言い、退職届を叩きつけたという。「退職届は撤回するの?」「撤回するわけがないだろう」と。私は深いため息をついた。 翌日、私はかずとに電話をした。「寝ている場合じゃないでしょ。仕事を探してよ」と言うと、「分かってるよ。明日から探すから。平気だって。俺は優秀だから」と呑気に話す。私は声を荒らげた。「あのね、危機感を持ちなさいよ。なんであなたも私も30代。この年で再就職は難しいの知ってるでしょ?」と強く言ってみるが空振りに終わる。私はそのまま義母に連絡を入れた。義母が激怒したのは言うまでもない。私は会社の上司・直美に「家でトラブルがあり、午後から休みをもらえませんか」と伝えると、彼女は「あら、あの人やめちゃったの?」と口元に笑みを浮かべた。随分と嬉しそうに見える。直美は私を嫌っている。最近仕事で私の方が褒められることが多いからだ。 帰宅すると、義母と義父がかずとを問い詰めていた。「黙っていないでなんとか言いなさい。どういうことなんだ」と義父が怒鳴る。「だから俺は悪くないの。会社の連中が俺を疑うから」とまた責任転嫁している。すると、義母の携帯電話が鳴った。電話を終えた義母は怒鳴った。「この嘘つき。何が疑われたよ。私の華道教室の生徒さんの中にあんたの会社の関係者の奥さんがいるの。この人の話だと、あんた横領していたそうじゃない?どうなの?」と。かずとはドモドモしている。どうやら架空請求で会社のお金を横領しようとして失敗し、責任を取らされる形で会社をやめたらしい。「ミキさん、離婚してもいいわよ。こうなったら」と義母は言った。横領は犯罪だ。許せるようなことではない。しかし、ここで見捨ててもいいのだろうか。心の中に迷いが生じる。 「ごめんミキ。俺が悪かった。横領って言うけど、少し多めに請求して小遣いにしようと思っただけで」とかずとが謝る。「お金がないならどうして私に言わないの?」と聞くと、「恥ずかしいし、お前には浮気の件で迷惑もかけたし」と。心苦しかったということか。「素直に言っておけばよかったのよ」私が深呼吸をして言うと、「分かってる。本当に悪かった」と彼は謝る。「どんなに謝っても許さない。横領は犯罪だから離婚するわ」と宣言した瞬間、かずとは涙を流した。「待ってくれよ。謝るから離婚だけは」とすがる。「いやよ。もう決めたことだから」と冷たく突き放す。けれど最後にこう言ってあげた。「ただ離婚届はすぐに出さないわ。落ち着いて考える時間が欲しいから。その間にあなたがどう変わるか私に見せて」と。 かずとは一変した。再就職先は義母に紹介してもらったタクシー運転手に決定。不満もあったと思うが、彼は何も言わなかった。今は真面目に働いている。私はいつでも離婚できる覚悟を決め、少しだけ仕事の量を増やした。1人になっても暮らしていけるようにするためだ。月日は流れ、いつの間にか私たちの結婚生活は10年を迎えていた。 記念日が近づいたある日、私はかずとに「結婚記念日はどうする?」と聞いてみた。「そうだな。今年は旅行でもするか。最近はインバウンドの客も多くて随分と稼げているからな」と。タクシー運転手は恩恵に預かれる仕事の1つらしく、彼の給料にも余裕が現れていた。「じゃあ俺が計画を立てるから、ミキは言う通りにするだけ。どうだ?」と。「当日のサプライズってこと?」「まあそうだな。いいアイデアだろ」と2人で笑い合った。結婚日が待ち遠しくて仕方がなかった。 それから数日後、私は同僚の石渕佳子と昼休みにカフェへ行った。おしゃれなカフェで、ランチが1000円ぽっきり。デザートにコーヒーもついているらしい。私たちはそのカフェに入り、入口に近い席に案内された。猫の置き物に目を引かれていると、隣の席から聞き覚えのある声がする。「この店、いいだろう。最近の俺のお気に入りなんだ」と。この声は、かずとだ。ゆっくりと視線を横に向けると、棚の隙間の向こうに見えたのはかずとの横顔だった。彼の目の前には見知らぬ若い女性がいた。かずとは彼女に笑いながら話しかけている。「どう?この店は気に入った?みずほ?」「ええ、とっても。よかった」と女性は答える。女性の名前はみずほというようだ。彼女とはどういう関係なのだろうか。徐々に苛立ってきてしまう。「この店、ランチもうまいんだけど、今日はやめておこうか」「え、どうして?」「この後一緒に買い物をして、2人で作るのはどう?」との言葉に、私の眼光が鋭くなる。これは浮気確定だ。完全に頭に血が登った。しかし、今問い詰めたところで言い訳は可能だ。できれば言い逃れができない状態になるまで待ちたい。「ミキ、どうするの?」と佳子が聞いてくる。「もう少し様子を見るわ」と小声で返した。すると、かずとが決定的な言葉を漏らす。「なあ、そろそろ本気で付き合おうよ」と。「え、でも指輪してるし、奥さんがいるんじゃないの?」とみずほが聞き返すと、彼は笑いながら答えた。「妻は2年前に亡くなったから、この後うちに来ていいよ」と。「そうなんだ。じゃあ行こうかな」「決まりだな。うちで楽しもうか」とヘラヘラするかずとの隣の席で、私はぶち切れだった。 同僚と入ったカフェで夫の浮気現場に出くわすなど、どんな確率だ?「悪いけど先に出るわ。あれの監視してて」と顎で隣の席を示す。「オッケー。任せて」と佳子が頷いたところで、私はそっと店を出た。かずとを許したのは過去2回。2度目の時は離婚すると宣言したのに、まだ懲りていなかったのは驚きだ。さすがに堪忍袋の緒が切れた。泣いて謝っても絶対に許さない。立ち直れないくらいに叩きつぶしてやる。一生抜け出せない地獄の底でもがけばいい。かずとに復讐すると決めた私だったが、本当の悪人の存在にはまだ気づいていなかった。 色々と考えつつ急いでカフェから離れる。店が見えなくなったところで、私は義母に電話をかけた。「もしもし。お母さんですか?実は、最高のお仕置きでかずとを出迎えてあげたいんです。協力してください」と要件を伝えると、義母は快諾してくれた。続けて直美へ電話をかけ、体調不良で早退させてほしいと伝えた。彼女は「体調不良よ、本当に?」と疑ってきたが、「はい。すみません」と演技を交えて話すと、「まあいいわ。うちはブラック企業じゃないし。有給消化でいいのね」と許可が出た。タクシーに飛び乗り、急いで帰宅する。途中で佳子から電話がかかってきた。「今2人が店を出たところ。買い物をしてから家に行くとかなんとかそんな話をしていたわよ」と。「分かったわ。ありがとう」と伝え、電話を切った。 自宅マンション前に到着すると、義母と待ち合わせていた。「すみません。急に呼び出して」「いいのよ。バカ息子がやらかしたんだから」と呆然とする義母。2人で一緒に家に入り、手分けして部屋を掃除した。ベッドメイクに浴室の掃除も怠らない。最後に戸棚からワイングラスを出し、丁寧に磨いておいた。そうして1時間ほどが経っただろうか。ふと窓の外を見ると、自宅マンションの前にタクシーが止まった。窓から様子を伺うと、降りてきたのはカフェで見たみずほという女性だった。タクシーの運転席にはかずと。彼は身を乗り出しみずほに「あれ?車を止めてくるからちょっと待ってて」と言い、しばらくすると戻ってきた。彼はみずほの肩を抱くと耳元でささやくように何かを話す。「やだもう」とみずほがかずとを叩く。彼は嬉しそうに笑っていた。覚悟しなさい。あなたが笑えるのはそれが最後だから。 玄関の方から鍵の音が聞こえてきたのは数分後だった。すぐにガチャっと扉が開く。同時にかずとの声がした。「さあ、入って。1人だけどちゃんと片付けて」と。「そうね。ちゃんと掃除をしておいたわよ」とかずとと義母がセリフを被せる。ぎょっとしたのはかずとだ。目の前にいる義母を見て口をパクパクさせる。「どうしたの?かずと」「あれ?なんで母さんが?」と震えるかずとを見据えた義母は堂々と言い放った。「親が訪ねてきたら何か困ることでもあるのかしら?」と。「別にそんなことはないけど」ともごもごするかずと。その背後でみずほが首をかしげた。「誰ですか?」「あ、親。俺の」「ああ、お母様ですか?初めまして。私、かずさんとお付き合いをしている萩原みずほと申します。よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げるみずほ。「あら、ご丁寧にありがとう。でもどの程度のお付き合いなのかしら」と義母が問い返す。「はい。結婚を前提に」とみずほは無邪気に微笑みながら答えた。「そう。聞きにくいけれど、大人の関係かしら?」と義母。「いえ、まだ。でも今日はそのつもりで来ました」とみずほはあっけらかんと話す。それを聞いた義母はこちらを振り返った。「録音できたかしら、ミキさん」「はい」としっかりと手にしていた携帯電話を見せながら、私は姿を表した。私を見た途端、かずとは真っ青になっていた。「え、妹さんですか?」とみずほが聞いてくる。私は作り笑いを見せた。「残念だけど妹じゃなくて妻です。そこの嘘つき男の」と。「へえ」と顔を引きつらせるみずほ。ゆっくりとかずとの方を見る。「奥さん、2年前に亡くなったって言いませんでしたか?」「あ、うん」「じゃあ、この人は?」とこちらを指さすみずほ。私は笑顔で意義を唱えた。「違うわよ。今も健在。10年前に結婚した妻です」と。 「分かりやすく言えば、その男が嘘をついたのよ。あなたと浮気をするために私が亡くなったことにしたの。そうよね、かずと」と言うと、「あ、えっと」とこの後に及んでまだ言い訳をするつもりらしい。私はかずとを無視してみずほに言ってあげた。「どちらを信じるかはあなたの自由よ。でも、奥さんがいるなら、もしこのまま関係を続ければ浮気になる。それは嫌だという雰囲気だった。問題ないわよ。すぐに妻じゃなくなるから」と。「え?」「この後、離婚届を提出するつもりなの。だから遠慮しなくていいわよ。ベッドメイクも終わってるし、お風呂も掃除してあげたからね」と話しかけながらかずとを睨みつける。気づけば彼は青ざめていた。義母が「離婚とか冗談だよな?」と聞くと、あまりにも抜けた返答に私は呆れ、つい鼻で笑ってしまった。「本気に決まっているでしょ。悪いけど、彼女と楽しむ前に離婚届にサインしてくれるかしら?」と義母が取り出した離婚届をかずとに突きつけた。私の分のサインは終わっている。今し方かずとが帰宅するのを待つ間に書いたからだ。後はかずとのサインと印だけだ。「はい。早くサインしてくれる?」と強引に離婚届を手渡す。すると、みずほが後ずりした。「あの、私はこの辺で」「あら、もう帰るの?」「あ、はい。お邪魔みたいなので」とゆっくりと玄関の外へと向かうみずほ。私は急いで飛び出し、彼女の腕を掴んだ。「待った。あなたにはまだ話があるの」と。 「あなたには慰謝料を請求するんだから」と言うと、みずほは目を見張った。「え?慰謝料?」「悪いけど、あなたこの人が既婚者だって知っていたでしょう」と私はかずとを指さす。みずほは顔を引きつらせた。「いえ、知りませんでした。知っていたらここに来ませんよ」と。「普通ならそうね。でも、知らなかったという言い訳は通じないわよ」と私はかずとの左手を掴んだ。「この人の左手のこれ、何か分かるわよね」と結婚指輪を指さす。「あなたは最初、かずとに『指輪してるし、奥さんがいるんじゃないの』って言っていたわよね。これって気づくチャンスがあったということになると思わない?」と。既婚者との浮気でも、浮気相手が独身だと嘘をついていた時は慰謝料の請求が難しくなってしまう。ただし、結婚していると気づく機会があれば別だ。今回のように結婚指輪をしているというのはまさにそうだった。「既婚者だと疑ったから、あなたはかずとに聞いたのよね。それを深く追求しなかったのはあなたの過失よ。浮気の慰謝料を請求されても文句は言えないわ」ときっぱりと言い放つと、みずほは悔しそうに顔を背けた。「でも私お金とかないし」「そんなことは関係ないわ。あなたが無理なら、かずとに払わせればいいだけよ」と。かずとは強く反論した。「なんだよ、俺が。この女も同罪だろ」「同じだからよ。浮気は2人の責任なので、2人で慰謝料を払えってこと。かずとから総額の7割をもらえば、みずほからもらえるのは3割まで。だから、彼女が払えないならかずとに払ってもらうことになるわ」と説明すると、「なんだよ、それ」と彼は声を荒らげた。 次の瞬間、義母が彼を怒鳴りつけた。「浮気をしたあんたが言うことじゃないでしょ。悪いことをした自覚はないの?大体、前にも浮気をしたでしょう。同じことを繰り返しておいて、自分に非がないという言い方はやめなさい」「でも」「でもじゃないわよ。まずは反省しなさい」と. かずとは完全に意気消沈し、無言で俯いた。私は「ま、そういうことだから、2人には慰謝料を払ってもらうわね。弁護士を通じて正式に慰謝料を請求するから覚悟しなさい」と告げた。かずとは悔しそうによそを向く。「かずと、離婚届にサインしたの?」「したよ。ほら」と投げやりな態度で離婚届を放り投げる。しっかりとサインと押印されていた。「じゃあこれは私が預かるわね」「勝手にしろ」とかずとは完全に逆ギレしていた。私は「じゃあ出ていって」と彼を見ながら外を指さした。彼は首をかしげる。「は、なんで」「離婚するからよ」「いや、だからなんで俺が出ていくんだよ。離婚するなら出ていくのはそっちじゃないか」と。私はため息をついた。「あのね、この部屋の家賃、知ってる?」「え?知らねえけど」「月8万円。私に慰謝料を払うあなたが出せる金額?」と。「でもお前だって毎月払うのは難しいだろう」「そうね。だから引っ越し先が見つかったら出ていくわよ。できるだけ早く引っ越し先を見つけるつもりだ。それまでの間住めればいいと思っていた」「じゃあお前が出て行ってもいいだろう。どうせ引っ越すなら」「構わないけど、あなたは行き先が決まっているから」と言いながら隣にいる義母を指す。険しい表情の彼女は低い声で言った。「あんたは実家に戻りなさい。その腐った根性を叩き直してあげるから」「は、マジで?」「ええ、ほら、さっさと部屋の荷物をまとめなさい」と義母がかずとを怒鳴りつける。悲鳴のような妙な声を上げたかずとが寝室へ飛び込んだ。その背後を私は笑いながら見つめていた。 かずとが部屋に入った後、義母がこちらを向く。「そっちは任せてもいいかしら?」「はい」「じゃあ、かずとにカツを入れてくるわ」と腕まくりをした義母がかずとの部屋へ行く。私はみずほの方へ向き直った。「さて、連絡先を教えてくれるかしら?」「はい」と観念したように頷くみずほ。彼女は自分の携帯電話を出していた。連絡先を交換した後、みずほは帰っていく。私は静かに玄関を閉めた。かずとの部屋からは義母が叱る声が聞こえる。ため息をついた後、佳子に電話をかけた。「佳子、ちょっといい?」「あ、ちょっと待って」と仕事中だったようだ。どこかの扉が開く音がして、再び佳子の声が聞こえた。「ごめん。今オフィスの外に出たところ。どうだった?」と不安そうに尋ねてくる。私は1つ呼吸をしてから答えた。「終わったわ。無事にと言っていいのかわからないけれど」「そっか。じゃあ離婚?」「まあそんな感じ。慰謝料の話とか大丈夫?」「その辺は弁護士に任せるつもり。お母さんが紹介してくれることになっているから」と。義母は「もし離婚するなら腕利きの弁護士を紹介するわよ」と言ってくれた。「いいんですか?相手が息子なのに」「息子だからよ。これ以上あなたに迷惑はかけられないわ」と。母の優しさが身にしみる。私は思わず涙を流していた。 「佳子、うちに来ない?」「がいい?」「でも早いうちに本音を打ち明けられるのは今は佳子くらいだ」と思い、悪いと思いつつ彼女を頼った。「じゃあ今夜でもいい?高いワイン買っていくから」「ありがとう。いいわよ。どうせ明日は休みだし」と。「じゃあ待ってるね」「ええ、それに話しておきたいこともあるから」と佳子。「話しておきたいこと?」と反射的に聞き返すと、「ごめん。詳しいことは後で。仕事に戻らないと」と。「そうだったわね。ごめんね。忙しいのに」「平気よ。じゃあね」と電話を切った。 数時間後、インターホンがなる。訪ねてきたのは佳子だった。約束通り高そうなワインが入った袋を抱えている。「お待たせ。早かったわね」「当然よ。仕事が終わってすぐに来たんだから。あ、これワイン。今日は私のおごりだから感謝してよね」とポンと私の肩を叩く佳子。その後、私は彼女と一緒におつまみを作った。つまみ食いをしつつワインも開ける。ひとしきり楽しんだ後はリビングへ。女2人で大騒ぎした。そうして酔いが回った頃、佳子がふとつぶやいた。「そういえば話しておくことがあるんだったわ」「何の話?」「ミキの旦那さんの浮気相手のこと」と急に真剣なまなざしになる佳子。釣られて私も真面目な顔つきになった。「あの子がどうしたの?」「名前は萩原みずほ。間違いない」と。「でもなんで苗字まで?」と私が聞くと、彼女は軽く頷いた。「簡単なことよ。実は、彼女、うちの就職試験を受けていたの」と自分の鞄からあるものを出した。それはみずほの履歴書のコピーだった。「これ、なんでここに?」「私がこれを見つけたのは偶然よ。1ヶ月くらい前かしら。整理していた古い資料の間に挟まっていたの」と佳子は話を続けた。不採用になった人の履歴書が会社に残っていること自体が妙だ。佳子は不審に思い、会社の通話履歴を調べた。すると、その中にみずほの電話番号が残っていた。社内の誰かが彼女と連絡を取り合っている。就職を餌にするなら、それなりの立場が必要だ。一般社員には無理な話。自分と同じオフィスにいて権力がある人物。それは1人しかいなかった。「直美さんが萩原みずほさんと連絡を取り合っていたんですよね」と確認する佳子。直美は顔を背けた。佳子は直美がみずほに連絡した証拠も見つけていた。「あなたが佳子を落とし入れようとした方法と同じことをして」と私は直美に伝えた。 話を聞いた後、私は愕然とした。「これ、本当なの?」「ええ、ミキはどうする?」と佳子。私は、直美がかずとに浮気相手を送り込んだことは、私を破滅させるための罠だったと確信した。「ほんの序章だったってことね」「そういうこと」と佳子。「本気で相手を追い詰める覚悟はある」「そうね。やるしかないわ。もう覚悟を決めるしかない。後戻りできないところまで来てしまったのだから」と。翌朝、私たちは携帯電話の着信音で目を覚ます。相手はどちらもかずとだった。メールには「俺が悪かった。離婚はやめて仲直りをしよう」と。思わず顔をしかめた。「都合のいいことを言う男はダメよ」「そうよね。こんなメールは削除」と全メールを削除する。すると再び電話がかかってきた。当然相手はかずとだ。「無視するとまた電話してくるわよね。はっきりと断ったら」「うん。そうする」と録音ボタンを押してから私は電話に出た。「もしもし」「あ、ミキか。よかった」「何か用事?」「用事というか、俺が悪かった。お願いだから離婚はやめてくれ」と。私は「あなたが悪いのは確かね。でも離婚はやめないわよ」と断言した。その途端、かずとの態度が一変する。「そうかよ。じゃあもういい。後悔しても知らねえからな」「あら、私を脅すつもり?録音してるわよ、これ」と言うと、かずとは笑いながら答えた。「録音が何だってんだよ。泣いて後悔しやがれ、バカ」と。子供じみた悪口ね。本当に離婚してよかったわ。電話を切られた後、私はそう思った。本当に後先考えない人ね。まあいいわ。離婚の話し合いの時にこの録音も提出してあげるから。 そうしてかずと別居してから約1週間。私はようやく引っ越し先が決まった。離婚届はもう提出している。引っ越し当日は佳子が手伝いに来てくれる。彼女と業者の力を借り、私の引っ越しは無事に終了した。改めて新居での生活を始めることになった。 翌日の月曜日、いつも通りの時間に出勤すると、少しオフィスの中が騒がしかった。何だろうと思いつつ佳子を探す。オフィスの中に彼女の姿はなかった。首をかしげた次の瞬間、背後から声がする。「おはよう」「あ、おはようございます。ちょうど良かったわ。あなたに聞きたいことがあるの。会議室へ来てくれる?」と奥にある会議室を指さす直美。不穏な空気に思わず息を飲んでいた。会議室に入った途端、彼女は入り口に鍵をかけた。「それで、何の話ですか?」と私が訪ねると、直美が険しい表情を見せた。「取引先から預かっているデータが流出したのよ。はっきり言うけど、あなたも絡んでいるんじゃない?」とバンとテーブルに資料を叩きつけるように置いた。「流出したのは精密機器メーカーのデータ。もう分かるわよね。あなたの旦那さんが前にいた会社よ」と。「申し訳ないですが身に覚えがありません。何かの間違いでは」と言い返すと、「そうね。あなたに関する証拠はないわ。データは石渕佳子が使っていたパソコンから流出したんだから」と。え、佳子?とぎょっとする。「ここ、会社のパソコンでデータを閲覧した記録が残っているわ。しかもデータを外部メモリーにダウンロードした記録もある」と。機密データにアクセスすると記録が残るようになっていた。資料を見る限り、データにアクセスしたのは佳子のアカウントだった。「確かに佳子のアカウントからアクセスされていますが、このタイミングで流出したと断言するのは早計だと思います」と言うと、「じゃあ外部メモリーにデータをダウンロードした理由は何かしら?」と。「それは」と都合のいい理由は思いつかない。仕事で使うとしても閲覧するだけで十分だからだ。「他者からデータが流出したのかも」と言うと、「流出したファイルにはナンバーがついているわ。どこからデータが漏れたのか判別できるように全て別々になっているそうよ」と。これ以上の言い訳は無理だ。「佳子は何て言ってるんですか?」「自分は知らない、その一点張りよ」と。私は「私は佳子を信じています。私にできるのはこう証言することくらいです」と自信を持って話したのだが、直美から返ってきたのは無慈悲な言葉だった。「あなたが信じるとか、そんなことはどうでもいいの。私が知りたいのは、あなたも共犯じゃないかってことだけよ」と。「違います」と強く否定する。「ま、あなたに関しては証拠もないし否定するのは構わないわ。ただし石渕佳子は別。彼女は首よ。文句はないわよね」と。「首ですって。そんな」と。「応じゃないわ。証拠があるんだから」と資料を叩く直美。私は言い返すことができなかった。「文句があるなら、あなたもやめてくれていいのよ。かずと離婚した。今簡単に仕事をやめることはできない。以前彼に言った通り、30半ばでの再就職はかなり難しいからだ」と思った。「分かったらせいぜいおとなしくしていることね」と直美は笑いながら会議室を出ていく。どうして彼女が笑っているのか私には全く分からなかった。ただ悔しさだけが残る。もしかすると、これも先日のかずとの言葉に関係しているのだろうか。かずとは「泣いて後悔しやがれ」と言った。あれは目の前の出来事のことを言っていたのではないだろうか。余計に腹が立ってきた。 かずとに問いただそうと携帯電話を取り出す。その時ちょうど電話がかかってきた。相手はかずとだ。私は急いで電話に出た。「かずと、どういうことよ」と声を荒らげる。かずとは平然と聞き返してきた。「何の話だよ」「あなたでしょ。佳子をはめたのは」「そんな女をはめた覚えはないな。お前と同じくらいの年齢のババアは俺の対象外だよ。悪いけど」と大声で笑う。私はカッとなった。「今回の件、あなたは無関係っていうのね」「大体、何の話だよ。俺はまだ」と。まだという言葉に引っかかる。想像に過ぎないかもしれないが、まだ何もしていないと言いかけたのだろう。もしそうなら、この一件はかずととは無関係だ。彼の性格を考えれば、自分の作戦だった場合には成功したことを得意げに語るはず。しかし彼は回答を拒否している。彼が無関係というのは間違いなさそうだった。だとしたら。 電話中ということを忘れて考え込む。すると腹を立てたかずとが叫んだ。「おい、何をブツブツ言ってやがる。俺の話を聞いてるのか?」「ああ、忘れてたわ。ごめんなさい」「ふざけやがって。絶対に後悔させてやるからな」と怒鳴り散らすかずと。その瞬間、あることをひらめいた。先日の佳子の話を思い出す。そっか。そういうことなのね。私を取り巻く一連の出来事が繋がった。データ流出もかずとの浮気も、目的はたった1つ。「ようやく分かったわ」と。かずとは「おい、ミキ聞いてるのか?」と怒鳴ってくるが、耳に入らない。「話は終わりよ。私に何かするつもりなら、倍返しに会うと思いなさい」と伝えると、「は?何を偉そうに?」と鼻で笑う。「何をしても後悔するのはそっちよ。覚悟しておきなさい」と最後通告とばかりに警告し、一方的に電話を切った。 すぐにある人の元へ向かう。私の考えた通りなら佳子を助けられるわ。きっと。行きついた先は社長室だ。軽くノックをすると中から声がした。「はい、どうぞ」「失礼します」「ああ、滝沢君か。どうしたのかな?」と社長の鮫島博幸が柔らかい笑顔を向けてくる。1度頭を下げてから彼に近づいた。「お話がありますが、その前に。実は離婚して、滝沢ではなくなりました」「ああ、そうだったのか。すまない」「いえ、お気遣いなく」と。それから本題を切り出した。「実はデータ流出の件です。社長は本当に佳子が犯人だとお考えですか?」と率直に尋ねてみる。少し考えていた社長だったが、わずかに視線をそらした。ためらいがちに口を開く。「私は違うと思っている」と。でしたら、と言いかけたところで社長は私に右手をかざした。「これはデータのアクセス記録だ。これを見る限りは石渕君がアクセスし、外部メモリーにデータをダウンロードしている。これを君は覆せるのか?」と少し苛立った様子で資料を指す。「覆せるかどうかは分かりませんが、彼女以外にも同じことができたという証明はできます」と私はニコリと微笑んだ。「どういうことかな?」「記録に残っているのは佳子がアクセスしている様子ではありません。使用されたアカウントが彼女のものだったというだけです。犯人はデータ流出が目的だったわけではない。本当は別の件を隠そうとしていた。佳子のデスクを調べればはっきりするはずです」と私は説明した。「どうしてそう言い切れる?」「彼女はおそらくデスクにカメラを仕掛けているはずですから」と。「カメラ?」と。 話は少しだけ遡る。1週間ほど前のことだ。かずとが家にみずほを連れ込んだ日、私は彼との離婚を決めた。その夜、佳子が家に来た時に彼女に頼んだのがこれだ。元々は彼女の持ち物を守るための提案だった。携帯電話などが盗まれた時、カメラがあれば犯人を特定できる。私はそういう使い道を考えていた。「では早速調べよう」と社長は席を立ち、佳子のデスクへ行った。机の上を探り、充電用のUSBアダプターを手にする。「おそらくこれがカメラだな」「そうですね。よく見ると前面に小さなレンズがあった。この辺に」と社長が指でレンズの辺りを触ると、ポロっと蓋が取れた。中には記録用のカードが入っている。「映像を確認しましょう」と私が言うと、突然誰かが声を張り上げた。「ちょっと何をしてるのよ」と。顔をあげると直美がこちらを指さしていた。「一体何がしたいのよ」「え、犯人を見つけたいだけですけど」と平然と答えると、ぎょっとした直美は社長の方を見た。「彼女が言った通りだ。石渕君のデスクにはカメラが仕掛けてあったんだよ」と今し方手に入れたばかりの隠しカメラを見せる社長。途端に直美が震え始めた。「カメラなんて、そんなもの」「理由なんかどうでもいいじゃないですか。これを見れば一目瞭然。データが流出した時間に誰がここにいたのか、一目で分かりますよ」「それは」と激しく動揺する直美。この時点で、もう答え合わせは終わっていた。佳子のアカウントを使いデータをコピーしたのは直美だ。ほとんど確信していたけれど、まだ証拠がない。社長が佳子のパソコンの前に座った。「待った。そんなものを信じるんですか?社長」と直美が震える声で尋ねる。社長は彼女の方を見ずに答えた。「当然だ。私は自分の目で見たものを信じたい」「でも映像が加工されている可能性もありますし」と直美は懸命に話を引き延ばそうとする。そんな彼女に社長は冷たく言った。「それは記録も同じだ。数字の改ざんより映像の加工の方が面倒だろう。そういう意味では映像の方を信じたいがね」「ですが」「お前、少し黙っていなさい。そんな反応をしていると、後ろめたいことがあると思われても仕方ないぞ」とばっさりと切り捨てられ、直美が無言で唇を噛む。もう彼女になす術はなかった。「では再生するぞ」と社長の指がパソコンのマウスに伸びる。次の瞬間、直美が叫びながら手を出した。「やめて!」と。慌てて私は直美が伸ばした腕を掴む。暴れようとした彼女だったが、すぐに数人の男性社員に取り押さえられた。 カメラの映像が再生される。最初に流れたのは昼間のオフィスの映像だ。デスクでは佳子が真剣な顔で仕事をしていた。やがて窓の外が暗くなり、彼女は席を立つ。しばらくするとカメラの前を行き来する人も映らなくなった。室内の照明が消されたのか、画面まで暗くなる。そこで終わりかと思いきや、ふとオフィスの中に明かりが灯った。画面の隅に1人の女性が姿を表す。言うまでもないが、直美だった。彼女は周囲を見回した後、佳子がいた席に腰を下ろす。そして笑いながらパソコンを操作し、最後にポケットからUSBメモリーを取り出した。パソコンに差し込み、何かをダウンロードしている。残念ながら音声は録音されていなかったけれど、映像だけでも十分な証拠だ。「言い訳はありますか?」と私が尋ねると、直美は何か言っているがうまく聞き取れない。やがて耐えかねた社長が声を荒らげた。「はっきり言いなさい、直美」「はい。その」と返事はしたものの、直美は肝心の自白をしない。私は彼女の顔を覗き込み、脅すような口調で尋ねた。「私が知りたいのは、あなたが犯人かどうかだけですよ」と。少し前、直美が口にしたセリフを返してやる。「どうなんだ」と厳しい口調で直美を問い詰める社長。やがて直美はその場に崩れ落ちていた。「私がやりました。すみません」と。直美は涙を見せている。同情を求めるための演技だろうか。偉そうな態度で私に詰め寄ってきた人間と同じとは到底思えなかった。「泣いても許しませんよ。佳子に罪を被せておいて」と。「ごめんなさい」と鼻をすする直美。社長は同情するような目を向けていた。まずいと思った私は話題を同期に移す。「それで、どうしてこんなことを」と。本当に泣いてごまかすつもりのようだ。それならと私は方針を変更した。「佳子が邪魔になったんですよね。色々と知られてしまったから」と。急に泣き止む直美。私が真相を知っていることに驚いたようだ。「大丈夫ですよ。私も全て知っています。だからもう泣いてごまかすのは無理なので諦めてください」と。「私が何か勘違いしているとでも言うの?」と泣き真似だったのか、真顔の直美が聞いてくる。私は口元を緩めて話を続けた。「あなたは私が邪魔だったんですよね。それで私を会社から追い出すために罠にはめようとした。違いますか?」「知らないわ」と視線をそらす直美。私は構わずに自分の考えを披露する。「仕掛けた罠はいくつもあるけど、最近は私の夫。え、元夫に浮気相手を送り込んだこと。そうですよね」と。「何のことかしら?」と直美は真っ青な顔でとぼけた。この様子を見ると、佳子が話してくれたことは事実らしい。 「私の夫と浮気するように差し向け、離婚に追い込みました」と言うと、社長が「まさか、離婚した原因は?」と。「ええ、元夫の浮気です。相手は萩原みずほ。うまくやられました」と。すると社長は直美に怒鳴った。「直美、お前というやつは。人様の家庭を壊すとは何事だ?」と。直美はとっさに両手で自分をかばった。「全くどう責任を取るつもりなんだ」と社長が問い詰める。「すみません。浮気をしたのはバカな元夫の責任です。ですからその点は別に気にしていません」と私が言うと、「でも」と。「いえ、本当にいいんです。問題は就職を餌に人を使ったことですよ」と携帯電話を揺らして見せる。社長は静かに頷いた。「その証拠、後で提出してもらえるかな?」「もちろんです。ただデータの方は佳子が持っているので」と。「分かった。石渕君の処分は取り消す。それと直美、お前は謹慎だ。証拠を精査した後で正式な処分を下す。いいな」と厳しい視線が直美に向けられる。目には涙を浮かべていたが、自業自得だから仕方がない。直美は悔しそうな顔で荷物をまとめると、早々にオフィスを出ていった。 「本当に申し訳なかった」と社長が頭を下げる。「私は別に。それよりも佳子に謝罪してください」「当然だ。後で直接謝罪をするよ」と。本当に良かったと胸を撫で下ろす。ただ1つだけ謎が残った。それは直美が私に執着していた理由だ。私を嫌っていることは分かった。佳子を首にすると言われた後、直美は私を見て笑っていたからだ。だが、なんとなく馬が合わないくらいなら、普通はここまでのことはしない。嫌がらせというには手が混んでいるし、他にも目的があったのではないかと疑いたくなる。 その後、会社の調査で直美がみずほと連絡を取り合っていた事実が判明する。直美が就職させると嘘をつき、みずほに色々と指示をしていたことも分かった。会社は就業規則に反する行為として直美を解雇。みずほに対しては社長が自ら謝罪したという。私が直美の関与を知ったのは例の件の2週間後だ。佳子はすでに会社に復帰しており、社長から謝罪も受けていた。 その数日後のこと、お昼休みに私は佳子にカフェへ行こうと誘われた。以前かずとの浮気騒ぎでランチを食べ損ねたあの店だ。「色々とありすぎてすっかり忘れていたわ」「びっくりしないでよ。本当に安くて美味しいから」と。そんな話をしながら例のカフェへ向かう。店に入ろうとしたところで背後から声をかけられた。「あの、ミキさんですよね」と。反射的に振り返る。少し離れた場所にポツンとみずほが立っていた。「えっと、萩原みずほです。覚えていますよね」と。「本当に失礼とは思うのですが、お時間をいただけませんか?」と。「時間って」と。相手は元夫の浮気相手だ。話すことはないと追い返すのが普通だと思ったけれど、みずほの謙虚な物言いに引っかかる。「何が目的?」と声を潜める。「あの、目的とかじゃなくて、忠告というか」と。「忠告?」と。隣にいる佳子の意見を求めた。「佳子はどう思う?」「そうね。話くらいは聞いてもいいと思うけど」と。だよね。よくよく考えれば、みずほは利用されただけだ。就職させると嘘をつかれた彼女は、かずとの浮気相手を演じていた。うちに来た時に話していたが、特に関係があったとは思えない。「先に聞くけど、かずと関係は特にありません。誘われていたのですが、なんとか断っていて」と。私の想像通りのようだ。「分かったわ。話を聞くから、一緒に食事でもしましょう」とカフェを指さす。みずほは瞳を潤ませながら頭を下げた。 店に入ると一番奥の席に案内される。3人分のランチを注文し、私はみずほに尋ねた。「それで、忠告って何かしら?」「鮫島直美さんのことです」と。直美の。「つい先日、直美は正式に解雇されている。今になって彼女の話を聞いても意味がないと思った。「それならもういいわ。彼女は首になったんですよね」と私はため息混じりに首を振る。「でも、それも彼女の想定内なんです」とみずほ。「へ?」と。みずほの言葉に目を見張った。隣の佳子が私の脇腹を肘でつついてくる。「みずほさん、どういうことか詳しく話してくれる?」「はい。あの人、私にこう言っていたんです。滝沢美紀を破滅させろ。あの女は絶対に許せない。私の男を奪ったからって」と。「男を奪った?」思い当たる節はない。確かに直美は今も独身だ。しかし、私は10年も前にかずと結婚している。浮気はしていないし、直美のそういう関係に興味を持ったこともなかった。「聞き間違いじゃないの、それ」と佳子も同じことを考えたようだ。だが、みずほは片首に否定した。「いえ、事実です。あの人、本当はかずさんが好きだったらしくて」と。「え、」とあっけに取られる。「ちょっと待ってよ。私が聞いた話だと、タイプじゃないってあの人に仕事を押し付けられたのがきっかけで」と。かずと結婚する前、私は彼と一緒に仕事をした。その仕事は直美が最初に対応したのだが、相手がタイプではないという理由で私が担当になった経緯がある。「じゃあ、あれは嘘だったってこと?」と。「その辺りの話はよく知りませんが、直美さんはこんな風に言ってました。断らないのはおかしい。何を考えているのかと」と。「じゃあ、あれは私が断ると思って仕事を振ったってこと」と。勝手な想像になるけれど、あの時点で直美はかずとに惚れていた。どうにかして気を引きたい彼女は、引き立て役に私を選ぶ。当時はまだ新人に近かった私なら、大企業とも取引があるような会社の仕事には尻込みをするだろう。そんな自分勝手な考えで直美は私を担当にした。1つ誤算だったのは私が積極的に対応したことか。大きな仕事を任され、私は舞い上がり断るどころか前のめりに受けてしまう。直美は心の中で焦っていたはずだ。結局は私がかずと結婚してしまった。悔しかったと思うが、結婚すれば普通は諦めるものだろう。それなのに直美は割り切れなかった。結婚後、私がかずとの会社の担当を減らされたのがその証拠だ。口では「変な噂にならないように配慮する」と言っていたけれど、単に私に嫉妬しただけ。「何よ、それ。じゃああなたを浮気相手として差し向けたのも、大半は嫉妬からだと思います。2人が離婚すれば自分にもチャンスがあると言っていましたから」とみずほ。「呆れた」と佳子がため息をつく。私も同じ気持ちだった。私が離婚すれば次は自分が結婚できるなど、まるでストーカーの考え方だ。 「でも、問題はその先なんです」とみずほ。「え、まだあるの?」「この間、かずさんと話し合いをしたんです。浮気の慰謝料の件で」と。「そうらしいわね」と。私もその話し合いについては聞いている。直前にかずと会っていたからだ。「かずとは私にこう言いました。お金が入るから慰謝料は自分が払う。その代わり自分に慰謝料を請求するなと」と。「お金が入る?」と。かずとはタクシー運転手のままのはず。どこからお金が入るというのか。「それで、どこからお金が入るとか彼は言ってなかった?」と尋ねると、「いや、でも1つだけ気になることが」とみずほ。「何?」と思わず前のめりになる。「私とはファミレスで会ったんですけど、店を出た直後、彼がどこかに電話をかけていて。相手は?」「分かりません。ただ、『何かを手に入れた』とか『なんとか手に入れた』と」と。考えを巡らせる。すぐに私はピンと来た。思いついたことをみずほに尋ねる。「1つ聞くけど、直美からかずと付き合うように言われた時、何か頼まれたことはなかった?」「はい、あります。実は」ととんでもない事実を暴露するみずほ。本人はことの重大さを理解していないのか平然としていた。「なるほど。そういうことか。じゃあ近いうちに連絡が来るでしょうね」「ええ、こちらも歓迎してあげましょう」と。「タイミングもいいし。多分私の予想通りの行動をしてくれるはずだわ」と佳子と2人でほくそ笑む。状況が飲み込めていないみずほはオロオロしていた。 事態が大きく動いたのは翌日の夜。仕事を終え会社を出た直後のことだ。不意にかずとから電話がかかってきた。「今、いいか?」「ええ、仕事が終わったところだから構わないわよ。何か用事?」「慰謝料を払ってやろうかと思って」と声が浮かれている。みずほの話にあった通り、お金を手に入れたようだ。「あ、そう。じゃあ振り込んでおいて」と。「なんだよ。釣れないな。元夫婦なんだし。少しくらいは付き合えよ」「お断り。大体、今はどこにいるのかしら?」と何気なく聞いてみる。すると窓を開ける音が通話口の向こうから聞こえた。「実は今、京都にいるんだ。結婚記念日にお前と泊まるはずだった最高級ホテル。そこに泊まってるから、お前を招待しようと思って」とニヤニヤする姿が目に浮かぶ。やはり思った通りだと心のどこかで安堵していた。「結構よ。それに私が行くとお邪魔じゃないの?」と引っかけをかける。その途端、ガタンと大きな音がした。慌てたかずとが何かに引っかかったのだろうか。何やら焦るような声も聞こえた。「やっぱり誰かとお泊まりの最中なのね」「うるせえ」「騙したな」「お互い様よ。せいぜい最後の夜を楽しむことね」「は?最後?」とかずとが聞き返してくる。「ええ、最後よ。じゃあね」と、あ、ちょっと待て、という声を無視して強引に電話を切る。そのまま着信拒否にした。連絡が取れると面倒だものね。呟いた後、とある人にメールを送る。返信を待たずに携帯電話を鞄にしまうと、大きく伸びをしてから家路に着いた。 1週間後、仕事終わりに佳子と会社を出ると、目の前にかずとが立ち尽くしていた。彼は私を見るなり怒鳴ってくる。「俺を騙したのか、ミキ。浮気をしたのはそっちだろ」「裏切ったのはあなたじゃない」「そんなことじゃねえ。なんだよ、これは。何の役にも立たないデータばっかりじゃないか」と手にしていたUSBメモリーを地面に叩きつける。私は笑いながら尋ねた。「何の話?私、あなたにデータを渡したこととかないわよ」「ふざけるな。お前が家に置いていたパソコンの中身だよ。なんで1つも使えるデータが入っていないんだ?」と。「私のパソコンの中身を見たの?勝手に」と問いかけるとかずとは急に黙り込んだ。「人のパソコンのデータを売ろうという方がおかしいのよ。しかも私の会社を首になったような人にね」と。すっと視線を遠くへ向ける。少し離れた場所にかずとのタクシーが止まっていた。後部座席に誰か乗っている。私と話すかずとのことを文句も言わずに待っているから、客ではないのだろう。「お前、どこまで知ってるんだ?」「全部よ。全部。あなたのタクシーに乗っているのが直美ってことも」とタクシーの後部座席の人物を指す。彼女はゆっくりと降りてきた。「気づいていたのね」「ええ、この人が京都で会ったのがあなただったから」とかずとを示しながら言う。直美は不適に微笑んでいた。「見てきたような嘘を言うのね」「見てきたわけじゃないけど、写真は見せてもらったわよ」「写真?」と首をかしげる直美。私はポケットから携帯電話を出した。そこにかずと直美の写真を表示する。「はい、どうぞ。京都の高級ホテルのラウンジにいるあなたたちよ」と。「なんでそんな写真があるのよ。あなた、私を尾行していたの?最低」と直美が睨みつける。私はため息をついた。「そんなことをするわけがないでしょ。私を撮影したのは、かずとのお父さんよ」と。「は?父さんが」と目を見張るかずと。私は大きく頷いた。「ちょうど京都からかずとが私に連絡してきた直後のことだ。電話を切った私は義父にメールを送っていた。お父さんがいるホテルにかずとと女性がいます。写真を撮ってください、って」と。「え、父さんがあのホテルに?」「ええ、お父さんもお母さんもいたわよ」と優しく微笑む。「なんでそんな偶然?」「偶然じゃないもの。あなたがケチなことをしなかったら、こんなことにはなっていないわよ」と。 「どういうことだ」と首をかしげるかずと。私はため息混じりに答えた。「彼の浮気が発覚する少し前、私たちは結婚記念日の話をしている。そこで決めたのは、かずとが旅行を手配することだった。私には秘密にしていたつもりだろうが、ダダ漏れ。理由は家に置いていたパソコンを使い、かずとが予約していたからだった」と。「とあれ、私は京都のホテルに行くことを知った。ここで私はあることを思いつく。それがサプライズのお返しだった。かずとに秘密で両親を旅行に招待しよう。家族4人で過ごせばより良い結婚記念日になる。勝手にそう考えた私は、両親の分も同じホテルを予約した」と。「こうしてあなたたちが京都のホテルに泊まった日、かずとのご両親もそこに泊まっていたというわけ。じゃあこの写真は合成でも何でもなく本物よ。疑うならお母さんを証言者として呼びましょうか」と携帯電話をかざして見せる。かずとはがっくりと項垂れた。 「さて、本番はこれから。どうして私のパソコンの中身をあなたが持っているの?勝手に盗み出した。そうよね」と同意を求める。反論は認めない。厳しい視線をかずとに向けた。「俺はそんなことしてない」と。「してない?それは困ったわね。じゃあその辺りの証拠も出そうかしら」と隣にいる佳子を振り返る。彼女はニヤニヤしながら自分のタブレットを鞄から取り出した。「ミキのパソコンがノート型ってことは知っているわよね」と佳子がかずとに確認する。さすがにこれは否定しなかった。実際、ノートパソコンくらいは一目瞭然だ。「じゃあ、カメラがついていることも分かるわよね」「カメラ?まさか」と息を飲むかずと。佳子は頷きながらタブレットを彼の方へ向けた。「勝手にパソコンを起動させたら、カメラが使用者を撮影するようにしていたの。ほら、よく見て。あなたのまぬけな顔が綺麗に映っているわよ」と。最近のパソコンのカメラは高性能だ。映像もクリアに残せる。「ち、違う。俺じゃない」と。「どう見てもあなたよ。盗んだのかは知らないけど、不正アクセス禁止法に違反しているわよね。直美が会社を解雇された理由がまさにこれだ。佳子のアカウントを使い不正にデータにアクセスした。その点をとがめられ直美は首になっている。あなたのこと告発してもいい?」と笑顔で訪ねると、かずとは懸命に首を振っていた。 「じゃああなたに聞こうかしら」と視線を直美の方へ向ける。彼女は額に汗をかいていた。「何よ、あなたは何がしたかったの?私のパソコンのデータを盗んで」「知らないわよ。データを盗んだのは彼でしょ」とかずとを指さす直美。「は?なんだよ。責任転嫁か?お前の指示だろ?金を出すから盗めって」「出鱈目を言わないで」「うるせえ。お前が言ったんじゃないか。忘れたとは言わせねえぞ」と大声をあげるかずと。互いに相手に責任をなすりつけたいようだ。「もういいわ。大体分かっているから」「嘘をつくんじゃないわよ。何も知らないくせに」「知っているわよ。あなたがかずとに惚れていたこともね。佳子」と、佳子と2人で頷き合う。途端に直美は真っ赤になった。「私からかずとを奪いたかったんでしょ。お金を出したのは気を引くため。本当はデータなんてどうでも良かった。違う?」と直美に尋ねる。彼女は口をパクパクさせるだけで何も言えなかった。「みずほから全部聞いたのよ。残念だったわね」と佳子が追い打ちをかける。私もさらに続けた。「嫉妬して私たちを離婚させたかった。仮にうまく盗み出せていれば、今度は私をデータ流出の犯人に仕立てあげるつもりだったってところかしら」と。直美にとって重要だったのはかずとの気を引くこと。データはおまけのようなものだった。「ごめんなさい。許してください」と泣き崩れる直美。恋は盲目と言うが、本当にかずとのことが好きすぎて善悪の区別もつかなくなってしまったようだ。「そう。じゃあ私はあなたを許すわけないでしょ。それはさておき、罪は罪だ。いい大人なら責任を取ってもらうしかない。しっかり反省してちょうだい」と言いながら、私は社長に電話をかけた。 会社から社長が飛び出してくる。「直美が来ているそうだな」「はい。私の自宅のパソコンからデータを盗めと、ここにいるまぬけに指示をしたそうですよ」と、逃げようとしていたかずとの襟首を掴む。「あ、おい、話せ」「話すわけがないでしょ。あなたにも罰を受けてもらうんだから」とかずとを睨みつける。先の展開が分かったのか、彼は急に静かになった。「直美、本当なのか?」「あ、その」と戸惑う直美。話の流れを考えると「見逃すところだろう」などと思っているようだ。感動話ならそういう展開でもいいかもしれない。しかし私は物語の登場人物とは違う。どんなに哀れなストーリーでも平気で裏切る小説や漫画と同じエイターだ。可哀そうとは微塵も思わない。「事実ですよ。しかも私がデータ流出の犯人になるように、盗んだデータを使うつもりだったそうですから」と。少しばかり喚起が起こったのは言うまでもなかった。「直美、お前はもう絶対に許さん。来い」「ま、待って。話します」「だめだ。この根性、叩き直してやる」と怒鳴った社長は直美を連れて駐車場の方へ向かう。そのまま自分の車に乗せ走り去ってしまった。 「さて、行っちゃったわね」「あ、そうだな。俺もそろそろ帰るとするよ」とかずとが軽く釈然とする。「は?何を言ってるのよ。あなたの行き先は1つよ」と近づいてくる車を指さした。「あれは」「はい。正解。お母さんの車よ。しっかり絞られてね」「やだ」と激しく暴れるかずと。義母が到着するまで、佳子と2人で懸命に彼を抑えつけた。翌日の私たちは腕が筋肉痛になっていた。 … Read more

1 September 2026

役人が吐き捨てたその言葉を、私は今も忘れない。「最期が生き恥をさらすことだ」。そう言って放り出された見知らぬ罪人に、里の誰もが見て見ぬふりをした。十七の私は、ただ目の前に死にかけている人がいる、それだけで一杯の粥を運び始めた。毎日、毎日。痩せ衰えていく彼に、私は必死で食事を食べさせ続けた。それは、瀕死の彼の体に命を燈す、たった一つの温かな光だった。しかし、彼が少しでも快復すると、決まって彼は…

役人が吐き捨てるように言った言葉は、小屋の中に横たわる男の耳に屆くことはなかった。生死の境を彷徨うその男のもとへ、一椀の粥を手に足を踏み入れたのは、まだ十七の娘だった。その日、彼女が流れ者の世話を引き受けた瞬間から、誰も知らない恐ろしい陰謀の扉が開かれようとしていた。 山深い谷あいに、菅ヶ原という小さな里があった。山は高く、一度入り込めば容易には出られない土地だった。その里の外れで、斧兵という五十がらみの男が、古びた一軒の旅籠を切り盛りしていた。妻を早くに亡くし、三人の娘を男手一つで育て上げた。上の二人の娘はすでに嫁ぎ、年老いた父の傍らに残ったのは、末娘のさきだけであった。 さきは丸い顔に濃い眉、目元には芯の強さが宿る娘だった。毎日の水汲みと薪割り、火を炊くのが彼女の朝の日課だった。斧兵が奥の客人の膳を頼むと、さきは「はい」と明るく応じた。彼女は苦しい顔を一度も見せたことがなかった。父が咳き込めば、真っ先に駆け寄り背を撫でてやる。「あの一杯に、この里の人情が全て詰まっている」と、旅人たちは口を揃えて言った。腹を空かせた行き倒れが辻に倒れていれば、父に隠れて焦げ飯を握らせてやることもある娘だった。 「末え、うちも決して裕福な暮らしではないのだよ」 「父え、あの人は今宵を越さねば、明日の朝を見られませぬ」 そう言われると、斧兵はそれ以上何も言えなかった。娘のその情がどこから来たのか、斧兵には分かっていた。亡くなった妻が、まさにそういう人だったからだ。人を救うのに身分の上下などあろうか。それが亡き母の教えであり、今はさきの胸に根を張っていた。 そんなある春の日、里はにわかに騒めいた。お城から罪人が一人流されてくるという。「罪人とは、一体どんな罪人だ」「滅多なことを口にするものではないぞ」「よほど高い地位から転げ落ちたものらしい」村人たちが集まれば、その話で持ち切りだった。しかし、いざその罪人が運ばれてくると、里の者たちは言葉を失った。義者が運んできた筵の下から、痩せ細った手が力なく垂れ下がっていたのだ。 役人たちはその男を引きずり下ろすと、里外れの崩れかけた小屋へ放り込むように押し入れた。「この者には決して手荒な真似をするな。しかし、手厚く世話をする必要もない」言葉は前後が食い違っていた。手を出すなとも、世話をするなとも言う。里の者たちは、その意味を測りかねたまま、ただ遠くから小屋を眺めるばかりだった。 小屋に寝かされていた男は、二十六ほどの年頃だった。血の気のない顔は幽鬼のようで、髪は乱れて顔の半分を覆っていた。目は閉じたまま開く気配もなく、痩せた胸だけがかすかに上下していた。「あれをご覧。生きているのか死んでいるのか、生きた心地がしないだろう」「あの様子で何日持つものか」人々は顔を寄せ合い、囁き合った。誰も、その男が何の罪を犯したのか、どこから来た何者なのか知る者はいなかった。役人はそれだけ言い残すと、罪人の生死には興味もない様子で城へ戻っていった。 罪人に飯を運ぶという噂は、我が身まで危なくなりかねない。誰もその役目を引き受けようとしなかったが、結局、それは死者に一番近い斧兵の旅籠に落ち着いた。 「父上、私が運びます」 ためらう父の前に進み出たのは、さきであった。「末え、それがどこの誰かもしれぬのだぞ。高い地位から落ちた罪人だというではないか」「罪人であろうとなかろうと、飢えて横たわっているものではございませんか」。斧兵は娘の顔をしばし見つめた。止めても無駄だということを、彼は知っていた。「気をつけるのだぞ。長居はするな」「はい」 こうしてさきは毎日、粥を運ぶ者となった。初日、さきは粥を置くと逃げるように旅籠へ戻った。小屋の中には、末娘の運ぶ粥だけが日々置かれるようになった。誰にも顧みられぬまま、その男は生と死の境を彷徨っていた。二日目も三日目も、椀は手つかずのまま冷え固まっていた。この人は、本当に何も口にできぬのだろうか。三日目、さきは男をそっと覗き込んだ。乾いた唇はひび割れ、息遣いは糸のようだった。このまま放っておけば、幾ばくも持たずに死んでしまう。 さきは匙で粥の汁をすくい、そっと男の口元へ運んだ。唇を開かせると、喉がわずかに動いた。飲み込んでいる。さきの目が見開かれた。死んだものと思っていた人が、一滴の汁に喉を動かしたのである。この人は、もしかしたら助かるかもしれない。その日から、さきの心構えが変わった。投げるように置いていた椀を、一匙一匙丁寧に食べさせるようになった。口元を開かせ、割れた唇に水をつけ、冷めぬよう粥を抱いて運んだ。 「末え、近頃どうしてそんなに長くいるのだ」「粥を食べさせております」斧兵は渋い顔で娘を見つめたが、止めることはできなかった。瀕死の人を救おうとするその心を、どうして止められようか。しかし、その男が一体何者であるのか、さきは依然として知らなかった。半月ほどが過ぎると、男の唇にいくらか血色が戻ってきた。やがて目蓋を開き、さきの姿を目で追うようになったが、まだ声を出すことはできなかった。 「大丈夫でございます。急ぐことがございません。ゆっくり良くなれば良いのです」 さきは男の痩せた手を握ってやった。氷のように冷たかったその手に、少しずつぬくもりが戻っていった。荒れてはいても、指の節は長く整い、畑を耕したことのない手だった。 ところが不思議なことに、男の具合には妙な上がり下がりがあった。ある日は目に見えて良くなるかと思えば、また別の日にはげっそりと痩せ細る。その上がり下がりには、どうにもわけのわからぬ何かがあった。その頃、里の近くには藩の役所から差し向けられた、又蔵という監視役がいた。下衆な顔つきのその男は、罪人が弱っていくことを少しも悲しまず、むしろ痩せ衰えていくほどにどこか満足げな顔つきをしていた。又蔵は知らなかった。人が真心で世話をすれば、病は癒えるということを。さきもまた知らなかった。自分が毎日粥を食べさせているこの人が、つい先までこの藩で最も高い地位にあった若殿様だということを。 さらに幾日か過ぎたある日、さきが粥を食べさせていると、男の閉じた目蓋がかすかに震え、吐息とも言葉ともつかぬ声が漏れた。「今日はいかがでございますか?お気づきになられましたか?」さきは驚いて匙を取り落としそうになった。男は答えられなかったが、瞳が苦しげに動くのが見えた。死にかけていた一個の人間が、ゆっくりとこの世に戻ってきているのだ。 「大丈夫でございます。ゆっくり良くなれば良いのです」 さきがそう声をかけた時、男の乾いた喉から絞り出すような細い声が漏れた。 「……片付けない」 それは確かに人の言葉だった。さきはあまりに驚いて、椀を落としそうになった。半月あまり、吐息ひとつ出せなかった人が、ついに言葉を発したのである。「そなたは……誰か」「私はこの里の旅籠の娘。さきと申します」「……旅籠の娘が、どうして」「旦那様が飢えて横たわっておられたので、飯を運んでいただけです」。男の乾いた目に涙が滲んだ。誰にも顧みられなかった自分を、名もなき旅籠の娘が命がけで救ったのだと悟ったのである。 その頃、里には物騒な噂が一つ広まっていた。若殿様が代替わりしたそうな。前の殿様が、全て家老に差し回されたという話だ。さきはその噂が自分が世話をしている男とどう関わるのか知らなかった。ただ、この男がただの罪人ではなく、高い地位から追われたものらしいということだけが里に広まっていた。 しかし、又蔵が思い及ばなかったことがあった。さきには、人を救おうとする真心と毒の混じらぬ柔らかさがあった。日々男の世話をするうち、さきはその上がり下がりにある規則を感じ取るようになった。男の具合が悪くなる日には、決まって小屋の中に見慣れぬ赤黒い薬が置かれているのである。誰かがこの男にその薬を飲ませている。役所から下される薬ならば、人を救うための薬であるはずだ。ところが、その薬を飲んだ日に人が死にかけていくとは。 さきは数日の間、その薬をこっそり片付けてしまうことにした。粥と清水だけを飲ませ続けると、三日目には男の顔にはっきりと血の気が戻った。やはりあの薬が問題だったのだ。案の定、五日目に又蔵がやって来て言った。「ここ幾日、薬はそのまま残っておったな。どういうことだ?」さきは背筋を凍らせながらも、とっさに言い繕った。「罪人様が薬を飲むと嘔吐き戻されますので、先に飯を食べさせてから薬をお飲ませしようと思っておりました」。又蔵はしばらく睨みつけたが、「余計な口出しはやめておけ。薬は私が自ら飲ませる」と言い放ち、引き下がった。 その日以来、又蔵はさきが来る前に自ら男に薬を飲ませるようになった。男は再び衰え始めた。このままではいけない。あの人は死んでしまう。しかし、十七の旅籠の娘が、藩から遣わされた監視役をどうやって止めれば良いのか。さきは力ない思いに涙をこぼした。その時、一人の人物が思い浮かんだ。数年前この里に流れ着いた、玄斎という牢人だ。口数は少なく世間に関心のない老人だったが、その医術だけは並々ならぬものであった。 さきは夜が明けると、玄斎の料理へ駆けつけ、隠しておいた薬壺を差し出した。「先生、どうかこの薬が何であるか見てくださいませ」。玄斎はその匂いを嗅ぎ、指先で確かめると、顔色が険しくなった。「これをどこで手に入れた?」「谷向こうの牢に囚われている罪人に、役所から下されているという薬でございます」「これは薬ではない。人をゆっくりと殺める毒だ。一度に殺す毒ではなく、日々わずかずつ盛り、幾月もかけてゆっくりと息を絶つ毒だ。このような毒を使う者は、藩の者ではない」玄斎の声が低く沈んだ。「私はこの毒の出所に覚えがある。しかし、その前にこの罪人が何者であるか確かめねばならぬ」 その夜、さきは玄斎を連れて月明かりひとつない廃小屋へ向かった。玄斎はまず男の手首を取り脈を見た。「脈が糸のようだ。毒がすでに五臓六腑に深く染み込んでおる」。そして明かりで男の顔を照らした瞬間、玄斎は息を飲み、手にした明かりが落ちそうになった。震える声で、痩せた顔をなおもじっと見つめ、痩せた手をもう一度取り確かめるように何度も眺めた。「……よ、今そなたが救おうとしているこの方は、この藩の若殿様であられる」玄斎の口からついにその言葉が漏れた。さきは自分の耳を疑った。「ご天領であられた頃、このお顔をどうして見忘れようか」。さきはその場に崩れ落ちそうになった。毎日粥を食べさせていたこの人が、つい先頃までこの藩で最も高い地位にあった若殿様だったとは。 玄斎はかつて藩の医師を務めていた。若き藩主は、家老・堀田一門が年貢を搾取し、農民の田畑を奪っていることを突き止め、密かに検地を進めようとしていた。玄斎もまた、堀田一門が薬種を横流しし、毒を買い集めている事実を知ったため、濡れ衣を着せられて城を追われたのであった。改革によって長年の不正が暴かれることを恐れた家老は、先代の遺言を捏造して若殿を追放し、遠い山里へ追いやった。そして又蔵に、役所の薬と偽って毒を飲ませ、病死に見せかけるよう命じていたのだ。 「先生、これから私はどうすればよろしいのでしょうか?このことが知れれば、私たちの命も無事では済みませぬ」「これは命がけのことになる。私たちが手を引けば、若殿はほどなくお亡くなりになろう。しかし、私たちが動けば、私たちもまた命が危うい」 さきは死んだように横たわる若殿の顔を見下ろした。そして、父が常々口にしていた言葉を思い出した。飢えている人の前で飯を隠すのは、人の道に外れることだと。「この方が若殿であろうと罪人であろうと、私の目の前で死にかけている人であることに変わりません。私はこの方を、お救いいたします」。その言葉に、玄斎の胸が熱くなった。「よかろう。私も共にやろう。身分あるものの命だから救うのではない。人を救うのは、家柄の高い手ではなく、その傍らを離れぬ温かい手なのだ。さきよ、お前の手がここまで若殿の命をつないだのだ。されば、最後に人の道を果たしてみようではないか」 問題は、又蔵の毒をどう防ぐかだった。玄斎は一つの策を思いついた。「よ、そなたが又蔵を別の要件で引き止めておれ。その間に私が裏手から忍び込み、若殿様に解毒の薬を授ける」。翌日から二人の密かな戦いが始まった。「旦那様、罪人が昨晩うわごとを申しておりましたが」「旦那様、小屋の屋根が雨漏りしておりますが」さきはそうした理由をつけて又蔵を足止めした。その隙に、玄斎は裏手からこっそり忍び込み、毒を中和する薬草を煎じて飲ませた。それは薄氷を踏むような危険な渡りだった。一度でも見つかれば、三人とも命を保つことはできなかった。 そうしていくつか月が過ぎるうち、若殿は再び力を取り戻し始めた。ある朝、さきが粥を持って小屋に入ると、若殿が壁に背を持たせかけて座っていた。さきはあまりの嬉しさに涙が滲んだ。「ああ、お立ち上がりになられましたか」「……そなたのおかげだ」「私の力ではございません。あの玄斎先生が尽力してくださったのです」「玄斎と?あの玄斎のことか」若殿が驚いた。「無実の罪でご天領の座を追われた牢人であるぞ」。見捨てられた若殿と追われた大夫が、この深い山里でこうして巡り合っていた。玄斎は若殿の前に平伏し、どっと涙を流した。 しかし、喜びも束の間だった。若殿が力を取り戻していくことに気づいた又蔵が、怪しい気配を感じ始めたのだ。「おかしい。なぜあのお方は生き返るのか」。又蔵は、さきの後をつけて玄斎が出入りするのを見てしまった。「あの老人、裏で手を回していたのか」そして、その老者が数年前に追放されたご天領だと気づいたのである。「さよ、大事だ。又蔵が我らを疑っておる」「若殿をここからお連れせねばならぬ」。三人は額を寄せ合った。「この山を越えた谷に、人の足が入らぬ空き小屋がございます」口を開いたのはさきだった。「しかしまだ歩くこともままならぬ若殿を、どうやってそこまで運ぶのか」「私に力業がございます。あの薪を背負って山を越えております。娘は幼い頃から薪や水の荷を負って、この山を登り下りしてまいりました」 その夜、二人は若殿を山越えさせる決行の日を迎えた。玄斎は又蔵に「罪人の病が重く、今夜が峠だ。今夜は私が最後を見取りましょう」と告げて油断させた。その隙に、さきは小屋へ忍び込んだ。「しんがり、私です。ここを出ていただかねばなりません」若殿は力なく頷いた。「私一人のために、そなたたちがこれほど危険を犯すとは」。さきは若殿を薪背負い具に乗せて縛りつけると、真っ暗な山道へ足を踏み出した。 人一人を背負って山を越えることは、想像以上に過酷だった。一歩一歩が千鈞の重さで、険しい山道に息が上がり、膝が折れそうになった。「しんがり、もう少しの辛抱でございます」さきは歯を食いしばって山を登った。背に負う若殿の息遣いが耳元近くに聞こえた。山の中腹で、さきの足がよろめき石に引っかかって倒れた。幸い、若殿を体で庇い、若殿は傷を負わずに済んだが、さきの膝は石に裂かれ、血が流れた。「よ、大事ないか」「大事ございません。何ともございません」さきは流れる血を着物の裾で縛り、再び荷を担いだ。冷たい山風が肌を刺す中、さきは自分の上着を脱いで若殿にかけてやった。「しんがり、お寒うございましょう」「私の衣を脱げば、そなたが寒かろう」「私は山を登って汗をかいておりますゆえ、大事ございません」。実際にはさきも歯の根が合わぬほど寒かったが、表には出さなかった。若殿は荷に縛られたまま、声もなく涙を流した。何の関わりもない自分のために、膝を裂きながら山を登るこの娘の心に胸を打たれていた。必ずこの恩に報い、生き延びてこの藩を正そう。若殿は心の中で固く誓った。 夜明け近く、二人は谷向こうの空き小屋にたどり着いた。若殿は自ら着物の裾を裂いて、さきの裂けた膝を包んでやった。「私の命を救った手ではないか。これしきのことしてやらぬで、どうする?」その瞬間、二人の間には身分の壁を超えた何かが静かに芽生えていた。その日以来、さきは毎日山を越えて小屋へ粥を運んだ。ある夜、若殿はさきに尋ねた。「そなたは、なぜ罪人である私を命がけで救ったのだ。恐ろしくなかったのか」「母が常々申しておりました。人を救うのに身分の上下などあろうかと」「良い母君であったのだな」「早くに亡くなりました。私が幼い頃に」「……私も幼い頃に母をなくした。私たちは似たところがあるのだな」。若殿の目が遠くを見つめるようになった。「若殿は、どのような藩をお作りになりたかったのですか?」さきがおずおずと尋ねた。「飢えに苦しむ者がない藩。力なき農民が理不尽に虐げられて死なぬ藩。それが私の夢であった」。その言葉に、さきの胸が熱くなった。「そのような藩であれば、私もお力になれましょうか」「必ず作る。生きて戻り、必ず」 若殿の体が少しずつ癒えると、小屋の前に出て座る日が多くなった。ある日、さきが粥を頭に乗せて山を登ると、若殿が迎えに出ていた。「しんがり、どうしてここまでお出しになられたのですか?まだ御無理をなさってはなりません」「毎日そなた一人がこの重い物を担いで登り下りするのに、私だけが楽に座っているわけにはいかぬ」若殿は自ら粥の器を受け取った。かつて藩を治めていた若殿が自ら粥を運ぶ姿に、さきは思わず笑みをこぼした。「今日は私が水を汲んでこよう」若殿は谷へ降り、不慣れな手つきで水を汲んできた。水桶を半ばこぼしながらも、その顔には和みが満ちていた。「城で山海の珍味を口にした時より、この山里でそなたの粥を食べる時の方が、よほど心が安らぐ」「それは若殿がようやく人の情を知られたからでございます」。若殿は頷いた。農民のための藩を夢見ながら、身のほどに農民の心を知らなかった自分を振り返ったのである。 玄斎もまた折に触れ山を訪れ、又蔵の目を逃れるため、人の形に組んだ藁を廃小屋の寝床に置き、布団を頭まで深くかけた。又蔵は戸口の外からその膨らみを眺め、若殿が床に伏しているものと思い込んでいた。「あれはまだ死なぬのか。執心な命でございます」「しかし、時期に息を引き取りましょう」。黴臭い日々の中で、玄斎の解毒薬とさきの粥が体の中の毒を洗い流し、若殿の体は日に日に回復していった。いつしか若殿は自ら立ち上がり、庭を歩けるまでになった。血の気のなかった顔に艶が戻り、力強い眼差しにはかつての精悍さが蘇っていた。「随分と人らしい姿になられました」玄斎が満足げに言った。「そなたたちのおかげだ。この恩をどう返せば良いものか」若殿は山の下を見渡した。その眼差しには、今すぐ城へ戻り必ず真実を明らかにするという決意が満ちていた。 その頃、又蔵の疑いが再び頭をもたげていた。死ぬはずのものが、なぜこれほど長く持ち堪えるのか。ある日、又蔵はあの寝床の膨らみが本当に人間か確かめようと小屋へ向かった。ちょうどその場にいた玄斎が慌てて立ち塞がった。「旦那様、行けません。実は罪人が昨夜息を引き取りましたが、その体に恐ろしい疫病の気配が出始めております」疫病だと、又蔵はぎょっとして後ずさりした。「迂闊にお入りになれば、旦那様まで災いを被られましょう」「子宵い中に山へ埋葬いたします」。又蔵は疑いながらも命が惜しく、遠くから睨みつけて立ち去った。玄斎はその晩、藁を山に埋める芝居を打って、又蔵をすっかり信じ込ませた。今度こそ厄介が消えたと、又蔵は肩の荷が下りた思いで、城へ戻る支度を始めた。 春が来た。そろそろ城へ戻る支度をせねばならぬ。若殿は玄斎とさきを呼び集めた。「まず、道重と連絡を取らねばならぬ。あの者が改革の証を握っておる」若殿は密かに一通の訴状を認めた。「この訴状を誰が届けようか」「私が参ります」さきが進み出た。「私は旅籠の娘。行商人のふりをすれば疑われませぬ」「さきよ。なぜそなたは、いつも危ない役目に真っ先に立つのだ」「殿をお救いすることであれば、私は何でもいたします」「わかった。しかし、必ず身を大切にせよ。もしお前に何かあれば、この藩を取り戻したとて何の喜びもない」 翌日、さきは旅商人に変装して城下への道に出た。関所の検問は厳しかったが、荷に薬草を載せていたため、役人たちは特に疑うこともなく通した。さきは道重の屋敷を見つけたが、そこは家老の密偵に厳しく見張られていた。さきは水売りから天秤を渡され、水桶を頭に乗せて水売りのふりをして中へ入った。「あの水売り、見慣れぬ顔だな」門番の密偵に呼び止められ、さきの背筋が凍りついた。「いつもの水売りが体を壊したので、代わりに来たのだ」。さきはあまりにも堂々と言い放ったので、密偵もそれ以上言いがかりをつけられず、無事に通り抜けることができた。台所仕事に紛れ、さきは密かに道重に訴状を渡した。訴状を開いた道重の手が震えた。「これは誠に若殿のご実印か。若様がご存命であられたとは。老臣、ただその日を待っておりました」道重は涙を拭うと、さきに密かに集めてきた証を示した。藩の蔵から搾取された罪の記録、農民から奪った田畑の証文、堀田一門が買い入れた薬種の記録まで。全ては若殿の帰還を待つばかりだった。「若様が無事に城入りになれば、全ての支度が整います」さきの目が輝いた。「ならば、あとは若様がお戻りになりさえすればよろしいのですね」。道重は、若殿が密かに城へ入れるよう、城の内に従っている者たちに先回りして手を回すことにした。 さきは道重の返書を懐に、再び奥山への道を急いだ。しかし、さきは知らなかった。城に戻っていた又蔵が、家老に「罪人が病死した」と報告したところ、家老がそれを信じなかったのである。「尸(むくろ)をその目で確かと見届けたのか」「疫病が広がっておりましたゆえ、近づけず。牢人が埋葬するのを遠くから見届けただけでございます」家老の目が鋭く細くなった。「この愚か者め。その目で尸を確かめもしなかったのか。あの牢人とやらが怪しい。まさか、あの者が罪人を逃がしたのではあるまいな」。又蔵は背中に冷や汗を流した。「今すぐ戻り、罪人の生死を確かめよ。もし生きておれば、その場で首を跳ねよ」又蔵は今度は刀ではなく、鋭い刃を手に奥山へ引き返した。 さきが里に戻った頃、すでに黒い影が差していた。又蔵は真っ直ぐ廃小屋へ向かい、罪人を埋葬したというその墓を掘り返した。藁の山の中から出てきたのは、人の形を組んだだけの藁人形だった。「よくもこの俺を欺いたな」又蔵の目に燃えるような怒りが宿った。罪人が死んでいないこと、誰かがそれを逃がしたことが明るみに出たのである。又蔵は里の者たちを片っ端から捕えて締め上げた。「人を逃がした者は誰だ。知っておる者は名乗り出よ」。凄まじい脅しに、恐れをなした人々が、一人、二人と口を開き始めた。「あの罪人に飯を運んでおったのは、旅籠の末娘でございました」。又蔵は真っ直ぐ旅籠へ乗り込み、斧兵を捕えて締め上げた。「お前の娘はどこへ行った?罪人をどこに隠した?」「旦那様、私の娘が何の罪を犯したというのですか。おやめください」斧兵が弁解すると、又蔵は容赦なく彼を打ち据えた。旅籠中を荒らしても若殿の痕跡は見つからず、又蔵は真っ直ぐ玄斎の料理へ向かった。「この年寄り、罪人をどこに隠した。正直に申せ」又蔵は玄斎の襟首を掴んで刀を突きつけた。「何のことか。罪人はすでに病死しましたぞ」玄斎は最後まで白を切り通した。「それでも、墓を暴けば藁が出てこぬではないか。どこで嘘をつくつもりか。今すぐ罪人の居場所を白状しろ。さすれば、命だけは助けてやる」「我が首が落ちようとも、この口だけは開かぬ」。正しく真っ直ぐに生きてきた老者は、死を前にしても屈しなかった。その時、城から戻ったばかりのさきが、この光景を目にしてしまった。「先生!」さきが悲鳴をあげて駆け込んだ。「おお、ちょうど良いところに来た。お前も罪人を逃がすのに加担したな」又蔵の刀が今度はさきへと向けられた。「大人がどこにいるか告げねば、まずこの年寄りから殺す」。さきはどうすることもできず、体を震わせた。若殿のいる場所を告げれば若殿が殺される。告げなければ、目の前で玄斎が殺される。どちらもさきには耐えられぬことだった。 まさにその瞬間、さきは決心した。我を投げ出すことを。「私が、私が罪人を逃がしました。先生は何もご存知ありませぬ。どうか、私をお縛りください」さきは又蔵の前に膝まずいた。「私を殺すなり、縛るなり、お好きになさいませ。ただ、先生だけはお許しください」。又蔵は鼻で笑った。「殊勝な心がけだな。しかし、お前が死んだところで罪人が現れるわけでもあるまい。お前たち二人とも殺し、この山を白みつぶしにすれば済むことだ」又蔵はさきに刀を振り上げた。さきは目を閉じた。このまま死ぬのか。その時、戸が勢いよく開いた。「やめよ」戸口に立っていたのは、若殿だった。さきがなかなか戻らぬのを不安に思い、山を下りてきたのである。「何の騒ぎか。その者たちを放してやれ」若殿の声には、若殿としての威厳が満ちていた。その声を聞いた又蔵の顔が、瞬間に青ざめた。しかし、それも一瞬のことであった。「わ、わわっ、これはよくできた。己から現れてくださるとは。死んだと思っていた罪人が生きていようとは。ここで私自らの手で首を跳ねれば、大きな手柄が立とう」又蔵は再び刀を構え直した。「しんがり、お逃げくださいませ」さきは若殿の前に体を投げ出した。「知れたことか。今日、貴様ら三人ともここで死ぬのだ」又蔵が刀を振りかざして突っ込んできた。その瞬間、若殿はさきを抱き抱えて身を躱したが、刃が若殿の肩をかすめ、血が吹き出した。「しんがり!」さきが悲鳴をあげた。若殿は肩を押さえてよろめいた。まだ完全には癒えぬ体で、刀を持つ又蔵に立ち向かうことはできなかった。まさに絶体絶命の刹那、又蔵は倒れた若殿に向かって再び刀を振り上げた。「これで終わりだ」その時だった。玄斎が身を挺して又蔵の足にしがみついた。「若殿、お逃げください。この老いぼれの命、最後に使い果たしてくれよう」又蔵は玄斎を蹴り飛ばし、その刀で玄斎の背を切りつけた。「先生!」さきの目の前で、老人が血を流して倒れた。若殿を守ろうとして、自らの命を投げ出したのである。「玄斎、私がそなたを死なせたのだ。私が至らぬばかりに、そなたまでも」若殿は倒れた玄斎を抱き起こし、号泣した。告天領であった頃から自分を慈しんでくれたこの老人が、この山里で自分のために命を投げ出したのである。玄斎は最後の力を振り絞り、若殿の手を握った。「何卒、生き延び、この藩をお建てください。それが、この老いぼれの最後の願いでございます」。その言葉を最後に、玄斎は静かに目を閉じた。正しく真っ直ぐに生きて、若殿のために命を捧げた大夫の最後であった。さきもまた、声を上げて泣いた。「もはや、残るはそなたたち二人だけだな」又蔵が近づいてきた。さきは若殿を抱きしめて目を閉じた。まさにその時だった。どこからか矢が飛んできて、又蔵の腕に突き刺さった。山の上から一団の人々が駆け下りてきた。それは、道重がさきの身を案じ、気づかれぬよう尾行させていた家臣たちであった。彼らはまたたく間に又蔵を取り囲んで縛り上げた。「お前を殺しはせぬ。お前は生きて城まで共に参るのだ」若殿は縛られた又蔵を見下ろし、冷ややかに言った。 しかし、若殿の肩の傷は深く、再び熱にうなされて床に伏すこととなった。「しんがり、しっかりなさいませ。もう少しだけご辛抱ください」さきは夜を徹して傷を洗い、玄斎が残した薬草を煎じて飲ませ続けた。五日目の明方、ようやく熱が下がり、息遣いも整った。「さき、そなたのおかげで私は再び生き延びることができた。命をつないでくれて、ありがとう」。さきはそこでようやく堪えていた涙を溢れさせた。若殿は玄斎の亡骸を、日当たりの良い場所に丁寧に葬った。「よ、そなたの願い通り、必ずこの藩を正してみせよう」。しかしその夜、若殿は一人、月前に座り夜を明かした。「私が農民を救おうとしたことが、帰ってこれほど多くの人を死に追いやったのか。私一人のために玄斎が死に、さきは膝を裂いてまで山を越え、年老いた斧兵まで打ち据えられた」。若殿は深い自責の念に沈んだ。その時、さきが静かに寄り添った。「玄斎様が最後におっしゃった言葉を覚えておいでですか。『生き延び、この藩をお建てください』と。玄斎様は若殿のために死なれたのではございません。若殿がこれからお作りになる藩のために死なれたのです。飢えに苦しむ者がない藩。その藩を見たくて、命を投げ出されたのです」。さきの言葉に、若殿は顔を上げた。人を救うのは身分の高い手ではなく、傍らを守る温かい手である。玄斎がかつて語ったその言葉が、若殿の胸に蘇った。「そうだ。さき、そなたの言う通りだ」若殿は立ち上がった。その眼差しからは、昨夜の迷いが洗い流されたように消えていた。「城へ戻ろう。必ず、この藩を正してみせよう」 数日後、若殿は道重が遣わした護衛に守られて城へ向かった。又蔵は縛られたまま連れて行かれた。死人として葬られた自分が、再び生きて城下の土を踏むことになろうとは、若殿自身にも夢のようであった。城に入った若殿は、密かに道重と家臣たちに会った。「若様のご帰還、誠にこの藩の幸いにございます」道重をはじめとする家臣たちは、若殿の前に平伏し、涙を流した。「長らく苦労をかけたな。いよいよ、あの奸悪な家老を断つ時が来た」若殿は道重が守り続けた改革の証と、堀田一派の悪事を記した台帳を受け取った。全ての支度が整ったのである。ついに、死者として扱われた若殿が、生ける者として再び立つ日が明けた。 その日、藩の表書院には重臣たちを集めた大会議が開かれ、幼い世子を仮の当主に立てて、家老が全ての権限を握っていた。その場に、若殿が忽然と現れた。「これは一体」重臣たちが騒めいた。「あの者がなぜ生きている?」家老は自分の目を疑った。死んだはずの若殿が、正装を取り戻した姿で目の前に立っていたのである。「堀田か門」若殿の声が表書院の間をひときわ揺るがせた。「そなたは先代の遺言を捏造し、私を追放したのみならず、牢居先に毒を盛り、私を殺めようとした。この罪、認めるか」家老は顔色を変えつつも、虚勢を張って言い返した。「とんでもないことでございます。御隠居されたお方は、自ら病を患って隠居を余儀なくされたのであり、牢居先で病を得られたことを、どうして責められましょうや」「病というならば、よかろう。ならば証拠を見せてやろう」若殿が手を上げると、道重が帳簿を広げた。「ここに、そなたの一門が過去十年に渡り藩の蔵より搾取した罪と、農民から強奪した田畑の証文が、克明に記されておる」。読み上げられると、表書院の間が騒めいた。家老の悪事が明るみに出たのである。「それは偽りの文書にございます。賤しき家臣が捏造したものにございましょう」家老がなおも誤魔化した。まさにその時、若殿は又蔵を引き出させた。「誰が、そなたに私を毒殺せよと命じたのか」。又蔵は初め口を閉ざしていたが、ついに口を開いた。「堀田様が、私にお命になりました。あの毒も、家老様のご一門の薬種問屋から出たものにございます」。若殿はさらに、その薬種問屋が毒を買い入れた記録を記した帳面を示した。証拠に隙はなかった。「そなたは、なぜ今になって真実を告げるのか」若殿が問うと、又蔵はうなだれた。「私は堀田様を恐れ、その命に従って人の命を奪ってまいりました。命を惜しんだから申すのではございません。されど、玄斎殿が己の命を捨ててまで若殿をお守りする姿を、この目で見ました。そして、捕えられた後、さき殿が膝を裂きながら荷を背負って山を越えたことも聞きました。人を傷つけることしか知らなかったこの身も、あの者たちの生き方に触れて、初めて己を恥じました。このまま堀田様の罪を抱いたまま死ぬことだけは、人として耐えられなくなったのでございます」。その言葉に、表書院の間が静まり返った。人を殺めていた者の心すら動かしたのは、まさにさきのその温かい手であった。家老の罪を知っていた他の重臣たちも、「それがしも存じておりました。何卒お許しくださいませ」と、一人、また一人と名乗り出始めた。権勢を振るってきた家老は、一転して四面楚歌に追い込まれた。その時、城の外がにわかに騒がしくなった。家老の圧政に苦しんできた農民たちが、「ご存命であられたとは」「あの奸悪な家老をお裁きください」と城の前に雲のごとく押し寄せ、口々に叫んでいたのである。「あの声が聞こえるか。あれこそが、そなたが踏みにじってきた農民の声だ。そなたが恐れねばならなかったのは、私の改革ではない。あの農民たちの怒りであったのだ」。家老は何も言えず、ただ震えながら血の気の引いた顔で平伏するばかりだった。「家老は先代の遺言を捏造し、主君を追放し、財を盗み、農民を苦しめた。その罪は重い。よって、その家老職を剥奪し、禄を没収して農民に返し、遠くへ追放して二度とこの藩に足を踏み入れさせるな」。家老とその一派はこうして崩れ去った。長年にかけて積み上げてきた権力と悪事が、一瞬にして水の泡に帰したのである。又蔵もまた、玄斎を殺め、若殿を毒殺しようとした罪を免れることはできなかった。ただし、表書院の場で真実を明らかにしたことを加味され、命だけは助けられ、遠流の処に処されることとなった。若殿はついに藩主の座を取り戻した。そして、長らく先延ばしにしていた改革をついに世に放った。隠された財を一つ残らず明らかにして、年貢を正し、農民を苦しめていた付け高いの弊害を根絶やしにした。奪われていた田は元の持ち主の元へ帰り、家老一門から没収した財は困窮する村に分け与えられた。飢えに苦しむ農民のいない藩。農民が夢見ていたその藩は、少しずつ形をなしていった。農民は蘇った若殿を慕い、藩中に喜びが満ちた。 しかし、若殿にはまだ返さねばならぬ恩が一つ残っていた。それは、あの旅籠の末娘・さきであった。「さきを連れて参れ」若殿の命により、さきは城へ召し出された。生まれて初めて足を踏み入れる城の中で、さきはどうして良いか分からなかった。若殿はそんなさきを優しく見つめて言った。「よ、そなたがいなければ、私は当に山里の小屋で死んでいたであろう。そなたは私を、藩主としてではなく一人の人として救ってくれた。この恩を、どう返せば良いものか」「しんがり、私はただ、人としての道を尽くしただけでございます。いかなる褒美も望みませぬ」さきは静かに頭を下げた。「いや。ら、そなたに頼みたいことがある」若殿は立ち上がり、さきの前に立った。「さきよ、私と共にこの藩を治めてはくれぬか。飢えに苦しむ者がない藩を、私はその温かい手と共に作りたい。そなたを、この藩の御許嫁に迎えたい」。さきは驚いて顔を上げた。名もなき旅籠の娘を、藩主が正室に迎えたいというのである。「若殿、私は一介の旅籠の娘にございます。どうして恐れ多くも御正室の座など」「身分が何と申すのだ。人を救うのに貴賤がないように、藩を愛する心にも貴賤はない。私の傍らにいるべきは、家柄の高い姫君ではなく、農民の心を知る者だ。その心を持つそなたでなければ、誰がこの藩の御正室にふさわしいというのだ」。若殿の真心のこもった言葉に、さきの目から涙が溢れた。その話を聞いた道重は「若様のご所望のままにいたしましょう」と申し出た。そして、さきを己の養女として迎え、正式に家臣の身分を整えた。 若殿はさきの手をそっと握った。かつて生ける屍となり、その手にかすかに命を託していた若殿が、今、その手を取り並び立とうというのである。死に行く男を救った旅籠の末娘は、ついにこの藩の御正室となったのである。その知らせが伝わると、故郷の菅ヶ原の里は祝いの雰囲気に包まれた。年老いた父・斧兵は、娘が御正室になったと聞いて涙を止めることができなかった。「母が生きてこの姿を見られなかったことだけが悔まれる」斧兵は亡き妻の位牌の前で、長く泣き続けた。生前、人を救えと教えた妻の教えが、娘を通してこうして実を結んだのである。ほどなくして、若殿は斧兵を城へ招いた。「岐阜へ、これまで大変ご苦労をおかけいたしました」若殿が礼に尽くすと、斧兵はただ涙を流すばかりだった。娘が運んだ一杯の粥が、一人の命だけでなく藩の運命までも変えることになろうとは、誰が思っただろうか。 月日が流れ、さきは懸命な御正室となった。農民の心を汲み取るお方として、藩中の尊敬を集めた。若殿とさきは力を合わせ、飢えて苦しむ農民のいない藩を作り上げていった。ところが、御正室となったさきの居室には、御身分には不釣り合いな品が一つ置かれていた。それは、古びた椀だった。あの瀕死の若殿に粥を運んだ、まさにその椀である。さきはその椀をいつも傍らに置き、初志の心を忘れなかった。それは、名もなき身であった頃を忘れぬ、御正室としての矜持であった。「お方様、その古い椀を未だ傍らに置いておられるのですか」若殿が尋ねると、さきはこう答えた。「この椀を見るたび、目の前の命を救いたいと願ったあの日の心を忘れずにいられるのでございます」。若殿はその言葉に満足そうに微笑んだ。人を救うのは、身分の高い手ではなく、傍らを守る温かい手である。見捨てられた若殿を救った一杯の粥が、ついに藩を救う器となったのである。誰も顧みなかった男の元へ、自らの足で粥を運んだ旅籠の末娘の物語は、こうして長く長く人々の口に語り継がれていったのだった。

1 September 2026

「くれぐれも私の経歴に傷をつけるなよ。」…

深夜の手術室の前の廊下に、その声が響いた。 「これは君に任せるよ。くれぐれも私の経歴に傷をつけるなよ。」 白い男は患者の名前が書かれた札を、若い女医の胸に押し付けると、こちらを振り返りもせずに歩き去っていった。後に残されたのは、ストレッチャーの上で青ざめていく患者と、立ち尽くす一人の女医だけだった。モニターの電子音がだんだん早くなっていく。血圧を示す数字が見ている間にも下がっていった。 「誰か、誰か応援を呼んでください。お願いします。」 彼女の声は震えていた。それでも廊下にいた看護師も、誰一人として前に出ようとしなかった。皆、目を伏せて一歩ずつ後ろへ下がっていく。難しい手術だった。失敗すれば責任を問われる。それが分かっているからだ。 「お願い。誰か助けて。」 最後の言葉はほとんど涙だった。 俺はその廊下の端に立っていた。薄いグレーの制服を着て、手にはさっきまで床を吹いていたモップを握ったまま。この病院で俺を医者だと思う人間は、一人もいない。 「10分だ。」 自分でも驚くほど静かな声が出た。廊下にいた全員の視線が、清掃員の俺に集まった。この夜が、15年もの間止まっていた俺の時間をもう一度動かすことになる。モップを握っていたこの時の俺は、まだそのことを知らずにいた。 俺の名前は桐生修司、54歳。この総合病院で夜間の清掃員として働いている。日が落ちてから朝が来るまでの間、人のいなくなった廊下を磨き、手術室の前の床を吹く。それが今の俺の毎日だ。誰の記憶にも残らない仕事だが、俺にはちょうど良かった。 こんな俺にも昔は別の仕事があった。15年前まで、俺は人の心臓にメスを入れる医者だった。来る日も来る日も手術室にこもり、命と向き合っていた。だがある夜を境に、俺はメスを置いた。二度と握らないと決めた。白意を脱いで、逃げるようにあの世界から消えたのだ。 どうしてまた病院にいるのか。どうして医者ではなく清掃員なのか。それを話すには、15年前のあの夜のことから話さなければならない。 夜の病院は、昼とはまるで別の場所になる。外来の待合室から人の声が消え、自動ドアが止まり、長い廊下には非常灯の緑色だけが点々とある。聞こえるのは、遠くの病室から漏れてくる機械の電子音と、自分のモップが床をこする音だけだ。 俺はその場所で働くのが嫌いではなかった。むしろほっとした。昼間の病院には、笑う人と泣く人が溢れている。元気になって帰る人もいれば、二度と帰れない人もいる。その全部を、昔の俺は背負って立っていた。今はもう床を磨いていればいい。それだけで俺の一日は静かに終わっていく。 同僚は皆いい人たちだった。だが俺は誰とも深くは関わらなかった。休憩時間もいつも一人で隅の椅子に座って、冷めた茶をすっていた。身の上を聞かれるのが怖かったからだ。昔何をしていたのか、家族はいるのか。その問いに、俺は何一つまともに答えられない。 思えば俺は自分の人生からずっと逃げ続けてきた。妻の死からも、娘からも、医者だった自分からも。逃げて逃げて、気づけばこんな夜の隅っこにたどり着いていた。それでも生きてはいた。ただ息をして日々をやり過ごしていた。あの子を見つけるまでは。 清掃の仕事を世話してくれたのは昔の知り合いだった。資格も経歴も問われない。身分証に書いてあるのは、ただの清掃員・桐生という肩書きだけだ。それで十分だった。15年前まで自分が何者だったかを、この病院で知っている人間はいない。そう思っていた。 ロッカーにはいつも同じものを入れている。着替えと古い保温水筒と、それから一通の手紙だ。封筒はもう色が変わり、角がすり切れている。15年もの間、俺はその手紙を肌身離さず持ち歩いていた。清掃服の内ポケットにいつも入れている。中身はもう何度も読んだ。読みすぎて、文字を見なくても言葉が浮かぶ。 それでも俺はその手紙を捨てられずにいた。捨ててしまえば、あの人が本当にいなくなってしまう気がして。 手紙を書いたのは俺の妻だった。さやという。さやとは、俺がまだ若い医者だった頃に出会った。同じ病院で働く看護師だった。俺は手術ばかりに夢中で、人付き合いの下手な、可愛げのない男だった。患者の前でも仏頂面で、同僚からは煙たがられていた。そんな俺に、さやだけは普通に話しかけてくれた。 さやには口癖があった。俺が難しい手術の前に黙り込んでいると、決まってこういうのだ。「大丈夫。その手は誰かを救うためにあるんだから。」俺の手を両手で包んで、そう言って笑った。不思議なもので、その一言を聞くと、怖っていた指がふっと解けた。 俺はその手で何人もの患者を救ってきた。さやがそばにいてくれたから、俺は医者でいられたのだと思う。俺たちはやがて夫婦を持った。派手な式はあげなかった。さやは「あなたが手術で疲れて帰ってきた時に、温かいご飯があればそれでいい」と言って、小さなアパートで笑っていた。夜中に呼び出されてばかりの俺を、一度も責めなかった。むしろ「今夜も誰かが助かるね」と寝ぼけまなこで送り出してくれた。俺にはもったいない人だった。 二人の間には娘が一人いた。蒼いという。手のかかる、よく笑う子だった。俺は仕事ばかりでなかなか家にいられない父親だったが、それでも娘が「お父さん」と俺の白意の裾を握る、あの小さな手のぬくもりだけは今でもはっきり覚えている。 蒼いは小さい頃から俺の白意に憧れていた。病院ごっこをしては、ぬいぐるみの熊に包帯を巻いて、得意げに「先生」を気取っていた。ある日、蒼いが言ったことがある。「まだしったらずの口で、蒼いもね、大きくなったらお父さんみたいなお医者さんになるんだ。」俺はその時、翌日の手術のことで頭がいっぱいで、生返事しか返せなかった。「ああ、そうだといいな」と、ろくに顔も見ずに。 どうしてあの時、ちゃんと手を止めて頭を撫でてやらなかったのか。後悔はいつも、こんな小さなことの積み重ねでできている。次の日には三人で近くの公園へ行った。さやが握ってくれたおにぎりを食べて、蒼いとブランコに乗った。そんなどこにでもある一日を、俺は今でも宝物のように覚えている。あの頃はそれが当たり前のようにずっと続くものだと思っていた。 さやは温かい家庭だったけれど、俺はその全部をたった一晩で失った。15年前の冬の夜のことだ。さやが家で突然倒れた。胸と背中の激しい痛みを訴えて、救急車で運ばれてきた。大動脈解離。心臓から伸びる一番太い血管が裂ける病気だった。一刻を争う。手術をすれば助かる見込みはあった。そしてその手術は、他でもない俺が一番得意とするものだった。 だが、あの夜、俺は妻のそばにいてやれなかった。とにかく俺は妻を助けられなかった。世界中の患者を救ってきたこの手で、たった一人、一番救いたかった人を救えなかったのだ。さやが息を引き取った時、俺は手術室にいた。別の患者の心臓を握っていた。知らせを聞いて駆けつけた時には、もう全部が終わっていた。 そこから先のことはあまり覚えていない。気づいた時には、俺はメスを置いていた。手術の予定を全部断り、病院に退職を出した。引き止める同僚もいたが、俺はもう人の心臓に触れるのが怖かった。この手は、一番大切な人を救えなかった手だ。そう思うと、メスを握ることなど二度とできそうになかった。 そして俺は娘を妻の両親に預けて、一人で姿を消した。当時、娘はまだ12歳だった。母親をなくしたばかりの、一番そばにいてやらなければならない時に、俺はその子の前から消えたのだ。父親らしいことを何一つしてやれないまま逃げた。妻を救えなかった自分があの子の顔を見て「お父さん」と呼ばれることに、どうしても耐えられなかった。今思えば、それはただの卑怯で身勝手な考えだった。残された娘の寂しさより、自分の苦しみの方ばかりを見ていた。 それから15年、俺は各地を点々として暮らした。工事現場で働き、倉庫で荷物を運び、名前も顔も誰にも覚えられないように生きてきた。医者だった頃の自分はもういない。そう思い込もうとして生きてきた。 そんな俺がなぜ今、この病院で清掃員をしているのか。それにははっきりとした理由があった。半年前、俺はある人をこの病院で見つけてしまったのだ。 きっかけは本当に偶然だった。半年前、俺は隣の県の現場での仕事を終えて、久しぶりにこの町へ戻ってきていた。妻の墓がこの町の外れの寺にある。年に一度か二度、こっそり手を合わせに来る。それだけが、俺が自分に許したたった一つの里帰りだった。墓参りの帰り、俺はバスを乗り間違えて、見覚えのない停留所で降りた。目の前に大きな病院が立っていた。県の中でも名の知れた大きな病院だった。 ただの建物だと思って通り過ぎようとしたその時だ。正面玄関から一人の若い女性が走り出てきた。白意を着ていた。医者だった。まだ20代だろう。長い髪を後ろで一つに束ね、首から聴診器を下げて、何かの書類を抱えて急いでいた。患者の家族に呼ばれたのか、誰かに頭を下げながら小走りに駐車場の方へ向かっていく。 俺はその横顔を見て、足が止まった。心臓を誰かに掴まれたような気がした。さやに生き写しだったのだ。目元も、まっすぐ前を見るあの感じも、髪を耳にかける何気ない仕草も。若かった頃のさやが、そのまま目の前を歩いているようだった。まさかと思った。そんなはずはない。さやはもういない。 だが俺の足は勝手に、その白意を追いかけていた。彼女が抱えていた書類の一枚が風に飛ばされて、俺の足元まで転がってきた。俺はそれを拾った。書類の端に、医師の名前が印刷されていた。心臓血管外科・綾瀬蒼。 綾瀬。それは俺の妻の旧姓だった。そして蒼は、俺が捨てた娘の名前だった。 膝から力が抜けそうになった。あの白意の裾を握っていた小さな手の子が、「お父さん」と俺を呼んでいたあの子が、15年の歳月を超えて、母親と同じ白意を着て、いや、母親も成し遂げなかった医者になって、今目の前にいる。しかもよりによって、心臓を直す医者に。 俺は書類を握りしめたまま、しばらくその場から動けなくなった。蒼は母方の祖父母に育てられたはずだった。妻の両親は優しい人たちだった。俺のような父親より、よっぽど立派にあの子を育ててくれたのだろう。それでいい。それで良かったのだ。俺はもう、あの子の人生の外側にいる人間なのだから。そう自分に言い聞かせて、俺はその場を立ち去ろうとした。 だが、できなかった。一目でいい。もう一度だけ、あの子の元気な姿を見ていたい。本当に幸せに暮らしているのか、それだけでも確かめたい。父親を名乗る資格などないことはよくわかっている。それでも、遠くから見ているだけなら許されるのではないか。 俺はその日のうちに、病院の通用口に貼られた一枚の求人を見つけた。「夜間清掃員募集」。震える手で、俺はその番号に電話をかけていた。委託の清掃会社だった。年寄りで夜勤を嫌がる人が多い。すぐに来てくれるなら助かると、先方は言った。資格も経歴もいらなかった。俺は「桐生」とだけ名乗り、過去のことは何も話さなかった。 こうして俺は、医者としてではなく、清掃員として病院に戻った。初めての夜の日、グレーの制服に袖を通した自分をロッカーの鏡で見て、俺は思わず苦笑いした。かつて最新の設備に囲まれ、何人もの医者を従えてしていた男が、今はモップとバケツを手にしている。それでも不思議と、惨めだとは思わなかった。この制服を着ていれば、堂々とあの子のいる場所にいられる。それだけで、十分すぎるほどだった。 その初めて、蒼を間近で見た。ナースステーションでカルテに何か書き込んでいる横顔。俺はすぐそばの廊下をゆっくりと何度も吹いた。手を伸ばせば届く距離に、15年会えなかった娘がいる。なのに、声をかけることも、名乗ることもできない。父親だと知られてはいけない。ただの清掃員でいなければならない。喉まで出かかった言葉を、何度も飲み込んだ。 夜の病院で、蒼はよく働いていた。研修医というのは、まだ一人前と認められる前の修行中の医者だ。誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで残る。当直明けでフラフラになりながら、それでも患者の様子を見に病室を回る。俺はモップを動かしながら、その姿を遠くから見ていた。 あの子はいい医者になろうとしていた。患者の話を急がずに最後まで聞く。お年寄りの手を握って、ゆっくりと頷く。誰も見ていない夜の廊下で、検査の数字を睨んで何度も計算をやり直している。さやが生きていたら、きっとこういう医者になっただろう、と思える働きぶりだった。 俺は声をかけることはしなかった。できるはずもなかった。「お父さんだ」などと、どの口で言えるだろう。15年も放っておいた父親が、今更何の顔をして名乗り出るというのだ。ただ見ているだけでよかった。あの子が元気でまっすぐ生きている。それを眺められるだけで、俺の15年はほんの少しだけ報われる気がした。 だが見ているうちに、俺はあることに気づいてしまった。あの子の周りに、良くない影が差していることに。 その正体はすぐに分かった。黒岩という、この病院の院長だった。黒岩院長は心臓血管外科の出身だった。年は60を少し過ぎたあたりか。いつも仕立てのいいスーツを着て、廊下を歩く時は両脇に副院長や事務を従えている。患者にも来客にもにこやかに笑って見せる。表向きは人当たりのいい、立派な院長だった。 だが夜になると、顔が変わる。ある晩、俺が会議室の前の廊下を吹いていると、中から黒岩院長の声が漏れてきた。蒼を呼びつけて、叱りつけているようだった。 「綾瀬君ねえ、こないだの症例、もう少し私の顔を立てる報告の仕方があるだろう。数字をそのまま出されたら、科の成績が下がって見えるじゃないか。」 「ですが、事実をそのまま…」 「事実、事実とね、若い人はすぐそういう。病院というのはな、体面なんだよ。私の采配で評判を落とすわけにはいかんのだ。」 蒼の声は聞こえなかった。ドアが開いて、蒼が出てきた。俺はとっさにモップに目を落とし、ただの清掃員のふりをした。蒼は唇を噛んで、俯いたまま俺の前を通りすぎていった。その横顔があまりにも辛そうで、俺は思わず声をかけそうになった。だが、かけられなかった。 代わりに俺は、その夜、蒼がいつも使っている当直室の前の廊下を、いつもより念入りに磨いた。せめてあの子の歩く場所だけは、綺麗にしておきたかった。そんなことしか、俺にはできなかった。 それからも俺は、こっそりと蒼を見守った。蒼は強い子だった。黒岩院長にどれだけ理不尽なことを言われても、患者の前では笑顔を絶やさなかった。夜中に急変した患者がいれば、誰よりも早く飛んでいく。寝る時間を削って論文を読み、手術の手順を頭に叩き込んでいる。さや譲りの真の強さだった。 … Read more

1 September 2026

Vešla jsem domů po dvanáctihodinové směně a táta na mě zařval, že jsem zklamala rodinu. Máma stála vedle něj a řekla: „Odejdi. My tě nepotřebujeme.“ Pak mi přistrčili kabát a vyhodili mě z domu….

Táta praštil dlaní do stolu tak silně, že příbory poskočily. Vedle mého talíře ležela hromádka upomínek o prodlení, jako by to byl dárek. Přišla jsem z dvanáctihodinové směny, kde jsem v úvěrové unii procházela hlášení o podvodech, a tohle byla uvítací párty. „Zklamala jsi nás,“ ukázal na mě prstem, jako bych byla zaměstnanec, kterého může … Read more

1 September 2026