「ゴミ臭いから帰れ。」
息子の怒鳴り声と同時に、鋭い平手打ちが私の頬を打った。よろめく私の腕を掴み、息子は容赦なく床に叩きつけた。
高級な畳に倒れ込んだ私を、冷たい視線が突き刺す。嫁の洋子が吐き捨てるように言った。
「清掃員の分際で、なんでここに来たんですか? 空気が汚れるじゃないですか。」
私はゆっくりと立ち上がった。26年間、朝の4時から夜遅くまで清掃員として働き続けてきた。息子を育てるために、守るために。その息子が、母親にこんな仕打ちをするなんて。
26年前の冬、私の人生は一変した。
「澄江、高志を頼む。」
病床の夫が最後に残した言葉。建設現場での事故により、40歳の若さで亡くなった夫。残されたのは8歳の息子と、途方もない不安だけだった。
「お母さん頑張って働くから、高志には好きな勉強をさせてあげる。」
決意した私はすぐに仕事を探した。でも、40歳の未亡人にできる仕事は限られている。清掃員なら、朝と夜の仕事を掛け持ちできる。オフィスビル、病院、ホテル。朝4時から夜10時まで、私は働き続けた。手は荒れ、腰は痛んだ。でも、息子の笑顔が私を支えてくれた。
月15万円の教育費、塾代、参考書、模試。全て清掃の仕事で稼いだ。
「母さん、東京の大学に合格したよ。」
息子の喜ぶ顔。本当に良かったと涙が止まらなかった。
「母さん、いつもありがとう。俺、絶対に恩返しするから。」
大学の入学式で、息子はそう言って私を抱きしめてくれた。それが今では「ゴミ臭いから帰れ」か。あの優しかった息子は、どこへ行ってしまったのだろう。
大学卒業後、一流商社に入社した高志。あの頃はまだ、母の日には必ず花を送ってくれる優しい息子だった。
「母さん、初任給が出たよ。これ、少ないけど。」
封筒に入った10万円。涙が出るほど嬉しかったのを覚えている。
しかし、28歳で課長、30歳で部長代理、そして32歳で部長に昇進。年収が1200万円を超えた頃から、息子の態度に翳りが見え始めた。
「母さん、今度引っ越すから。港区のタワーマンション最上階なんだ。」
45階建ての最上階。家賃は月60万円。エントランスにはコンシェルジュが24時間常駐。私の月収の何倍もする家賃を、息子は平然と払っていた。
そして運命の出会いが訪れる。
「母さん、彼女を紹介するよ。洋子って言うんだ。実家が開業医の家系で。」
帝国ホテルでの初対面。洋子は確かに美しく上品な女性だった。しかし、私の姿を見た瞬間、彼女の瞳に一瞬、軽蔑の色が走る。
「お母様はどちらにお勤めですか?」
「ビル清掃の仕事をしています。息子を育てるためにずっと……」
「ああ、清掃員さんですか。」
その言い方に、明らかな見下しが込められていた。
結婚が決まり、両家の顔合わせは洋子の実家で行われた。世田谷の高級住宅街にある、庭付きの大邸宅。門をくぐった瞬間から、私は場違いな存在だった。
「私の父は大学病院の院長を務めております。長男は心臓外科部長、次男はハーバードで研究を。」
リビングに飾られた家族写真は、白い装いの医者たちばかり。
「ところで、お母様のご職業は?」
洋子の母親の質問に、息子が慌てて遮った。
「母は、その……サービス業に従事していまして。」
「あら、サービス業? どのような?」
「清掃の仕事です。」
「25年間ずっと清掃ですか? それは大変ですわね。」
深い意味ありげな笑みを浮かべながら、洋子の母は明らかに私を見下していた。
それ以降、私への扱いは日に日にひどくなっていく。
初めて息子たちの新居を訪ねた時のこと。
「お母さん、その作業着で来られると、ちょっと恥ずかしいんですが。」
「ごめんなさい。仕事帰りだから。」
「でも、このマンションの住人は皆一流企業の役員や弁護士ばかり。清掃員が出入りしてるなんて思われたら、私たちの評判が……母さん、せめて着替えてから来てよ。」
それからは、息子の家を訪ねる時は駅のトイレで着替えるようになった。でも、それでも洋子は満足しなかった。
「その消毒液の匂い、本当に臭いですね。お風呂入ってから来てもらえませんか?」
「手ももっと綺麗に洗って。その手で物に触られると、汚れそう。」
孫が生まれた時、私は誰よりも喜んだ。初孫を抱きたくて、急いで病院へ駆けつける。
「お母さん、ちょっと待って。その手で赤ちゃんに触らないで。」
「清掃員の手なんかで、新生児に触れないでください。病原菌がついてそうだし。」
それからは、お宮参り、七五三、運動会。大切な行事から、私は次々と締め出されていった。
「母さん、洋子の親戚も来るから、今回は遠慮してくれない?」
「母の晴れ姿を、身内に清掃員がいるなんて向こうの親戚に知られたくないんだ。」
息子の言葉は、ナイフのように私の心を切り裂く。そして、洋子の嫌がらせはさらにエスカレートしていった。
「清掃員なんて底辺の仕事。私の親族に知られたら、一族の恥よ。」
「息子がエリートなのに、お母さんがゴミ掃除だなんて。教育って大事ね。」
「その仕事、まだ続けるんですか? もういい年なんだから、引退したら?」
息子もどんどん冷たくなっていく。
「母さん、正直言って恥ずかしいよ。会社の同僚に、母親が清掃員だなんて絶対に言えない。」
「よ子の実家じゃ、使用人だってもっとましな仕事してるよ。医療事務とか、せめて事務職とかさ。」
「頑張って出世したのに、母さんのせいで足を引っ張られてる気分だよ。」
25年間、朝4時に起きて夜遅くまで働き続けた私。手は荒れ、腰は曲がりかけ。それでも息子のために頑張ってきた。その息子にとって、私はもはや恥ずかしい存在でしかない。
そして、運命の日。
「母さん、今度の金曜、俺の昇進祝いがあるんだけど、絶対に来ないでくれる。」
「でも、お祝いくらい……」
「両親でしょ? 会社の重役も来る大切な席なんだ。清掃員の母親がいるなんて知られたら、俺の将来が……」
それでも私は、息子の晴れ姿を一目見たくて、愚かにもあの料亭へ向かってしまったのだ。
金曜日の夕方5時。私は創業150年、皇室御用達の看板を掲げる高級料亭の前に立っていた。政財界の要人たちが密談をかわす場所として知られる、紹介なしでは玄関の扉をくぐることすら許されない日本でも指折りの格式を誇る店。
「絶対に来ないでくれ。」
息子の冷たい言葉が頭をよぎる。でも、母親として、息子の晴れ姿をどうしても一目見たかった。遠くからでも、そっと見守りたかった。
黒塀に囲まれた料亭の周りを歩いていると、従業員用の通用口が開いているのを見つけた。
「すみません。臨時で掃除を頼まれたものですが。」
嘘をついて中に入る。廊下を進むと、奥の松の間から賑やかな声が聞こえてくる。
「清水部長、このたびは本当におめでとうございます。34歳での執行役員就任は、我が社始まって以来の快挙です。」
襖の隙間からそっと中を覗いた。100畳はあろうかという大広間。そこに会社の重役らしき人々が20人ほど集まっていた。その中央に、羽織袴姿の息子と、あでやかな訪問着をまとった洋子が座っている。
「清水君の手腕は素晴らしい。M&Aを3件も成功させて、会社に多大な利益をもたらした。」
専務が息子の方を向く。
「将来の社長候補として期待しているよ。」
「ありがとうございます。全て皆様のご指導のおかげです。」
息子の謙虚な態度に、私の目に涙が滲んだ。あの小さかった高志が、こんなに立派になって。
「ところで清水君、ご両親は? お父様は早くに亡くなられたと聞いたが。」
「はい。父は私が8歳の時に、建設現場の事故で。」
息子の横顔に一瞬、困惑の色が浮かぶ。
「お母様は何をされているんですか? さぞ息子さんの出世を喜んでおられるでしょう。」
「母は……その……体調を崩しておりまして。本日は欠席させていただいております。心臓が弱くて、医者から安静を言い渡されているんです。」
「それは残念だ。息子さんがこんなに出世されて、さぞ喜びでしょうに。」
「え、まあ……電話では喜んでいました。」
嘘です。私は今、ここにいる。元気にしています。でも、息子の幸せそうな顔を見られただけで、母親としてはもう十分だと思った。私は静かにその場を立ち去ろうとした。
しかし、運命は残酷だった。廊下を歩いていると、膳を運ぶ仲居さんとぶつかってしまった。
「きゃっ!」
「100……申し訳ございません。すぐに片付けます。」
反射的に清掃員の癖で床を拭こうとした時、背後で襖が勢いよく開く音がした。
「母さん、なんでここにいるんだ?」
息子の顔が驚愕から怒りへ、そして憎悪へと変わっていった。続々と重役たちが廊下に出てきて、作業着姿の私を見つめる。
「まさか……信じられない。」
洋子が青ざめた顔で叫ぶ。一瞬の沈黙。そして、息子が顔を真っ赤にして怒鳴った。
「出ていけ! なんで来たんだ? 言っただろう、来るなって!」
「高志の晴れ姿を、一目だけ見たくて……ごめんなさい。」
「まさか、清水部長のお母様?」
重役がざわめき始めた。洋子が金切り声をあげる。
「この人、清掃員なんです! ビルの掃除! トイレとか、ゴミとか扱ってる人間が、こんな格式の高い場所に来るなんて非常識!」
「汚い清掃員! まさか清水部長のお母様が!」
視線が突き刺さる。軽蔑、困惑、哀れみ。様々な感情を宿した視線が私を嬲る。
息子は完全に理性を失っていた。大股で私に近づくと、作業着の胸ぐらを乱暴に掴む。
「なんでわからないんだ! お前のせいで俺の評価が!」
「お願い、話して……」
「うるさい! ゴミ臭いから帰れ!」
次の瞬間、平手が私の頬を打った。乾いた音が廊下に響き渡る。よろめく私の腕を掴み、息子は渾身の力で床に叩きつけた。
「俺たちの前から消えろ! 恥ずかしい! こんな醜い母親は、いない方がましだ!」
畳に倒れ込んだ私を見下ろし、息子は憎悪に満ちた目で言い放つ。洋子も負けじと罵声を浴びせてくる。
「そうよ! 清掃員の分際で顔を出すなんて! ゴミは黙って、ゴミ箱にでも入ってなさい!」
「お前なんか、俺の母親じゃない!」
息子が最後の一撃を加えた。私はゆっくりと体を起こす。
26年間、朝から夜遅くまで必死に働いて育てた息子。その息子が、会社の重役たちの前で、実の母親を殴り、床に叩きつけ、ゴミ扱いした。その事実を前にして、私の中で何かが音を立てて崩れると同時に、新たな何かが生まれた。
私は静かに微笑んだ。
「わかりました。」
「母さん、何を笑って……」
「洋子さん、お集まりの皆様、お騒がせして申し訳ございませんでした。」
深々と頭を下げる私に、重役たちは困惑の表情を浮かべる。
「これで失礼いたします。どうぞ、楽しい宴を続けてください。」
料亭の玄関を出ると、女将の藤原さんが青い顔で駆け寄ってきた。
「澄江さん、大丈夫ですか? 今の……」
「大丈夫です。それより……」
私は決心した。
「澄江さん、まさか……」
私の決意に満ちた表情を見て、女将は息を飲んだ。
料亭を出て、私は一度深呼吸をした。殴られた頬はまだ熱を持っている。でも、不思議なほど心は冷静だった。
「澄江さん、事務所へいらしてください。」
女将の藤原さんが、私の腕をそっと取る。料亭の裏手にある事務所は、築100年を超える離れだった。一般客は立ち入れない、料亭の心臓部。帳簿や重要書類が保管されている場所だ。
扉を開けると、女将は私をソファに案内した。
「まず、お顔の手当てを。」
「ありがとうございます。」
「澄江さん。まさか、あの方があなたの息子さんだったとは。」
女将の顔に、驚きと悲しみが入り混じった表情が浮かんだ。
「25年間、黙っていてすみません。」
私は静かに謝罪した。女将は深くため息をつき、金庫から1冊の古い帳簿を取り出した。
「澄江さん、あなたがこの料亭の真の所有者だということを、息子さんはご存知ないんですよね?」
「え……夫が亡くなった時、息子はまだ8歳でした。真実を話すには幼すぎて……」
私は26年前を思い出していた。夫の葬式の翌日、弁護士が訪ねてきたのだ。
「奥様、ご主人様の遺産についてお話があります。」
建設会社で現場監督をしていた夫に、正財産などあるはずがないと思っていた。
「実はご主人様は、この料亭の所有権を持っておられまして。ご主人様の祖父が、この料亭の創業者です。代々受け継がれてきた所有権が、今奥様のものになります。」
「私には無理です。誰か適任の方に……」
そこで知り合ったのが、当時の板前の娘だった藤原さんだった。
「藤原さん、あなたに、この料亭を任せたいのです。」
「でも、私なんかに……」
「お願いします。ただし、1つ条件があります。私は清掃員として働きます。息子には、苦労して稼ぐことの大切さを教えたい。だから、私がオーナーだということは、誰にも言わないでください。」
「わかりました。」
藤原さんは驚きながらも、私の願いを受け入れてくれた。
それから25年。私は朝4時から清掃員として働き、月に1度だけ夜中に料亭を訪れて帳簿を確認していた。
「澄江さんのおかげで、この料亭は日本一の料亭になれました。あなたが陰で支えてくださったから。設備投資の判断も、重要な顧客との交渉も、全てあなたのアドバイスのおかげです。」
料亭の年商は15億円。純利益は3億円。25年間の蓄積で、50億円を超える資産があった。
「息子は知らないでしょうね。自分が昇進祝いをしている料亭が、母親のものだなんて。」
「それにしても、なぜ……」
「25年間も、息子に本当の価値を教えたかったんです。お金じゃない、地位じゃない。人としての価値を。でも、それは失敗でした。息子は金と地位に目がくらみ、母親をゴミ扱いするような人間になってしまった。」
「わかりました。私の恩人のために、全面的に協力します。何をすればいいですか?」
女将が立ち上がる。私は冷静に計画を話した。
「今から1時間後、息子の昇進祝いがお開きになる頃、もう一度宴会場に行きます。そして、真実を話します。この料亭のオーナーが誰なのか。そして、息子がしたことの報いを。」
「承知しました。すぐに準備をします。」
私も立ち上がり、窓の外を眺めた。夕日が料亭の庭園を、金色に染めていた。25年間、息子のために隠し続けた真実。でも、もう終わりだ。
「息子の会社の重役の方々、まだ残っていますね。」
「はい、いらっしゃいます。」
「なら、ちょうどいい。皆さんの前で、真実を明らかにしましょう。」
「かしこまりました。最高の舞台を用意させていただきます。」
私は着物を整え、髪を結い直した。清掃員の作業着から、料亭のオーナーにふさわしい姿へ。
「澄江さん、お美しいです。」
鏡に映る私は、もう弱々しい清掃員ではなかった。25年間の怒りと悲しみを力に変えて、息子に真実を突きつける、1人の母親だった。
「さあ、行きましょう。もうすぐ、全てが変わります。」
午後8時、料亭の大広間ではまだ宴が続いていた。
「清水君、君の手腕があれば、5年後には社長も夢じゃない。」
「ありがとうございます。全力で会社に貢献します。」
息子は満面の笑みを浮かべていた。母親を殴り飛ばしたことなど、もう記憶から消し去ったかのように。
その時、襖が静かに開く。
「失礼いたします。」
女将の藤原さんが、いつもとは違う緊張した面持ちで入室した。
「女将さん、まだ宴の途中ですが……」
「申し訳ございません。皆様に、どうしてもお伝えしなければならないことがございます。」
重役たちがざわめき始めた。
「実は先ほど、大変失礼な行為がございました。この料亭の所有者に対して、暴力行為があったと。」
「何の話だ? 一体、誰のことだ?」
「はい。では、お呼びいたします。」
女将が襖を大きく開ける。そこには、黒留袖で身を包んだ私の姿があった。黒地に鳳凰が金糸で施された高級な留袖。帯には亡き夫の家紋である五三の桐が金糸で輝き、髪には本物の翡翠のかんざしが刺されていた。
「な、なんだ、その格好は……」
息子が息を飲んだ。先ほどの薄汚れた作業着姿とは別人のような、威厳に満ちた姿。25年間、一度も見せなかった本来の私の姿だった。
「皆様、改めまして、清水澄江と申します。」
「おい、何のつもりだ? 追い出したはずだろう!」
息子が立ち上がりかけたが、女将が毅然とした声で言った。
「清水様、お座りください。これより、重大な発表があります。」
「重大な発表? 何を大げさな……」
洋子が嘲笑したが、次の瞬間、その笑いは凍りついた。女将は全員を見渡してから、衝撃の事実を告げた。
「実は、この料亭の真の所有者は、清水様でございます。」
「なんだって……まさか、冗談だろう!」
「嘘だ! 出鱈目だ!」
息子が叫ぶ。顔は真っ赤に染まり、目は吊り上がっていた。
「こいつはただの清掃員だ! ビルの便所掃除をしてる、最低辺の女だぞ!」
「清水様、もう一度お座りください。澄江様は26年前、ご主人を亡くされた際に、この料亭を相続されました。これが所有権の証明書です。土地の権利書、建物の登記簿、そして25年間の経営記録です。」
専務が震える手で書類を取り上げ、1枚1枚確認する。
「本物だ……印鑑も、登記上の権利者も、間違いない。」
「さらに、こちらをご覧ください。25年間、私は月に1度深夜にここへ来て、経営状態を確認していました。年商15億円、総資産は50億円を超えています。」
「50億……!」
「この成功は、私と女将の2人の共同作業の結果です。私が経営方針を決め、女将が実行する。完璧な役割分担でした。」
息子の顔が青ざめ、全身が震え始めた。
「嘘だ、嘘だ……そんな……」
「そんな話があるなら、なんで清掃員なんかやってるのよ! 私たちを騙そうとしてるの?」
「お金が欲しかったわけではありません。」
私は息子をまっすぐに見つめた。
「息子に、本当の価値を教えたかった。お金でも、地位でもない。汗水流して働くことの尊さを。高志、覚えていますか? あなたが小学生の時、『お母さんの仕事って汚くないの?』と聞いてきたことを。」
「私は答えました。『どんな仕事も大切。掃除する人がいなければ、みんな困るでしょう』と。あなたは、『うん。お母さんすごい』と言ってくれた。」
会場の重役たちが、息子を見る目が徐々に変わっていく。軽蔑、失望、そして怒りへ。
「清水君、自分の母親に何ということを! 25年間、君のために働き続けた母親を、人前で殴るなんて!」
「ゴミ扱いするなんて、人として最低だ! 畜牲にも劣る!」
非難の声が次々と上がる。
「違う! 誤解だ! 知らなかったんだ! 母さんがそんな金持ちだなんて、知らなかった!」
「では、私が貧乏な清掃員なら、殴ってもいいということですか?」
息子は言葉に詰まった。
「金持ちなら大切にして、貧乏ならゴミ扱い。それが、あなたの本性なのね。」
「母さん……!」
「あの頃のあなたは、優しかった。大学の合格発表の日、『母さんのおかげだ』と泣いて喜んでくれた。就職が決まった時も、『これで母さんを楽にできる』と。でも、出世したら変わった。医者の娘と結婚したら、もっと変わった。清掃員の母親が恥ずかしい。ゴミ臭いから消えろ、と。」
私は深呼吸して、審判を下した。
「洋子さん、あなたたちは今すぐ、この料亭から出て行ってください。」
「え……」
「オーナーとして命じます。もう2度と、この敷居をまたがないでください。」
「母さん、お願いだ! 謝るから! 何でもするから!」
洋子も慌てて土下座した。
「お母さん、私が悪かったんです! もう2度と、ひどいことは言いませんから!」
「清掃員の母親は、いらないんでしょう? どうぞ、お好きに行きなさい。」
その時、専務が厳しい表情で立ち上がった。
「清水君。今日見せた君の本性、会社として絶対に看過できない。専務、月曜日の朝一番で人事部へ出頭しなさい。連絡会議を開く。」
「母親を大切にできない人間に、部下は預けられない。執行役員の話は、当然白紙だ。」
「いや、それどころか、降格……」
「いや、解雇も検討すべきだ!」
重役の言葉に、息子の顔が死人のように青ざめた。
「そんな……待って! お母さん、お義母様! 土下座でも何でもします! どうか許してください!」
「もう、遅いのです。」
女将が従業員を呼ぶ。屈強な男性スタッフ4人が、息子夫婦を取り囲んだ。
「母さん! 母さん! お願いだ!」
「お義母様! 私たち、路頭に迷ってしまいます!」
2人の叫び声が、廊下の奥へと消えていった。
重役たちが、次々と私に頭を下げる。
「大変失礼いたしました。まさか、このような立派な方だったとは。」
「息子さんのことは、本当に残念です。」
「いいえ、これも私の教育の失敗です。甘やかしすぎたのかもしれません。」
「いや、あなたは立派です。25年間も清掃員として働きながら、これだけの料亭を経営されていたとは。本当の成功者とは、こういう方のことを言うのですね。」
皆が帰った後、私は女将と2人きりになった。
「澄江さん、よろしかったのですか?」
「ええ、これで良かったのです。25年間の嘘が、息子をダメにしてしまった。もっと早く真実を話すべきだったのかもしれません。でも、後悔はありません。息子は、自分の行いの報いを受けただけです。母親をゴミ扱いした代償を、これから払っていくことになるでしょう。」
私の反撃は、完璧に成功した。
月曜日の朝、私は料亭の離れにある自室で目を覚ました。もう朝4時に起きる必要はない。清掃用具を準備する必要も、作業着に着替える必要もない。不思議な気分だ。25年ぶりの、本来の生活。窓から差し込む朝日が、とても優しく感じられた。
「澄江さん、おはようございます。」
女将の藤原さんが、朝食を運んできてくれた。
「おはよう。今日も良い天気ね。」
「はい。それと、息子さんの会社から連絡がありました。本日付けで、懲戒解雇になったそうです。」
「そう……仕方ないわ。あの子が選んだ道ですもの。」
悲しみはある。でも、それ以上にある種の安心感があった。
朝食を終えて、私は久しぶりに料亭の帳簿を昼間に確認した。年商15億円。毎年順調に成長している数字を見て、改めて25年の重みを感じた。
「あなた、見ていますか?」
亡き夫の写真に、語りかけた。
「高志は道を間違えてしまいました。私の育て方が悪かったのかもしれません。でも、後悔はしていません。清掃員として働いた25年間は、私にとって掛け替えのない財産でした。」
午後になって、藤原さんがまた報告に来た。
「洋子さんの実家からも、絶縁されたようです。お父様が激怒されて。」
「洋子さんのお父様は、ご立派な方ですものね。『職業に貴賤なし』という信念を持っている方。その教えに背いた娘を、許さなかったのでしょう。」
私は庭園を散歩しながら、これまでのことを振り返った。26年前、夫が事故で亡くなった日。8歳の高志が「お母さん、僕が守るから」と言ってくれた日。清掃員として初めて働いた日。手が荒れ、腰が痛くても、息子の笑顔を思い浮かべれば頑張れた。
「お母さん、いつもありがとう。大きくなったら、恩返しするね。」
あの頃の息子は、本当に優しい子だった。いつから変わってしまったのだろう。出世して、お金を得て、医者の娘と結婚して。結局、私の願いは届かなかったのね。
3日後の夜、従業員が慌てた様子で報告に来た。
「澄江様、門の前に誰か来たのですが……」
「誰?」
「息子さんと、奥さんが……」
私は静かに立ち上がった。仕事も家も失えば、頼る所は他にないでしょうから。
門へ向かうと、そこには変わり果てた2人の姿があった。高級スーツはよれよれで、洋子の自慢だったブランドバッグも見当たらない。
「母さん、本当にすみませんでした。もう一度、チャンスをお願いします!」
「お義母様、私が愚かでした! どうか許してください!」
2人が地面に膝をつき、土下座する。私は2人を見下ろしながら、静かに問いかけた。
「高志。洋子さん。立ちなさい。」
「職業に貴賤はありません。それを理解できないあなたとは、もう親子ではありません。」
「母さん! 清掃員だから恥ずかしいって言った俺が悪かった! ゴミ臭いから消えろって言ったのも!」
「その言葉を、私は一生忘れません。」
「本当に反省してるんです!」
「では、聞きましょう。もし私が今でも清掃員で、この料亭も財産もなかったら、あなたたちは謝りに来ましたか?」
2人の沈黙が、答えだった。
「もう2度と、ここへは来ないでください。」
背を向けて歩き始めると、息子の鳴き声が追いかけてくる。
「母さん! 母さん!」
でも、私は振り返らなかった。重い門が閉まる音が、25年間の母子の関係に終止符を打った。
「これで良かったの?」
自分に言い聞かせるように、つぶやいた。親の愛は無限ではありません。踏みにじられ、侮辱され、暴力まで振われて、それでも許すべきでしょうか? いいえ、それは愛ではなく、甘やかしです。
きっと今日も、多くの人が汗を流して働いている。清掃員も、コンビニ店員も、警備員も。みんな胸を張っていい。高志には、それがわからなかったのね。本当の豊かさが何か。
「あなた、私は間違っていたかしら?」
私は夫の写真を見つめる。写真の夫は、優しく微笑んでいるように見えた。
25年間清掃員として働いたこと。息子に真実を隠し続けたこと。そして、今日息子を拒絶したこと。でも、私は後悔していない。新しい人生が始まった。もう誰かのために、自分を偽る必要はない。料亭のオーナーとして、堂々と生きていける。そして、何より自分の尊厳を取り戻すことができた。
お茶を一口飲むと、この苦みの後に、深い甘みが広がった。人生もきっと同じ。苦しみの後には、必ず幸せが待っている。私はそう信じて、新しい朝を迎える準備をした。もう2度と、誰かに踏みにじられることのない人生を歩むために。



