手首を掴まれた瞬間、全身の毛が逆立った。
「いたっ、何すんのよ!」
慌てて振り返ると、柄の悪い男が二人、ニヤニヤしながら立っている。私は急いでいた。仕事はツ骨様のミスで謝罪に行かされ、先輩のミスで書類を一から作り直し、終わったのは夜の八時。それなのに竜太に電話しても出ない。やっと繋がったと思ったら「今行けない」の一言でガチャ切りされた。いつもなら三分以内に飛んでくるくせに。
とにかく早く家に帰りたかった。冷蔵庫で冷やしておいた塩バニラ味の貫中杯を飲みながら、ゆっくり風呂に入りたかった。それに我が家には門限があって、夜九時を過ぎるとかなり厄介なことになる。桃貝を突っ切れば駅まで最短で行ける。桃貝とは、この地域でいわゆるホテル街を指す隠語だ。治安が悪くて、酔っ払いのおじさんでも一人で通りたくないような場所。でも、今はそんなことを言っている場合じゃなかった。私は早歩きで、廃れたネオンの看板をくぐった。
「急いで歩いてちゃ人生するぜ」
「違いじゃありませんか。急いでるんで失礼します」
そう言って離れようとしたのに、男が執拗に絡んでくる。
「姉ちゃん、仕事か?」
「違うわよ。家に帰りたいのよ」
言った瞬間、しまったと思った。こいつらの言う「仕事」は、桃貝での仕事のことだ。つまり私は「普通の人」だとバレてしまった。
「じゃあ暇なんだよね。俺らと遊ばねえか」
「結構です」
門限まであと十五分もない。早く人通りのある地下道に入りたかった。
「俺らが暇なんだよ。姉ちゃんいい体してんじゃねえか。一緒に遊ぼうよ。三人でも遊べる場所が最近できたって言うからさ」
「楽しもうぜ。絶対喜ばせてやるからさ」
「うぜえ」
私は掴まれた手を振りほどき、回し蹴りをお見舞いした。男の顎に入って、その場にうずくまる。ああ、竜太がくれたブランドのスニーカーで蹴り入れちゃった。つい先日「もらってあげると言って」受け取ったばかりなのに。少し後悔したが、それどころじゃない。もう一人の男が「おい、こじ大丈夫かよ」と仲間を介抱し始めた隙に、私は走って逃げた。しかし、二人がかりの連携に、すぐに捕まってしまう。
「おい姉ちゃん、性格いいね。息のいい女とはやりがいありそうだな」
「ちょうど目の前が入り口だから入っちまおうぜ。ここはおさんの持ち物だから、フロントに大和組って言えばカオパスらしいぜ」
「その前に俺、我慢できねえ。少し服の中拝ませてくれ」
一人が私の服をまくり上げようとする。
「ちょ、ちょっとやめてよ。そんなことより、あなたたち大和組って言ったわね」
「おお、姉ちゃん知ってんのか?」
「そりゃこの土地で暮らしてるんだから、大和組の名前を覚えるのは常識でしょ。この界隈で勢力を持っているヤザって教えられたわ」
男たちは笑った。私は手を上げた。
「なあ、私がどんなに抵抗したって、あなたたちは仲間を呼んでさらに私を抑え込むんでしょ? どっち道やられちゃうんだから、二人を相手にした方がマシね」
「じゃあ話分かってんじゃねえか。じゃあ入ろうぜ」
「ねえ、私、そういうところでするの、なんとなく不衛生な感じがして嫌なんだよね。私、いつもうちでって決めてるの」
「うちに来ない? いっぱい気持ちいいことできるよ」
「なんだよお前。男二人でもいいのかよ。変態だな」
「おおじにやるのはじゃんけんだからな」
「がっついちゃって子供みたい」
私はにっこり笑いながら、心の中で「バカと悪体をついていた」とつぶやいた。二人の男は期待に顔をほころばせている。私は深く後悔した。「締め上げてやる」と「痛めつけてあげる」を間違えて言ってしまった。でも、誤解してもらっている方が都合がいい。私は「絶対家の中じゃ服を脱がない」と念押しして、二人を連れて桃貝を抜け、明るい駅の地下道に入った。この辺りは人通りが多いので、こいつらも手出しできない。
「私の家、北口を出てすぐのところだから」
「北口って随分物騒なところに住んでるんだな」
「桃よりはマシよ。それに住めば都って言うじゃない」
私は時計を見た。八時五十四分。門限ギリギリだ。北口を出て、人が少ない寂しい通りに入った瞬間、私は少し低い声で釘を刺した。
「いいか、あんたら、逃げないでよ」
「逃げはしないさ。やれるもんならやってみろ」
「大和組のお二人は、この家の中でできるのかしらね」
私は玄関のカードキーをかざし、暗証番号を打ち込んだ。
「もう逃げられないからね」
私がそう言った時、二人の男は固まっていた。
「て、てめえ、何なんだよ。何者なんだよ」
「私のうちよ。文句ある?」
その瞬間、数人の男性が玄関から走って私のところへやってきた。
「お嬢さん、お帰りなさいませ」
「おそり太えにも来ないで、なんで家にいるのよ」
「すみません、お嬢さん。こんなことになっちまって」
竜太がギプスで固められた左腕を見せる。
「ちょ、り太、何したのよ」
「いや、高想とかじゃなくて、仕事中に屋根から落ちまして、ついさっきまで病院にいたんですよ」
「何よそれ。かっこ悪いわね」
「すんません。お迎えに行けなくて」
私と竜太が話している間、私についてきた男たちは竜太と一緒にやってきた男たちに抑え込まれていた。
「てことは、パパはもう知ってるのね」
私がそう言うと、竜太は困ったように頷いた。
「おい、何なんだよお前。騙したのかよ」
私に対して怒鳴る男に、竜太が蹴りを入れた。
「うちの目に向かって何言ってやがる?」
「は、はい」
「飛んで火に入る夏の虫って言うけど、本当にあるのね。あなたたち、ここがどこだか分かってる?」
二人はすでに分かっていた。震え上がっている。
「分かってるような表情してるわね。ほら、そこの僕、ここがどこか言ってみなさいよ」
「と、とど東田東大臣組の組事務所……大和組の組事務所です。敬語は使えよ」
直立不動で叫ぶ男を見て、私は確信した。こいつは下っぱヤザだ。私は東大寺組の次期組長として修行中の身。父は組長で、竜太は若頭。ずっと私の護衛をしてくれている。
「ていうか、親父さん激怒してませ」
竜太の言葉に、私はため息をついた。私は幼い頃から父の監視対象だ。大切な娘だから、何かあってからでは遅いという理由で。学生の頃は他の組からの誘拐を恐れて、常時誰かがついていた。今回は竜太が迎えに行けないと分かった時点で、父がGPSと隠しマイクで私の位置を確認し、同調していたらしい。
「勘違いさせるようなこと、お嬢さん結構言ってましたね」
「ちょっとりうたんも聞いてたの?」
「あの……聞くつもりはなかったんですが、病院から帰って親父さんに報告に行った時に……」
竜太は顔を真っ赤にして私を見た。「締め上げる」の言い間違いとか「家の中で服を脱ぐから」とか、その辺りの発言を聞いてしまったようだ。
「そんなんで顔しないでよ。こっちが恥ずかしくなるでしょ。それに竜太の周りに女なんて五万といるんでしょう」
「いえ、俺は入門寺からずっとお嬢さん一筋です。お伝えしていましたので、ずっとお守りすることができました」
「え、まっすぐの目でそんなこと言われたら……」
「お嬢さんにそんな恥ずかしいこと言わせてしまうお前らが許せねえ。迎えに行けず危険な目に合わせてしまった俺自身も許せねえ」
竜太が男たちに殴りかかろうとしたので、私は全力で止めに入った。なんとか二人のヤザをボコボコにするのだけは阻止した。
「ということで、あなたたちにはこれからお仕置きが始まるわね。大和組には制裁が入るでしょうね」
「あの、その……命だけはなんとか……」
「うちの組はね、人を殺めたりはしないわ。その代わり、まあ、それに見合ったことをしてもらうから」
「それに見合ったこと?」
「あんたら、覚悟を決めて極道に入ったんでしょ? 大和組もあんたたちをうちの組が人質に取ったって知っても、カエルの尻尾切りで痛くも痒くもないでしょうね」
その時、部屋の扉が勢いよく開けられ、父、東大寺ご造が登場した。竜太を始め、若い衆たちが深くお辞儀をする。父の右手には、しっかりと磨かれた日本刀が握られている。
「お前らか、俺の可愛い娘を手ごめにしようとしたのは」
恐ろしい鬼のような形相に、二人の男は何かを悟ったようだった。
「パパ、大丈夫よ。ミだからね。逆にこの人たち、私の回し蹴り食らってる被害者だから」
「さすがなゆただ。武術を教え込んでおいてよかったよ」
「そのせいで向こうもらい手がつかないんですけどね」
「親父さん、俺がなヨ田さんの片腕となって東大寺組を支えます。お嬢さんを俺にください」
私は目をまんまるくして竜太を見た。
「ちょっとり太、あんた空気読めよ。今そんなことを話し合う時間じゃないわよね」
ギラギラ光る日本刀に震え上がるよそ者の下っぱヤザ。そして娘が一番大事なヤザの組長とその娘。丸越の娘がホテルに連れ込まれそうになり、逆上している父は、竜太の唐突なプロポーズなんてもちろん聞いていない。それに、ギプスで固定された腕で私を支えるって。そんなの百万年早いわよ。
「あんた、そのギプスの腕で私を支えるって? そんなの百万年早いわよ」
しかし、私自身も顔が赤くなるほど照れていたので、憎まれ口としては響かない。
「いや、ツンデかお嬢さんのそういうところが好きなんですよ」
私は恥ずかしくなってその場にうずくまってしまった。それを見逃さない父は、震え上がるヤザ二人が怯えていると思ったらしい。
「なあ、お前ら、海と海外、どっちがいい?」
「海と海外?」
「おおよ。お前らには馬のように働いてもらうぞ。簡単に殺めたりはしねえから安心しな。最も多くの虫ケラどもが飛び込んじまったり、飛び降りちまったりしたらしいけどな」
「海と海外……」
二人が同じことを繰り返した時、私は補足説明をした。
「漁業の漁船の乗り組み員か、海外なら発展途上国のあれの開拓か、もしくはそうね、日本の業者が船便で送ってきた古い自動車や金属機械の仕分けとか。もちろん引き受けてくれるのは国外の業者だから、労働に関する法律なんて無視よ。それにあんたたちに落とし前をつけるために働かせるんだから、もちろんただ働きだからね」
「大和組の組長にはすでに話はつけてやる。あいつは俺の射程だからな。俺に逆らったらどうなるか知っている」
父は不気味な笑みを浮かべ、物騒な光を放つ刀先を二人の目の前に突き出した。二人は声にならない声を上げると、東大寺組の構成員たちの手によって外へ連れて行かれてしまった。部屋の中には父と私と竜太の三人だけが残った。
「そのスニーカーやっぱりお嬢さんにったんだな」
「いつものパンプスのかかとが折れたから仕方なく履いてやったのよ」
「あの、さっきの告白なんですけど……」
「だから空気読めって言ってるの。なんで私が竜太がくれたスニーカーを履いているか、少しは気づきなさいよ」
「あ、あの……」
「誕生日だから受け取ってあげたこのバッグも、ピアスも、お財布忘れたって言って竜太に買わせた口紅だって、全部竜太がくれたものだから使ってあげてるんでしょ」
「なゆた、お前随分ひねくれてるな。そんなにひねくれたことばっかり言ってると、向こうが来なくなるぞ」
「だから俺がお嬢さんをお引き受けします。こんなひねくれた嬢を扱えるのは俺しかいません」
「り太、あんた随分上から物を言ってくれているわね」
父が右手に持っていた日本刀を構え直そうとする。
「り太、お前よくも娘を……」
「パパ、ストップ、ストップ。竜太は一応怪我人だからね。あの、その……私も竜太が東大寺組を背負ってくれたら言うことないわ」
「なゆた、本当にこいつでいいのか?」
「この人逃したらパパの台で東大寺組はおしまいよ。それにパパや私が竜太を手放したら、もう絶対それ以上の人見つからないからね」
父は黙ったまま竜太と握手を交わした。ただ、右手には日本刀が握られたままだ。
「だから、私が電話をしたら三分以内に迎えに来ること。元を言えば、私が塩バニラ味の貫中杯を飲みたいから早く帰りたかったのに、迎えに来れないって言い出したあんたが悪いんだからね」
なんか変な始まり方だったけど、これでいいことにしよう。あの時私に絡んだ二人の男は、今、海外のマンション建築現場で働かされている。日本の建築現場とは訳が違うのでなかなか慣れないという報告が来た。これが終われば海外のとある貿易会社で日本から運ばれてくる中古車の流通に携わるようだ。その後は山で鉱物採掘と、スケジュールはびっしり。逃げ出そうと思えば逃げ出せるはずなのに、ものすごく真面目に働いているようだ。
時は流れ、来月は私の結婚式だ。数年後には私の組長継承の予定だ。それまで奥産修行よりも組長修行に専念すると決めた。竜太に背中を押してもらいながら、頑張ります。



