「お前みたいな地味で気の利かない女には、うんざりなんだよ」…

「お前みたいな地味で気の利かない女には、うんざりなんだよ」...

「これに判を押して週末までに出て行ってくれ」
リビングのテーブルに1枚の緑色の紙が投げ出された。離婚届だった。夫の剣一は腕を組み、私を見下していた。
結婚して25年。私たちが一緒に築いてきたはずの生活が、この1枚の紙で終わろうとしていた。
「お前みたいな地味で気の利かない女にはうんざりなんだよ」
私は怒鳴らなかった。泣き叫ぶこともなかった。ただエプロンのポケットの中で、ある小さなものを静かに握りしめていた。手のひらに食い込む冷たい金属の感触だけが、私に現実を教えてくれた。
「聞いてるのか?俺は明日から大事な取引先と接待があるんだ。お前がいつまでもこの家にいると、俺の運気まで下がるんだよ」
剣一は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
この時の剣一はまだ知らなかった。私がその日の朝、彼がひた隠しにしてきた大きな嘘に気づいていたことを。そして、私がポケットの中で握りしめている小さな鍵が、彼の人生を根底から覆すものだということを。
「分かったわ」
私は短く答えた。剣一は鼻で笑い、乱暴な足音を立てて寝室へ向かった。明日の接待のための荷造りをするためだ。
リビングに取り残された私は、テーブルの上の離婚届を見つめた。夫の欄にはすでに貴重な字で名前が書かれている。そして証人の欄には、私の知らない女性の名前があった。
高橋美保。
その名前を見た瞬間、私の胸の奥で小さなパズルがカチリと音を立ててはまった。最近剣一のシャツから漂っていた甘い香水の匂い。深夜になるスマートフォンの通知音。休日の度にゴルフだと言って出かけていた不自然な行動。全てがこの名前に繋がったのだ。
剣一が寝室から戻ってくると、手には高級なボストンバッグがあった。彼が部長に昇進した時、私が無理をしてプレゼントしたものだ。今では別の女性の元へ通うための道具になっていた。
「俺は今日はホテルに泊まる。明日の接待は死沸両亭の衝の月だからな。お前みたいな女には一生縁のない高級な場所だよ。せいぜい身の振り方を考えておけ」
そう言って剣一は私を鼻で笑った。
衝の月。その名前を聞いた瞬間、私の指先がわずかに震えた。恐怖からではない。あまりの偶然に息が止まりそうになったからだ。

「それじゃあ、日曜日には荷物をまとめておけよ」
剣一は最後に冷たい視線を投げかけ、玄関のドアを乱暴に閉めて出ていった。家の中に重い沈黙が戻ってきた。
私はゆっくりと立ち上がり、仏壇のある和室へ向かった。線香に火をつけ、静かに手を合わせる。家の中で微笑んでいるのは、3年前に亡くなった私の父だ。
「お父さん、とうとうこの日が来てしまったみたい」
誰にも聞こえない声で私はつぶやいた。
私は仏壇の下にある古い引き出しの前に座った。エプロンのポケットから出した鍵を、その小さな鍵穴に差し込む。カチリという静かな音がして、引き出しが開いた。中に入っていたのは、古びた桐の箱だった。
箱を開けると、そこには一通の分厚い封筒と数枚の書類が入っていた。書類に書かれている名前は、死沸両亭衝の月。
剣一が明日、接待のために行くあの両亭だ。
実は衝の月は、私の父が密かに資金を出して支え続けてきた店だった。父が亡くなった後、その実質的なオーナーの権利は、一人娘である私に引き継がれていた。しかし私はそのことを剣一にはずっと隠していた。剣一がお金に執着する質だと分かっていたからだ。もし知られれば、店を自分の好き勝手に利用されるのは目に見えていた。
そして今日、私は正式に衝の月の大家として店を引き継ぐことになっていた。
「あなたが行く場所は、私の店なのよ」
私は書類を撫でながら、もう一度つぶやいた。
夜が更けていく中、私は静かに動き始めた。泣いている時間はなかった。私はテーブルに戻り、引き出しから実印を取り出した。離婚届の自分の欄に、ゆっくりと名前を書き入れる。
佐藤弓美。
その文字を書くたびに、25年の思い出が頭をよぎった。住宅ローンを返すためにパートを掛け持ちした日々。剣一の母親が倒れた時、毎日病院へ通って介護をしたこと。剣一が仕事で悩んでいた夜、一緒に温かいお茶を飲んで励ましたこと。
けれど、あの頃の不器用で優しかった夫は、もうどこにもいなかった。
私は朱肉をつけ、離婚届にしっかりと判を押した。赤い朱が真っ白な紙に鮮やかに残った。私は離婚届の横に結婚指輪を外しておいた。銀色の小さな輪が、部屋の明かりを反射して冷たく光っている。
それから私は自分の荷物をまとめ始めた。着替えや身の回りのものは、小さなスーツケース一つに収まった。25年間の結婚生活の荷物が、たったこれだけだと思うと少しだけ虚しさが込み上げた。けれど、私の手元には父から受け継いだ大切な権利書がある。私にはこれから守らなければならない場所があるのだ。
時計の針が深夜を回っていた。窓の外はまだ暗闇に包まれている。私はスーツケースのジッパーを閉じ、深く深呼吸をした。もう迷いはなかった。

翌朝、私はいつもより早く目を覚ました。顔を洗い、鏡の前に立つ。そこには疲れ切った中年の女ではなく、少しだけ顔つきの変わった私がいた。
私はクローゼットの奥から、数年間一度も袖を通していなかった上質な濃紺のスーツを取り出した。父が最後に買ってくれた、私にとって一番大切な服だ。それを身にまとうと、背筋が自然と伸びた。髪を綺麗にまとめ、少しだけ明るい色の口紅を引く。
玄関の鍵を閉める時、私は一度だけ家を振り返った。朝日が差し込むリビングのテーブルには、離婚届と指輪が置かれたままだった。
「さようなら」
私は静かにそう言い残し、ドアを閉めた。
外の空気は冷たく、けれど澄み切っていた。タクシーに乗り込み、衝の月へと向かう。
衝の月は、歴史を感じさせる立派な門前の店だ。到着すると、女将のさち子さんが玄関の外で待っていた。私を見るなり、さち子さんは深く頭を下げた。
「お待ちしておりました。弓美様」
その声には、深い敬意と温かさが込められていた。私が小さく頷き、中へ入ろうとした時だ。
「おい、なんでお前がこんなところにいるんだ?」
背後から、聞き慣れた声が響いた。振り返ると、そこには剣一と腕を組んで歩く若い女性の姿があった。剣一は私を見つけると一瞬驚いた顔をしたが、すぐに胡乱な表情を浮かべた。
「ちょっと剣一さん、このおばさん誰?」
みほは私を上から下までじろじろと見て、鼻で笑った。
「ああ、言っただろう。今日で縁が切れる元妻だよ。全く、ストーカーみたいに追いかけてきやがって」
剣一は心底うんざりしたような顔で私を睨みつけた。
「ええ、怖い。離婚届を突きつけられて泣きついてきたの?」
みほは声を出して笑い、剣一の腕をさらに強く抱きしめた。
私は言い返すことも怒ることもなかった。ただ二人の姿を静かに見つめていた。剣一の顔には、私に対する優しさなど一ミリも残っていなかった。
「ここは俺の大事な取引先との接待で使う場所だ。お前みたいな貧乏臭い女がうろついていい場所じゃない。さっさと帰れ」
剣一が手を振り上げ、私を追い払おうとしたその時だ。私の横に立っていたさち子さんが、静かに一歩前に出た。
「お客様、申し訳ございませんが、こちらは関係者専用の裏口でございます。一般のお客様は、こちらの門へお回りくださいませ」
さち子さんの声は穏やかだったが、勿論を許さない威厳があった。剣一は一流両亭の女将に声をかけられ、一瞬だけひるんだ。
「あ、いや、すいません。ほら、行くぞ」
剣一は罰が悪そうにみほを引き、足早に正門の方へ向かっていった。二人の背中が見えなくなるまで、私はただ黙って立っていた。
「弓美様、あのような方々のお言葉、お気になさらないでください」
さち子さんが心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫です。慣れていますから」
私は小さく微笑み、さち子さんの後に続いて静かに裏口から店の中へ入った。
通されたのは、庭の池が見える一番奥の離れだった。畳のいい香りと、かすかなお香の匂いが漂っている。
私は座布団に正座し、自分の両手を見つめた。指先は荒れて、所々に小さなひび割れがある。25年間、私がこの手で守ろうとしてきたものは一体何だったのだろうか?

結婚した当初、剣一はとても優しい人だった。小さなアパートでの生活だったが、二人で食卓を囲むだけで幸せだった。
しかし、少しずつその優しさは削り取られていった。大きな転機は、5年前に義母が足を骨折して倒れた時だ。義母は気性が激しく、ヘルパーさんを次々と追い出してしまった。「他人に下の世話なんてされたくない」と。義母のために私は仕事を辞め、退院後は自宅で介護をした。パートをやめ、自分の時間は全て義母のために使った。夜中におむつを変える時も、文句一つ言わずに耐えた。
けれど剣一は私を手伝おうとはしなかった。それどころか、私が義母の部屋からリビングに戻ると、露骨に顔をしかめた。
「お前、服に年寄りの匂いが染みついてるぞ。その格好で俺の飯を作るなよ」
剣一はそう言って、私が作った夕食をゴミ箱に捨てたことがあった。私は泣き叫びたい気持ちをこらえ、ただ黙ってゴミ袋の口を縛った。手が震えてうまく結べなかったことを、今でも覚えている。
それでも私が耐え続けたのには理由があった。一つは、いつかまた昔の優しい夫に戻ってくれると信じていたから。そしてもう一つは、亡くなった父との約束があったからだ。
3年前に亡くなった私の父は、小さな町工場を経営しながら、この衝の月を支えていた。父が息を引き取る数日前、病室で私の手を強く握った。父の手はとても温かかったのを覚えている。
「弓美、お前は優しすぎる。剣一君や向こうの家族に尽くしすぎてはいけない」
父はあいまいな言い方でそう言った。
「お父さんの財産と衝の月の権利は全てお前に残す。けれど、それを剣一君には言ってはいけない。これはお前が本当に自分の人生を取り戻す時のための、最後の盾だ。それまでは決して見せてはいけない」
父はそう言って、私に古い桐の箱の鍵を渡した。私はその約束を今日までずっと守り続けてきた。義母が老人ホームに入居し、剣一が部長に昇進してからも。剣一が私を火婦のように扱い、冷たい言葉を投げつけるようになっても、私はただ黙って父から託された鍵を胸の奥にしまい込んでいたのだ。

「弓美様、温かいお茶をお持ちしました」
さち子さんの声で、私ははっと現実に帰った。目の前のテーブルには、湯気を立てる美しい絵湯呑みが置かれている。
「ありがとうございます」
私が湯呑みを両手で包み込むと、じんわりとした温かさが手のひらに伝わってきた。冷え切っていた心が、少しだけ溶けていくような気がした。
「書類の手続きにはもう少しお時間がかかります。それまでゆっくりとおくつろぎください」
さち子さんは深くお辞儀をして、部屋を出ていった。
静かな部屋の中、庭の鹿威しがコーンと高い音を立てた。私はお茶を一口飲み、昨夜の離婚届を思い出した。25年間私が耐え忍んできた結果が、あの一枚の紙切れだ。
剣一は私が何も知らない、ただの無力な妻だと思っている。自分が浮気をしていることも、会社の金を使い込んでいることも、私が気づいていないと信じきっている。
でも、私は知っていた。
剣一の嘘が狂い始めたのは、決して最近のことではない。全ては半年前のあの夜から始まっていたのだ。
私が洗濯機を回そうと、剣一のスーツのポケットを確認した時のこと。いつもなら綺麗に空になっているはずのポケットの奥に、小さな紙切れが丸まって入っていた。それはただのレシートではなかった。私がそれを見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
銀座にある高級ブランドのジュエリーショップのレシート。印字されていたのはダイヤモンドのネックレス。金額は30万円を超えていた。私の誕生日は3ヶ月前だったし、結婚記念日もずっと先だ。それに剣一からそんな高価なプレゼントをもらったことなど、一度もなかった。
悲しいという感情はすぐには湧いてこなかった。ただ指先がひどく冷たくなっていくのを感じた。私はレシートの写真を自分のスマートフォンで撮り、元の通りにきれいに畳んでポケットに戻した。
異変はそれだけではなかった。その頃から、剣一のシャツからかすかに見知らぬ匂いがするようになった。私がいつも使っている柔軟剤の匂いではない。甘くてどこかツンとするような、若い女性が好む香水の匂いだった。
ある朝、私はわざと何気ないふりをして聞いてみた。
「あなた、最近香水変えた?なんだか甘い匂いがするわね」
その瞬間、剣一の動きがぴたりと止まった。ネクタイを結ぼうとしていた手が、途中で不自然に止まったのだ。
「何言ってるんだ。お前の気のせいだろう。大体、俺の服の匂いを嗅ぐなんて気持ち悪いんだよ。やめろ」
剣一は声を荒げ、私から目をそらした。怒鳴ることで自分の動揺を隠そうとしているのは明らかだった。私は何も言い返さず、ただ黙って彼の背中を見つめていた。昔の剣一なら、こんな風に私を突き離すことは絶対になかった。彼の心はもう、完全にこの家にはないのだと静かに悟った瞬間だった。

違和感は剣一だけに留まらなかった。その一ヶ月後、私は月に一度の習慣で、義母のいる老人ホームを訪れた。義母の好きなひじきの煮物や卵焼きをタッパーに詰めて持っていった。
「お義母さん、こんにちは。お加減はいかがですか?」
私が部屋に入ると、ベッドに座っていた義母は少し驚いたような顔をした。
「あら、弓美さん、今日は来るのが早かったのね」
義母の態度はどこかよそよそしいものだった。そして、私の目は義母の首元に巻かれた一枚のスカーフに釘付けになった。鮮やかな水色の、見るからに上質なシルクのスカーフ。ブランドのロゴが小さく縫い付けられている。義母は年金暮らしで、自分でこんな高価なものを買う余裕はない。
「お義母さん、素敵なスカーフですね。剣一さんが買ってくれたんですか?」
私が尋ねると、義母はあからさまに動揺した。
「え、ええ、そうよ。あの子がこの前の休みにね」
義母は目を泳がせながら、慌ててスカーフを首から外して引き出しに隠した。その不自然な態度に、私は胸の奥がざわつくのを感じた。
私はタッパーの中のおかずを小皿に取り分け、義母の前のテーブルに並べた。義母は黙っておかずを食べていたが、やがてぽつりとこうこぼした。
「みほさんは、本当にセンスがいいわね」
その言葉が耳に入った瞬間、私の手から箸が落ちそうになった。
「え?みほさんって、どなたですか?」
私が聞き返すと、義母ははっと息を飲み、顔を青ざめさせた。
「い、いや、テレビに出ている女優さんのことよ。ほら、最近よく出ている」
義母は必死に取り繕おうとしたが、その声は震えていた。
私は全てを理解した。剣一は私に隠れて、あの愛人を義母の老人ホームに連れてきていたのだ。そして義母も、その女性からのプレゼントを喜んで受け取っていた。
私が仕事をやめ、寝る間も惜しんで義母の世話をしたあの日々。私が流した汗も涙も、義母にとってはもう何の意味もなかった。私という嫁がいながら、若い愛人を連れてきた息子を止めることもなく、一緒に笑い合っていたのだろう。
私は怒鳴り散らしたい衝動を、必死に奥歯を噛みしめてこらえた。ここで泣いてすがっても、義母は私を鬱陶しがるだけだ。
「そうですか?テレビの方ですか?」
私は冷たい声でそれだけ言うと、空になったタッパーを静かに鞄にしまった。
「今日はこれで失礼します。お大事に」
義母は私と目を合わせず、気まずそうに頷くだけだった。
老人ホームを出ると、冷たい秋の風が吹いていた。私の心の中はもう、悲しみよりも静かな怒りで満ちていた。この人たちを絶対に許してはいけない。自分の人生を取り戻すために、私は戦わなければならない。そう決意した日だった。

「弓美様、少しよろしいでしょうか?」
衝の月の奥の部屋で、静かな声が響いた。襖が開き、女将のさち子さんが部屋に入ってきた。過去の記憶から引き戻され、私は背筋を正した。
「どうかされましたか?」
「はい。先ほど剣一様とお連れの方が、表玄関からお見えになりました。ご案内したお部屋は、松の間でございます」
松の間は、この衝の月で最も格式が高く料金も高い特別室だ。剣一はそんな部屋を予約していたのか。
「お連れ様はどなたか分かりましたか?」
私が尋ねると、さち子さんは小さなメモを取り出した。
「はい。と建設の大木社長でございます」
その名前を聞いて、私はやはりと心の中で頷いた。と建設は、剣一の会社が現在大きな入札を争っている相手企業だった。本来なら接待などで便宜を図ることが厳しく禁じられている相手だ。しかし剣一は自分の出世のために、会社の規則を破って裏取引をしようとしているのだ。
剣一は私がただの無知な専業主婦だと思っている。夫の仕事のことなど何も理解できない馬鹿な女だと見下している。けれど彼は一つ、大きな計算違いをしていた。私が彼を疑い始めてから、家の中をどれだけ徹底的に調べたかを、彼は知らないのだ。
「弓美様、剣一様は随分と気が大きくなっておられるご様子でした。一番高いお酒をどんどん持ってくるようにと」
さち子さんは少し困った顔をしながら、そう報告してくれた。
「分かりました。さち子さん、いつも通り最高のおもてなしをしてあげてください」
私は冷めたお茶を飲み干し、静かにそう言った。
剣一は今頃、若い愛人を隣に座らせて、社長相手に大きな顔をしているのだろう。自分がこの衝の月の真のオーナーの手のひらの上で踊らされているとは、夢にも思わずに。
私は自分のバッグに手を伸ばし、中に入っている分厚い封筒の感触を確かめた。この封筒の中には、あの日のジュエリーショップのレシートが入っている。けれど、私が本当に恐ろしいと感じたのは浮気の証拠ではなかった。私が夫の書斎のゴミ箱の底から見つけた、もう一つのもの。そこに書かれていたおぞましい数字を見た時、私は夫がすでに取り返しのつかない犯罪に手を染めていることに気づいたのだ。

夫の嘘が決定的になったのは、あの香水の匂いに気づいてから一ヶ月後のことだった。剣一はその夜、ひどく泥酔して帰宅した。
「水を持ってこい。本当に気の利かない女だな」
玄関で靴も脱がずに怒る夫。私は黙って支え、なんとかベッドに寝かせた。スーツをハンガーにかけ、彼が散らかした書類を片付けるのが私の毎日の役目だった。
いつものように書斎のゴミ箱の中身をまとめようとした時のことだ。編み込まれた竹のゴミ箱の底に、丸められた一枚の紙切れがへばりついていた。私はそれを拾い上げ、指で皺を伸ばして広げた。
それは銀行の窓口で発行される振り込み受付書。つまり、多額の現金を動かした際の領収書だった。印字された数字を見た瞬間、私の呼吸が止まった。
1500万円。
私たちの口座には、そんな余裕はない。私は住宅ローンの返済を少しでも楽にするため、スーパーのレジ打ちのパートを掛け持ちしていた。一円でも節約しようと半額シールが貼られたお惣菜を買い、生活費を切り詰める毎日だった。それなのに、この大金は一体何なのか。
振り込み先の欄には、高橋美保という名前がはっきりと記載されていた。夫の胸ポケットから香っていた、あの甘く鼻をつく香水の持ち主だ。
私は手が震えるのを必死に抑えながら、領収書の裏面を見た。そこには剣一の几帳面な字で、小さくメモが書かれていた。
「と建設 裏金処理分」
その文字を見た瞬間、私の全身から血の気が引いた。剣一はただ若い女性と不倫をしているだけではなかった。会社のお金を横領し、不正な裏金として愛人の口座に隠していたのだ。と建設といえば、剣一が現在担当している大きな入札プロジェクトの相手企業だ。絶対に知られてはいけない犯罪の証拠。酔った勢いで間違えて捨ててしまったのだろう。
私はその領収書をスマートフォンのカメラで撮影し、すぐに丸めてゴミ箱の底に戻した。もし今これを突きつけて問い詰めれば、剣一は証拠を隠滅するだろう。私は彼を確実に終わらせるためにもっと決定的な証拠を集める決意をした。
深夜2時。剣一のいびきが聞こえてくるのを確認し、私は再び書斎に戻った。音を立てないように、引き出しの奥や本棚の裏を隅々まで探る。そして部屋の隅で埃をかぶっていた、黒い革製の大きなゴルフバッグに目をつけた。最近剣一は絶対ゴルフに行くと言って出かけても、クラブの手入れをした形跡がない。
私はゴルフバッグの底にあるシューズ用のポケットのジッパーをゆっくりと開けた。中に手を伸ばすと、冷たいビニールケースの感触があった。引き出してみると、それは私が見たこともない銀行の通帳と、印鑑だった。ページをめくると、会社から不自然な名目で振り込まれた大金と、みほへの毎月数十万円の送金記録が何十件も記されていた。
私は暗闇の中でシャッター音を指で塞ぎながら、全てを一枚の抜かりもなく写真に収めた。手がかすかに震え、冷たい汗が背中を伝った。
剣一は私を、何も知らない馬鹿な妻と見下していた。だからこそ、証拠の隠し方もどこか杜撰だった。まさか、いつも黙って自分の世話をしている妻が、夜中に証拠を集めているとは夢にも思わなかったのだろう。

「弓美様、弁護士の木村先生がお見えになりました」
さち子さんの声で、私は半年前の冷たい夜の記憶から現実に戻った。襖が静かに開き、父の代からお世話になっている顧問弁護士の木村先生が入ってきた。木村先生は深く頭を下げ、私の前に分厚いファイルを置いた。
「弓美さん、いよいよ今日ですね。お父様の遺言に基づき、衝の月の全株式と所有権をあなたに譲渡する最終手続きです」
これが、3年前に亡くなった父が私を守るために残してくれた最後の盾だった。父の最後の言葉が耳の奥に蘇る。
「弓美、自分の心まで殺してはいけない」
私はバッグから大切に保管していた実印を取り出した。書類の署名欄に自分の名前をゆっくりと書き入れる。25年間、剣一の妻として、義母の介護要員として、自分を殺して生きてきた私。その私が今、一人の人間として自分の居場所を取り戻そうとしている。
朱肉をつけ、書類に静かに判を押した。赤い朱が白い紙に鮮やかに刻まれる。
「これで全ての手続きは完了いたしました。本日から弓美さんが、衝の月の正式な女大将でございます」
木村先生の言葉に、さち子さんが深々と頭を下げた。胸の奥に、小さくとも確かな炎がともるのを感じた。もう剣一の顔色を伺って生きる必要はない。私は私の人生を、私自身の足で歩いていくのだ。
その時、廊下からバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。若い仲居が顔色を変えて部屋に駆け込んできた。
「女将さん、大変です!松の間のお客様がお怒りになっています」
さち子さんが鋭い視線を向けた。
「落ち着きなさい。何があったの?」
「お連れの若い女性のお客様が、薄いものの味が薄いと文句をおっしゃって、料理長を呼んで土下座させろと箸を投げ捨てたんです。と建設の大木社長も、困惑されているご様子で」
みほは社長の前で妻であるかのように振る舞い、権力を誇示したいのだろう。
「この店は客をバカにしているのか!女将を呼べ!」
遠くから剣一の怒鳴り声が聞こえてきた。剣一もまた、スタッフを怒鳴りつけることで自分の力を見せつけようとしているのだ。自分たちが今、誰の店でそんな振る舞いをしているのか、全く気づかずに。
さち子さんが厳しく眉を潜めて立ち上がろうとした。
「私が参ります。弓美様はこちらでおくつろぎください」
「いいえ」
私は静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「私も行きます」
さち子さんは驚いたように私を見た。
「しかし弓美様、表に出られれば、剣一様たちと鉢合わせになりますが」
「ええ、もう隠れる必要はありませんから」
私は立ち上がり、濃紺のスーツの襟を手で払った。バッグの中には、あの日の領収書と通帳のコピーが入っている。そして何より、今の私はただの捨てられた妻ではない。この衝の月の全ての責任を負う主人なのだ。
私はさち子さんの前に立ち、静かに歩き出した。長い廊下の先にある松の間。そこで勝ち誇っている二人が私の姿を見た時、果たしてどんな顔をするのか。襖に手をかけた瞬間、私の心は不思議なほど静まり返っていた。

「あんな女、ただの便利な介護要員ですよ。今日で縁が切れて本当に清々しています」
襖に手をかけようとした私の耳に、剣一の笑い声が飛び込んできた。
「奥様とは随分長く連れ添われたと聞いておりますが」
と建設の大木社長が気を遣って尋ねたのだろう。
「長年の妻というやつでしょう。とんでもない。ただ病気の母親の世話をさせるために家に置いておいただけです」
剣一はお酒が入っているのか、声が少し大きくなっていた。
「見た目も貧乏臭いし、一緒に外を歩くのも恥ずかしい女でしたからね。社長もご存知でしょう。愛想の効かない女のつまらなさ」
みほの嬌声がそれに重なる。
「本当ですよね。あんな地味で暗いおばさん、剣一さんには全然似合いません。私の方がずっと剣一さんを支えてあげられますから」
その短い会話は、どんな長い罵詈雑言よりも深く、私の心を真っ二つに引き裂いた。私は襖の前に立ったまま、息をするのも忘れた。25年間私が自分の人生を後回しにしてきた時間は、彼にとって「便利な介護要員」でしかなかった。築いてきたと思っていた絆は、私の一人相撲だったのだ。
体の奥から、氷水を浴びたような冷たい感覚が広がった。襖の縁に添えた右手が、小刻みに震えているのが分かった。義母の車椅子を押し、毎日のように安い食材を探してスーパーを歩き回った手。冬でも冷たい水で洗い物をし、ハンドクリームを塗る余裕もなく、あかぎれが絶えない私の手。悲しみよりも、あまりにも惨めな自分の姿に心が壊れそうになった。
その時、私の震える右手に、そっと温かいものが重なった。振り返ると、女将のさち子さんが黙って私の手を両手で包み込んでいた。さち子さんの目には、静かな怒りと私に対する深い慈愛の光があった。
「弓美様、あのような心ない言葉にお心を痛める必要は、全くございません」
その一言に、私はどれほど救われただろう。さち子さんは私の手にある小さな傷の跡を、愛しむように撫でてくれた。
「この手は、お父様が誰よりも誇りに思っていた。優しくて立派な手です。弓美様は何も恥じることはございません」
その言葉を聞いた瞬間、目頭が熱くなり、視界が滲んだ。父がいつも私を心配してくれていたことを思い出したからだ。けれど、私は瞬きをして涙を引っ込めた。ここで泣いてしまえば、私はまだ剣一に捨てられた哀れな妻のままだから。
私は深く息を吸い込み、衝の月の冷たい空気を肺まで入れた。さち子さんに小さく頷き返すと、手の震えは嘘のように止まっていた。もう傷つく時間は終わった。ここからは、私の人生を取り戻すための時間なのだ。
部屋の中からは、みほのお高くとまった声が続いていた。
「ちょっと、この薄いもの味が薄すぎない?私こういうのはもっと出汁が効いてないと嫌なのよね。早く新しいのを持ってきなさいよ」
茶碗を乱暴に置く音が聞こえた。大木社長の困惑したような咳払いが聞こえる。
「剣一君、少し声が大きい。他の客の迷惑になる。それに、この店の味はこれで素晴らしいんだ」
「社長、お気になさらず。こういう店は客がしっかり教育してやらなきゃダメなんですよ。少し名前が売れてるからって、ふんぞり返っている証拠です」
剣一の傲慢な声を聞きながら、私は姿勢を正した。もう迷いは一ミリもない。私は静かに、しかしはっきりとした手つきで襖を開けた。
すっと音もなく開いた襖の向こう。上座には大木社長が座り、その向かいに剣一とみほが偉そうにふんぞり返っていた。畳の上には、美しく盛り付けられた季節の会席の器が乱暴に押しやられている。
私が部屋に入ると、最初は誰も私だと気づかなかった。濃紺の上質なスーツを着て髪をきちんと整えた私は、今朝まで家でエプロンをつけていた私とは別人に見えたのだろう。
「遅いぞ。さっさと新しい料理と一番高い酒を持ってこい」
偉そうに怒鳴りかけた剣一が、私の顔を見て言葉を失った。持っていた箸がカランと音を立ててテーブルに転がり落ちる。
「お、お前、なんでこんなところにいるんだ?」
剣一の顔から、さっと血の気が引くのが分かった。みほも目を丸くして私を睨みつけた。
「ちょっと、なんでこのおばさんが勝手に入ってくるのよ。さっき裏口にいたストーカーじゃない。従業員も何をしてるのよ!」
みほは金切り声をあげたが、私は全く動じなかった。大木社長は突然現れた私の姿と、剣一たちの慌てぶりに目を白黒させている。
私は部屋の中央まで静かに進み、姿勢を正して立った。
「剣一さん、お料理が口に合わなかったようで、大変申し訳ありません」
私の声は、自分でも驚くほど冷静だった。剣一は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「ふざけるな!お前、俺に捨てられたからって、嫌がらせをしに来たのか?それとも慰謝料でもゆすりに来たのか?」
剣一はまだ私が惨めな元妻として、彼にすがりついているのだと思っている。
「こんな一流の店に、お前みたいな貧乏人が入ってきていい訳ないだろう。今すぐ出て行け!」
剣一は大声で怒鳴り、大木社長に媚びるような作り笑いを向けた。
「社長、大変申し訳ありません。こいつは私の元妻でして、離婚届を突きつけたら頭がおかしくなって、ここまで追いかけてきたんです。すぐに追い出しますから」
そう言って剣一は、私の腕を乱暴に掴もうと手を伸ばしてきた。しかし、その手が私に触れることはなかった。私の後ろから部屋に入ってきたさち子さんが、凛とした鋭い声で言ったからだ。
「お客様、当店の主人に触れることは、固くお断りいたします」
その言葉が部屋に響いた瞬間、空気がぴたりと止まった。剣一が伸ばした手は、空中で不自然に止まったまま。
「な、何を馬鹿なことを言ってるんだ。こいつはただの専業主婦だぞ」
剣一は状況が全く理解できず、引きつった笑いを浮かべた。みほも、「この女将、ボケてるんじゃないの?」と鼻で笑っている。
しかし、大木社長だけは違った。社長は私の顔をじっと見つめ、やがて何かを思い出したように、はっと息を飲んだ。
「あなたは、もしや……仙台の佐藤社長のお嬢さんですか?」
大木社長のその一言で、剣一の顔から完全に表情が消え去った。私は大木社長に向かって、静かにそして深く一礼した。
なぜと建設の社長が私の父のことを知っているのか。それは、私の手元にある1500万円の領収書。そして、と建設の裏金が、大木社長にとっても決して無関係ではない秘密だったからだ。その事実に気づいた剣一の顔色が、青から白へと急激に変わっていくのを、私は静かに見つめていた。

大木社長の言葉に、部屋の空気は一瞬にして凍りついた。剣一は目を白黒させ、私と社長の顔を交互に見比べた。
「し、社長、何をおっしゃっているんですか?こいつの父親は、ただの小さな町工場の親父ですよ。そんな人間が、この衝の月と何の関係が……」
剣一は必死に取り繕おうとしたが、声がひどく上ずっていた。先ほどまでの傲慢な態度は見る影もなく、額にはじわりと汗が滲んでいる。
大木社長は剣一の言葉を完全に無視して立ち上がり、私に向かって深々と頭を下げた。
「やはり、弓美さんですね。お父様のご葬儀以来です。あの時は私も海外出張中で、ご挨拶ができず申し訳ありませんでした」
私は静かに頭を下げ返した。
「お久しぶりです、大木社長。父の葬儀には立派なお花をいただき、本当にありがとうございました」
大木社長は感慨深げに、長い息を吐いた。
「私にとって、お父様は親以上の存在です。30年前、うちの会社が倒産しかけた時、無担保で莫大な資金を融通してくださったのが、お父様でした。あの恩は、一生忘れません」
その言葉に、みほが小さく悲鳴のような声をあげ、自分の口を手で覆った。剣一は完全に混乱し、口をパクパクとさせて、金魚のように息をしている。
「い、いや、莫大な資金?ちょっと待ってください。こいつはただのパート妻で、親父もただの貧乏な……」
「口を慎みなさい、剣一君」
大木社長の怒声が、静かな和室に響き渡った。びくっと肩を大きく揺らした剣一は、それ以上何も言えなくなった。社長の目は、剣一を鋭く、そして冷ややかに睨みつけていた。
「仙台の佐藤社長は、多くの企業を裏で支えた偉大な方だ。そして、この老舗両亭・衝の月のオーナーでもあった。君は自分の妻の父親がどんな人物か、それすら知らずに結婚していたのかね」
剣一は顔面を蒼白にし、よろけるように後ろに下がった。
「衝の月のオーナー……嘘だろ?弓美が、ここの主人だっていうのか」
私は剣一をまっすぐに見つめ、静かに口を開いた。
「ええ、そうです。父からこの店を引き継ぐ手続きは、今朝全てを終えました。今の私は、ただの都合のいい専業主婦ではありません。この衝の月の女大将です」
剣一の額から、滝のように脂汗が流れるのが見えた。自分が見下し、家から追い出した貧乏臭い妻が、自分が必死に媚びへつらっている一流両亭の主人だったのだから。剣一の小さなプライドは、音を立てて崩れ落ちていった。
みほは先ほどの余裕の態度は完全に消え失せ、震える手で剣一のスーツの袖を強く掴んでいた。
「剣一さん、どういうことですか?このおばさんがここのオーナーだなんて。私、聞いてませんよ」
「黙ってろ!」
剣一はみほの手を乱暴に振り払い、彼女を畳の上に突き飛ばした。そして急に態度を180度変え、私に向かって引きつった笑いを浮かべた。
「ゆ、弓美。なんだよ、そういうことなら早く言ってくれればいいじゃないか。水臭いな。俺たちは夫婦なんだからさ。なあ、社長もこうしてお見えなんだ。最高のおもてなしを頼むよ。な?」
そのあまりにも浅ましい言葉に、私は心の底から冷たい嘲笑を感じた。たった数分前まで「便利な介護要員」と言い捨てていた口で、よくもそんなことが言えるものだ。
私はさち子さんの方を振り返り、静かにしかしきっぱりと指示を出した。
「さち子さん、こちらのお席の料理、全てお下げしてください」
「弓美様、よろしいのでございますね?」
「ええ。私たちの店は、心を込めておもてなしをする場所です。料理に文句を言い、出汁が薄いと箸を投げ捨てるような方にお出しする食事は、一切ありません」
さち子さんは深く頷き、後ろに控えていた仲居たちに目配せをした。あっという間にテーブルの上にあった美しい会席の器や高級なお酒の瓶が片付けられていく。仲居たちの顔には、剣一たちに対する静かな怒りと、私への強い敬意が浮かんでいた。
「おい、何をするんだ!俺は客だぞ!ちゃんと予約して金を払うって言ってるだろう!」
「佐藤君、もう見苦しい真似はやめなさい」
大木社長が、氷のように冷え切った声で剣一を遮った。社長はすでに上着を手に持ち、帰る準備をして立ち上がっていた。
「社長、お待ちください!これから本題の入札の件について、大事なお話が……」
剣一が縋りつこうと手を伸ばしたが、大木社長はその手を冷たく払いのけた。
「入札の話は完全に白紙だ。長年連れ添った奥様を平気で裏切り、あろうことか若い娘を誑かすような男と、まともな仕事ができるはずがない。君の会社の社長には、私から直接連絡を入れておく。今日の接待は、なかったことにしよう。弓美さん、お騒がせして本当に申し訳なかった。また改めてご挨拶に伺います」
大木社長は私に一度だけ丁寧にお辞儀をし、襖を開けて部屋を出ていった。
残されたのは、真っ白に燃え尽きたような剣一と、震えるみほ。そして私とさち子さんだけだ。剣一が会社の運命と自分の出世を賭けていた大きな取引は、今、完全に崩れ去った。彼がこれまで積み上げてきた虚栄と嘘が、音を立てて崩れた瞬間だった。これが、私からの最初の小さな反撃だった。
「お前のせいだ」
剣一は床にへたり込んだまま、恨み言のようにうめくように呟いた。
「お前がこんなところにしゃしゃり出てきたから、俺の取引がパーになったんだ。許さないぞ。離婚の条件、絶対に最悪にしてやるからな。身一つで放り出して、地獄を見せてやる」
剣一は最後まで自分の過ちを認めようとはしなかった。自分がどれほど大きなものを失ったのか、そして私が握っている本当の証拠にまだ全く気づいていないのだ。
「お帰りは、こちらでございます」
さち子さんが凛と放ち、二人の前に立ちはだかった。剣一は真っ赤な顔で立ち上がり、泣きそうな顔をしているみほの腕を乱暴に掴んだ。
「行くぞ。こんな店、二度と来るか」
二人は逃げるようにして部屋から飛び出していった。遠ざかる足音を聞きながら、私は小さく息を吐いた。胸の重しが少しだけ取れたような、不思議な安堵感があった。
「弓美様、お見事でした。お父様もきっと喜んでおられますよ」
さち子さんが優しい声で、私をねぎらってくれた。
「ありがとうございます。でも、これで終わりではありません。剣一さんはまだ、自分が犯した本当の罪に気づいていませんから」
私はバッグの中の封筒を、服の上からそっと触れた。

衝の月を出た私は、その足で駅前にある大きな銀行の支店に向かった。父が亡くなる前、私にもう一つだけ託していたものがあったのだ。それは、小さな古い真鍮の鍵だった。
「本当に困った時、全てをひっくり返すものが必要になった時だけ、これを開けなさい」
父はそう言って、この銀行にある貸金庫の鍵を私に預けていた。
私は窓口で身分証明書を見せ、厳重な手続きを済ませて薄暗い貸金庫室に入った。重厚な金属の扉が並ぶ中、父が指定した番号の箱の前に立つ。鍵穴に古い真鍮の鍵を差し込むと、カチャリと重い音がして扉が開いた。
中に入っていたのは、茶色い皮張りの古い手帳だった。私はその手帳を手に取り、静かな貸金個室の中でそっとページを開いた。そこには父の几帳面な字で、何かの記録がびっしりと書かれている。日付、会社名、そして金額の動き。私はその内容を読み進めるうちに、手帳を握る指の力がだんだんと強くなっていった。
父は剣一の本性を疑い、個人的な手段を使って剣一の身辺調査を秘密裏に行っていたのだ。そしてそこには、剣一が隠しているもう一つの大きな裏切りが記されていた。
「まさか、お義母さんまで……」
私は思わず声をもらし、手帳のページを凝視した。手帳に書かれていたのは、私が想像もしていなかった恐ろしい事実だった。剣一が愛人に貢ぐための裏金。その資金源は、会社の横領だけではなかった。私の老後資金として積み立てていたはずの預金。そして、義母が私についていた大きな嘘。それがそこに、全て記録されていたのだ。
私は手帳をバッグにしまい、貸金個室を後にした。剣一の嘘は私が思っていたよりもずっと深く、そして残酷なものだった。けれど、不思議と涙は出なかった。次に私が向かうべき場所は、もう決まっていた。

銀行を出た私の足取りは、ひどく重いものだった。バッグに入れた父の古い手帳が、まるで石のように重く感じられた。
そこに書かれていたのは、父が調べ上げた剣一の裏の顔。剣一が会社の金を横領していたことだけではなかった。私が最も衝撃を受けたのは、手帳の後半に書かれていた記録だ。
私と剣一が老後のために少しずつ貯めていた定期預金の口座。私が毎日パートを掛け持ちして、毎月必死に振り込んでいたお金だ。剣一は「将来のために俺が管理する」と言って通帳を持っていた。
しかし、父の記録によると、その口座からは数年前から不自然な引き出しが続いていた。引き出された額は、合計で1000万円近くに上る。そして、そのお金の行き先は明確に二つに分かれていた。
一つは、剣一の愛人であるみほへの高価なプレゼント代や生活費。もう一つは、義母が入居している高級老人ホームの月々の費用だった。
「義母のホームの費用は、毎月剣一の給料から払っている。私はずっと剣一からそう聞かされていた。だからこそ、日々の生活費がどれだけ苦しくても、私が我慢するしかないのだと信じてきた」
自分の服も買わず、半額シールで食費を切り詰めていたあの時間。寒い中、紐付きの自転車でパートに通い、手が霜焼けになっても働き続けた日々。その裏で、彼らは私の汗と努力の結晶を、湯水のように使っていたのだ。
しかし、一つだけ大きな疑問があった。いくら剣一が通帳を持っていたとしても、定期預金を解約したり大きな金額を引き出すには、私の実印と身分証明が必要なはずだ。私は家に保管してある実印を、一度も剣一に渡したことはない。どうやって彼はお金を引き出したのか。
その答えも、父の手帳に隠されていた。
「義母が、弓美の実印を偽造し、代理人として銀行で手続きをしている」
その一文を読んだ時、私は目の前が真っ暗になった。義母は剣一の嘘を知っていただけではない。積極的に犯罪に加担し、私からお金を奪い取っていたのだ。
私が身を粉にして働き、寝る間も惜しんで義母の介護をしていたあの時期。私がスーパーへ夕飯の買い物に行っている隙に、義母は私の部屋を漁り、印鑑と通帳の影を盗み取っていたのだろう。
怒りよりも先に、あまりの馬鹿馬鹿しさに深い倦怠感が襲ってきた。私は駅前のベンチに座り、冷たい空の風を頬に受けた。見上げた空は、皮肉なほどに高く、青く澄んでいた。
「お父さん、あなたはここまで知っていたのね」
私は手帳を胸に抱きしめ、小さくつぶやいた。父は私を悲しませないために、あえて生前はこの事実を伝えなかったのだろう。私が自らの足で立ち上がり、決別する覚悟を決めるその時まで。
私はベンチから立ち上がり、タクシーを拾った。向かった先は、義母のいる高級老人ホームだ。今日こそ、義母の本当の顔を確かめなければ。

施設に着くと、私は面会受付を済ませ、義母の個室へと向かった。静かな廊下を歩く私の足音は、柔らかいカーペットに吸い込まれて消えていく。かすかに漂う消毒液の匂いが、私の心をさらに冷たく、落ち着かせた。
義母の部屋の前に立つと、中から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「本当に、とんでもない女だよ。俺の顔に泥を塗りやがって」
怒鳴っているのは、間違いなく剣一だった。ドアが少しだけ開いており、中の声が廊下に漏れている。衝の月から追い出された後、三人はここに集まっていたようだ。
「まあまあ、剣一。血圧が上がるわよ。落ち着きなさい」
義母の甘やかすような声が続く。
「でもお義母さん、剣一さんの出世がダメになったら、どうするんですか?」
みほの不満げな声も聞こえた。
私はドアの影に立ち、息を殺して部屋の中を覗き込んだ。剣一は部屋のソファにふんぞり返り、イライラと貧乏揺すりをしている。義母はベッドの上に座り、みほが買ってきたと思われる高級なメロンを食べていた。その首元には、以前見たあの鮮やかな水色のスカーフが巻かれている。
「大丈夫よ。あんな女、放っておけばいいのよ」
義母はメロンを口に運びながら、心底見下したような笑い声をあげた。
「弓美さんはね、ただの便利な火婦だったのよ。私が骨折した時も、ただで使える介護要員として家に置いといただけ。文句も言わずに下の世話までして、本当に馬鹿な嫁だったわ」
義母は悪びれる様子もなく、みほに向かってそう言った。みほは口元を手で隠し、くすくすと意地悪く笑っている。
「本当ですよね。あんな地味で暗いおばさん、早く捨てちゃえばよかったのに。一緒に歩く剣一さんがかわいそうでしたよ。それに、あの子がパートで貯めたお金、まだ残ってるんでしょ?」
義母のその言葉に、剣一がニヤリと嫌な笑いを浮かべた。
「ああ、母さんが俺に渡してくれたあの通帳な。まだ500万はあるはずだ。離婚の慰謝料代わりに。あれは全部、俺たちがもらうからな。あの女には一円も渡さない。あいつには、実家のボロい両亭でも継がせておけばいいんだよ。借金まみれになって苦しめばいいさ」
自分たちが私の口座からお金を盗んでいるという罪悪感など、彼らには一ミリもなかった。むしろ、私を騙し通すことを賢いことだと思っているのだ。
「それじゃあ、そのお金でハワイ旅行に行きましょうよ、剣一さん」
「そうだな。母さんも一緒に行こう。弓美の金で行くハワイは、最高だろうな」
三人の下品な笑い声が、静かな個室の中に響き渡った。
私は廊下の壁に手をつき、冷たい壁の温度を感じた。胸の奥で何かが完全に冷え切り、石のように固まるのを感じた。これ以上、この人たちに情けをかける必要はない。
私はドアを開けて怒鳴り込むことはしなかった。今の彼らに何を言っても、言い訳と罵倒が返ってくるだけだ。私はバッグから一枚のハンカチを取り出した。それは以前、義母が「安っぽくて柄が気に入らない」と言って私に投げつけたものだ。私はそのハンカチを、そっとドアの取っ手にかけておいた。私がここに来て、全ての話を聞いていたという小さな印だ。
静かに踵を返し、その場から離れた。歩きながら、私は弁護士の木村先生に短いメッセージを送った。
「先生、例の口座の完全な凍結と、横領の証拠の提出を直ちにお願いします」
数分後、木村先生から返信があった。
「承知いたしました。全て完了しています」
スマートフォンをバッグにしまった瞬間、私の足取りは不思議と軽くなった。もう、過去の温かい思い出にすがるのはやめよう。
私はタクシーに乗り、誰もいない自分の家へと戻った。部屋の中は静かで、時計の針の音だけが響いている。テーブルの上には、私が判を押した離婚届が置かれたままだった。
そして、その夜、剣一から一通の短いメッセージが届いた。
「明日、親族を集めて話し合いをする。必ず家に戻ってこい。お前には一円も渡さない。覚悟しておけ」
スマートフォンの画面を見つめながら、私は静かに笑った。彼らはまだ、自分が立っている足元が完全に崩れ始めていることに、全く気がついていないのだ。

その夜、剣一が家に帰ってきたのは、日付が変わる直前だった。玄関のドアが乱暴に開く音が、静かな家の中に響いた。私はリビングの隅に置いた小さなスーツケースの横で、静かに座っていた。
剣一は土足のままリビングに上がり込み、私を冷たい目で見下ろした。
「まだいたのか。まあいい。ちょうど話があったところだ」
剣一は持っていた鞄から数枚の分厚い書類を取り出し、テーブルに叩きつけた。それは財産分与に関する合意書と、慰謝料の請求書だった。一番上の紙には「妻は一切の財産を放棄し、家の所有権も夫に譲る」と書かれていた。さらにその下には、私に対する500万円の慰謝料請求まで記載されていた。
「明日の昼、本家の座敷で親族会議を開く。兄貴たちも全員来る。そこで、お前がこれにサインするんだ」
剣一の声には、一切の情がなかった。
「今日、お前がストーカーみたいに衝の月に乗り込んできたせいで、社長の機嫌を損ねて取引がパーになったんだ。その損害賠償として、お前の貯金は全て俺がもらう」
剣一の論理は、あまりにも身勝手でねじ曲がっていた。自分が裏金を作ろうとしていたことや、愛人を連れ込んでいたことは完全に棚に上げている。私が社長に何か嘘をついて、彼の取引を邪魔したのだと思い込んでいるのだ。
私は書類を見つめたまま、何も答えなかった。私が反論しないのを見て、剣一は完全に自分が勝ったと確信したようだった。
「黙りか。まあいい。明日になれば、お前は親戚中から袋叩きだ。長年俺を騙し、勝手な真似をした罰を受けさせてやる」
剣一はどかっとソファに座り込み、自分のスマートフォンを取り出した。
「俺は今から、みほとハワイ旅行の予約をする。お前がちまちま貯めた金で、最高級のスイートルームを取ってやるよ」
彼は画面をタップし、クレジットカードの番号を入力しているようだった。私は自分の両手を膝の上で重ね、その様子を静かに見ていた。
数分後、剣一の指先がぴたりと止まった。
「あ?なんだこれ」
剣一は首を傾げ、もう一度画面を強くタップした。また何度か操作し、やがてイライラし始めた。
「おい、どうなってんだ?カードが使えないじゃないか」
「このカードは、お取り扱いできません」
剣一は舌打ちをして、別のカードを取り出し、再び番号を入力した。しかし結果は同じだった。
「ちっ、なんだよ。深夜のシステムメンテナンスか?使えない銀行だな。まあいい。明日の朝一番で、窓口で直接現金を引き出してやる」
剣一はスマートフォンをソファに投げ出した。彼は全く気づいていなかった。それがシステムエラーなどではないこと。すでに木村弁護士の手によって、剣一の名義の口座も、私が貯めていた口座も、完全に凍結されているということに。
剣一の小さな苛立ちを見て、私の胸の奥に冷たい満足感が広がった。彼の足元は、もう音を立てて崩れ始めているのだ。
「おい、何ぼさっと見てるんだ。目障りだから、さっさと寝室に行け。俺はここで寝る」
剣一はネクタイを乱暴に引き抜きながら、私を顎で追い払った。私はゆっくりと立ち上がり、自分のスーツケースの持ち手を握った。
「私は、ここを出ていきます」
私がそう言うと、剣一は鼻で笑った。
「ああ、そうしろ。どうせ明日になれば追い出されるんだ。この家は、俺とみほが新しく住む。お前が選んだダサいカーテンも家具も、全部捨ててやるよ」
私は部屋の中をぐるりと見渡した。壁紙の少し剥がれたところは、剣一が機嫌が悪い時に灰皿を投げつけた跡だ。私が毎日綺麗に磨いていたキッチン。義母が車椅子で通れるようにと、私がパート台を削ってリフォームした廊下の傷。25年間の私の人生が、この家の至るところに刻まれていた。
あの頃は、家族の笑顔を守るためならどんな苦労も耐えられると思っていた。けれど、私が必死に守ろうとしていたものは、最初から存在しなかったのだ。もう、この場所に未練は全くなかった。
私はテーブルの上に置かれた離婚届の横に、家の鍵をそっと置いた。カチリと小さな音が響いた。
「今まで、お世話になりました」
私は剣一に向かって、深く頭を下げた。それは感謝ではない。彼に従順だった「佐藤弓美」という都合のいい妻としての、最後の別れだった。
「ふん。負け犬が。明日の昼、本家には必ず来いよ。逃げたら、警察を呼ぶからな」
剣一の罵声を背中で聞きながら、私は静かに玄関のドアを閉めた。
外には、冷たい夜風が吹いていた。私はスーツケースを引きながら、夜の道を歩き出した。向かったのは、衝の月の近くにある小さなビジネスホテルだった。
ホテルの簡素なベッドに横たわっても、すぐには眠れなかった。目を閉じると、父の優しい顔が浮かんだ。
「弓美、自分の心まで殺してはいけない」
父の言葉が、今の私を強く支えてくれていた。剣一は私を徹底的に追い詰めたつもりでいる。親族を集めて私を孤立させ、全ての財産を奪い取ろうとしている。私を悪者にして、自分たちは被害者のふりをするつもりなのだろう。
けれど、私の中の覚悟はすでに、石のように固まっていた。明日、私はこれまでの25年間を、全て終わらせる。

翌朝、空は雲一つない快晴だった。私は昨日と同じ、濃紺の上質なスーツに身を包んだ。父が最後に買ってくれた、私に一番似合う服だ。結婚指輪も、剣一からもらった安っぽいアクセサリーも、全て外した。代わりに、父のお守りである一粒パールのネックレスだけを身につけた。鏡の中の私は、もう怯えて泣くだけの女ではない。
スーツケースはホテルに預け、小さな黒いバッグだけを持った。バッグの中には、父の手帳と、木村弁護士から受け取った数枚の書類が入っている。
私はタクシーに乗り、剣一の実家である本家へと向かった。本家の立派な門の前には、すでに親戚たちの車が何台も止まっていた。中からは、大勢のざわめき声が聞こえてくる。きっと、剣一が私の作り話を面白おかしく吹き込んでいるのだろう。
私が門をくぐり、玄関の重い引き戸の前に立ったその時。バッグの中のスマートフォンが、小さく震えた。画面を見ると、木村弁護士からの短いメッセージだった。
「準備は全て整いました。後ほど、お約束の時間に参ります」
その文面を見た瞬間、私の唇に小さな笑みが浮かんだ。私は深呼吸をし、冷たい引き戸に手をかけた。この扉の向こうで、私を待ち受けている悪意の数々。彼らがどんな表情で崩れ落ちるのか。
私はゆっくりと、扉を横に引いた。

重い引き戸を横に引くと、古い木の擦れる音が響いた。本家の広い座敷には、すでに15人ほどの親族がずらりと座っていた。私が部屋に入った瞬間、全員の視線が一斉に私に突き刺さった。その目には、哀れみと明らかな軽蔑の色が浮かんでいた。
部屋の奥、一番上座には剣一が偉そうにあぐらを描いている。その隣には義母が座り、さらにその横には親族でもないみほが座っていた。みほはまるで新しい女将のように、親戚たちにお茶を配っている。その異様な光景に、私は静かに息を吐いた。
「遅いぞ。さっさとそこに座れ」
剣一が顎で指し示したのは、入口に一番近い下座の冷たい畳だった。私は何も言わず、指定された場所に正座した。膝の横に、父の手帳が入った黒いバッグを静かに置く。
「皆さんもご存知の通り、俺はこの女と離婚することになりました」
剣一はまるで悲劇の主人公のような顔を作って、話し始めた。
「こいつは長年、家事もロクにせず、俺の稼いだ金を無駄遣いしてきました。その上、昨日は俺の重要な接待の席に乗り込んできて、取引を台無しにしたんです。そのせいで、俺の会社での立場はめちゃくちゃです」
親戚たちから、ひそひそと非難の声が起こった。
「まあ、弓美さんがそんな非常識なことを。剣一君がずっと我慢していたのね。可哀想に」
剣一の叔父や叔母たちが、私を冷たい目で見ながら囁き合う。私は言い訳一つせず、ただ剣一の顔をじっと見つめていた。嘘を並べ立てる夫の口元が、わずかに歪んでいるのが分かる。
義母も半泣きで目頭を抑えるふりをしながら言った。
「私もね、このお嫁さんにはずっといじめられてきたのよ。私が骨折して動けなかった時も、冷たいご飯を置かれただけで、本当に辛い日々でした」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で過去の記憶が鮮明に蘇った。義母が骨折していたあの時期。私が毎日温かいお粥を作り、スプーンで一口ずつ食べさせていたあの日々。義母はその恩を忘れただけでなく、私を悪者に仕立て上げているのだ。
しかし、私の心は不思議なほど冷静だった。怒りよりも、父の手帳にあった記録と過去の出来事が、一つの線で繋がっていくのを感じていたからだ。
父の手帳には、私の定期預金から大金が引き出された日付が記されていた。3年前の5月10日。そして2年前の10月15日。その日付に、私ははっきりとした覚えがあった。どちらの日も、義母が「昔の知り合いが遠くの病院に入院したから、代わりにお見舞いに行ってきてほしい」と私に頼んだ日だ。
「私の保険証を身分証明代わりに持っていきなさい」
義母はわざわざ、自分の保険証と私の保険証を一緒にケースに入れて渡してきた。あの時、私は何の疑いも持たず、片道2時間もかかる遠方の病院へ向かった。しかし、教えられた病室には誰もいなかったのだ。帰宅して義母に報告すると、「あら、病院の日を間違えていたみたい」と笑って誤魔化された。
私は今、その本当の意味を完全に理解した。義母は私を家から遠ざけるために、あのお見舞いをでっち上げたのだ。そして私が留守の間に、私の部屋の引き出しから実印を盗み出した。さらに、私が置いて行った私の保険証を使い、銀行の窓口で私になりすまして、定期預金を解約したのだ。義母の年齢なら少し若作りをすれば窓口の係員を誤魔化すこともできたかもしれない。あるいは「嫁の代理で来た」と言って、巧みに手続きをすり抜けたのかもしれない。
全ては、私のお金を盗み出し、剣一と愛人に貢ぐための巧妙な計画だった。私が毎日一円を節約して生きていた裏で、この親子は私を欺きながら、私のお金を奪っていたのだ。
「おい、聞いてるのか?」
剣一の怒鳴り声で、私は過去の記憶から引き戻された。剣一は一枚の書類を畳の上に滑らせ、私の前に投げた。昨日、テーブルの上に置かれていた財産分与の合意書だ。
「それにサインして、実印を押せ。お前が俺の取引を台無しにした損害賠償として、お前の名義の貯金は全て俺がもらう。この家からも、今日すぐに出て行け」
剣一の言葉に、親族たちは深く頷いた。
「それが当然だわ。これ以上、剣一君たちを困らせないでちょうだい」
叔母たちから飛んでくる冷たい言葉。みほは勝ち誇ったような顔で、私を見下ろしていた。彼女はすでに、この家の新しい妻としての居場所を手に入れたつもりなのだろう。しかし、彼女もまた気づいていない。剣一が自分に貢いでいたお金が、どこから出たものなのかを。
私は目の前にある書類を見つめた。そして、ゆっくりと顔を上げ、初めて口を開いた。
「剣一さん、一つだけお聞きしてもいいですか?」
私の静かで低い声に、部屋の空気が一瞬だけピンと張り詰めた。剣一は少しだけ眉を潜めた。
「なんだ、今更謝っても遅いぞ」
「私の名義の貯金をもらうとおっしゃいますが、その口座には、今いくら残っているかご存知ですか?」
私の問いかけに、剣一は鼻で笑った。
「ふん。お前がちまちま貯めた金だろ。500万円くらいは残ってるはずだ」
「500万円ですか。私は小さく繰り返し、今度は義母の方へ視線を向けた。義母は私の冷たい視線に気圧され、びくりと肩を揺らした。
「私が毎月パートで貯めていた定期預金は、本来なら1500万円になっているはずです。残りの1000万円は、一体どこへ消えたのでしょうか?」
その言葉が落ちた瞬間、義母の顔からさっと血の気が引いた。剣一も一瞬だけ言葉に詰まり、慌てて声を荒げた。
「な、何を言ってるんだ?お前が勝手に生活費で使い込んだんだろう。俺は通帳なんて見てない」
「いいえ。剣一さんは、知っているはずです。あなたがそのお金をどう使ったかを」
私は静かにバッグの中から、一枚のコピー用紙を取り出した。それは書斎のゴミ箱から拾い上げた、あの1500万円の振り込み受付書のコピーだ。私はその紙を剣一に向かって、静かに差し出した。
剣一はそれを見た瞬間、唾を大きく飲み込んだ。顔色が蒼白になり、小刻みに手が震え始めた。
「な、なんで、お前がこれを持ってるんだ……捨てたはずじゃ……」
剣一の声はかすれて、うまく出ていなかった。親族たちが「なんだ、あれは」「どうしたんだ」とざわめき始めた。みほも状況が分からず、不思議そうな顔をして覗き込もうとした。
「剣一さん、その紙、なんですか?」
「見なくていい!」
剣一は紙をひったくるように奪い取り、裏返しにして畳に押し付けた。その異常な慌てぶりに、親族たちの間にも困惑が広がり始めた。
「お義母さん」
私は今度は義母に向かって、静かに呼びかけた。
「3年前の5月10日。私に遠くの病院へお見舞いに行くよう頼んだ日。あなたは私の部屋から実印を持ち出し、私の保険証を使って、銀行で手続きをしましたね」
義母は目を大きく見開き、口をパクパクとさせた。
「な、何のことを?私はそんなこと知らないわよ。この嫁は、息を吐くように嘘をつくんです!」
義母は必死に親戚たちに訴えかけたが、その声はひどく上ずっていた。私は決して声を荒げることなく、静かに言葉を続けた。
「ご存知ないですか。では、どうして昨日、剣一さんのクレジットカードが急に使えなくなったのでしょうか?」
その言葉に、剣一が弾かれたように顔を上げた。
「お前、まさか、昨日、俺のカードが使えなかったのは……」
剣一は自分のスマートフォンを取り出し、震える手で銀行のアプリを開いた。画面を見た彼の顔が、完全に絶望の色に染まった。
「口座が……凍結されてる。俺の給与口座も、全部……」
剣一がうめくようにつぶやいた。そうです。彼らが勝手に私のお金を動かせないように、そして横領の証拠を隠滅できないように、木村弁護士がすでに全ての手続きを終えていたのだ。これが、私からの二つ目の小さな反撃だった。
「どういうことよ、剣一さん!ハワイの予約は?」
みほが声を荒げ、剣一の腕を揺さぶった。しかし剣一はもう、みほの言葉など耳に入っていないようだった。ただ、畳に押し付けた振り込み受付書のコピーを、恨めしそうな目で見つめている。
私は目の前にある財産分与の合意書を、静かに半分に破った。ビリッと言う乾いた音が、静まり返った座敷に響いた。
「私は、この書類にはサインしません。なぜなら、あなたたちが私に要求している財産分与の前提そのものが、犯罪によって作られた嘘だからです」
親族たちが息を飲む音が聞こえた。剣一は破られた書類を見つめ、ぎりっと奥歯を噛みしめた。
「ふざけるな!お前なんかの言葉、誰も信じるわけないだろう!」
剣一が最後の力を振り絞るように、私に向かって怒鳴った。自分たちが追い詰められていることを認められず、ただ吠えることしかできない哀れな姿だった。
その時だ。本家の玄関のチャイムが、静かな家の中に大きく響き渡った。そして、玄関の引き戸が開く音がして、低く落ち着いた男性の声が廊下から聞こえてきた。
「佐藤弓美さんの代理人で参りました。弁護士の木村と申します」
その名前を聞いた瞬間、剣一の手からスマートフォンが畳に滑り落ちた。私は静かに立ち上がり、襖の方へ向き直った。いよいよ、全ての真実が白日のもとに晒される時間が来たのだ。

廊下から静かで落ち着いた足音が近づいてきた。古い襖がゆっくりと開き、グレーの上質なスーツを着た木村弁護士が姿を現した。木村先生は部屋の中を一度静かに見渡し、下座に座る私に向かって小さく頷いた。そして、私の隣に音もなく腰を下ろした。
突然の部外者の登場に、座敷に集まっていた親族たちはざわめき始めた。剣一は一瞬だけひるんだように体を揺らしたが、すぐに無理やり大きな笑い声をあげた。
「はっ!弁護士だと?お前、俺の稼いだ金を使って、こんな安っぽい弁護士を雇ったのか?」
剣一は立ち上がり、木村先生を指差して見下した。
「先生だか何だか知らないが、ここは由緒ある佐藤家の本家の親族会議だ。あんたのような部外者が口を出す幕は一切ない。さっさと帰らないと、不法侵入で警察を呼ぶぞ」
剣一の強気な言葉に気圧され、親戚たちも次々と声を上げ始めた。
「そうよ。家族の神聖な話し合いに、水臭い他人が首を突っ込むなんて非常識だわ」
「弓美さん、あなた本当に頭がおかしくなったんじゃないの?剣一君がこんなに優しくしてくれているのに」
親戚たちの冷たい非難の声が、広々とした座敷の中に響き渡る。義母もここぞとばかりに大げさな芝居で、半分泣き顔を装った。
「皆さん、どうか聞いてください。この嫁は昔から、自分の都合が悪くなるとすぐに嘘をつくんです。私のお金まで盗もうとしたこともありました。今日も、自分が浮気をしているのを隠すために、こんな大芝居を打って……」
義母の白々しい嘘泣きに、親戚たちは「剣一君が可哀想に」「長男の嫁としての自覚が足りない」と深く頷いた。剣一は完全に勢いを取り戻し、勝ち誇った顔で私を見下ろした。彼は自分がこの空間を完全に支配していると信じきっていた。私がいくら弁護士を連れてこようと、親族全員が自分を支持している。多勢に無勢。私がこの場で押し潰され、泣いて謝るのは時間の問題だと思っているのだろう。
「おい、これを見ろ」
剣一は自分の鞄から一枚の緑色の紙を取り出し、高く掲げた。それは、昨日の朝、私が実印を押した離婚届だった。
「弁護士先生、残念だったな。こいつはもう、この離婚届に自分の意思で実印を押してるんだよ。つまり、俺たちはもう赤の他人だ。こいつはこの家から身一つで追い出されるだけの、ただの部外者なんだよ」
剣一は離婚届をばさりと振って、私を鼻で笑った。
「財産分与だって、こいつが俺に迷惑をかけたんだ。全額、俺がもらうことで合意してる。あんたが何を言おうと、法的には俺の完全な勝ちなんだよ」
剣一はそう言って、勝ち誇ったように腕を組んだ。
「剣一さんの言う通りです。さっきから聞いていれば言いがかりばかり。剣一さんのお金を当てにするなんて、本当に惨めなおばさんですね。空気が悪くなるので、早く出て行ってください」
みほも得意げに口を挟んだ。二人は自分たちが完全に勝利したと確信し、冷たい笑いを浮かべている。親族たちも「そうだ。さっさと出て行け」と口々に私を罵った。まるで私という悪者を一丸となって退治しているかのような空気だった。
しかし、私は一切動じなかった。膝の上に置いた両手は、もう少しも震えていない。私はただ、剣一とみほの得意顔を静かに見つめていた。彼らが勝ったつもりで高く登れば登るほど、落ちる時の衝撃は大きくなる。私はそれを知っていたからだ。
木村先生は親族たちの罵声を気にする様子もなく、静かに眼鏡の位置を直した。そして、鞄の中から分厚い黒いファイルを取り出し、畳の上に置いた。
「剣一さん。あなたが手にしているその離婚届ですが、弓美さんの自由な意思で押されたものだとおっしゃるのですね?」
木村先生の低く落ち着いた声が、騒がしかった座敷に静かに響き渡った。
「当たり前だろう。こいつが自分で押したんだ」
剣一が怒鳴り返すと、木村先生はファイルを開いた。
「なるほど。では、こちらの書類はどうでしょうか?」
木村先生が取り出したのは、一枚の古びた書類のコピーだった。それは銀行の窓口で使われる、預金引き出しの依頼書だった。
「これは3年前の5月10日に、弓美さんの定期預金口座から500万円が引き出された際の依頼書です。ここには、弓美さんの署名と実印がされています。しかし、おかしなことが一つあります」
親族たちのざわめきが、少しずつ静まっていった。全員の視線が、木村先生の手元にある書類に集まる。
「この署名の筆跡は、弓美さんのものではありません。筆跡鑑定に出すまでもなく、明らかに別人のものです。そして、銀行の防犯カメラの記録を確認したところ、この日、窓口を訪れたのは弓美さんではありませんでした」
木村先生はそこで言葉を切り、ゆっくりと義母の方を見た。
「窓口を訪れたのは、剣一さんの母親であるあなたですね」
その言葉が落ちた瞬間、義母の顔から完全に血の気が引いた。さっきまで嘘泣きをしていた顔が、土色に変わっている。
「だ、何を言ってるの?私は知らないわよ!その日はずっと家にいたわ!」
義母は震える声で激しく否定したが、その目は左右に泳いでいた。
「銀行には当時の防犯カメラの映像が保管されています。警察の捜査が入れば、すぐに特定されるでしょう」
木村先生の静かな声に、義母は言葉を失い、畳の上に崩れ落ちそうになった。親族たちが、信じられない顔で義母を見つめ始める。
「おばさん、本当なのか?弓美さんの預金を勝手に引き出したのか?」
私を非難していた親戚たちの間に、深い疑念の影が広がり始めた。
「で、出鱈目だ!そんなもの、何かの間違いだろう!」
剣一が慌てて声を上げたが、その声には先ほどの勢いはない。木村先生はさらに、ファイルから別の書類を取り出した。
「剣一さん。あなたのご自身の口座についても、お話ししておきましょう」
木村先生は数枚の銀行の取引明細を畳の上に並べた。
「あなたの口座には、毎月決まった日に、と建設からの入金がありますね。名目はコンサルタント料となっていますが、あなたの会社は副業を厳しく禁止しているはずです」
剣一の顔が、今度は真っ赤になった。
「しかも、そのお金の大部分は、すぐにある女性の口座に送金されています」
木村先生の鋭い視線が、剣一の隣に座っているみほに向けられた。突然の矛先に、みほはびくりと肩を震わせた。
「高橋美保さん。あなたが毎月30万円もの送金を受け取っていた理由について、この場で明確な説明をお願いできますか?」
みほは目を白黒させ、助けを求めるように剣一の腕を掴んだ。
「け、剣一さん、何これ?私、何も知らないわよ!」
みほは甲高い声で叫んだが、剣一は一言も発することができなかった。
座敷の空気は、完全に変わった。私を袋叩きにしようとしていた親族たちの冷ややかな目は、今や剣一と義母、そしてみほに向けられている。彼らが勝ったつもりで高く積み上げた嘘の城が、足元から音を立てて崩れ始めていた。

義母の震える手が、テーブルの上の湯呑みに当たった。ガチャンという音と共に、熱いお茶が畳の上にこぼれ広がった。しかし、誰もそれを拭こうとはしなかった。
親族会議という名の、私を追い出すための茶番劇。その舞台は今、彼ら自身を裁く法廷へと変わろうとしていた。けれど、これはまだ序章に過ぎない。木村先生のファイルの中には、剣一の人生を完全に終わらせる最大の事実が眠っている。あの衝の月で剣一が社長の前で見下した、私の本当の正体。その真実が明かされる瞬間を、私は静かに待っていた。
親族たちの冷たい視線が、剣一と義母に突き刺さった。これまで私を非難していた声は、ぴたりと止んでいた。代わりに、重く苦しい沈黙が座敷を支配している。
本家の当主である叔父の数郎さんが、腕を組んで重々しく口を開いた。
「剣一、これはどういうことだ?お前、会社の金を横領して、この女に貢いでいたのか?」
数郎さんの声は低く、怒りで震えていた。剣一は顔を真っ赤にして、両手を激しく振った。
「ち、違います!これは全部、弓美が仕組んだ罠です!俺を落とし入れるために、こんな書類を作ったんです!」
剣一の言い訳は、あまりにも見苦しいものだった。銀行の記録や防犯カメラの映像があると木村先生が言っているのに、まだ嘘を突き通そうとしているのだ。
叔母ののり子さんが、冷ややかな声で言った。
「偽の書類?銀行の防犯カメラの映像はどう説明するのよ。それに、弓美さんがどうやってあなたの会社の取引記録を偽造できるっていうのよ」
その正論に、剣一は言葉に詰まった。あんなに偉そうにしていたのに、裏では泥棒だったなんて。自分を支持してくれると信じていた親族たちが、次々と自分から離れていくのを感じたのだろう。剣一の額から、嫌な汗が流れ落ちた。
その見苦しさに、一番最初に耐えられなくなったのは、みほだった。
「私、関係ありません!」
みほは突然立ち上がり、剣一からさっと距離を置いた。
「剣一さんが、自分はお金持ちだから毎月お小遣いをあげるって言うから、もらっただけです。それが会社の裏金だなんて、私、本当に知らなかったんです!」
みほは自分だけは助かろうと必死だった。先ほどまで剣一の腕にすがりつき、私を「惨めなおばさん」と見下していた面影は、どこにもない。
「おい、みほ!お前、俺を裏切るのか!」
剣一は裏返った声で叫び、みほの腕を掴もうとした。しかし、みほはその手を、汚いものでも見るように激しく振り払った。
「触らないで!横領なんて立派な犯罪じゃない!私まで巻き込まれたら、どうしてくれるのよ!あなたが部長だって言うから付き合ってあげてたのに、ただの泥棒じゃない!」
つい数分前まで勝ち誇って私を見下していた二人の絆は、あっけなく崩れ去った。愛などではなく、ただのお金と虚栄で繋がっていただけの関係だったのだ。仮面が剥がれ落ちた途端、残ったのは見苦しい責任の押し付け合いだけであった。
義母も、親戚たちの冷たい目に耐えきれず、顔を真っ赤にして叫んだ。
「わ、私は……ね。ただ、少し借りただけなのよ!弓美さんは私のお嫁さんなんだから、家族のお金を使ったって、犯罪にはならないでしょう!」
義母のその言葉に、親族たちは一斉に深い吐息をもらした。呆れ果てて、言葉も出ないという空気だった。
「おばさん、それは泥棒の言い訳と同じですよ」
数郎さんが冷ややかに言い放った。
「嫁の金を勝手に引き出して、愛人に貢ぐ息子の手助けをするなんて……佐藤家の恥だ」
義母は言葉を失い、畳の上に崩れ落ちた。私は怒鳴りもせず、笑うこともせず、ただ自分の足元が崩れていくのを必死に誤魔化そうとする彼らの姿を、静かに見つめていた。これが、人を裏切り、平気で傷つけてきた人間たちの末路なのだ。

しかし、剣一はまだ諦めていなかった。彼はネクタイを乱暴に緩め、目を血走らせて数郎さんに向かって叫んだ。
「おじさん!俺は中堅商社の部長ですよ!将来は役員になる人間です!こんな女の作り話で、俺のキャリアを潰す気ですか?」
剣一は自分の地位と名誉を、最後の盾にしようとしていた。
「俺は昨日も、と建設の大木社長と、あの老舗両亭・衝の月で大事な接待をしていたんです!と建設とパイプを持てるのは、俺しかいないんですよ!俺が失脚したら、佐藤家にとっても大きな損失になるはずだ!」
剣一の口から衝の月という名前が出た瞬間、私は小さく息を吐いた。彼はまだ、自分がどれほど絶望的な状況にあるのか、全く理解していないのだ。
私は静かに剣一の目を見つめた。
「剣一さん。あなたは昨日、衝の月で、大木社長に何と言われましたか?」
私の問いかけに、剣一は顔を歪めた。
「お前が勝手に乗り込んできて、社長の機嫌を損ねたんだろう!お前みたいな貧乏臭い女があんな高級な場所に来るからだ!」
剣一は唾を飛ばしながら怒鳴った。
「俺は社長に謝罪して、また必ず接待の席を設けるつもりだ。衝の月だって、俺みたいな上客を逃したくはないはずだ!」
「剣一さん」
木村先生が、静かにファイルから最後の一枚の書類を取り出した。
「あなたが今、頼りにしているそのお仕事についてですが」
木村先生の言葉に、剣一はびくりと肩を揺らした。
「昨日の夕方、あなたの会社の社長から私の事務所に直接連絡がありました。と建設の大木社長から、あなたとの取引を白紙にするという強い申し入れがあったそうです」
剣一の顔から、完全に表情が抜け落ちた。
「な、なん……だと……」
「大木社長は、あなたが会社の規定に違反し、裏取引を持ちかけてきたこと。そして何より、恩人である人物を深く侮辱したことに、激しい怒りを感じておられました」
木村先生の言葉が、静かな座敷に冷たく響き渡る。
「あなたの会社は事態の重大さを重く見て、本日付けで、あなたを懲戒解雇にする手続きを進めています。横領の件も、すでに社内調査が始まっているとのことです。あなたが送金した口座の記録も、全て会社側に提出済みです」
剣一の口がパクパクと動いたが、声は出なかった。自分が全てを支配していると思っていた会社での立場。みほに自慢していた「部長」という肩書き。それらが全て、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
その時、剣一のスーツのポケットで、スマートフォンの着信音が鳴り響いた。画面には「社長」の文字が光っている。剣一は震える手でスマートフォンを手に取り、耳に当てた。
「は、はい。剣一です……」
電話の向こうから、激しい怒鳴り声が漏れ聞こえてきた。
「お前、会社に何の許可もなく、と建設に裏取引を持ちかけたそうだな!しかも、会社の金を横領して、愛人に貢いでいただと!今すぐ会社に来い!警察に突き出すぞ!」
剣一の顔は土色になり、手からスマートフォンが畳に滑り落ちた。
「終わった……」
剣一は虚ろな目で宙を見つめ、畳の上にへたり込んだ。みほは小さな悲鳴を上げて、顔を覆った。
しかし、まだ一番大切な真実が、明かされていない。なぜ、と建設の社長がそこまで激怒したのか。剣一が侮辱した「恩人」とは、一体誰のことなのか。私が何者であるのかを、剣一と親族たちに知らしめる時が近づいていた。

その時、本家の門の外に、一台の黒い高級車が静かに止まる音が聞こえた。車のドアが開き、誰かがゆっくりと門をくぐって歩いてくる足音が響く。砂利を踏むその足音は、静寂に包まれた本家の庭にはっきりと響き渡った。親族たちが何事かと一斉に縁側の方へ視線を向けた。足音は玄関を通り抜け、私たちがいる座敷へとまっすぐに近づいてくる。私は姿勢を正し、静かにその人物を迎え入れる準備をした。私の過去に決着をつけ、新しい人生を始めるための最後の証人が、やって来たのだ。
剣一のスマートフォンが畳に滑り落ちた音は、静まり返った座敷に大きく響いた。会社からの懲戒解雇。そして、横領による警察への通報。剣一がこれまで人生の全てをかけて守り、私を見下すための道具にしてきた地位と収入が、たった一本の電話で完全に消滅した瞬間だった。剣一は畳の上に両手をつき、まるで糸の切れた操り人形のように動かなくなった。
「お兄ちゃん……」
剣一の妹が、怯えたような声を出したが、それ以上は誰も言葉を継がなかった。親族たちの目は、すでに剣一を家族としてではなく、一族の恥として見ていた。少し前まで私に向けられていた冷たい視線は、今や完全に剣一と義母、そしてみほに向けられている。座敷の空気は、息苦しいほどの重い沈黙に包まれていた。
その沈黙を破ったのは、本家の門の外から聞こえてきた車のエンジン音だった。高級車特有の低く静かな音が止まり、やがて車のドアが開く音が聞こえた。砂利を踏む規則正しい足音が、玄関に向かってゆっくりと近づいてくる。親族たちが何事かと一斉に縁側の方へ首を向けた。
「ごめんくださいませ」
玄関から響いたのは、凛とした、それでいて深い響きを持つ女性の声だった。数郎さんの妻であるのり子さんが、慌てて玄関へ向かった。しばらくして、のり子さんは顔を真っ青にして座敷に戻ってきた。その後ろから、静かな足音と共に姿を現したのは、和服姿の女性だった。
深い紺色に、控えめだが品のある流水模様が描かれた高級な着物。一糸乱れぬ黒髪と、背筋の伸びた美しい立ち姿。死沸両亭・衝の月の女将、中村さち子さんだった。その後ろには、大きな桐の箱を両手で丁寧に抱えた若い男性の従業員が控えている。
さち子さんが座敷に入った瞬間、その場違いなほどの気品と威厳に、親族たちは圧倒されて息を飲んだ。
「衝の月の……女将……」
床にへたり込んでいた剣一が、うめくような声でつぶやいた。剣一は事態が全く飲み込めていないようだった。なぜ自分が昨日、接待で使った一流両亭の女将が、こんな実家の古い本家に現れたのか。
その時だ。突然、みほが金切り声を上げて立ち上がった。彼女は自分の立場が完全に失われたことにパニックを起こし、最後の悪あがきに出たのだ。
「皆さん、騙されないでください!この人たち、全員グルです!」
みほは私と木村先生、そしてさち子さんを指差し、異常なほど声を張り上げて叫び始めた。
「弓美さんが雇った劇団員かなんかです!こんな地味で暗いおばさんが、あの一流両亭の女将と知り合いなわけないじゃないですか!」
みほの顔は見苦しく引きつり、額には汗が浮かんでいた。
「本当は、弓美さんが剣一さんの会社のお金を横領したんです!それで自分に疑いがかからないように、この偽物の弁護士や女将を雇って、私たちに罪を着せようとしてるんですよ!」
彼女は自分の嘘を隠すために、あまりにも見え透いた罠を仕掛けようとしたのだ。
「剣一さんが言ってたじゃないですか。弓美さんはただの便利な介護要員だって。そんな無能な女が、こんな証拠を全部集められるわけがない!」
みほは数郎さんや親戚たちに向かって、必死に哀れっぽい顔を作りながら身を乗り出した。少しでも自分を被害者に見せかけ、同情を買おうとする浅ましい計算だった。
しかし、親族たちは誰一人としてみほに同調しなかった。数郎さんは汚いものを見るような目でみほを一瞥し、すっと視線をそらした。
「もう、見苦しい嘘はやめなさい」
数郎さんの冷たい一言に、みほは「え……」と間の抜けた声を漏らした。
その時、さち子さんが静かに一歩前に出た。
「静かにしなさい」
さち子さんの声は決して大きくはなかったが、不思議なほど座敷の隅々にまで響き渡った。さち子さんは、狂ったように叫ぶみほに向かって、ゆっくりと視線を向けた。それは長年一流の客を相手にし、人間の本質を見抜いてきた女将の、底知れぬ冷ややかな視線だった。怒りも軽蔑も超えた、絶対的な温度の眼差し。ただそこにある不正なものを、静かに見据えるようなその視線に気圧された瞬間、みほの甲高い声はぴたりと止まった。まるで透明な手で首を絞められたかのように、みほはのけぞって畳の上に尻餅をついた。短い悲鳴を上げ、みほはガタガタと震え始めた。本物の威厳を前にして、彼女の安っぽい嘘など一瞬で吹き飛ばされたのだ。
みほが完全に沈黙したのを見て、剣一が慌ててすり寄るように前に出た。
「女将さん、すみません!こいつが失礼なことを言ってしまって……」
剣一は畳に額を擦りつけるようにして、さち子さんに頭を下げた。彼はまだ、さち子さんが昨日の一件で自分に直接クレームを言いに来たのだと勘違いしている。
「昨日は本当に申し訳ありませんでした!私の元妻が勝手に店に乗り込んで、社長の機嫌を損ねてしまったこと、深くお詫びします」
剣一は必死だった。会社を首になっても、と建設の大木社長とのパイプさえ繋がっていれば、まだ何とかなると思っているのだ。
「大木社長には、私からもう一度きちんと謝罪します。だから、どうか社長との中を取り持っていただけないでしょうか?お願いします!」
その身勝手で哀れな懇願に、さち子さんは深い悲しみを含んだため息をついた。
「剣一様。あなたはまだ、ご自分が何をしたのか、全く分かっておられないようですね」
さち子さんの冷たい声に、剣一はびくりと肩を揺らした。
「大木社長が、なぜあそこまで激怒されたのか。私がなぜ、今この場所へ参ったのか」
さち子さんは背筋をまっすぐに伸ばしたまま、座敷にいる親族全員を見渡した。
「大木社長にとって、30年前、建設が倒産しかけた時に救ってくださった恩人は、絶対的な存在でした。その恩人の大切な妹君を、剣一様は“ただの便利な介護要員”と呼び、大木社長の目の前で侮辱したのです」
親族たちが息を飲む音が聞こえた。
「大木社長は、ご自身の命の恩人が辱められたことが、何よりも許せなかったのです。ですから、あなたとの取引を完全に白紙にされたのです」
さち子さんの言葉が、座敷の空気を完全に凍らせた。
「恩人の……妹君?」
剣一がうめくようにつぶやき、そしてゆっくりと私の方を振り返った。私は姿勢を崩さず、ただ静かに剣一の目を見つめ返していた。
「だ、なん……だって、恩人の妹……まさか……」
剣一の顔面から、最後の一滴まで血の気が引いていくのが分かった。剣一の頭の中で、昨日、大木社長が言った言葉がフラッシュバックしているはずだ。
「仙台の佐藤社長は、多くの企業を裏で支えた偉大な方だ。そして、この老舗両亭・衝の月のオーナーでもあった」
剣一はガチガチと歯を鳴らし、ぶるぶると全身を震わせた。
「嘘だ……そんなはずない……弓美の親父は、ただの小さな町工場の……」
さち子さんは剣一の哀れな姿から視線を外し、私に向かって静かに歩み寄った。その後ろを、桐の箱を持った従業員が続く。従業員が前に進み出て、抱えていた桐の箱を私の目の前の畳に、静かに置いた。座敷の全員の視線が、その古い桐の箱に釘付けになった。木村先生が、私に向かって小さく頷いた。私も一つ頷き返し、桐の箱の蓋にゆっくりと手を伸ばした。
蓋を開けると、そこには分厚い和紙に包まれた古い権利書と、衝の月の国印が入った重厚な木札が入っていた。それは衝の月が創業した時から受け継がれてきた、真の主人だけが持つことを許される証だ。
私がその木札を静かに手に取った瞬間、座敷の空気が完全に変わった。さち子さんが私の正面に立ち、裾を正した。剣一の顔面が、恐怖と絶望で完全に歪んだ。義母は信じられないものを見るように、口をあんぐりと開けて固まっている。私が25年間、誰にも言わずに守り抜いてきた真実が、今、彼らの目の前で完全に明かされようとしていた。

さち子さんが、私の正面で静かに膝をついた。その後ろに控えていた従業員の男性も、姿勢を正して正座をする。座敷の空気がぴんと張り詰めた。親族たちの息遣いすら聞こえないほどの、絶対的な沈黙が降りた。
さち子さんは私の目を静かに見つめ、両手を畳について深々と頭を下げた。
「弓美様。衝の月の女大将のご就任、心よりお祝い申し上げます」
さち子さんの声は、静かでありながら座敷の隅々にまで美しく響き渡った。
「仙台のお父様のご遺志を継ぎ、私ども従業員一同、これより弓美様のために粉骨砕身、お仕えいたします」
従業員の男性も、「よろしくお願いいたします」と深く頭を下げた。その光景は、あまりにも美しく、そして神々しいものだった。親族たちの間から、「ほう……」という感嘆の溜め息が漏れた。私が25年間、誰にも言わずに胸の奥で守り抜いてきた、父との約束。それが、今、完全に果たされた瞬間だった。
剣一は畳の上にへたり込んだまま、口を半開きにして、その光景を見つめていた。
「女大将……弓美が、衝の月の主人……」
剣一の頭の中で、自分が犯した致命的な過ちの全てが、音を立てて繋がっていくのが分かった。自分が会社のお金を横領してまで、必死に虚勢を張って使っていた一流両亭。その裏で実権を握り、全てを静かに見下ろしていたのが、自分が家で虐待していた妻だったのだ。彼がこれまで誇示してきた権力も、みほに見せつけていた虚栄も、全て私が手のひらの上で踊らせていたに過ぎなかった。剣一の薄っぺらいプライドは、粉々に砕け散った。
「嘘だろ……弓美、なんで言ってくれなかったんだよ」
剣一はすがるような、ひどく情けない声を出した。
「俺たちは夫婦じゃないか。お前がそんなすごい店のオーナーなら、最初からそう言ってくれれば、俺だってあんなこと……」
その浅ましい言葉に、私は静かに首を振った。
「だからこそ、父は私に固く口止めをしていたのです」
私は桐の箱から取り出した木札を、そっとバッグの中にしまった。
「剣一さん。私の父は、あなたの本質をずっと前から見抜いていました。あなたが見栄っ張りで、お金のためなら平気で人を裏切る人間だということを」
私はバッグから、あの古い皮張りの手帳を取り出した。
「父は亡くなる前、この手帳を私に残してくれました。ここには、あなたが会社で不正な経理をしていること。そして、お義母さんと共謀して、私の預金を引き出していたこと。その全てが記録されています」
手帳を畳の上に置くと、義母がびくりと肩を震わせた。
「お父さんは私に言いました。“弓美、剣一君には決して衝の月の権利を話してはいけない。これはお前が本当に自分の人生を取り戻す時のための、最後の盾だ”と」
私は剣一の目をまっすぐに見つめた。そこにはもう、かつての夫に対する情や悲しみは、一ミリもなかった。
「もし私が最初から衝の月のオーナーだと知っていれば、あなたはどうしたでしょう?間違いなく、私の権利を奪い、店を自分の好き勝手に使い潰したはずです。そして、私を都合よく利用し尽くしたことでしょう」
剣一は言葉を失い、ただガチガチと歯を鳴らして震えていた。
「私は、この手帳を見た時、どれほど絶望したか分かりません」
私は静かに、しかしはっきりとした声で、言葉を続けた。
「私がスーパーで半額の食材を買い、冬の冷たい水で洗い物をし、必死に生活を支えていたあの日々。あなたたちは私の影で、そのお金を湯水のように使い、私を笑い者にしていたのですね」
親族たちも、私の言葉を聞いて深く俯いた。叔母ののり子さんが、小さく鼻をすする音が聞こえた。
「弓美さん、すまなかった」
数郎さんが手をついて、私に頭を下げた。
「私たち親族は、剣一の嘘を信じ込み、あなたにひどい仕打ちをしてしまった。佐藤家の当主として、心からお詫びする」
数郎さんが頭を下げたことで、他の親族たちも次々と私に向かって頭を下げ始めた。
「弓美さん、本当にごめんなさい。私たち、何も知らなくて……」
先ほどまで私を非難していた声が、深い謝罪と後悔の声に変わった。私は親族たちに向かって、小さく頭を下げ返した。
「数郎さん、どうか頭を上げてください。もういいのです」
私は静かに言った。
「私は今日、佐藤家の皆様に真実を知っていただくためだけに、ここへ参りました。これでもう、私と佐藤家との間には、何の未練もありません」
その言葉を聞いて、剣一が弾かれたように顔を上げた。
「ま、待ってくれ、弓美!悪かった!俺が、全部悪かった!」
剣一は膝ではうようにして、私にすり寄ってきた。
「やり直そう!なあ!お前がいなくなったら、俺はどうやって生きていけばいいんだ!会社も首になるし、金もない。警察に捕まってしまう!お前が、俺を助けてくれないと……」
彼は私の足元にすがりつこうと、震える手を伸ばした。しかし、私は静かに一歩下がり、その手を避けた。剣一の手は、虚しく空を掴んだ。
「剣一さん」
私は冷たい声で、彼の哀れな姿を見下ろした。
「あなたが昨日の夜、私に言った言葉を、忘れたのですか?」
剣一は息を飲み、目を見開いた。
「“お前がちまちま貯めた金でみほとハワイ旅行に行き、最高級のスイートルームを取る”とおっしゃいましたね」
その後ろで、みほがびくりと肩を震わせた。
「“この家からも、今日すぐに出ていけ”ともおっしゃいました。私は、あなたの望み通りにしただけです」
木村先生が、静かに一枚の書類を拾い上げた。剣一が先ほどまで自慢に掲げていた、あの離婚届だった。
「剣一さん。この離婚届ですが、あなたが自ら署名し、弓美さんの実印も押されています。すでに市役所に提出する準備は整っております」
木村先生の言葉に、剣一は顔を覆って泣き崩れた。
「ああ、俺の……俺の人生が……」
もはや、誰も彼を哀れむ者はいなかった。自業自得という言葉すら生ぬるい、徹底的な地獄だった。
しかし、まだ一人、自分の罪から逃れようとしている人間がいた。義母だ。義母は剣一が完全に崩壊したのを見ると、今度は私に向かって這うようにして近づいてきた。
「弓美さん……弓美さん、お願い!」
義母は私の足元にすがりつき、ぼろぼろと嘘の涙を流し始めた。
「私が悪かったわ!ほんの出来心だったのよ!」
義母の手が私のスーツの裾を掴もうとしたが、私は静かに一歩後ろへ下がった。義母の伸ばした手は、虚しく空を掴んだ。
「お願いよ、弓美さん!私には、もうあの老人ホームしか居場所がないの!剣一があんな風になっちゃったら、誰が私の面倒を見てくれるのよ!あなた、昔はあんなに優しく私の世話をしてくれたじゃない!」
自分の罪を完全に棚に上げ、昔の情にすがる。自分が私をどれほど見下し、傷つけてきたかを忘れ、今度は可哀そうな老人を演じようとする。あまりにも虫のいい言葉に、私は怒りすら湧かなかった。ただ、深く冷たい諦めだけがあった。
「お義母さん。あなたが今いらっしゃる高級老人ホームの費用は、私がパートで貯めたお金から支払われていたのです」
その事実を改めて突きつけられ、義母ははっと息を飲んだ。
「あなたが私の部屋から実印を盗み、私になりすまして銀行から引き出したお金です。そのお金が、そこを支えていた。今、誰があなたの月々の費用を払うというのでしょうか」
ここで木村先生が、鋭い声で義母に告げた。
「お義母様。あなたが弓美さんの実印を無断で使用し、預金を引き出した行為は、有印私文書偽造罪及び詐欺罪に当たります。弓美さんが警察に被害届を出せば、あなたは逮捕されることになります。当然、今の老人ホームにはいられなくなるでしょうし、佐藤家の皆様にも大変なご迷惑がかかることになります」
義母は「逮捕」という言葉を聞いて、顔を青ざめさせ、畳の上に崩れ落ちた。
「そ、そんな……私、刑務所に入るの?いやよ……そんなのいや……」
義母は震える手で、正座にいる数郎さんにすがりつこうとした。
「数郎さん、助けて!身内を警察に突き出すなんて、佐藤家の恥よ!何とか言ってちょうだい!」
しかし、数郎さんは汚いものでも見るように、義母から冷たく目をそらした。
「身内のお金を盗み、息子の不倫を手助けするような人間を、佐藤家はもう親族とは認めない。これは、お前たちに対する最後の通告だ。お前たちのせいで、弓美さんという立派な嫁を失い、佐藤家の名前は泥にまみれた。お前の面倒など、親戚の誰も見ない。自分の犯した罪は、自分で償え」
数郎さんの言葉は、義母にとって死刑宣告に等しいものだった。他の親族たちも、冷たい目で義母を見下ろすだけだった。誰も助けてくれない。誰も味方をしてくれない。その残酷な現実に直面し、義母は言葉を失った。畳に突っ伏したまま、ガタガタと肩を震わせて泣き崩れるしかなかった。
その混乱に乗じて、座敷の隅からこそこそと逃げ出そうとしている人影があった。みほだ。彼女は自分のバッグを胸に抱え、玄関へ向かって進んでいた。
「お待ちください。高橋美保さん」
木村先生の静かで鋭い声が、みほの背中をぴたりと止めた。みほはびくりと肩を跳ねさせ、顔を引きつらせて振り返った。
「わ、私には関係ないって言ったじゃないですか!お金は剣一さんが勝手に振り込んできたんです!私は何も知りません!」
みほは必死に言い訳をしたが、木村先生はメガネの奥の目を光らせた。
「関係ないで済む話ではありません。あなたは剣一さんが会社から横領した裏金であることを知りながら、それを受け取っていましたね」
「し、知りません!私は騙されていたんです!」
「剣一さんのスマートフォンには、あなたと裏金について、生々しくやり取りをしたメッセージの記録が残っています。これも全て、会社側に提出済みです」
その言葉に、みほの顔から完全な血の気が引いた。
「領収書も証拠も揃っています。あなたは共犯者として、警察に告発されることになるでしょう。逃げ切れると思わないことです」
木村先生の冷徹な言葉に、みほのバッグが手から滑り落ち、中身が畳の上に散らばった。高級なブランド物の口紅に香水、そして剣一に買わせた分厚い財布。虚栄を張るためだけに集めたそれらの品が、今やどれほど虚しいものか、彼女はようやく理解したようだった。
「いや……私、払えない……私の人生、終わっちゃう……」
みほは畳にへたり込み、両手で顔を覆って、声を殺して泣き始めた。少し前までは私を「惨めなおばさん」と笑っていた彼女のプライドは、完全に打ち砕かれた。大声を出す気力すら、もう彼女には残っていなかった。
座敷の中には、もはや怒鳴り声も、大げさな悪口もなかった。剣一は虚ろな目で畳の目を睨みつけ、かすかに体を揺らしている。義母は突っ伏したまま、虫の息のようなうめき声を漏らしていた。みほは顔を覆い、音を立てずに震え続けている。
ドラマのような派手などんでん返しも、泣き叫ぶ声もない。ただ、圧倒的な真実と現実の重さに耐えきれず、完全に言葉を失い、心が折れてしまった三人の姿があるだけだった。これが、人を裏切り、虚栄と嘘だけで生きてきた人間たちの、本当の結末なのだ。
私は三人の姿を、静かに見下ろしていた。25年間、私を縛りつけ、苦しめ続けた鎖が、音を立てて溶けていくのを感じた。胸の奥にあった重い感情が、少しずつ消えていく。これ以上の復讐は、必要ない。彼らはこれから先、一生かけて自分の犯した罪の重さと向き合い、地獄のような日々を生きていくのだから。

「木村先生、さち子さん」
私は静かに声をかけた。
「もう十分です。帰りましょう」
木村先生は黙って頷き、書類をファイルにしまった。さち子さんも深く一礼し、私の後ろに静かに控えた。私は最後に一度だけ、数郎さんをはじめとする親族たちに向かって、深く頭を下げた。そして剣一には、もう一瞥もくれず、まっすぐに縁側へと歩き出した。
「待って!弓美!行かないでくれ!」
背後から剣一のかすれた声が聞こえたが、私の足は止まらなかった。一度だけ立ち止まることもなく、私は本家の長い廊下を歩き続けた。重い引き戸を開けると、そこには眩しい秋の太陽の光が降り注いでいた。冷たく澄み切った風が、私の前髪を優しく揺らす。新しい私の人生が、今、ここから始まるのだ。
本家の重い門をくぐり抜け、外に出た瞬間、私は大きく深く深呼吸をした。肺の奥まで冷たく澄んだ秋の空気が入り込み、体の中に溜まっていた黒い感情を全て洗い流していくようだった。見上げた空は、どこまでも高く、突き抜けるような青をしていた。
「弓美様、お疲れ様でございました」
背後から、さち子さんが穏やかな声で声をかけてくれた。振り返ると、さち子さんと木村先生が、温かい目をして私を見守っていた。
「ありがとうございます。お二人のおかげで、ようやく終わらせることができました」
私が深く頭を下げると、木村先生は優しく微笑んだ。
「いいえ。弓美さんご自身の勇気と覚悟がもたらした結果です。これでようやく、お父様との約束を果たすことができましたね」
用意されていた黒い車に乗り込む前、私はもう一度だけ本家の古い建物を振り返った。25年間、私が縛りつけられ、見下され続けてきた場所。必死に家族になろうと努力し、最後には冷たく裏切られた場所。けれど、不思議なことに、今の私には何の未練も、憎しみもなかった。ただ、ひどく小さく色褪せた景色に見えた。もう二度と、この門をくぐることはないだろう。私は静かに車に乗り込み、過去の自分に永遠の別れを告げた。
車の中で、木村先生が今後の手続きについて、静かに説明してくれた。
「剣一さんの署名が入った離婚届は、私がこの足で市役所へ提出してまいります。これで、今日から弓美さんは、戸籍上も完全に自由です」
その言葉を聞いて、私の胸の奥にあった重い塊のようなものが、すっと消えていくのを感じた。
「お義母様が引き出した1000万円については、剣一さんの口座の凍結を解除する代わりに、損害賠償と慰謝料として全額回収する手続きを取ります。彼らは今、会社からも損害賠償を請求される立場で、自己破産は免れないでしょう。剣一さんも、義母さんも、そしてみほさんも。これからは、自分たちが犯した罪の重さに押し潰されながら、惨めで苦しい日々を送ることになります。全てを失い、誰からも手を差し伸べられることなく、虚栄と嘘の代償を払い続けるのです」
「もう、彼らのことはどうでもいいです。先生にお任せします」
私は窓の外を流れる景色を見つめながら、静かに答えた。もう、あの人たちのために、私の大切な時間と感情を使うのはやめよう。これからは、私自身の人生を生きるのだ。

数日後、私は父が眠る見晴らしの良い霊園を訪れた。秋の優しい日差しが、墓石を白く照らしている。私は手桶から水を汲み、墓石にゆっくりと丁寧にかけていった。水滴が光を反射してキラキラと輝きながら、石を伝って落ちていく。線香に火をつけ、静かに手を合わせた。
「お父さん、私、やっと鍵を開けたよ」
誰にも聞こえない小さな声で、私は父に語りかけた。
「長い間、心配をかけてごめんなさい。でも、お父さんが残してくれた最後の盾のおかげで、私は自分の足で立つことができたよ」
目を閉じると、父の温かい手の感触が蘇ってきた。
「弓美、自分の心まで殺してはいけない」
その言葉が、耳の奥で優しく響いた。
その瞬間だった。25年間、どんなに辛い時も、どんなに理不尽な扱いを受けた時も、決して流すまいと堪えてきた涙が、突然溢れ出した。悲しい涙ではなかった。悔しい涙でもなかった。それは、思い苦しみから解放され、父の深い愛情に包まれた安心感から来る、温かい涙だった。
私は墓石の前にうずくまり、両手で顔を覆った。声を漏らし、涙が指の隙間からこぼれ落ちて、私のスーツの膝を濡らした。
「お父さん……ありがとう……本当に、ありがとう」
私は声を出して泣いた。誰もいない静かな霊園で、秋の風が私の背中を優しく撫でていった。
思い切り泣いた後、私はハンカチで涙を拭い、顔を上げた。視界はまだ少しぼやけていたが、心の中は信じられないほど軽く、晴れ晴れとしていた。
その日の午後、私は衝の月へ向かった。開店前の静かな店内には、出汁のいい香りと、ほのかなお香の匂いが漂っていた。私が裏口から中に入ると、さち子さんをはじめ、仲居さんたち全員が廊下に並んで、私を待っていた。
「女大将、おはようございます!」
全員が一斉に、深く美しいお辞儀をしてくれた。その温かい歓迎に、私の胸の奥がじんわりと熱くなった。
「皆さんにお渡ししたいものがあります」
私はバッグから、昨日自分で買ってきた新しいエプロンを取り出した。それはこれまでの古びたものとは違う、真っ白で、糊の利いた清潔なエプロンだった。
「私は、最初から立派な女大将にはなれないかもしれません。でも、皆さんと一緒に汗を流し、この店を守っていきたいと思っています。どうか、私に色々なことを教えてください」
私が深く頭を下げると、さち子さんが優しく微笑み、私の肩にそっと手を置いてくれた。
「弓美様。私たちはお父様の背中を見て育ちました。そして今、お父様と同じように誠実で優しい目をした弓美様をお迎えできたこと。これ以上の喜びはありません。共に、衝の月を守ってまいりましょう」
板長も、照れくさそうに笑いながら言った。
「女大将、早速ですが、今日の賄い飯を食べていってください。腕によりをかけましたから」
案内された控室のテーブルには、湯気を立てる温かい食事が並んでいた。炊きたての白いご飯、季節の野菜の煮物、そして美しく盛り付けられたお吸い物。あの日、みほが「味が薄い」と文句を言い、剣一が箸を投げ捨てようとした、あの衝の月が誇るお吸い物だ。
私は両手でお椀を包み込み、ゆっくりと一口飲んだ。昆布と鰹の深い旨味が、冷えていた体の中に染みわたっていく。派手な味ではない。けれど、本当に質の良い材料を使い、手間をかけて丁寧に作られた、心に寄り添うような優しい味だった。
「美味しい……本当に、美味しいです」
私がそう言うと、板長もさち子さんも、嬉しそうに目を細めた。みんなで食卓を囲み、温かいご飯を食べる。そんな当たり前の日常が、私にとっては涙が出るほど幸せな時間だった。ここにいる人たちは、私のお金を狙うわけでも、私を火婦扱いするわけでもない。互いを尊重し合い、共に生きていく、新しい家族だった。

夕方になり、衝の月の灯りが灯った。私は従業員の控室で、さち子さんが用意してくれた深い緑色の着物に袖を通した。帯を締め、鏡の前に立つ。そこには、疲れ切って下を向いていた専業主婦の姿は、もうなかった。背筋が伸び、穏やかで強い目をした、一人の自立した女性が立っていた。年齢を重ねたからこそ出る、静かな落ち着きと品格。52歳。私の人生は、終わったのではない。この25年の苦労は、全て今この場所で花開くための、長い準備期間だったのだ。
「弓美様、お客様がお見えになりました」
さち子さんの声に、私は「はい」と短く答え、静かに廊下へ出た。玄関には、庭の鹿威しが高く澄んだ音を響かせている。私は玄関の三和土に立ち、戸が開くのを静かに待った。これからの人生は、もう誰かに怯えることも、理不尽に耐えることもない。私を大切にしてくれる人たちと共に、誇りを持って、自分らしく生きていくのだ。
ガラリと引き戸が開き、お客様の姿が見えた。私は両手を前で重ね、心の底からの笑顔で、深く頭を下げた。
「いらっしゃいませ。ようこそ、衝の月へ」

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