49日の準備で遅くまで起きていた夜のことでした。夜10時ごろ、ぼんやりと窓の外を眺めていたその時、玄関のドアを低くノックする音が聞こえました。こんな時間に誰だろうと思いながら「どちら様ですか」と尋ねても返事はありません。ただ、またコン、コンと音がするだけでした。
近所の子供のいたずらかもしれないと思い、用心深くドアを開けた瞬間、私は心臓が止まるかと思いました。ドアの外には、死んだはずの娘、しおりが立っていたのです。
「お母さん、私よ、しおりだよ」
その声は、低く、重く、まるで墓の底から響いてくるかのようでした。私はその場にへなへなと座り込んでしまいました。その子は間違いなくしおりでした。しかし、その姿は私の知っている娘ではありませんでした。雨に濡れた髪は無造作に切られ、痩せた顔には骨が浮き出ていて、見すぼらしい服を着ていました。まるで棺桶から這い出してきた人のようでした。
信じられませんでした。私が自ら葬儀を行い、骨まで拾って見送った娘が、私を訪ねてきたのです。
あれは約50日前、一本の電話から始まりました。その日は朝から空がどんよりと曇っていました。黒い雲が低く垂れ込め、真っ昼間なのに薄暗く、なぜか心がざわつく一日でした。洗濯物を取り込む時も、しきりにしおりのことが思い出されました。結婚してから連絡は途絶えがちでしたが、こんなに長く音沙汰がないのは初めてでした。
午後になるとついに雨が激しく降り出しました。その時、電話のベルが鳴りました。知らない番号でしたが、なぜか出なければならないような不吉な予感がして、急いで電話に出ました。
「もしもし。鈴木しおりさんのお母様でいらっしゃいますか」
「はい、そうですが…どちら様でしょうか」
「警視庁新宿西警察署の佐藤健二警部です」
警察署という言葉を聞いた瞬間、心臓がどきりとしました。
「先週土曜日の未明、郊外の廃ビルで大きな火災が発生しました。消防が鎮火作業を終えた後、女性の遺体が一体発見されまして…。遺体の損傷が激しく、身元の確認に時間がかかりましたが、現場で発見された所持品とDNA鑑定により、本日、鈴木しおりさんと最終的に確認されました」
その瞬間、携帯電話が手から滑り落ちそうになりました。一週間しおりから連絡がなかった。その一週間、彼女はすでにこの世の人ではなかったのです。
病院に着いた時、足がガクガクと震えました。霊安室へ行くように言われ、地下へ降りると、あの日電話で話した佐藤警部が待っていました。司法解剖が終わり、遺体はひどく焼けているため、顔の確認はできないと医者から説明されました。身分証明書と所持品、そして99. 9%一致するというDNA鑑定の結果で、身元は確認済みだと言われました。
「いや、だめ…」
私の口から嗚咽が漏れました。これまで必死にこらえていた感情が爆発し、涙が溢れ出しました。その時、廊下の向こうから、夫のトオルが足を少し引きずりながら歩いてきました。黒いスーツをきちんと着こなしていましたが、その表情は意外なほど落ち着いていて、驚きました。妻を失った男にしては、あまりにも淡々としているように見えました。
「お母さん、本当に申し訳ありません。僕が…僕がしおりを守ってやれなくて」
彼はそう言って私の手を握りました。その手が、なぜか冷たく感じられました。
葬儀場での三日間は悪夢のようでした。火葬の日、私は骨壺を胸にしっかりと抱きしめました。私の娘がこの小さな壺の中に入っているなんて、実感が湧きませんでした。49日が終わったら納骨することにしました。今すぐしおりを送り出す心の準備ができていなかったのです。
家に帰り、リビングの一角に小さな祭壇を設け、その上に骨壺と遺影を置きました。トオルに、しおりはなぜあんな場所にいたのか尋ねると、彼はため息をついて「わかりません。あの日は仕事で疲れて夜早く寝てしまったのですが、朝起きたらしおりがいなくて…」と答えました。その説明はどこかぎこちなく、不自然でした。
唯一そばにいてくれるのはトオルだけでしたが、その彼でさえ、なぜか心に響きませんでした。妻の骨壺の前にもっととどまっていたくないかのように、トオルはすぐに帰ってしまいました。
そうして49日が過ぎていきました。49日を翌日に控えた夜も、小雨が降っていました。しおりが好きだった食べ物を準備しながら、ふと、初めてトオルを連れてきた日のことを思い出しました。去年の春のことでした。しおりが結婚したいと言って家に連れてきたのです。背が高くてハンサムでしたが、少し内気な性格のようでした。しおりがとても活発な方だったので、対照的に見えました。
「お母さん、トオルさんは本当にいい人なの。私にすごくよくしてくれるのよ」
しおりがあんなに幸せそうにしているので、結婚を許しました。結婚後、最初の数ヶ月はしおりからよく連絡がありましたが、次第に連絡が途絶え、声もどこか元気がありませんでした。心配はしていましたが、忙しいのだろうと思っていました。
結婚してから、トオルとの間にも何か距離ができたような気がしました。葬儀の時はたくさん手伝ってくれましたが、その後は連絡も疎らでした。おそらくトオルも辛いのだろうとは思いました。
そして、あの夜。ぼんやりと窓の外を見つめていたその時、玄関のドアをノックする音がしました。さっきトオルが少し立ち寄って挨拶して帰ったばかりだったので、言い残したことがあって戻ってきたのかと思いました。ドアを開けると、そこには死んだはずの娘、しおりが立っていたのです。
私は幽霊でも見たかのように驚きましたが、しおりに促されて家に入れ、ドアを閉めました。リビングの明かりの下でしおりをよく見ると、さらに驚かされました。髪の毛はばっさりと切られて男の子の頭のように短くなっており、綺麗だった顔はげっそりと痩せていました。あちこち破れた見すぼらしい服を着て、爪は汚れていました。子供の頃に転んでできた膝の傷、首の後ろのほくろ。全てが同じでした。
涙が溢れ出しました。喜びと戸惑いが一度に押し寄せてきたのです。
「お母さん、本当に会いたかった」
しおりが私の胸に抱きつきながら泣き崩れました。しかし、あまりに痩せているので、抱きしめている実感があまりありませんでした。以前のふっくらとしたしおりではなく、骨と皮だけが残っているようでした。
「しおり、一体何があったの? 」
しばらく泣いてから、私が最初に浮かんだ疑問を口にしました。それなら、私が火葬したのは誰なのか。骨壺の中にいるのは誰なのか。
「あれは別の人よ」としおりは答えました。「警察がDNA鑑定までしたというのに、どうしてそんなことがありえるの? 」
「お母さん、それは捏造されたものよ」
しおりは順を追って説明してくれると言いましたが、まず約束して欲しいと言いました。自分が生きていることを誰にも言わないで欲しい。特にトオルには絶対に言わないで欲しいと。
「お母さん、トオルは本当に恐ろしい人なの。あの人が私を殺そうとしたのよ」
その夜は、夜明けまで話が続きました。しおりが聞かせてくれた話は、想像を絶するほど恐ろしいものでした。
しおりの話は、去年の冬のバス停から始まりました。冷たい風が吹く夕方、しおりが両手をポケットの中で擦り合わせていると、一人の男が近づき、優しい声で話しかけてきました。「手がとても冷たそうですね」と。その男がトオルでした。何度かの偶然の出会いが重なり、三ヶ月後、彼はプロポーズしました。しおりはその優しさを愛と信じました。しかし、その全てが計画だったと、後になって知ることになります。
結婚後、数ヶ月は普通の夫婦のように見えました。しかし、トオルはある日突然、しおりに会社をやめるように言いました。最初は自分のためを思って言ってくれているのだと思いましたが、日を追うごとに何かが少しずつおかしくなっていきました。外出や連絡を制限され、電話一本かけるのにも彼の顔色を伺わなければなりませんでした。「お母さんと話す時は僕が隣にいるよ。最近、よく連絡を取り合っている人はいないよね」トオルの声は相変わらず優しかったですが、その中に監視の気配が漂っていました。スーパーに行くのも許可が必要になり、時間を正確に測られ、遅れるとレシートまで確認されました。
そんなある日の夜、これまで自分がしおりを苦しめすぎたと言って、久しぶりに夕食を用意すると言いました。しおりは、自分の過剰な束縛を反省しているのかと思い、驚きもしました。食卓にはスープと煮物、そしてしおりが好きな唐揚げ、そして水が置かれているのを見て、少し胸が熱くなりました。しおりがその水を飲んだ瞬間、体がしびれ、視界が揺らぎました。床に倒れ込む瞬間、歪む視界の先に、トオルの冷たく見下ろす顔が見えました。
目を覚ましたのは、窓のない地下室でした。湿気が壁を伝い、天井からは水がポタポタと滴り落ちていました。そこに現れたトオルは、さらに衝撃的な言葉を放ちました。
「君が死んでくれないと、僕がまともに生きられないんだ」
しおりは息が止まるようでした。体中の血が一瞬で抜けていくように、指先が凍りつきました。
「なんで…どうしてこんなことをするの?

」
トオルは地下室の中央に置かれた青いプラスチックの椅子に座ると、しばらく黙ってしおりを見つめていました。その眼差しは氷のように冷たく、以前の優しくて穏やかだった夫ではありませんでした。
「わかるだろ。通報でもしてみろ。お前の家族全員、俺が手を下さなくても消すことができる。一緒に働いている仲間が今もみんな監視している。俺がどこで何をしているか、誰と連絡を取っているか、全部報告が来るんだ」
その時、しおりはドアの隙間から漏れてくるトオルの声を聞きました。彼は誰かと電話中でした。「計画通り進めろ。時間はこっちで決める。証拠は綺麗に消せ。二度と戻ってこれないようにしろ」
そしてその夜、トオルがドアを開けて入ってきました。彼の手には小さな茶色の瓶と注射器が握られていました。「これで静かに暮らせる」彼の口角がすうっと上がりました。その瞬間、しおりは直感的に分かりました。この男は今、本当に自分を消そうとしているのだと。その瞬間、しおりは生きなければならないと決心しました。
彼が目を離した隙に、ベッドの下で見つけた錆びた鉄パイプをトオルの足に突き刺し、ドアをぶち破って階段を駆け上がり、割れた窓から身を投げて逃げました。外は真っ暗でした。逃げるうちに雨も降り出し、トオルは足を引きずりながら追いかけてきました。しおりは急いで避けようとして悲鳴を上げ、片方の靴が崖の下へ転がり落ちました。幸いにもしおりは落ちず、大きな岩の影に隠れました。トオルはしおりがそのまま落ちて死んだと思ったのか、しばらく崖の下を見下ろした後、引き返していきました。
しおりは夜明け方まで走り続けました。携帯電話もお金も身分証明書もなく、全身泥と引っかき傷だらけでした。彼女の頭の中には、トオルの最後の警告がまだ響いていました。「通報したら、お前の義母と家族全員殺す」
山の下の村に降りてきましたが、早朝で人影はまばらでした。しおりは廃墟のような古い廃屋を見つけ、身を隠しました。数日間、彼女は村から村へと渡り歩きました。壊れたバスや橋の下、廃墟に見える倉庫の中で眠り、道端のコンビニのゴミ箱から捨てられたパンやおにぎりを取り出して空腹をしのぎました。
そうして数日を耐え忍んでいたある日、コンビニの前に置かれたテレビからニュース速報が流れました。画面には炎が燃え盛る住宅が映し出されました。「未明に発生した火災で、家の中にいた二十代の女性一名が死亡したものと見られています。現場にあった所持品は鈴木しおりさんのものと確認されており、現在DNA鑑定が進められています」画面の中では、夫の高橋トオルさんが悲しみに満ちたインタビューを受けていました。
「私が死んだことになっているの…そしてあなたは、世界で一番悲しい夫のふりをしているのね」
しおりの目には、裏切りと怒りが混じった熱い涙が浮かびました。これまで自分に優しく接してきた笑顔、手つき、言葉遣い。その全てが演技だったと気づくと、歯が震え、息が詰まりました。今頃、母が自分の葬儀の準備をしながら毎日泣いていることを思うと、すぐにでも駆けつけたい気持ちになりました。しかし、頭を激しく振りました。私が現れた瞬間、トオルが母を消すかもしれない。
それからしおりはさらに用心深くなりました。葬儀期間が終わっても、母の周りを遠くから見守るだけでした。路地の影で、商店の入り口で、教会の向かい側で、しおりは影のように隠れ、母の日常を伺いました。トオルが周りに現れないか、誰かが監視していないか。夜になると母の家の近くへこっそり行き、電柱の影に隠れ、窓の明かりだけを見つめました。その家の周りには見慣れない車がよく止まっており、黒いジャンパー姿の男たちが近くをうろついていたからです。
そうして49日が近づいていました。49日を翌日に控えた夜も、夏の雨が静かに降っていました。しおりが見守る中、トオルが車で現れ、白い菊の花束を持って母の家を訪ねました。「お母さん、しばらくでした。しおりが本当に恋しいです」低く響く声には深い悲しみが滲み、目元は今にも涙がこぼれそうにきらめいていました。しかし、その表情はまるで鏡に描かれたかのように、どこか不自然な気配が漂っていました。
トオルが帰るのを確認し、しおりは拳を固く握りました。そして、まっすぐ家に向かい、ドアをノックしたのです。
「もう、あの人に止められないわ。これから私の言うことをよく聞いて。私たちが一緒にやらなければならないことがあるの」
翌朝、しおりを家の中に隠し、私は病院へ向かいました。葬儀が執り行われた、まさにその病院でした。受付で死亡診断書と記録の確認を依頼しました。死因は「焼死による多臓器不全」と書かれていました。医師の署名欄を見た瞬間、私は驚きました。あの時、火葬を強く勧めた田中実医長の名前がありました。職員に尋ねると、「ああ、そういえば田中課長がその時、ご主人と個人的な知り合いだとおっしゃって、特別に気を配ると言っていました」というのです。
その瞬間、全身に鳥肌が立ちました。トオルと田中課長が知り合いだったなんて。それなら、全てが計画されたことだったのかもしれない。病院を出た後、警察署を訪れ、当時事件を担当していた佐藤警部に会いました。遺体の指紋は「焼損のため採取不能」という赤いスタンプが押されていました。DNA鑑定以外に身元を確認する方法が全くなかったのです。
翌朝、私は保険会社へ向かいました。ここで最も衝撃的な事実を発見することになりました。しおり名義の生命保険は結婚二ヶ月後に加入され、受け取り人は全面的にトオルになっていました。保険金額は一億円という巨額でした。さらに驚くべきは処理の速さでした。死亡診断書が提出されてからわずか三日で、巨額の保険金がトオルの口座に振り込まれていたのです。
家に帰ると、しおりが台所で静かにお茶を入れていました。私はトオルが死亡保険金を受け取った事実を話しました。
「最後までやりましょう。あの人がどうにかして罰を受けるようにしなければ」
しおりはしばらく私の目を見つめた後、頷きました。その表情には恐怖と決意が同時に宿っていました。
数日後、しおりと共に遠くからトオルの家を見守りました。家の前に高級な外車が止まっていました。葬儀の時にはなかった車です。そこから出てくるトオルは、高価なスーツにブランドの腕時計まで着けていました。妻を亡くして悲しんでいる人の姿ではありませんでした。友人たちと高級レストランで頻繁に会合を設け、新しい事業の話も活発にしていました。「これで自由のみだ。これまで本当に息が詰まりそうだったからな。今回は投資資金もできたし、でかいことを一つやってみるか」
しおりの顔が青ざめました。「やっぱり最初からそれが目的だったんだわ」
しかし、単なる疑いだけでは何もできません。確かな証拠が必要でした。しおりと私は作戦を立て始めました。その時でした。古いチャイムがピンポンとなりました。トオルが突然訪ねてきたのです。しおりは反射的に隠れ場所を探し、私は寝室のクローゼットの中を指し示しました。トオルは気まずそうに笑いながら家の中に入ってきましたが、その眼差しのどこかが不気味でした。「これから少し忙しくなりそうですので、あまり頻繁にお伺いできなくなりそうなので、先にご挨拶にと思いまして」彼はリビングを見回し、まるで何かを探しているかのようでした。帰った後、トオルは路地の角でしばらく立ち止まり、再びこちらをちらりと振り返るのが見えました。もしかしたら、しおりが家に来ているのではないかと探りに来たのかもしれません。
これは危険だと感じ、しおりを誰も知らない場所に移すことにしました。村の外れにある、私の祖母が生前に建てて暮らしていた古い家です。十年以上空き家になっていましたが、私が時々手入れをして最低限の形を保っていました。しおりをそこに隠し、私は東京へ戻り、私立探偵事務所を訪ねました。
一週間後、探偵から電話がありました。「でかいのを掴みました。今すぐ来られますか? 」
事務所に着くと、探偵は分厚いファイルを差し出しました。高橋トオルという人物は、過去にも同様の手口で巨額の保険金を手にしていた前科がありました。2015年に交際相手が転落死し、二千万円の保険金を受け取っていました。2018年には別の女性と結婚しましたが、その女性がガス爆発事故で死亡。この時は三千万円でした。そして、さらなる衝撃的な事実が判明しました。トオルは元暴力団員で、九十年代後半に強盗、暴行、詐欺の容疑で指名手配され、八年間刑務所にいました。名前を変えて、身分を洗浄していたのです。探偵はさらに、田中実医長との関係についても調べていました。二人は先輩後輩の関係で、これまで三件の保険金詐欺を共謀していたのです。遺体のすり替えは今回が初めてではありませんでした。
これだけあれば警察は動いてくれますか? 「十分です。しかし、もっと確実な証拠があれば良い。現行犯で捕まえるか、自白を引き出すか」
探偵の報告書の中に、トオルが毎週水曜日の夜に足を運ぶ場所が記されていました。「青龍会館」という違法賭博場でした。しおりも「結婚前も結婚してからも、毎週水曜の夜は必ずいなくなったわ」と証言しました。
私はトオルのアパートに盗聴器を仕掛けることにしました。しおりが書いてくれた暗証番号でドアを開け、リビングと寝室に小型の録音機を設置しました。そして、その夜、トオルが青龍会館へ向かうのを確認し、車の中から監視しました。深夜、自宅に帰ったトオルが誰かと電話を始めた時、仕掛けておいた録音機が作動しました。
「今回の検査を終われば、保険金は全部俺の取り分だ。死体のすり替え? そんなのもう終わったことだよ。誰が何と言おうと、証拠がなきゃどうしようもないだろう」「田中課長も口を閉ざしているし、一億円あればかなり長く遊べる。今日、青龍会館で兄貴たちが言ってたけど、次のターゲットも目星をつけてるらしい」
私はぞっとしました。トオルはまた別の女性を狙っていたのです。私はしおりにメッセージを送りました。「決定的な証拠を確保した。もう警察に通報しよう」
翌朝早く、しおりを迎えに行き、一緒に警察署へ向かいました。佐藤警部に全てを話し、録音ファイルを聞かせると、警部の表情は完全に変わりました。「これは完全な自白ですね」トオルに対する逮捕状請求と同時に、田中実医長に対する捜査も始まりました。
その日の午後、トオルは会社で逮捕されました。最初は全ての容疑を否認しましたが、しおりが警察署に現れると、彼の顔は真っ青に変わりました。
「ど…どうして生きているんだ」
「あなたが私を殺そうとしたけど、失敗したのよ」
録音ファイルが再生されると、トオルは完全に崩れ落ちました。自分の声で全ての犯罪を自白している証拠の前では、もはや否定することもできませんでした。田中実医長も同日逮捕され、病院でDNA鑑定結果を捏造し、虚偽の診断書を作成した容疑がかけられました。
捜査の過程で、さらに衝撃的な事実が明らかになりました。トオルと田中実医長は、過去十年間で合計五件の保険金詐欺を働いていたのです。全て女性を標的にした犯罪でした。被害者たちは皆、身寄りがなかったり、家族が少なかったりする女性たちでした。数日後、火災現場で発見された遺体の身元も判明しました。三ヶ月前に失踪届が出されていた三十代の女性で、家族もなく一人で暮らしていた方でした。名前は「えみ」といいました。
トオルは一審で無期懲役を言い渡されました。田中実医長は共謀の罪で懲役十年を受けました。裁判の過程で、トオルは一度も心からの謝罪をしませんでした。保険会社は不正に支払われた保険金の返還を要求し、トオルの全財産が差し押さえられました。彼が保険金で買った外車やブランド品、そして投資した金も全て回収され、その一部は被害者家族への賠償金として支払われました。
裁判が全て終わり、半年が経ちました。しおりと私は名前を変え、東京郊外の小さな村へ引っ越しました。二階建ての小さな一軒家で、前庭には小さな家庭菜園があり、裏庭には柿の木が一本立っていました。しおりは「ゆう」という新しい名前を、私は鈴木けい子となりました。新しい身分で、新しい人生を始めるのです。
しかし、心の傷まで簡単に癒えるわけではありませんでした。ゆうは最初の数ヶ月、ひどい悪夢にうなされました。夜になると地下室に閉じ込められていた記憶が蘇り、冷や汗をかいて目を覚ますことがよくありました。「お母さん、またあの夢を見たの」二十八歳の大人の女性でしたが、その瞬間だけは怖がる子供のようでした。私はゆうをしっかりと抱きしめ、背中をさすってやりました。「大丈夫。もう過ぎたことよ。トオルはもう刑務所にいるから」
ゆうには専門的な治療が必要でした。村から車で三十分のところに良い精神科があり、ゆうは週に二回通い、カウンセリングと薬物治療を併用しました。私も一緒に家族カウンセリングを受けました。実は私も、あの恐ろしい49日間、娘を失ったと思い込み経験したトラウマがあったのです。治療を受けながら、ゆうは次第に明るくなっていきました。最初は家の外に出ることさえ怖がっていましたが、数ヶ月後には一人でスーパーへ買い物に行けるほどになりました。
私たちは一緒に小さな家庭菜園を始めました。土に触れ、植物を育てることが心の癒しになると医者が勧めてくれたのです。一年が過ぎ、私たちは村で小さな花屋を開きました。ゆうが子供の頃から花が好きだったことを思い出し、私が提案したのです。花屋の名前は「二度目の春」と名付けました。死から蘇った二度目の人生、新しい始まりという意味です。ゆうはフラワーアレンジメントに才能があり、お客さんが注文した花束を作るたびに「わあ、こんなに綺麗な花束は初めてです」と歓声が上がりました。
花屋の一角には小さな祭壇を設けました。火災で無念の死を遂げた、あの方のための場所でした。名前も知らないその方ですが、毎日花を変え、お茶を備えました。
「お母さん、あの方も天国で私たちが元気にしているのを見て喜んでくれるかな?
」
「ええ、きっとそうよ。あの方のおかげで、私たちは真実を知ることができたのだから」
遠くの県に、えみさんのおばさんが一人いました。長い間連絡を絶っていたそうですが、そのおばさんが私たちの花屋を訪ねてきた日がありました。「本当にありがとうございます。うちのえみのために、こんな目に遭われたのに」「いいえ。むしろ私たちが申し訳ありません。えみさんのおかげで、私たちは助かったのですから」
おばさんと一緒に、えみさんのためのささやかな追悼式を行いました。ゆうが自ら花を生け、祭壇を飾りました。その日以来、祭壇の前にはえみさんの写真も置きました。笑っている明るい顔の若い女性でした。「えみお姉さん、ありがとう。お姉さんのおかげで、私たちは新しい人生を歩むことができるようになりました」ゆうは毎朝、えみさんに挨拶をしました。
二年が過ぎたある春の日、ゆうが言いました。「お母さん、今、本当に生きているって実感する。菜園に植えたじゃがいもの花が白く咲いて、花屋の前の花壇にはバラが赤く咲いてる。平凡だけれど、かけがえのない日常だね」「ええ、私たちは今、本当に生きているのよ」
夕暮れ時、私たちは柿の木の下の縁台に座ってお茶を飲みました。日が沈み、空が赤く染まっていました。
「お母さん、本当にありがとう。最後まで諦めずに真実を明らかにしてくれて」
「何を言っているの? 娘を持つ母親なら、誰だってそうしたわ」
「でも、もしお母さんが諦めていたら、あの人たちは傷つけ続けていたはずよ」
遠くで村の子供たちが駆け回る声が聞こえました。平凡でさやかな日常の音でした。私たちの二度目の人生は、こうして平凡だけれどかけがえのない日常で満たされていきました。トラウマは完全には消えませんでしたが、今ではそれを乗り越える力がつきました。お互いがいるだけで、十分でした。
花屋のドアにかけられた小さな看板には、今もその言葉が書かれています。「二度目の春 新しい始まりを応援します」


