夕食の席で、私は夫に穏やかな声で言った。「ねえ、さっき市役所に行って、あなたが大切に持っていた婚姻届、提出してきたわよ。」 その瞬間、25年間私を都合のいい女だと思っていた夫の顔が凍りついた。彼はまだ気づいていない。私はあの黒い手帳の中に、記入済みの離婚届と、若い女とそっくりな男の子が写った写真を見つけてしまったことを。そして、彼が築き上げた人生を根底から覆す、ある決意を固めたことを。…

夕食の席で、私は夫に穏やかな声で言った。「ねえ、さっき市役所に行って、あなたが大切に持っていた婚姻届、提出してきたわよ。」 その瞬間、25年間私を都合のいい女だと思っていた夫の顔が凍りついた。彼はまだ気づいていない。私はあの黒い手帳の中に、記入済みの離婚届と、若い女とそっくりな男の子が写った写真を見つけてしまったことを。そして、彼が築き上げた人生を根底から覆す、ある決意を固めたことを。...

夕食の並んだリビングで、私はできるだけ穏やかな声を装った。 「ねえ、あなた。さっき市役所に行って、あなたが大切に持っていた婚姻届、提出してきたわよ。」 その瞬間、箸を動かしていた夫・拓也の手がぴたりと止まり、部屋の空気が凍りついた。 彼は信じられないといった表情で私を見つめる。その目には驚きと、どこか私を馬鹿にしたような冷たい光が混じっていた。 そう、拓也はこの25年間、私を自分の言いなりになる従順な女だと思い込んできたのだ。 でも彼はまだ気づいていない。私が見つけたのはただの離婚届だけではないということに。 あの書類一枚が、彼が築き上げてきた輝かしい人生を根底から覆す引き金になるということに。 私はにっこりと微笑んだ。これほど心からの笑顔になれたのは、一体いつ以来だろう。 私たちの結婚生活は、外から見れば円満そのものだった。大手メーカーで部長を務める拓也は、高収入で家柄もよく、近所でも評判の紳士だった。 私はそんな彼を支える専業主婦として、25年間脇目も振らずに尽くしてきたつもりだ。 毎日栄養バランスを考えた食事を作り、Yシャツには一点の曇りもなくアイロンをかけ、義両親の介護も文句一つ言わずに引き受けた。 それが妻としての幸せであり、誇りだと思っていたから。 しかし最近の拓也は明らかに様子がおかしかった。 急に見栄っ張りなほど身だしなみに気を使い始め、高級な香水を身にまとうようになった。 残業や出張だと嘘をついて帰宅が遅くなる夜が増え、私と目を合わせることすら避けるようになったのだ。 女の勘というほど鋭いものではなくても、何かが決定的に壊れ始めていることは肌で感じていた。 そして今朝、運命の歯車が音を立てて回り出した。 拓也が慌てて出勤した後、リビングのソファの隙間に一冊の黒い革の手帳が落ちているのを見つけた。 それは拓也が肌身離さず持ち歩いている、お気に入りの大切な手帳だった。 いつもなら勝手に見るなんて無作法なことはしないけれど、その日はなぜか吸い寄せられるように手が伸びた。 幸いなことに鍵はかかっていなかった。急いでいたのか、締め忘れたのだろう。 震える手でその表紙をめくった瞬間、私の心臓は止まりそうになった。 そこには私の知らない拓也の世界が広がっていたのだ。 手帳のポケットに差し込まれていたのは数枚の写真。 そこには20代半ばと思われる若い女性と満面の笑みを浮かべる拓也。そして2人の間に座る3歳くらいの小さな男の子が映っていた。 遊園地の前で幸せそうに寄り添う3人の姿。その男の子の顔は、若い頃の拓也に驚くほど似ていた。 それだけではない。写真の裏には信じられないほど生々しい日付と愛の言葉が綴られていた。 そしてその奥から出てきたのが、記入済みの離婚届だった。 夫の欄にはすでに拓也の署名と押印があり、あとは私の名前を書くだけの状態になっていたのだ。 頭が真っ白になった。25年間私が信じてきた生活は何だったのか。 私が尽くしてきた時間は全て、この偽りの幸せのための踏み台だったのか。 怒りよりも先に、深い奈落に突き落とされたような絶望が襲ってきた。 だがその絶望は数分後、冷鉄な決意へと変わった。 この男は私を捨てて、この若い女と子供と一緒に新しい人生を始めるつもりなのだ。 「あなたには何の権利があるの?弁護士でも立てるつもりか?」 拓也が遂に口を開いた。その声は震えているが、まだ私を下に見ている。 私の中の悲しみは、透明な殺意にも似た静かな怒りへと変わっていった。 私は何も言わず、ゆっくりと立ち上がった。そして、あの黒い手帳と離婚届をテーブルの上に置いた。 拓也の顔色が一瞬で青ざめる。 「シズさん、私にそのファイルを預けていただけますか?」 私は彼の言葉を遮り、冷たい声で言い放った。 「いいえ。ここからどう出すかは、私が決めるわ。」 その瞬間、これまで従順だった妻の目が、初めて彼を射抜くように見つめた。

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