息子の口から放たれた「絶縁させてくれ」という言葉に、私は一瞬、自分の耳を疑った。今日は高雪の三十八歳の誕生日。朝から心を込めて焼いたバースデーケーキを手に玄関先に立つ私に向けられた冷たい視線に、体中の血が凍りついていくようだった。
「母さん、はっきり言うよ。もう絶縁させてくれ」
震える手でケーキの箱を握りしめながら、私は息子の顔を見つめた。幼い頃、私の手作りケーキを世界一の美味しいものだと喜んで食べてくれていたあの子は、もうどこにもいなかった。隣に立つ嫁の友子も、軽蔑するような目で私を見下ろしている。
「お母さん、私たちの生活に、もう必要ないんです」
三十八年前のこの日、産声をあげた小さな命を初めて抱きしめた時の幸せな記憶が、残酷な現実によって打ち砕かれていく。三十三年間スーパーで働き続け、学費もマイホームの頭金も、全て息子の幸せを願って捧げてきた私の人生は、一体何だったのだろう。
その時、私の心の中で何かが静かに、でも確実に変わった。
私は夫の年男と二人三脚で息子を育ててきた。高雪が生まれてから、私は彼の幸せだけを願って生きてきた。朝五時に起きて弁当を作り、仕事から帰れば夕食の準備。学校行事には必ず参加し、受験の時は一緒に徹夜で勉強を見守った。
「母さん、大学に合格したよ」
あの時の息子の輝く笑顔を見て、苦労が報われたと心から思った。学費八百万円を工面するため、スーパーでのパート勤務を正社員に切り替え、休日も返上で働き続けた。結婚が決まった時も、迷うことなく援助した。
「母さん、本当にありがとう」
息子のために、マイホーム購入の際には頭金五百万円を用意し、さらに三千万円の住宅ローンの保証人にもなった。孫が生まれてからは、友子が仕事を続けたいという希望を叶えるため、毎日のように通った。おむつ替えから離乳食作り、公園遊びまで、まるで自分の子育てのやり直しのような日々だった。
でも、最近は月に一度の訪問さえ迷惑だと言われるようになった。
「お母さん、アポなしで来られても困ります」
友子の冷たい言葉に傷つきながらも、息子家族の幸せを願う気持ちは変わらなかった。それなのに、今日という特別な日に、こんな形で拒絶されるなんて。
思い返せば、息子夫婦の態度が変わり始めたのは一年ほど前からだった。最初は些細なことだった。私が作った煮物を食卓に並べると、友子が小声で言うのだ。
「お母さん、これ味が濃すぎませんか?健康のことを考えてもう少し薄味にしていただけますか」
次に訪問した時、薄味を心がけて作った料理を出すと、今度は違う文句が飛び出した。
「なんだか味気ないですね。やっぱり市販の調味料の方が美味しいかも」
高雪も同調するように、「母さんの料理、最近なんか変だよね」と笑いながら言った。息子の言葉に胸がちくりと痛んだが、笑顔で受け流すしかなかった。
服装についてもいちいち指摘されるようになった。
「お母さん、その服装、もう少し都市相応にされた方がいいんじゃないですか。なんていうか、時代遅れっていうか、恥ずかしいんですよね。一緒に歩くのが」
友子の遠慮のない言葉に、私は自分の存在そのものが否定されているような気持ちになった。それでも、息子の妻だからと我慢し続けた。
ある日、孫の誕生日プレゼントを持って訪問すると、友子が玄関先で立ちはだかった。
「お母さん、今日は都合が悪いんです」
「でも、今日は孫の誕生日でしょう。プレゼントだけでも渡させて」
「それがですね、うちの教育方針として、物をたくさん与えるのは良くないと思っているんです。お母さんからのプレゼントは、正直言って迷惑なんです」
迷惑。その一言が鋭い刃となって、私の心を切り裂いた。家の中から孫の楽しそうな声が聞こえてくる。でも、私はその輪に入ることを許されなかった。
別の日、買い物帰りに偶然息子夫婦に出会った。私は嬉しくて声をかけたが、高雪の反応は冷たいものだった。
「母さん、なんでここにいるの?」
「買い物の帰りよ。偶然ね」
「偶然?本当に俺たちのこと、つけてたんじゃないの?」
息子の疑いの目差しに、私は言葉を失った。まるでストーカーのように扱われたことが、あまりにもショックだった。友子も追い打ちをかけるように言った。
「お母さん、私たちにもプライバシーってものがあるんです。監視されているみたいで気持ち悪いです」
その後も訪問するたびに、人格を否定されるような言葉を浴びせられた。
「お母さん、同じ話を何度もされますけど、大丈夫ですか?認知症じゃないですよね」
友子のその言葉に、私は凍りついた。確かに、最近昔の思い出話をすることが多くなったかもしれない。でも、それは息子との楽しかった日々を懐かしんでいただけなのだ。
「病院で検査を受けた方がいいんじゃない?俺たちも心配だからさ」
心配しているような口調だったが、その目は冷たく、まるで厄介者を見るような視線だった。友子も同調するように続けた。
「そうですよ。お母さんの言動、最近ちょっとおかしいんです。この前なんて、約束もしていないのに突然来られて、記憶が曖昧になってきているんじゃないですか」
私は必死に否定した。
「そんなことないわ。私はしっかりしているし、約束していたはずよ」
「ほら、また。私たち、そんな約束していませんよ。やっぱり病院に行った方が」
二人は顔を見合わせ、まるで認知症患者を扱うような態度で私を見た。私の正常な判断力まで疑われ、人としての尊厳を踏みにじられているようだった。
最も辛かったのは、私の存在価値そのものを否定する言葉だった。
「母さんって、結局何もできない人だよね」
高雪が夕食時に何気なくそう言った。
「専業主婦して生きてきただけで、社会経験もない。世の中のこと何も知らないんだから」
「そうよね。私なら耐えられないわ。仕事もせず、ただ家にいるだけの人生なんて」
友子もバカにしたような口調で同調した。
「お母さんの時代はそれで良かったのかもしれませんけど、今は違いますからね。自立した女性じゃないと尊敬できません」
三十三年間スーパーで真面目に働き続けてきた私の努力は、彼らの中では無に等しいものだった。
「正直、母さんの存在が邪魔なんだよ」
ある日、高雪が苛立たしげに言った。
「いつも息子のためって言うけど、それって自己満足でしょ。俺たちは別に頼んでないし」
「でも、あなたたちのローンの保証人にもなっているし」
「それだって、母さんが勝手にやったことじゃん。恩着せがましいんだよ」
息子の言葉に、私は打ちのめされた。全て息子の幸せを願ってしてきたことが、恩着せがましいと切り捨てられたのだ。
訪問を減らしても、それはそれで文句を言われた。
「最近、お母さん来ませんね。すねているんですか?子供みたい」
友子の嘲笑うような言葉に、どうすればいいのか分からなくなった。来れば邪魔者扱い、来なければ子供扱い。私のいる場所がなかった。
そして今日、息子の誕生日という特別な日に、最後通告を受けた。
玄関先で立ち尽くす私に、高雪は容赦ない言葉を続けた。
「母さん、もう限界なんだ。はっきり言うよ。もう絶縁させてくれ」
手に持っていたケーキの箱が、震えで今にも落ちそうだった。息子の誕生日を祝いたい一心で朝から起きて作った特製チョコレートケーキ。三十八年前、この子が生まれた日の喜びを思い出しながら、一つ一つ丁寧にデコレーションしたケーキだった。
「絶縁?何を言っているの?高雪」
私の問いかけに、息子は苛立たしげに髪をかき上げた。
「分からないの?もう母さんとは関わりたくないってことだよ。俺たちの生活に母さんは必要ないんだ」
「お母さん、私たちも大人なんです。いつまでも親に頼られても困るんですよ」
頼られる。私があなたたちに頼ったことがある?私は思わず声が震えた。経済的にも精神的にも支えてきたのは、私の方だったはずだ。
「金銭的援助?それは親の義務でしょ」
高雪があっさりと言い放った。
「子供を大学まで行かせるのは当たり前。家を買う時に援助するのも昔からの慣習じゃん。保証人になったのだって、母さんが勝手にやったことだよね。別に頼んでないし」
「そもそも、お母さんが出したお金って、亡くなったおじいさんの遺産でしょう。お母さん個人のお金じゃないんだから、恩に着せられても困ります」
亡き父の遺産。確かに父の残してくれたお金もあったが、私が三十三年間働いて貯めたお金だって相当な額になっていた。でも、そんな反論をする気力もなかった。
「それに母さん、もういい年でしょ?」
高雪の言葉が、さらに残酷さを増していった。
「正直、周りの目が恥ずかしいんだよ。友達の親はみんなもっとしっかりしてるのに。母さんは、なんて言うか、時代遅れっていうか、ミジメなんです」
友子がはっきりと言い切った。
「こんなこと言いたくないですけど、お母さんの存在が私たちの品格を下げているんです」
品格を下げている。その言葉が胸に突き刺さった。息子のために、家族のために、必死に働き続けてきた私が、品格を下げる存在だというのだ。
「母さんさ、昔から気づいてなかったと思うけど」
高雪が残酷な笑みを浮かべた。
「俺、実は母さんのことずっと恥ずかしいと思ってたんだ。他の友達の母親は、綺麗で知的で社会で活躍してる人ばっかりだったのに、母さんはただのスーパーの店員でしょ。授業参観とか、本当に来て欲しくなかった。あれが俺の母親って言われるのが嫌だったんだ」
過去の記憶が走馬灯のように蘇ってきた。仕事を休んでまで駆けつけた授業参観。運動会では朝早くから場所取りをして、弁当を作って応援した。それら全てが、息子にとっては恥ずかしい思い出だったというのだ。
友子も追い打ちをかけた。
「私の実家では、お母さんのこといつも話題になるんですよ。息子の嫁の実家にしょっちゅう来る困った姑がいるって。母も、とも子も大変ねって。」
友子の実家でも、私は厄介者扱いされていたのだ。
「もう限界なんだよ、母さん」
高雪が吐き捨てるように言った。
「とも子も俺も、母さんの顔を見るたびにストレスが溜まる。子供にも悪影響だ」
「悪影響?私が孫に?」
「そうだよ。古臭い価値観を押し付けられたら困るんだ。時代錯誤の教育なんてされたら、子供の将来が台無しになる」
「お母さん、本当に孫のことを思っているなら、関わらないでください」
友子の言葉は最後の一撃だった。
「お母さんの愛情は重すぎるんです。息が詰まりそうなんです」
高雪が最後通告を突きつけた。
「だから、もう絶縁させてくれ。今日を最後に、二度と連絡しないでくれ。家にも来ないでくれ。俺たちの人生に母さんはもう必要ない。むしろ邪魔なんだ」
「消えてください」
友子の冷酷な一言が、とどめを刺した。
私はケーキの箱を差し出そうとしたが、高雪は受け取ろうともしなかった。
「そんなのいらない。もう帰ってくれ」
「でも、あなたの誕生日」
「誕生日?そんなの別に祝って欲しくない。母さんからの祝福なんて、重いだけだ」
三十八年前のあの日、小さな産声をあげて生まれてきた我が子。初めてママと呼んでくれた日。手を引いて歩いた公園。熱を出せば一晩中看病し、受験の時は一緒に頑張った日々。全てが、息子にとっては重いものでしかなかったのだ。
「分かったわ」
私は震える声でそう答えるのがやっとだった。
「もう二度と会うことはないのね」
「そういうこと。やっと分かってくれた」
高雪は安堵したような表情を見せた。まるで、長年の重荷から解放されたような顔だった。
私は手に持っていたケーキの箱を地面に置き、深く息を吸った。そして、静かに微笑んだ。
「ええ、よく分かりました。もう二度と会うことはないでしょうね」
その時、私の心の中で息子への愛情が音を立てて凍りついていくのを感じた。同時に、今まで押し殺してきた感情が、静かに、でも確実に舞い上がり始めていた。
家に帰る道すら、私は不思議なほど冷静だった。玄関に置いてきたケーキは、きっと息子夫婦がゴミ箱に捨てることだろう。三十八年分の愛情も、一緒に捨てられたのだ。
「お帰りなさい。千佳子、どうだった?」
家で待っていた夫の年男が、心配そうに声をかけてきた。
「高雪に絶縁を宣告されたわ」
私は静かに事実を告げた。年男の顔が青ざめていくのが分かった。
「絶縁だって?一体何があったんだ」
私は今日あったことを淡々と話した。息子夫婦の冷たい言葉の数々、私という存在が邪魔だということ、二度と会いたくないということ。
年男は黙って聞いていたが、やがて深いため息をついた。
「千佳子、お前がどれだけあの子のために尽くしてきたか、俺は知っている。それなのに、ひどすぎる」
「年男さん」
私は静かに微笑んだ。
「私、決めたの。息子が望む通りにしてあげる。絶縁を望むなら、その通りにしてあげましょう。でも、私も私のやり方で、きちんと整理するわ」
リビングのテーブルに座り、私はメモ帳を取り出した。そして、一つ一つ確認するように書き始めた。
まず、ローンの保証人の件。三千万円の保証人になっていることを、息子夫婦は当たり前だと言った。親の義務だと。でも、保証人というのは、いつでも解除できるものだ。息子が私を必要としないなら、私も息子の保証人である必要はない。
「明日、銀行に行ってくるわ」
私は年男に告げた。
「保証人を解除する手続きをしてくる」
「千佳子、それをしたら高雪たちが困るだろう」
「もう家族じゃないって言われたのよ。家族じゃない人の保証人になる必要はないでしょう」
次に通帳を確認した。息子の教育資金として貯めていた定期預金が、まだ五百万円ほど残っていた。孫の将来のために少しずつ貯めていたお金だ。
「これも解約するわ」
「千佳子、だって」
「もう会うこともないのよ。孫の教育に口を出すなって言われたし。私の古臭い価値観は悪影響だって」
私の冷静な対応に、年男は戸惑っているようだった。でも、これは感情的な行動ではない。息子が望んだ絶縁を、私も受け入れるだけだ。
スマートフォンを手に取り、連絡先を開いた。息子の番号、嫁の番号、そして息子の家の固定電話。一つ一つ削除していった。
「向こうから連絡が来るかもしれないだろう」
年男が心配そうに言った。
「来ないわよ。二度と連絡するなって言われたもの。でも、念のため着信拒否の設定もしておくわ」
完全な絶縁だ。
次に、私は古いアルバムを取り出した。息子の成長記録、家族写真、全てが詰まった思い出の品々だ。
「これはどうするんだ?」
「処分はしないわ。でも、もう見ることはないでしょうね」
アルバムをダンボールに詰め、押し入れの奥深くにしまった。過去は過去。もう振り返ることはない。
夕方、私は法律事務所に電話をかけた。
「相続についてご相談したいことがあるのですが」
電話の向こうで、受付の女性が丁寧に応じてくれた。
「息子との関係で、遺産相続の件を整理したいんです」
相続排除という制度があることは知っていた。息子が私を見捨てたのなら、私も息子に何も残す必要はない。
「明後日、伺います」
電話を切った後、私は深呼吸をした。
「千佳子、本当にいいのか?」
年男が最後の確認をしてきた。
「ええ、いいのよ」
私は確信を持って答えた。
「三十八年前、高雪が生まれた時、私はあの子のために生きようと決めた。でも、今日あの子自身が私を拒絶したなら、私も新しい人生を始める時が来たということよ」
夜、ベッドに入る前、私は鏡の前に立った。六十三歳。まだまだ人生は長い。息子のために使ってきた時間。お金。エネルギー。これからは、全て自分のために使えるのだ。
「明日から、新しい私の人生が始まるのね」
鏡に映る自分に、私は静かに微笑んだ。
復讐?いいえ、これは復讐ではない。息子が望んだ通り、完全に彼らの人生から消えてあげるだけ。ただし、私の存在がどれほど彼らの生活を支えていたか、それを思い知る日は、そう遠くないでしょう。
翌朝、私は朝一番で銀行へ向かった。窓口の行員は、私の依頼に少し驚いた様子を見せた。
「住宅ローンの保証人解除をご希望ですか?」
「はい。息子夫婦のローンの保証人になっていますが、解除したいのです」
「解除となりますと、債務者であるご子息様に別の保証人を立てていただくか、保証会社への切り替えが必要になりますが、構いませんか」
「それは、息子たちが考えることです」
行員は困惑したような表情を浮かべたが、私の決意が硬いことを察したようだった。
「承知いたしました。では、必要書類をご用意いたします」
手続きは思ったよりスムーズに進んだ。保証人解除の通知は、債務者である高雪に直接送られることになる。
「通知は本日中に発送されます。到着は明日の午前中になるかと思います」
「ありがとうございます」
銀行を後にした私は、次に法律事務所へ向かった。
「相続排除の手続きをお願いしたいのです」
初老の弁護士は、私の話を真剣に聞いてくれた。
「息子さんから絶縁を宣告されたということですね」
「はい。もう二度と会わないと言われました。であれば、私の財産を相続する権利もないと思うのです」
弁護士は頷いた。
「相続排除は家庭裁判所の審判が必要ですが、今回のケースなら認められる可能性は高いでしょう。虐待や重大な侮辱があったということですから」
手続きの詳細を聞き、必要書類を受け取った。これで、私の財産は息子には一円も渡らない。
その日の夕方、家で夕食の準備をしていると、スマートフォンが鳴り始めた。着信拒否をしているはずなのに、と思って画面を見ると、知らない番号だった。念のため出てみると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「お母さん!大変なことになってるんです!」
どうやら別の電話からかけてきたようだ。友子の声は、昨日とは打って変わって慌てふためいていた。
「どうしたの?」
私は冷静に尋ねた。
「銀行から通知が来て、保証人解除ってどういうことですか?」
「どういうことも何も、書いてある通りよ」
「でも、これじゃあローンが一括返済しろって」
友子の声が震えていた。
「それか、別の保証人を立てろって。そんなの無理です」
「あら、でも私たちはもう家族じゃないんでしょう。私は昨日言われた言葉をそのまま返したわ。家族じゃない人の保証人を続ける理由はないわ」
「そんな、お母さん、お願いです。考え直してください」
「考え直す?」私は静かに笑った。「昨日あなたたちは何と言ったか覚えてる?二度と会いたくない。消えてくれって」
「あれは、その場の勢いで」
「勢い?三十八歳の大人が、その場の勢いで母親に絶縁を宣告するの?」
電話の向こうで、友子が高雪に何か話しかける声が聞こえた。すぐに、高雪の声に変わった。
「母さん、どういうつもりだ?」
息子の怒鳴り声が響いた。昨日の冷たい態度とは正反対の、焦りに満ちた声だった。
「どういうつもりも何も、あなたが望んだ通りよ」
「望んだ通りって」
「絶縁でしょう。もう関わらないでくれって言ったじゃない」
「それとこれとは話が違うだろう!」
高雪の声がさらに大きくなった。
「保証人を勝手に解除するなんて、ありえない」
「勝手に?」私は鼻で笑った。「家族じゃない人の保証人を続ける方が、ありえないでしょう」
「母さん、頼む。これじゃあ、家を失うことになる」
「それは残念ね。でも、私には関係ないわ」
「関係ないって?俺は息子だろ」
「息子?」私の声が冷たくなった。「昨日、絶縁するって言ったのは誰?私はもうあなたの母親じゃないんでしょう」
高雪は言葉に詰まったようだった。
「それに、私からの援助は当たり前、親の義務だって言ってたわよね」
「そ、それは」
「でも、もう親子じゃないなら、義務もないってことよ」
再び、友子の声に変わった。
「お母さん、お金なら、今までのことは謝りますから」
「謝る?何を謝るの?」
「昨日のことは、言いすぎました。すみません」
「言いすぎ?」私は冷たく言い放った。「あれは本心でしょう。私の存在が邪魔だって。恥ずかしいって。消えて欲しいって」
「違います。そんなつもりじゃ」
「じゃあ、どんなつもりだったの?」
友子は答えられなかった。
「お母さん、このままだと孫が路頭に迷うことに」
「あら、私の古臭い価値観は、子供に悪影響なんでしょう」私は昨日の友子の言葉を思い出させた。「関わらない方がいいって言ったのは、あなたよ」
「で、でも」
「それに、優秀なあなたたちなら、きっと何とかできるわよ」私は皮肉を込めて言った。「私みたいなただのスーパーの店員と違って、あなたたちは立派な社会人なんでしょう」
電話の向こうで、二人が何か言い争っているような声が聞こえた。
「母さん」再び高雪の声になった。「明日、話し合おう。ちゃんと謝るから」
「話し合い?謝罪?」私は鼻で笑った。「昨日、二度と会いたくないって言ったのは誰?もう遅いのよ、高雪」
私の声は氷のように冷たくなった。
「あなたたちが私を捨てた時点で、全ては終わったの」
「母さん、お願いだ」
「お願い?」私は静かに言った。「三十三年間、私があなたのためにしてきたお願いを、あなたは一度でも聞いてくれた?」
高雪は黙り込んだ。
「もう一度言うわ。これは、あなたたちが選んだ道よ。さようなら。もう二度と連絡しないで」
私は電話を切った。すぐにまた着信があったが、今度は出なかった。
その夜、年男に報告すると、彼は複雑な表情を見せた。
「本当に良かったのか?」
「ええ、これで良かったのよ」私は確信を持って答えた。「二千万円の残債は、保証人なしではとても返済できないでしょうね。家を手放すことになるかもしれないな」
「そうね。でも、それも彼らが選んだ道よ」
窓の外を見ると、静かな住宅街の夜景が広がっていた。息子夫婦は、今頃必死で対策を考えているのだろうか。でも、もう私には関係ない。
「明日からは、私たちの新しい人生ね」
年男に微笑みかけると、彼も静かに頷いてくれた。
絶縁。それは息子が選んだ道。そして、私もその選択を受け入れただけ。ただし、私という存在がどれほど大きかったか、彼らはこれから身を持って知ることになるだろう。
あれから一ヶ月が経った。朝の光が差し込むリビングで、私は優雅にコーヒーを楽しんでいる。以前ならこの時間は、孫の世話や息子家族のことで頭がいっぱいだった。でも、今は違う。
「千佳子、今日は何か予定があるのか?」
年男が新聞を読みながら尋ねてきた。
「ええ、午後から趣味のサークルよ。最近始めた絵画教室」
「そうか。楽しそうだな」
私は満足げに微笑んだ。息子のために使っていた時間とお金を、今は自分のために使っている。絵画教室、ヨガ、読書会。新しい友人もたくさんできた。
「そういえば、銀行から連絡があったよ」年男が思い出したように言った。「ローンの件、結局どうなったか聞いたか?」
「ええ、風の噂で聞いたわ」私は静かに答えた。「息子夫婦は、結局友子の実家に頭を下げて、保証人になってもらったそうです。ただし条件付きで。友子の母親は、かなり厳しい条件を突きつけたと聞いているわ」
「家も売却を検討しているらしいわよ」
「そうか」
年男は複雑な表情を見せたが、私の心は穏やかだった。携帯電話を確認すると、また知らない番号からの着信があった。もう五回目だ。きっと息子夫婦だろう。でも、私は出るつもりはない。
ある日、スーパーで買い物をしていると、偶然息子の同級生の母親に会った。
「あら、千佳子さん、お久しぶりです。お元気でしたか?」
彼女は少し言いにくそうに口を開いた。
「実は、高雪君のこと聞いたんです。大変みたいですね」
「そうなんですか?」私は他人事のように答えた。
「ええ、何でもお母様と絶縁したとか。それで生活が立ち行かなくなって。友子さんもパートを増やしたって聞きました。『こんなはずじゃなかった』って嘆いているそうよ」
私は静かに微笑んだ。
「人生には色々ありますからね」
「お子さん、寂しくないですか?息子さんと会えなくなって」
「いいえ」私ははっきりと答えた。「むしろ、今の方が幸せです。自分の人生を生きているって実感があります」
彼女は驚いたような顔をしたが、やがて理解したような表情になった。
「そうですか、千佳子さん。なんだか、輝いて見えます」
「ありがとう」
別れ際、彼女が付け加えた。
「高雪君、『母親の大切さが今になって分かった』って言っていたそうです」
「そう。でも、もう遅いですね」
私は冷静に答えて、その場を後にした。
夕方、年男と二人で食事をしていると、彼がぽつりと言った。
「なあ、千佳子。本当に後悔はないのか?」
私は箸を置いて、真剣に答えた。
「後悔?いいえ、一つもありません」
「でも、息子だろう」
「息子だったわ。過去形ね」私は静かに続けた。「私は三十八年間、あの子のために生きてきた。でも、あの子自身が私を否定したなら、私も前を向いて生きる権利があるでしょう」
年男は深く頷いた。
「そうだな。お前の人生だ」
「それに」私は微笑んだ。「今の生活、とても充実しているの。自分のために時間を使えることが、こんなに素晴らしいなんて知らなかった」
実際、この一ヶ月で私の生活は大きく変わった。朝はゆっくりと起き、好きな本を読み、趣味に没頭する。友人とランチを楽しみ、夫婦で小旅行にも行った。息子のために貯めていた五百万円は、私たちの老後の楽しみのために使うことにした。
「来月、温泉旅行に行きましょう」
私の提案に、年男も嬉しそうに頷いた。
「いいな。ゆっくりしよう」
アルバムをしまう前、年男が言った。
「千佳子、お前は強い女だな」
「強い?」
「普通なら、息子に捨てられたら泣き崩れるだろう。でも、お前は」
「泣いても何も変わらないもの」私は静かに答えた。「それに、捨てられたんじゃないわ。お互いに解放されたのよ」
「解放か?」
「そう。息子は私から解放され、私も息子から解放された。ウィンウィンってやつね」
年男は苦笑した。
「お前らしい考え方だ」
窓の外を見ると、静かな夜の街並みが広がっている。どこかで、息子夫婦も夜を過ごしているのだろう。でも、もう私たちに接点はない。
「因果応報って言葉知ってる?」私は茶化すように言った。「人を軽んじれば、いずれ自分に帰ってくる。息子たちは、今それを学んでいるのかもしれないわね」
そして、私は全ての母親たちに伝えたいと思った。理不尽な扱いを受けたら、我慢する必要はないということを。自分を大切にしない人のために、自分を犠牲にする必要はないということを。私たちには、幸せになる権利があるのです。例えそれが、実の息子との絶縁という形であったとしても。
「さあ、明日も素敵な一日にしましょう」
私は満足げに微笑み、電気を消した。新しい人生は、まだ始まったばかりだ。



