朝の五時過ぎ、頭に走る激痛。さっきまで普通に動いていた左手が、言うことを聞かない。四十二年間、毎朝欠かさず和菓子を作り続けてきたこの手が、今は震えて止まらない。
「お母さん、大げさな演技はもういいですから」
薄い布団ごしに聞こえた嫁の冷たい声。頭の中で何かが破裂したような痛みが走る。視界が歪む。私は必死に病院へ連れて行ってほしいと懇願した。しかし、返ってきたのは疑いの目だけだった。
「また始まった。お母さん、そうやって私たちを振り回すのはやめてください」
隣で新聞を読んでいた息子の優馬も、面倒くさそうに顔を上げる。
「母さん、大丈夫? でも、確かに最近大げさなこと多いよね」
息子の言葉に、私は絶望した。本当に具合が悪いのに、誰も信じてくれない。脳梗塞。亡くなった夫が同じ症状で倒れた時の恐怖が蘇る。また始まった。今度は私の番なのか。
私はこれまでの人生を思い返していた。京都の老舗で十年修行し、地元で小さな店を開いて三十二年。季節の移ろいを餡と生地で表現し、お客様の笑顔を見ることが生きがいだった。三年前、夫が亡くなって店を閉めた。退職金と店舗の売却益、合わせて三千万円。その大半を息子夫婦のマイホーム購入のために渡した。「母さんのおかげでこの家が建てられたんだ」。あの時の息子の笑顔が嘘のようだ。
それから私は孫の世話係として尽くしてきた。毎朝五時に起きて朝食を作り、保育園の送り迎え、習い事の付き添い。季節ごとに手作りの和菓子を作っては、孫に日本の行事を教えた。「おばあちゃんの作る桜餅が一番好き」。孫のその言葉だけが私の支えだった。月八万円の生活費も負担している。決して楽ではないが、息子家族の笑顔を見たくて我慢してきた。
しかし今、激しい頭痛に襲われている私に向けられるのは、疑いと苛立ちの目だけ。左手のしびれはどんどんひどくなり、言葉もうまく出てこない。
「はいはい、わかりました。じゃあ病院に行きましょうか」
嫁の直が大きなため息をつきながら立ち上がった。やっと分かってくれたのか。小さな希望を感じた。
「優馬、車出して。お母さんを病院に連れて行くから」
「え、今から会社遅刻しちゃうよ」
「仕方ないでしょ。また始まったんだから」
車に乗り込むのも一苦労だった。足がもつれて、嫁に支えてもらってようやく後部座席に座れた。車が走り始めて十分ほど経った頃、直が振り返った。
「お母さん、本当のところどうなんですか? 認知症の症状じゃないんですか?」
認知症。思わぬ言葉に私は驚いた。
「だって、最近物忘れも多いし、同じ話を何度もするし。この前なんて、亡くなったお父さんがいるって言い出したでしょう」
確かに、夫の仏壇に向かって話しかけることはある。でもそれは認知症とは違う。ただ寂しいだけなのだ。私は必死に首を振った。違う、本当に頭が痛いのだ。その時、車が急に減速した。周りを見ると、看板を抜けて山道に入っている。病院とは全く違う方向だ。
「あの、病院は…」
直の声が急に冷たくなった。
「私たち、もう限界なんです。毎日毎日お母さんの相手をするのに疲れました」
車が山道に止まった。人気のない場所。朝もやが立ち込める中、鳥の鳴き声だけが聞こえる。
「ここで降りてください」
信じられない言葉に、私は耳を疑った。
「自分でなんとかしなさい。歩けば町に出られるから」
「そんな……本当に具合が悪いの。お願い、病院に」
「母さん、甘えすぎだよ」
優馬が振り返った。その目はもう、私の知っている息子の目ではなかった。
「いつまでも僕たちに頼らないで、自立してよ」
「でも、私はあなたたちのために……」
「もういいです」
直がドアを開けた。冷たい朝の空気が車内に流れ込む。
「うちにはもう関係ない人でしょう。外の人は外で何とかして」
外の人。その言葉が心臓に突き刺さった。四十二年間、朝早くから和菓子を作り、店を売ったお金も、孫の世話も、全てしてきた私が「外の人」? 降りないなら無理やり下ろすと言われ、私は震える体で車を降りた。足元がふらつき、ガードレールに手をかける。
「お願い、置いていかないで」
最後の力を振り絞って訴えたが、車のドアは無情にも閉められた。
「じゃあね、お母さん。頑張って」
直の最後の言葉と共に、車は走り去った。一人残された山道で、私は膝から崩れ落ちた。頭痛はますます激しくなる。助けを求める声も出ない。四十二年かけて築いたもののすべてを、息子に捧げてきた。それなのに、命の瀬戸際に捨てられた。悔しさと絶望で、涙が止まらなかった。
このままここで死ぬのだろうか。誰にも見取られず、山の中で。意識が遠のいていく中、私は最後の力を振り絞って立ち上がろうとした。しかし、激しいめまいに襲われ、再び地面に倒れ込んだ。左半身の感覚が完全になくなっている。これは本当に脳梗塞だ。医療の知識がなくても、それだけは分かった。
這うようにして道路の中央へ向かう。誰かが通りかかってくれることを祈りながら。どれくらい時間が経っただろうか。意識がもうろうとする中、エンジン音が聞こえてきた。
「大丈夫ですか?」
若い男性の声だった。登山服を着た人が私の顔を覗き込んでいる。
「救急車……」
かすれた声でそれだけ言うのが精一杯だった。男性は素早くスマートフォンを取り出し、一一九番通報してくれた。救急車を待つ間、男性は自分の上着を脱いで私にかけてくれた。「大丈夫ですよ。もうすぐ救急車が来ますから」。水も知らない他人の方が、実の息子より優しいなんて。涙が溢れた。
病院に搬送され、すぐにCT検査が行われた。医師は深刻な表情で病室に入ってきた。
「脳梗塞です。軽度ですが、あと三十分遅ければ命に関わるところでした。かなり危険な状態だったんですよ」
やはりそうだった。私の直感は正しかった。看護師に家族への連絡を聞かれ、私は首を横に振った。
「いません」
私は目を閉じた。息子はもういない。私を山道に捨てた時点で、もう家族ではなくなった。スマートフォンを確認すると、息子夫婦からの着信は一件もなかった。私を下ろしてからもう四時間以上経っている。普通なら心配して連絡してくるはずだ。でも、何もない。つまり、彼らは私がどうなってもいいと思っているのだ。命を落としても構わないと。
リハビリを初めて三日目、一人の男性が病室を訪ねてきた。弁護士の藤原氏だった。病院のソーシャルワーカーが紹介してくれたのだという。
「息子夫婦を訴えたいんです」
私は単刀直入に切り出した。もう遠慮する必要はない。
「これは明らかに保護責任者遺棄罪に該当します。同居していた息子夫婦には病気の親を保護する責任があります。それを放棄し、生命の危険がある状態で山道に置き去りにした。立証は十分可能です」
救出してくれた方の証言、救急隊の記録、医師の診断書。証拠は揃っている。そして、私はもう一つの重要な証拠を思い出した。病室のクローゼットから小さな手帳を取り出す。
「これは私の日記です。毎日つけていました。息子夫婦にされたこと、言われたこと、全て記録してあります」
藤原弁護士は興味深そうに手帳をめくった。
「素晴らしい。これは強力な証拠になります」
その時、看護師がノックをして入ってきた。
「面会の方が」
続いて入ってきたのは、私を救助してくれた登山者の男性だった。彼は名刺を差し出した。
「遅くなりました。私、高級料亭『宮び』を経営している田中と申します」
宮びといえば、この地域で最も格式の高い料亭だ。
「実はあの日の朝、新しい和菓子職人を探しに行く途中だったんです。鳥さんが和菓子職人だったと聞いて。もしよろしければ、退院後うちで働いていただけませんか? 腕のいい和菓子職人を探していたんです」
思わぬ申し出に、私は言葉を失った。でも、私はもう六十八歳だ。
「年齢は関係ありません。四十二年の経験は何者にも代えがたい財産です」
田中さんの言葉に、胸が熱くなった。息子夫婦は私をお荷物と読んだ。でも、この人は私の経験を財産だと言ってくれる。
ベッドサイドの引き出しを開けると、通帳があった。救急隊員が私のバッグから出して保管してくれていたものだ。残高を確認する。亡き夫の生命保険金三千万円。店を売った時、息子には内緒で別口座に移しておいたものだ。さらに、私には息子の知らないもう一つの財産があった。京都での修行時代、師匠から受け継いだ秘伝のレシピ。特に皇室に献上したこともある極上のレシピは、今でも多くの和菓子店が欲しがるものだ。このレシピの使用権だけでも二千万円以上の価値がある。
私は決意を新たにした。スマートフォンを手に取り、ある番号に電話をかけた。
「もしもし、公証役場ですか? 遺言書の作成をお願いしたいのですが」
息子夫婦には一切相続させない。財産は、私を救ってくれた人々のために使う。私は完全な復讐を決意した。法的には保護責任者遺棄罪で訴える。社会的にはこの事実を世間に知らしめる。経済的には一切の援助も相続からも除外する。そして何より、私は自分の力で新しい人生を始める。六十八歳からでも遅くはない。四十二年間磨いた技術がある。まだまだ私にはできることがある。
退院から一週間後、私は藤原弁護士と共に警察署にいた。
「被害届を提出します。保護責任者遺棄罪での告訴です」
警察官は私の話を真剣に聞いてくれた。
「これは重大な事案ですね」
日記、医師の診断書、救助者の証言。全ての証拠を提出した。翌日、藤原弁護士から連絡があった。
「息子さんたちがパニックになっているようです。弁護士を通じて連絡してきました。『誤解だ。そんなつもりじゃなかった』と言っているそうです」
私は冷たく笑った。命に関わる状態で山に捨てておいて、何が誤解だ。
警察署で息子夫婦と対面することになった。
「母さん、生きてたんだ」
優馬は安堵したような顔を見せたが、すぐに青ざめた。
「どうして、どうしてこんなことに」
「あなたたちが私を捨てたからでしょう」
私の冷たい声に、二人は震え上がった。
「違うんです。本当に大げさだと思って」
「脳梗塞で死にかけていた私を山道に捨てたのは事実でしょう」
「でもまさか、本当に病気だったなんて」
「『外の人は外で何とかして』と言ったのは誰?」
直は言葉を失った。あの時、私は必死に訴えた。頭が割れそうに痛いと。でも、あなたたちは認知症だと決めつけた。取り調べの結果、二人は保護責任者遺棄罪で起訴された。
事件は地元新聞に大きく報道された。「脳梗塞の母を山道に置き去り、息子夫婦を逮捕」。四十二年間和菓子職人として働いた老母の悲劇は地域に衝撃を与えた。SNSでは批判の声が殺到した。優馬の務める会社には抗議の電話が殺到し、優馬は懲戒解雇された。退職金も出ない。直のパート先でも同様だった。さらに近所でも二人は完全に孤立した。息子夫婦は社会的に完全に抹殺された。
しかし、私の復讐はまだ終わらない。民事訴訟も同時に進めていた。慰謝料として一千万円を請求した。
「四十二年間、朝早くから和菓子を作り続けました。息子のため、家族のため。その私をゴミのように捨てたんです」
裁判所は私の主張を全面的に認めた。一千万円の支払い命令だった。しかし、仕事を失った息子夫婦にそんな大金が払えるはずもない。家のローンも払えなくなり、銀行から差し押さえの通知が届く。
「母さん、お願い、助けて」
優馬が泣きながら電話してきた。
「お金を貸してください。家を失いたくないんです。母さんが援助してくれた三千万円の家なのに」
「あら、私は外の人でしょ」
「あの時はすいませんでした。外の人には関係ありません。自分でなんとかしなさい」
「母さん、お願いだ。孫のためにも」
「孫? あなたたちは私が死んでも構わないと思ったのよね。孫に合わせる資格があると思う?」
私は冷たく電話を切った。数日後、今度は直から電話がかかってきた。
「お母さん、お願いします。謝ります。何でもしますから」
「何でも? じゃあ、時間を巻き戻してあの朝に戻してくれる? それはできないでしょう。なら、自分たちで何とかしなさい」
結局、息子夫婦は自己破産することになった。家も車も全て失った。残ったのは世間の白い目と借金だけ。ある日、藤原弁護士が新たな情報をもたらした。
「息子さんたち、離婚することになったそうです」
やはり、という思いだった。金の切れ目が縁の切れ目。直はそういう女だった。孫は直の実家に預けられるという。孫のことを思うと少し心が痛んだ。でも、これも息子夫婦が選んだ末の結果だ。
最後に息子から手紙が来た。
「母さん、本当にごめんなさい。取り返しのつかないことをしました。一生後悔します」
私は手紙を破り捨てた。後悔? 今更何を言っているのか。私を捨てた代償はあまりにも大きかった。仕事も、家も、家族も、社会的信用も、全てを失った。因果応報という言葉を、今なら理解できるでしょうね。四十二年間の献身をお荷物として切り捨てた報い、命を軽んじた代償。全ては彼ら自身が招いた結果だった。
高級料亭「宮び」の厨房で、私は新しい和菓子を作っていた。退院から三ヶ月。私は田中さんの料亭で和菓子部門の顧問として働いていた。
「先生の和菓子のおかげで、予約が三ヶ月待ちになりました。特に、皇室献上の秘伝レシピを使ったものが大好評です」
田中さんが嬉しそうに報告してくれる。月収は息子夫婦と暮らしていた時の三倍以上。さらに、若い職人たちへの技術指導も行っている。仕事を終えて、私は料亭近くの高級マンションに帰る。田中さんの紹介で入居した、セキュリティ万全の住まいだ。バルコニーからは美しい日本庭園が見える。夕日に照らされた紅葉が、まるで私の新しい人生を祝福しているようだった。今、私は本当に自由で幸せだ。
ある日、料亭に一人の女性客が訪れた。
「白戸さん? 息子さんですか?」
見覚えのある顔。息子の会社の元同僚だった。
「ゆ馬さんのこと、聞きました」
私は静かに頷いた。
「今、どうしているか知っていますか? 日雇いの仕事をしているそうです。アパートで一人暮らしをしていて」
「そうですか」
私は特に感情を動かさなかった。自業自得だ。
「なおさんと離婚して、お子さんにも会えないそうです。養育費も払えなくて」
「それも、自分で選んだ道でしょう」
女性は何か言いかけたが、結局黙って帰っていった。私は厨房に戻り、明日の仕込みを始めた。季節は秋、栗きんとんの準備だ。
その夜、私は久しぶりに日記を開いた。息子夫婦に捨てられた日から、もう三ヶ月。あの時は死ぬかと思ったけど、今思えばあれが転機だった。もしあのまま息子夫婦の家にいたら、私はどうなっていただろう。きっとお荷物扱いされ続け、最後は本当に認知症になっていたかもしれない。いや、もっと悪いことに、次に体調を崩した時も同じように見捨てられ、今度こそ命を落としていたかもしれない。
翌日、料亭で一つの提案を受けた。
「先生、和菓子教室を開いてみませんか?」
田中さんの提案に私は驚いた。
「でも、私なんかが」
「先生の技術を学びたい人は大勢います。特に、団塊の世代の方々から問い合わせが多いんです」
確かに、最近は同世代の女性たちから声をかけられることが増えた。「記事を読みました。勇気をもらいました。私も理不尽な扱いを受けていて」。そんな声を聞くたびに私は思う。もしあなたが理不尽な扱いを受けているなら、一人で我慢し続ける必要はありません。正当な権利を主張し、自分を守る勇気を持ってください。あなたには勝利する力があるのですから。
二週間後、私の和菓子教室が始まった。初回は定員二十人に対し、五十人以上の申し込みがあった。
「今日は桜餅を作りましょう」
生徒たちは皆、五十代から七十代の女性たちだ。「先生、私も息子夫婦から冷たくされています。でも、先生みたいに強くなれるでしょうか?」「強くなる必要はないの。ただ、自分の価値を信じることが大切。あなたにも必ず輝ける場所があります」。別の生徒が涙ぐんだ。「先生の話を聞いて、私も自分の人生を大切にしようと思いました」。教室が終わった後、皆で作った和菓子を囲んでお茶を飲んだ。「美味しい。こんなに楽しいのは久しぶり」。生徒たちの笑顔を見て、私は心から嬉しかった。これが私の新しい使命なのかもしれない。四十二年間磨いてきた技術と経験は、誰にも奪えない私の財産だ。
ある日、ニュースで息子の姿を見かけた。ホームレス支援の炊き出しに並んでいる姿だった。髪はボサボサで、服も薄汚れている。かつては大手企業に勤め、マイホームを持っていた息子。今はその日の食事にも困る生活。私は画面を消した。もう心は痛まない。同情する気持ちもわかない。彼らは私の命より自分たちの都合を選んだ。その選択の結果が、今の姿だ。
料亭での仕事を終え、マンションに帰ると、郵便受けに一通の手紙が入っていた。差出人は孫だった。
「おばあちゃんへ。お母さんから聞きました。パパとママがひどいことをして、ごめんなさい。おばあちゃんの和菓子が食べたいです。桜餅、また作ってください」
手紙を読んで、初めて涙が出た。孫に罪はない。でも、もう会うことはできない。息子夫婦が壊してしまったものは、二度と元には戻らない。「ごめんね。でも、おばあちゃんは新しい人生を歩んでいるの」。手紙を大切にしまいながら、私は呟いた。いつか孫が大人になったら、会えるかもしれない。その時は作ってあげよう。
夕暮れ時、マンションのバルコニーから町を見下ろす。かつて息子家族と暮らした家は、もう他人のものだ。あの朝、私を捨てた山道も遠くに見える。でも、後悔はない。あの日があったから、今の私がある。今、私は本当に幸せだ。六十八歳にして掴んだ、本当の自由。誰にも縛られず、自分の技術で生きていく喜び。私を捨てた息子夫婦への最高の復讐は、私が幸せに生きることだ。四十二年間磨いた技術は、誰にも奪えない。そして、これからも輝き続ける。



