「200人分キャンセル」――その言葉を聞いた瞬間、私はすべてを悟った。ああ、これは潰しに来ている。父から受け継いだ旅館を、元夫のケ太が潰そうとしている。
父は体調を崩し、入退院を繰り返していた。私はその後を継いだ。経営の経験はなかったが、学生時代に学んだ知識と、幼い頃から旅館で育った感覚が私を支えてくれた。
そんなある日、一本の電話が鳴った。相手は元夫のケ太だった。
「社員旅行でお前んとこ使ってやるよ。どうせ儲かってないんだろ」
上から目線の物言いに違和感を覚えつつも、私は冷静に対応した。
「ご予約承ります。詳細をメールでお願いします」
届いたのは200人分の大口予約。準備は大変だったが、父の旅館を信じて万全を期した。
だが当日、誰一人来なかった。電話をかけると、聞こえてきたのはあの声。
「200人分キャンセル。もっといい宿見つけたんだよ。どうせ潰れるんだし、関係ねえだろ」
嘲笑う声が聞こえた。だが私はぶれなかった。
「お客様の都合によるキャンセルの場合、宿泊費の2000万円の返金には応じられません」
一瞬で電話の向こうから笑いが消えた。
ケ太は知らなかった。私がただの元妻ではないということを。
私の名前は須藤愛子。大学を卒業後、大手建設会社・金田建設に就職した。仕事は充実していて、社長秘書として自分の能力を発揮できる環境に恵まれていた。
金田人社長は古き良き時代の経営者で、現実的な経営方針と誠実な人柄で多くの取引先から熱い信頼を得ていた。
「須藤さん、この資料は非常によくまとまっているね。さすが優秀な人材は違うよ」
社長からの評価は私の自信となり、日々の業務にも一層力が入る。
そんな中、社長の息子であるケ太と出会うことになる。ケ太は大学時代からプレイボーイの噂があったが、私の前では常に紳士的な振る舞いを見せてくれた。
「愛子さん、今度の休みに食事でもどうですか?」
ケ太からの誘いに最初は戸惑ったものの、その紳士的な態度に心を開いていった。
2年間の交際を経て、私たちは結婚することになる。結婚式は業界関係者も多数出席する盛大なものとなり、地元メディアにも取り上げられるほどだった。
「これで家も会社も安泰だ。愛子さんをしっかり大事にするんだぞ」
義父は私たちの結婚を心から歓迎してくれた。
一方、父は複雑な表情を浮かべていた。
「愛子、お前の幸せが一番だ。だが須藤家のことも時々思い出してくれよ」
死旅館・須藤家の後継者である私が家を離れることに、父は一人娘の幸せを喜びつつも、家業の行く末に不安を抱いていたのだ。
結婚後、私は専業主婦となりケ太を支える道を選ぶ。新しい生活に胸を膨らませながら、それでも仕事への未練を完全に断ち切れない自分がいることも事実だった。
人生の新たな章がそうして始まった。
しかし順調な人生はそう長くは続かない。義父が突然亡くなってしまったのだ。
突然の訃報は私たちの生活を一変させた。葬儀には多くの取引先や従業員が参列し、業界関係者で埋め尽くされた会場は義父の人望の厚さを物語っていた。
ケ太は壇上で涙を流しながら力強く誓いの言葉を述べた。
「父が築いた会社を守り、さらに発展させることをここに誓います。どうか皆様、これからも金田建設をよろしくお願いいたします」
その姿に私は感動し、これからは夫を全力で支えようと決意する。
しかしケ太が社長を継いだ途端、会社の雰囲気が変わり始めた。経営状況も急激に悪化の兆しを見せ始めたのだ。
ケ太は社長就任後わずか1ヶ月で、社内の幹部社員を次々と左遷し始めた。
「古い体質を変えなきゃ会社は成長しない。俺のやり方で会社を新しくするんだ」
彼の言葉とは裏腹に、左遷された社員たちは次々と退職していく。30年以上勤続していた総務部長や、義父の片腕だった専務までもが会社を去っていった。
代わりに抜擢されたのはケ太の学生時代からの友人たちだった。専門知識も経験もない彼らが重要ポストに就くことで、社内の雰囲気は日に日に悪化していった。
ベテランの栗山さんもその影響を受けた一人だった。栗山さんは義父の時代から務めていた優秀な設計士で、社内外から信頼されていた人物である。義父は栗山さんのことを「金田建設の宝」と呼び、大切にしていたと聞いていた。
ある日、オフィスから栗山さんの怒鳴り声が聞こえてきた。
「こんな手抜き工事を絶対に認められません。金田建設の名に傷がつきます」
「うるさい。お前は言われたことだけやればいいんだよ」
栗山さんはケ太の指示する手抜き工事に反対したため左遷された。左遷された栗山さんは営業部の端の席に追いやられ、設計の仕事からも外されていた。それでも彼は毎日定時まで真面目に働いていたが、ある日突然姿を消した。退職届だけが残され、ケ太は「やっと厄介者がいなくなった」と言っていたのを覚えている。
その頃からケ太の生活スタイルも変わり始める。高級車を次々と購入し、週末は高級クラブに入り浸るようになった。私が心配して尋ねると、ケ太は冷たく返す。
「取引先との付き合いだ。会社のためだから文句を言うな」
帰宅時間も次第に遅くなり、深夜に酒臭い体で帰ってくることも増えた。
しかし、そんな生活とは裏腹に会社の経営状態は悪化の一途をたどっていた。私は経営学を学んでいたため、帳簿を見せてもらった際に状況の深刻さを理解できた。売上は減少し、経費は増大。利益率は過去最低を記録していた。資金繰りは極めて厳しく、銀行も追加融資に難色を示し始めていたのだ。
ある晩、ケ太が珍しく早く帰宅したが、顔色が優れない。
「愛子、相談があるんだ」
言葉少なに語られたのは会社の危機的状況だった。
「このままじゃ会社が潰れる。お前の父さんに融資してもらうことはできないか?」
私はこれまで家業の話を避けてきたケ太の態度に違和感を覚えつつも、義父の会社を守るため父に相談することを決意する。
翌日、久しぶりに実家の旅館を訪れる。父は黙って話を聞いていた。
「そうか。大変なんだな。旅館の経営も楽ではないが、義父さんには生前お世話になった。今はケ太君を助けるべきだろう」
父は自分の貯金と旅館の資産を担保に、事業資金としてケ太の会社に融資してくれた。その額は旅館の年商に匹敵するほどの大きなものだ。ケ太の会社は一時的に危機を脱し、ケ太は父に深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。必ず返済します」
父はただ穏やかに微笑むだけだったが、私には父の目に浮かぶ不安の色が見えていた。この融資が家業である旅館にとってどれほど大きな負担になるかを、父は理解していたのである。
それから2年が経過した。会社の状況は一向に改善せず、父からの融資金の返済も滞ったままである。月に一度の報告も最初は丁寧だったが、徐々に適当なものになり、最終的には行われなくなった。その間、ケ太の生活スタイルはますます派手になっていき、私との会話も減っていく。
ある日、突然自宅に訪ねてきた人物がいた。
「お久しぶりです。愛子さん、栗山です」
金田建設を退職した栗山さんが私を尋ねてきたのだ。彼はすでに独立して自分の建設会社を立ち上げており、誠実な施工で評判を得ていると聞いていた。
「本当は言いたくないのですが、あなたには知る権利があると思って」
彼が差し出した封筒には、私の心を凍らせる証拠が入っていた。金田建設の経営悪化の本当の原因は、ケ太社長の私的な資金流用です。さらにそれを補填するために、欠陥住宅を量産しているんです。
私は信じたくない気持ちで書類に目を通す。そこにはケ太が複数の愛人に送った高級マンションの契約書やブランド品の領収書のコピーが含まれていた。さらに建築基準法を無視した手抜き工事の指示書や、偽の検査結果報告書まであった。
「左遷された時、偶然これらの証拠を見つけたんです。今後、欠陥住宅の問題が明るみに出れば、会社の存続だけでなく住民の安全も危険にさらされます」
栗山さんの真摯な表情に、彼の言葉が真実であることを直感的に理解する。
「義父さんが築き上げた会社が、このような形で崩壊していくのを見るのは辛いです。愛子さん、あなたしか会社を救えないかもしれません」
彼が去った後、私は混乱の中で決断を下す。
その夜、帰宅したケ太を待ち構えていた。
「これは何?」
ケ太に栗山さんから受け取った書類を見せると、表情が一瞬凍りついたが、すぐに平静を取り戻した。
「なんだよこれ。気に食わない奴の電話だ。こんなものを信じるのか」
ケ太は言いながら書類を破り捨てる。しかしその反応に違和感を覚えた私は、自分で調査することを決意した。探偵事務所を訪れ、ケ太の行動調査を依頼する。
1週間後、探偵から届いた報告書と写真は、私の最後の希望も打ち砕いた。浮気の証拠写真には、ケ太が複数の女性と親密にしている姿が収められていた。高級レストランでの食事、ホテルへの出入り、そして愛人たちへの高価なプレゼント。その中には、ケ太が秘書として紹介してきた女性の姿もあった。
心の奥では薄々感じていたことだが、明確な証拠を目の当たりにして、私の中で何かが決定的に折れる。夜も眠れず、涙が止まらなかった。
しかし朝になると、不思議と冷静さを取り戻していた。その証拠を手に、再びケ太を問い詰める。
「これも偽物?」
ケ太は一瞬動揺したが、すぐに開き直ったように笑い飛ばした。
「愛人は社長の嗜み。誰でもやってる」
その言葉に、私は最後の決断を下す。結婚指輪を外し、テーブルの上に置いた。
「離婚しましょう。これが離婚届よ」
ケ太は鼻で笑いながら、躊躇なく離婚届にサインした。
「養ってやった恩をあだで返す無職女、後悔するなよ」
ケ太の罵声を背に、私は実家へと戻った。
実家に戻ると、父はすでに体調を崩し、入退院を繰り返している状態だった。診断結果は心臓の病気だ。ストレスを避けるよう医師から厳重に注意されていた。
ケ太の会社への融資は決して簡単ではなく、結果的に父の旅館の経営を悪化させてしまい、精神的な負担を与えてしまったことを思うと胸が痛くなる。
しかし父は自分のことよりも、娘の私の心配をするばかりだ。
「本当に大丈夫なのか?もう戻る場所はないのか?」
「これからは私が須藤屋を継ぎます」
父は複雑な表情を浮かべたが、最終的には安堵の笑みを浮かべた。
「そうか。ずっと言えなかったが、実はそれを望んでいたんだ」
こうして私は、入退院を繰り返す父に代わり、実家の旅館を継いだ。最初は戸惑うことも多かったが、学生時代に経営学を学んでいたことや、子供の頃から旅館で育った経験が生きていく。
父の旅館を継いでから3ヶ月後、突然ケ太から電話がかかってきた。
「おい、社員旅行でお前の旅館を使ってやる。どうせ儲かってないんだろ」
完全な命令口調に、私は冷静に答える。
「ご予約は承ります。詳細をメールでお送りください」
ケ太から送られてきた予約内容は、200人という大人数の宿泊だった。不審な不安を感じつつも、全ての準備を整えた。
しかし当日、ケ太は現れない。不審に思い電話で確認すると、ケ太の嘲笑う声が聞こえてきた。
「200人分キャンセル。お前の旅館よりもっといいところを見つけてな。ま、どうせお前が経営者じゃいずれ潰れるんだ。構わないだろう」
私はケ太の態度に怒りを覚えたが、その前に彼が重大なミスを自覚していないことに気づき、冷静に答えた。
「お客様の都合によるキャンセルの場合、宿泊費の返金には応じられません」
電話の向こうでケ太の言葉が止まった。一瞬の静寂が流れた後、ケ太の怒号が響いた。
「なんだと?返金しないってどういうことだ?そんな規約聞いてない」
私は冷静に対応する。
「ご予約時にメールでお送りした利用規約に明記されていますし、入金もすでに済んでいる状態です。返金不可であることは入金時にも同意いただいております」
「ふざけるな。2000万だぞ。今すぐ返せ」
電話越しにケ太の慌てる様子が伝わってくる。彼は宿泊費が前払いで、すでに入金済みだったことを知らなかったのだ。
「規約に基づいた対応をさせていただいております。ご不明な点があれば、弊社の顧問弁護士をご紹介いたします」
ケ太は怒りに任せて電話を切った。
数時間後、金田建設の秘書、森山さんから連絡が入った。
「須藤様、先ほどは社長の乱暴な言動、申し訳ありませんでした。キャンセル料について何か対応できることはありませんでしょうか?」
彼女の声には疲れが滲んでいる。
「森山さん、キャンセル料というより、これは宿泊料金の全額です。すでに入金いただいておりますので」
「はい。実は社長から、何が何でも金を取り戻せと命令されておりまして」
その言葉に、私は森山さんの置かれた立場を察する。背景ではケ太の怒鳴り声が聞こえる。
「まだ電話してるのか?さっさと金を取り戻せと言っただろう」
「申し訳ありません。社長、ですが契約上はキャンセル料の返金は難しいと」
「お前の仕事は言われたことをやることだ。できないなら今すぐやめろ」
ケ太の暴言に、私は胸が痛んだ。かつての同僚である森山さんがこんな扱いを受けていることに怒りを覚える。
再び電話が鳴り、今度はケ太自身からだった。
「こんなのは詐欺だ。弁護士を通して訴えてやる」
しかしケ太の横で、森山さんが静かに反論する声が聞こえた。
「社長、旅館の公式サイトには規約がはっきりと明記されています。また私が社長の指示通りに予約し、前払いでの入金手続きも完了しています」
「なんだと?お前、なんでそんなこと?」
「特大の団体予約でしたので、通常の手続きに対応させていただきました。その際、キャンセルの場合でも返金はないという契約にも同意する手続きを取りました」
ケ太の怒りの矛先が森山さんに向かったようだ。
私の元に森山さんから一通のメールが届いた。
「申し訳ありません。社長の指示で本件に関する一切の連絡を禁じられました。ただ、個人的には須藤様の毅然とした対応に感銘を受けております。金田建設の社員として、このような状況になってお恥ずかしい限りです」
彼女もケ太の横暴な態度に限界を感じていたのだろう。私のような対応を取ることができないまま、彼女は苦しんでいたのだ。
翌日、うちの顧問弁護士・斎藤先生から連絡があった。
「須藤さん、金田建設の顧問弁護士から連絡がありました。ケ太が訴訟を検討しているとのことです」
「予想していました。どのようにすべきでしょうか?」
「心配ありません。規約は明確ですし、手続きも全て適正です。むしろ彼らが訴訟を起こせば、逆に会社の信用問題になるでしょう」
金田建設の顧問弁護士も同様の意見をケ太に伝えたようだが、ケ太は聞く耳を持たなかったらしい。
「金田建設の弁護士から非公式に連絡がありました。ケ太社長に法的根拠はないと伝えたところ、激怒されたとのことです」
私は深いため息をつく。ケ太の子供じみた行動はもはや想定できるものだった。
数日後、再び金田建設の顧問弁護士から連絡が入る。
「申し訳ありませんが、当方としては本件について対応を辞退させていただきます。旅館の公式サイトに規約が明記されており、書面も確認していることから、法的に争う余地はないと判断しました」
ケ太は自社の弁護士にも見放されたのだ。
弁護士にも見放され、法的には何もできなくなったケ太は、次なる攻撃手段に出た。ある日、旅館のスタッフから不安げな報告を受ける。
「女将さん、SNSで当館に対する悪い評価が急に増えてます」
確認すると、複数のSNSプラットフォームで旅館の誹謗中傷が書き込まれていた。「食事がまずい」「従業員の態度が悪い」「清掃が行き届いていない」など、明らかに事実と異なる内容だ。アカウント名は匿名だが、投稿のパターンや言い回しからケ太の仕業だと察する。
「みんな心配しないで。事実と異なる書き込みはいずれ消えていくわ」
スタッフに冷静な対応を指示しつつも、内心では不安を抱えていた。SNSの影響力は大きく、風評被害が広がる可能性もある。
しかし予想外の展開が起きた。誹謗中傷の投稿に対し、地元の常連客たちが反論のコメントを次々と書き始めたのだ。
「私は30年間須藤に通っているが、そんな事実はない」
「先月泊まったばかりだが、料理は絶品だったし、スタッフの対応も素晴らしかった」
「須藤は地域の宝。デマ情報に惑わされないで」
まるで盾となって旅館を守ってくれる常連客たちの姿に、胸が熱くなる。父の代から大切に育ててきた信頼関係が、今私たちを守ってくれているのだ。
さらに地元の観光協会や商工会の関係者からも支援のメッセージが届いた。
「須藤は我々の誇りです。根拠のない批判に負けないでください」
「須藤さん、何かあれば遠慮なく相談してください。地域一丸となって応援します」
そして驚いたことに、SNS上で須藤の魅力を詳細に紹介する投稿が現れた。「須藤の魅力を語る」というタイトルの長文投稿では、旅館の歴史や料理の素晴らしさ、おもてなしの心が細かく描かれている。投稿者は「旅館ファン」という匿名アカウントだったが、言葉遣いや旅館の内部事情に詳しい内容から、金田建設の森山さんではないかと感じた。彼女は影で旅館の良さを伝える投稿を匿名で行い、支持を集めてくれていたのだ。
その投稿はたちまち拡散され、多くの「いいね」や共感のコメントが寄せられていく。
「こんな素敵な旅館があったなんて、今度絶対に泊まりに行きます」
「歴史ある旅館が地域と共に歩んできた姿に感動しました」
「地元の食材にこだわる姿勢に惹かれます」
ケ太の誹謗中傷は、むしろ須藤の存在を多くの人に知らせる結果となった。地元メディアも成り行きに注目し始め、「伝統旅館と地域の絆」という特集記事を組んでくれた。
「須藤さん、最近SNSでの書き込みの騒動がありましたが、どう思われますか?」
「どんな状況でも、私たちは変わらぬおもてなしの心を大切にしています。支えてくださる皆様に感謝の気持ちでいっぱいです」
インタビューで冷静に対応したことで、さらに好印象を持たれることとなった。
ケ太のSNS攻撃から約2週間後、旅館の予約問い合わせが増え始めた。
「SNSで見て興味を持ちました。伝統ある旅館に泊まってみたいです」
皮肉なことに、ケ太の悪意ある行動が旅館の宣伝になったのだ。
さらに森山さんらしき匿名アカウントの投稿は、「須藤の魅力を語る」シリーズとして続いていた。彼女の投稿には、ケ太が決して気づかないような旅館の細やかなおもてなしの工夫や、日本の伝統文化を大切にする姿勢が描かれている。その熱意が多くの人の心を動かし、支持を集めていった。
そして驚くべきことに、ケ太のSNSアカウントが突然閉鎖された。匿名を装っていたものの、投稿内容の悪質さからプラットフォーム側に規約違反として報告されたようだ。ケ太の攻撃は完全に失敗。むしろ旅館への賞賛の書き込みが上回り、私たちの信頼は以前よりも高まっていた。
父はこの騒動を病床から見守っていた。
「愛子、お前は立派だ。怒りに任せず冷静に対応した。これが本当の商売人の姿だよ」
父の言葉に胸が熱くなる。失ったと思った自信が、少しずつ戻ってきていた。
騒動が落ち着いた頃、私はケ太から得た2000万円の使い道に頭を悩ませている。父が病室で語った言葉が脳裏に浮かぶ。
「愛子、商売は正々堂々とビジネスで勝負するのが誇りだ。お客様に喜んでもらうことを第一に考えれば、必ず道は開ける」
この2000万円はお客様に還元するべきだと決意する。
翌日、スタッフを集めて会議を開く。
「皆さん、キャンペーンを企画したいと思います。この資金を活用して、須藤をさらに魅力的な旅館にしていきましょう」
私が提案したのは3つのプロジェクトだ。
1つ目は「地元の味覚発見キャンペーン」。地元の農家や漁師と連携し、新鮮な食材を使った特別メニューを開発する。
2つ目は「伝統文化体験プログラム」。地元の職人を招き、宿泊客に伝統工芸の体験機会を提供していく。
3つ目が「みんなが安心して過ごせる宿プロジェクト」。旅館全体のバリアフリー化を進め、誰もが安心して滞在できる環境を整えるものである。
この3つ目のプロジェクトについて、私は地元の高齢者団体や障害者支援団体を訪問する。車椅子利用者からは「わずかな段差でも移動が困難」という声。視覚障害のある方からは、点字や音声ガイドの必要性について教えていただく。
「皆さんの声を大切に、必要な設備を整えていきます」
ヒアリングの様子は地元新聞でも取り上げられ、旅館が地域と共に歩む姿勢として評価を受ける。観光協会からも先進的な取り組みとして注目の的になっている。
キャンペーンの準備と並行して、旅館のウェブサイトもリニューアル。「みんなが安心して過ごせる宿」というコンセプトを全面に打ち出すことにしたのだ。SNSでも地元食材を使った料理の写真や伝統文化体験の様子を投稿していく。すると反応が増えていく。
キャンペーン開始から1ヶ月後、予約状況は前年同期比で150%を記録。2ヶ月後には200%を超え、数ヶ月先の予約も入り始めるようになる。旅行サイトの口コミでも高評価が続き、「おすすめ旅館ランキング」で地域1位となるのだ。
特に「みんなが安心して過ごせる宿プロジェクト」は反響が大きく、バリアフリー化工事の本格着工を急ぐことに決定する。工事を請け負ったのは、栗山さんの栗山建設だった。
「栗山さん、この旅館をどんなお客様も安心して過ごせる場所にしたいんです」
「須藤さん、素晴らしいですね。全力でお手伝いさせてください」
栗山さんとの打ち合わせは建設的で、彼の誠実さと技術力に安心感を覚える。ケ太の会社では埋もれていた彼の才能が、今こそ開花しているのだ。
「義父さんは『建築は100年の計』とよく言われていました。その教えを胸に、価値ある仕事をしたいと思います」
工事は予定通りに進み、玄関のスロープ設置と館内の段差解消が完了する。車椅子を使用するお客様から喜びの声が届く。
「今まで諦めていた旅行が実現できました」
その声に、スタッフ全員が喜びを感じている。続いて客室や浴室の改修工事も行われ、誰もが安心して過ごせる空間が生まれていく。
工事の様子を見に来た父も満足げな表情を見せる。
「素晴らしい。愛子、お前は須藤の本当の後継者だよ」
最終的にバリアフリー工事は予定より早く完了。お披露目会には地元メディアや観光関係者、高齢者や障害者団体の方々も参加する。地域住民から絶大な支持を得て、須藤は「誰もが安心して過ごせる宿」として新たなスタートを切るのである。
栗山建設は義父の経営理念を引き継ぎ、誠実な施工を基に急成長を遂げている。金田建設から優秀な人材が次々と栗山建設に移籍し始めたのだ。
「正直、嬉しい悲鳴です。金田建設時代の同僚たちが『本物の仕事がしたい』と言って集まってくるんです」
彼らはケ太の経営方針に失望し、義父の精神を受け継ぐ栗山さんの下で再び働きたいと考えたようだ。
ある日、ケ太の秘書の森山さんが旅館を尋ねてきた。森山さんの話だと、ケ太は窮地に追い込まれているらしい。そしてあろうことか、2000万円を無駄に失った責任を森山さんに押し付け、彼女を首にしたのだ。
「須藤さん、実はお話があって」
彼女は退職前にケ太から受けた数々の不当な扱いの証拠を残していたという。パワハラやセクハラの録音、不適切なメールの記録です。
「これを労働基準監督署に提出しようと思います。それだけではありません。これはケ太社長の不正の証拠です。マスコミや株主に公表するつもりです」
彼女が用意した資料には、ケ太による会社資金の私的流用や、粗悪な資材を使った手抜き工事の指示書が含まれていた。
数日後、地元紙に「金田建設不正疑惑」の見出しが踊る。全国紙や業界紙にも記事が掲載され、ケ太の会社への風当たりは一気に強まった。労働基準監督署も動き始め、会社への立ち入り調査が開始される。
そして最も深刻な問題が表面化する。ケ太の会社が手掛けた物件で、次々と欠陥が発覚し始めたのだ。雨漏りや壁のひび割れ、基礎工事の不備など、住民の安全に関わる重大な問題が多数報告される。被害を受けた住民たちは「金田建設被害者の会」を結成。地元テレビ局の特集番組でも取り上げられ、社会問題へと発展していく。
「金田社長、これらの欠陥住宅について、当社の見解をお聞かせください」
「知らない。そんなことは担当者に聞いてくれ」
ケ太は記者の質問に「知らない」と逃げ回るばかりで、責任ある回答を避け続けた。
悪いニュースは連鎖的に広がり、主要取引先が次々と契約解除を申し入れる。創業以来の優良顧客まで失い、会社の信用は地に落ちた。社員も大量離職し、会社の機能は完全に麻痺状態となる。
ケ太は状況を打開しようと、無理な引き合い営業を指示する。
「どんな条件でもいい。とにかく仕事を取ってこい」
しかし利益が出ない状況で無理な受注をしても、さらに経営を圧迫するだけだった。銀行も追加融資を全面拒否し、既存の融資の返済を迫り始める。
「今後の返済計画を早急に提出してください。このままでは担保物件の処分も検討せざるを得ません」
追い打ちをかけるように、顧客や株主からの集団訴訟も起こされた。訴状には、欠陥工事による損害賠償、株主価値の毀損に対する責任追求など、厳しい内容が並ぶ。弁護士たちからも「勝ち目はない」と告げられ、ケ太は追い詰められていく。
ある時、栗山さんから連絡があった。
「会社の株主総会で、ケ太社長の解任決議が可決されたそうです。会社再建のため、暫定的に私が経営顧問の相談役に任命されました」
義父が築き上げた会社を守るため、栗山さんが立ち上がったのだ。
一方のケ太は、全てを失い孤立無援の状態となっていた。
「なんでこんなことに?」
それは彼自身が招いた結果であり、誰も救いの手を差し伸べようとはしない。
バリアフリー化工事が完了してから半年が経った頃、思わぬ来客があった。受付から「金田さんという方がお見えです」と告げられ、大広間に向かうと、そこには見違えるほど痩せこけたケ太の姿があった。かつての傲慢な態度は影も形もなく、目の下にはくまができ、肩は落ち、背も丸くなっていた。
「愛子さん、お願いがあるんだ。俺を雇ってくれないか。何でもするから」
突然の申し出に一瞬言葉を失うが、すぐに冷静を取り戻す。
「金田さん、あなたの会社はどうなったの?」
「株主総会で解任された。借金だけが残って」
「あなたが建てた欠陥住宅の被害者の中には、ここの常連客もいるのよ。あなたを雇うことは、彼らへの裏切りになる」
ケ太は俯いたまま何も言えない。
「それよりも、父から借りた事業資金を今すぐ返済してください」
「そ、それができないんだ」
ケ太は父の借金を返済できなかった。相次ぐ訴訟に敗訴し、最終的に自己破産を申請する。さらに資金流用や工事の責任を問われ、詐欺の容疑で警察の捜査にもなった。
一方、須藤の評判は日々高まっていく。バリアフリー化した旅館を人気インフルエンサーが訪れ、テレビ番組で快適な宿泊体験をアピールしてくれたことで、さらに人気を集める。
「車椅子でも一切不便を感じない設計に感動しました。温泉旅行を諦めていた方にも、ぜひ体験して欲しいです」
「誰もが安心して過ごせる宿」として各メディアで取り上げられ、バリアフリー観光のモデルケースとして国の表彰も受けることになった。さらに栗山さんの会社と連携し、地域の古民家再生プロジェクトも立ち上げた。地元の職人たちの技術を生かした古民家再生は、新たな観光資源として地元経済の活性化にも貢献している。
須藤は予約が取れない超人気旅館となり、予約は半年先まで埋まる状態が続いている。
そんな中、父は体調を健康を取り戻し、旅館で穏やかな日々を過ごしている。かつての常連客との交流を楽しみながら、時には若いスタッフに昔の接客術を伝授することもある。
「愛子、立派な後継者に恵まれて、本当に幸せだよ」
父のそんな言葉に、私はただ感謝の気持ちでいっぱいになる。
ある夕暮れ時、縁側で父と並んで夕日を眺めていた。
「父さん、本当の意味で家業を継いでよかった」
父は静かに頷き、2人で夕日を見つめる。この旅館は単なる建物ではなく、人と人との絆、地域との繋がり、そして家族の歴史の象徴なのだ。私はようやく自分の居場所を見つけた。



