4月の金曜、昼休みに携帯を見たら母から5回着信があった。折り返すと、母は挨拶もなく言った。「レナが家に帰ってこないの」式の8日前だった。私は頭の中で数字を並べた。逃げたな、と思った。3日後、姉は戻ってきた。第一声が忘れられない。「もう無理でしょ、あんな生活。朝の3時に起きるのよ。魚の匂いの中で私にできると思う?」母は私の方を向いて、困った時にだけ見せる顔で言った。「みさ、あなたが代わりに行き…
「無理、無理。泥臭い漁師の嫁なんて私には絶対に無理。」 姉のレナはそう言って笑った。結婚式直前で姿を消して、3日ぶりに帰ってきた第一声がそれだった。 父が湯呑みを卓に打ちつけた。「先方にどう説明するんだ」 「知らない。お父さんが勝手に決めた話でしょ」 母が私の方を向いた。困った時にだけ見せる顔で言った。「みさ、あなたが代わりに行きなさい」 返事より先に母は湯呑みに手を伸ばしていた。「レナにはもっといい人がいるもの。あなたなら漁師でも十分でしょう」 十分。その言い方は30年かけて覚えさせられた。姉には惜しい。私には十分。私は畳の目を見ていた。言葉は喉の手前まで来て、そこで止まる。いつもそうだった。 「わかりました」 母の肩から力が抜けるのが分かった。逃げた本人ではなく私が頭を下げに行く。そういう家だった。誰も私に理由を聞かなかった。 私はクアノみさ。30歳。東和食品という食品卸の受注センターで8年働いている。仕事の中身は地味だ。得意先から入ってくる注文を受けて、倉庫の在庫と突き合わせて、足りない分は今週は何ケースまでしか出せませんと電話で伝える。車内ではそう呼ばれていた。数字は嘘をつかない。8ケースしかないものは、どう頼まれても8ケースだ。家の中にはそういう分かりやすいものが1つもなかったから、私はこの仕事が嫌いではなかった。 その日も朝から難しい電話を1本抱えていた。売り出しの目玉に決まっていた鯖の缶詰が、産地の不良で予定の半分しか入ってこない。得意先の担当者は当然怒った。 「チラシも刷ってるんだよ。なんとかならないの? 」 「何ともならない。ないものは出せない」 私にできるのは頭を下げることと、いつなら何ケース出せるかを1日刻みで示すことだけだ。 「来週の火曜に1200、金曜に800まで戻せます。目玉を別の品に差し替えるなら今日の3時までにご連絡ください」 先方はため息をついてから「わかった」と言って切った。8年やっていると、このため息の意味も分かるようになる。怒っているのではなく、上に説明する材料がいるのだ。だから私は電話を切った後に必ず同じ内容を紙にして送る。言葉になる前に、日付と数字を残しておく。それだけのことで次の注文は大抵戻ってきた。 姉のレナは私の3つ上で、マルナガフーズという大手の食品商社に勤めている。本社は都心で、名刺には水産部と書いてある。実家に帰ってくるたび、母は玄関の靴を並べ直してから姉を迎えた。私が帰っても、母は台所から声だけを出す。「悪いけど、お風呂の掃除抜いといて」 比べられて育ったという言い方は少し違う。比べる必要すらないと思われていたという方が近い。 レナの縁談が決まったのは前の年の秋のことだった。相手は磯浦という港町の人で、名前を潮見さんと言った。父の古い知り合いで漁の世話をしている宮野さんという人が間に入った。潮見さんのお父さんと私の父は、幼い頃に同じ仕事で縁があったらしい。その話は人が集まるたびに父の口から出てきた。「向こうの家とはなあ、わしが20代の頃からの付き合いなんだ」 レナは最初それほど嫌がっていなかった。写真の潮見さんは背が高くて、目のあたりが穏やかで、レナの好みからそう外れていなかったのだと思う。潮見水産という会社をやっていると聞かされてもいた。 レナが現地へ行ったのは3月の終わりの日曜だった。帰ってきたレナは、玄関で靴を脱ぐより先にこう言った。「あれ会社って言わないでしょ。船に乗ってる人じゃない」 レナが現地で何を見たのかは、後から順につなぎ合わせた。レナが見たのは作業着と古い一軒家と、朝の港の匂いだった。それだけだ。家には上がっていない。お茶の1杯も飲んでいない。潮見さんとお茶を飲んだという話も出てこなかった。 「駅からタクシーで15分もかかるのよ。信じられる? 」 レナはそう言って笑い、母も一緒に笑った。父だけが渋い顔をしていたが、それはレナの言葉に怒ったからではなかった。「宮野さんに何て言うんだ? 」父が気にしていたのは、いつも同じところだった。 それでも話は進んだ。式場が押さえられ、招待状が刷られ、レナは新居の家具を選びに行った。私は一度だけ姉に聞いたことがある。 「お姉ちゃん、本当にいいの? 」 レナは爪の色を確かめながら答えた。「いいも何も、行ってやるだけ言ってあげるんだから。感謝して欲しいくらい」 私は手を止めて姉の横顔を見た。「感謝って、誰に? 」 「あの人たちに。うちみたいな家の娘が行くんだから」 うちみたいな家というのが何を指すのか、私にはよくわからなかった。父は地元の県庁の会社に務めて定年を迎え、今は食堂で働いている。母は専業主婦だ。特別な家ではない。ただ、レナの中にはいつの間にかそういう物差しが出来上がっていた。 その物差しは私にも当てられていた。正月に親類が集まった時、父の姉のよしえおばさんに仕事を聞かれた。私が答えると、レナが横から言葉をかぶせてきた。「みさのとこ、卸売り屋さんだから伝票の子よ」 伝票の子。悪気があって言っているわけではないというのが、レナの1番立ちの悪いところだった。母は湯呑みを配りながら笑って頷いていた。「この子は昔から細かいことが向いてるのよね」 できているという言葉があんな冷たい響きを持つことがあるのだと、私は知った。 異変があったのは4月10日の金曜だった。式の8日前だ。私の携帯に母から5回続けて着信が入っていた。昼休みに折り返すと、母は挨拶もなく要件を言った。「レナが家に帰ってこないの」 最初に浮かんだのは事故や事件のことではなかった。逃げたなと思った。自分でも意外なほど、その答えは自然に出てきた。 レナからの連絡はその日の夜に私の携帯へ届いた。家にでも父にでもなく、私にだ。短い文だった。「ごめん。私には無理だから。お願い」 お願いが何を指しているのか、その時点では意味が取れなかった。分からないまま、私は返事を打たずに携帯を裏返した。 翌日は土曜だった。朝の8時に父から電話がかかってきて、実家に来いと言われた。用件は聞かされなかった。私は着替えて車に乗った。 実家の玄関には見慣れないパンプスが揃えて置いてあった。レナの靴だ。居間の襖を開けると、姉は座敷の前で携帯をいじっていた。3日ぶりに帰った人間の顔ではなかった。 「もう無理でしょ、あんな生活。朝の3時に起きるのよ、あの人たち。魚の匂いの中で私にできると思う? 」 できるかどうかを聞かれているのではないと私は思った。やる気があるかどうかの話だ。父は立ったまま天井の辺りを睨んでいた。怒っているのは間違いなかった。ただ、怒りの向き先が姉ではないことも私には分かっていた。 「招待状はもう出しとるんだぞ。取引先にも配った。宮野さんの顔もある」 出てくるのはそればかりだった。レナが何を感じて逃げたのか。その中身を聞こうとする言葉は、この部屋に1つもない。 母が私の方を向いた。困った時にだけ見せる顔で言った。「みさ、あなたが代わりに行きなさい。レナにはもっといい人がいるもの。あなたなら漁師でも十分でしょう」 十分。その言い方は30年かけて覚えさせられた。姉には惜しい。私には十分。論の言葉は喉の手前まで来て、そこで止まる。いつもそうだった。 「わかりました」 母の肩から力が抜けるのが分かった。そこでようやくレナが顔をあげた。「よかったじゃん、みさ。彼氏もいないんだし」 「お姉ちゃん」 「え? … Read more