離婚して半年、元夫から電話がかかってきた。来月の8日に結婚するから、私にも招待を送ったという。
「行けないわ。私、たった今赤ちゃんを産んだの」
30分後、彼が息を切らしながら病室に飛び込んできた。鼻をつく消毒液の匂い。手術痕から鈍い痛みが押し寄せる。私は隣の保育器で眠る小さな命を見つめた。2週間早く生まれた息子は、赤くしわしわで、まるで壊れ物のように小さかった。窓の外の東京の空は灰色で、冬の雨が高層ビル群の輪郭をぼやかしていた。
夫も家族もいない。唯一の友人の弓が、必要なものを準備しに一時的に家に帰っているだけだった。
その時、テーブルの上のスマートフォンが静寂を破った。画面に「元夫」という文字が冷たく浮かび上がる。私はためらった。出ないつもりだったが、指は無意識に緑のボタンへ滑っていた。
「もしもし。しおり?元気か?藤堂健二だ」
彼は藤堂不動産グループ全体を経営する男。私の安否を尋ねるために電話してくるような人ではない。不吉な予感がした。
「来月の8日、俺とレナさんが帝国ホテルで結婚式をあげるんだ。しおりさんにも来てほしい。どうせ彼だし、友達として付き合えるじゃないか」
彼の言葉が一文字ずつ耳に突き刺さった。彼は元妻を招待して、新しい女性との幸せな姿を見せつけようというのだ。私は息子を見た。奇妙な力が湧き上がってくるのを感じた。私はもう、夫の夕食を準備して待っていた妻ではない。私は母親だ。
「招待してくれてありがとう。でもごめんなさい。行けそうにないわ」
「何か忙しいことでもあるのかい?ギャラリーのせいなら1日くらい休めばいい。運転手を送るから」
「絵のことなんかじゃないわ。私、産後の療養中なの」
向こうが沈黙した。
「昨日の夜、帝王切開で男の子を産んだのよ。だから、あなたの晴れの日に私がかけるわけにはいかないでしょう」
私は彼の返事を待たずに通話を切った。数ヶ月間胸を押しつぶしていた石が、ようやく下りた気分だった。しかし、東堂健二の性格からして、彼はこのことを決してただでは済まさないだろう。
30分後、病室のドアが乱暴に開けられた。すやすやと眠っていたどんぐりが、火がついたように泣き出した。私は慌てて子供を抱きしめ、振り返った。
私の前に立っていた男は、信じられないほど見窄らしい姿だった。シャンタン・ゴールドの礼服。ベストは乱れ、シャツの裾は外にはみ出ていた。髪は汗でぐちゃぐちゃで、顔は赤く蒸気し、息は荒く、額からは大豆ほどの汗粒が流れ落ちていた。
「しおりさん」
彼が吐き出した声はひび割れていた。私はできるだけ冷静な表情を保とうと務めた。
「どうしてここに?ここは回復室よ。関係者以外は禁止」
「本当なのか?この子は誰の子なんだ?」
彼は私の冷たい言葉にも構わず、部屋の中にズカズカと入ってきた。汗の匂いと香水の匂い、そして混乱の匂いが混ざり合っていた。
「私の子よ」
「父親は誰なんだと聞いているんだ」
「おかしな質問ね。私たち、離婚して半年よ。私の子が誰の子であろうと、藤堂代表に何の関係があるの?」
「俺を狂わせるな。半年だ。離婚して半年で子供を産んだ。そこから妊娠期間の10ヶ月を引けば、あんた、俺たちが裁判所に行く前から妊娠していたんだろう。違うか?」
実業家の鋭さで、彼は数秒でその計算を終えていた。私はもはや隠せないこと、そして隠したくもないことを悟った。
「そうよ。だから何?」
「なぜだ?なぜ言わなかった?なぜよくも俺にこんな重大なことを隠していたんだ!」
「言ってどうするの?言ってあなたの道が変わった?それとも、あのお家柄の良いお嬢様を迎える準備で忙しい最中に、私に残った責任感でも少し分けてもらおうと?あの日、私たちが離婚届に判を押した日、あなたは何て言った?事業を助けられる妻が必要で、一日中無駄に絵を描いている女は必要ないって言ったじゃない。あなたは自由が必要で、成功が必要だって。私がその自由をあげたじゃない。これ以上何を望むの?」
彼は凍りついた。ずっと昔に彼が私の心臓に刺した言葉を、今、私は彼に返したのだ。彼はベッドの柵から手を離し、一歩下がった。
「その子を見せてくれ」
「だめよ。帰りなさい。あなたの婚約者が待っているでしょう」
「赤ん坊を見せろと言っているんだ!」
彼が突然叫び、子供を奪おうと飛びかかってきた。その時、病室のドアが開き、厳しい表情の看護師が入ってきた。
「付き添いの方、少し静かにしてください。ここは病院ですよ。どちら様ですか?まだ面会時間ではありません。今すぐお帰りください」
ケンジはその場で立ち止まった。彼は私と赤ん坊、そして看護師を交互に見た。彼は深呼吸して本来の沈着さを取り戻そうと務めたが、両手はまだ震えていた。
「私がこの子の父親です」
彼が看護師に言った。それから私の方を向き、その目は嵐の前の空のように暗くなった。
「一生俺を騙し通せると思っていたのか。しおりさん、あんたは間違っていた。あんたの人生最大の過ちは、この父から父親になる権利を奪えると思ったことだ」
その言葉を残し、彼は背を向けて病室を出ていった。私は本当の嵐が今始まったばかりだと直感した。
その後、弓が戻ってきた。私はさっきあったことをかいつまんで話すと、彼女の顔が怖ばった。
「藤堂健二の性格からして、絶対に黙ってないわ。あの男は野望の塊だし、隠れ忍ではない。自分の息子がいるって知ったからには、何としてでも赤ちゃんを奪おうとするはずよ。あんたどうするつもり?」
「分からない。私一人でも育てられるわ。貯金もあるし、ギャラリーも順調だし」
「問題はお金じゃないでしょう!問題はあの男のプライドと、あの姑のことよ。あんた、あのお母様が、自分の家の長男が外でうろついているのを黙って見ていると思う?」
彼女の言葉は針のように私の心臓を刺した。私の元姑は、名誉や家柄を何よりも重んじる女だった。
突然、病室のドアが再び乱暴に開かれた。今度は一人ではなく、数人だった。ケンジが先頭に立っていた。その後ろには、権威のありそうな白衣を着た医者が3人、そして様々な器械を押して入ってくる看護師が2人続いていた。
「今、何してるのよ!」
ケンジは私を見ようともせず、最も年配の医者の方を向いて言った。
「教授、この子の状態を総合的に見てください。2週間早く生まれたので、肺がまだ完全ではないかと心配なんです。これから遺伝子検査のサンプルも採取してください」
「ケンジ、あなた、狂ったの!?」
私が叫びながら起き上がろうとすると、手術痕の痛みが私をベッドに座り込ませた。ケンジが近づいてきて、私の肩を抑えた。
「じっとしていろ。手術の傷に触る。僕はこの子にとって一番良いことをしているだけだ。君に止める権利はない」
「私の子よ!検査なんて必要ない!」
「この子は僕の子でもあり、君の子でもあるんだ。この子の顔を見てみろ。この広いおでこ。この尖がった唇。いつまで現実を否定するつもりだ」
私はどんぐりを見下ろした。その子は眠っていた。小さな顔は本当にケンジの縮小版だった。私は無力に、彼らが検査のために息子から血を取るのを見守った。針が皮膚を刺すと子供が泣き出し、その声に私の胸は焼けつくようだった。ケンジは顔を背けていた。握りしめた拳には青い血管が浮き出ていた。彼もまた苦しんでいるのだ。
医者たちが去った後も、ケンジは残っていた。彼は椅子を引き寄せ、保育器の隣に座った。部屋の雰囲気は、張り詰めた緊張感から、ぼんやりとした悲しみに変わっていた。
「どうして、俺に言わなかったんだ」
彼の声には、もはや怒りはなかった。戸惑いだけが残っていた。
「この半年間、僕は機械のように生きてきた。なのに君は、僕の子を腹に宿し、一人で子供を産んだ。僕を一体何だと思っているんだ。道端の他人でも、これよりは情があるだろう」
「あなたが選んだのは、あなたの事業だったじゃない。あなたは長い出張と接待のための飲み会を選び、あなたに莫大な契約をもたらしてくれるレナさんを選んだ。私はただ、私の子をあなたの計算の中から守る方法を選んだだけよ」
「僕が子供を望んでいないと言ったことは一度もない。君が妊娠していると知っていたら、絶対に離婚しなかっただろう」
「それこそ私が言わなかった理由よ。私は責任感だけで維持される結婚は望んでいなかった。愛されたかったのよ。でもあなたは、ずっと前に私を愛さなくなっていたじゃない」
ケンジは沈黙した。彼は反論しなかった。
その時、彼のスマートフォンが再び鳴った。彼は画面を見て眉を潜め、電話を切った。しかし、また鳴った。
「婚約者が電話してるじゃない。早く行きなさいよ。待たせないで」
ケンジはスマートフォンと私と息子を交互に見た。彼は立ち上がったが、電話には出なかった。代わりに電源を切り、ソファに投げ捨てた。
「結婚式はキャンセルした」
私は驚いて振り返った。
「何ですって?」
「レナさんとの結婚は取りやめたと言ったんだ。ここに来るためにホテルを出るとすぐに、秘書に全てキャンセルするよう指示した」
「あなた、どうかしてるわ。生まれたばかりの子供一人のために、パートナーグループ会長の娘との結婚を取りやめるなんて」
「そうかもしれないな」
彼は苦く笑った。そして慎重に手を伸ばし、布団からはみ出たどんぐりの小さな指にそっと触れた。
「でも、僕の息子がここに寝ているのに、他の女と結婚するわけにはいかないだろう」
その不器用な行動に、一瞬私の心が揺さぶられた。しかし理性がすぐに私を打ちのめした。これは愛じゃない。これは所有欲だ。
ケンジは帰らなかった。彼はボディガードを全員外に出し、病室の狭いソファに座った。弓は状況がただならぬことを感じ、私に気をつけるようにと合図して家に帰った。
私はベッドに横になり、眠ろうとしたが、どうしても眠れなかった。向こうで両手を組み、額に当てて座っている男の姿が頭から離れなかった。かつて私たちが愛し合っていた頃の記憶が蘇った。
私たちは美しかった。彼は経済学部の学生で、私は大きくて厄介なイーゼルを抱えてうんうん唸っていた。彼が駆け寄って助けてくれた。夢のように美しい初恋が始まった。私たちは一緒に、いつか自分たちだけの小さな家を持とうと約束した。彼が起業したばかりの頃、彼のそばにいたのは私だけだった。私はフランス留学の機会を諦め、彼の支えになることを決めた。そして彼は成功した。しかし、夫婦の距離も通帳の残高と共に遠ざかっていった。私が作った夕食は冷めたまま彼を待つ日が多くなった。
結婚3周年の記念日、私はサントリーホールで開かれるオーケストラの公演チケットを2枚予約した。私たちが学生の頃、一緒に見ようと夢見ていた公演だった。私は綺麗に化粧をし、彼が好きだった赤いシルクのワンピースを着てロビーで彼を待った。1時間、2時間、3時間が過ぎた。公演は終わり、人々は帰り、華やかな照明の下、私一人だけがポツンと立っていた。何十回も電話したが、誰も出なかった。
真夜中近くになって、彼は酔っ払って帰ってきた。彼はパートナー企業との合併の件で忙しかったと言った。そして謝罪の代わりにブランドのハンドバッグを投げつけ、死んだように眠りに着いた。私はそのハンドバッグと、いびきを描いて眠る夫を交互に見た。その瞬間、私は悟った。私が愛した男は死んだのだ。無感覚な金儲けの機会に、藤堂健二代表が残っているだけだと。
「サントリーホールであなたを待っていた日のことを考えていたわ」
ケンジがぎくりとした。
「すまなかった。あの日は本当に会議を抜けられなかったんだ」
「今更どうでもいいわ。過去は過去よ。あなたは欲しいものを全て手に入れたじゃない。事業、名声。ただ、私は私の息子が将来あなたみたいに無神経で自己中心的な男にならないで欲しいと願うだけよ」
ケンジが勢いよく立ち上がった。ソファがきしむ音を立てた。
「夫としての僕を責めるのはいい。だが、父親としての資格を判断するな。僕にはそれを見せる機会すらなかったんだからな。息子には何一つ不自由させない。最高の学校に通わせ、最高のものだけを使わせ、最も輝かしい未来を持たせてやる」
「『最高』っていうのは、結局お金のことでしょう。でも子供に必要なのは愛よ。そばにいてくれることよ。限度額のないブラックカードや、サインだけしてくれる父親じゃない」
「じゃあ何を望むんだ?僕が全てを放り出して、家で子供のおむつでも変えているとでも言うのか?少しは現実的に考えろ。金で幸せは買えないかもしれないが、金がなければ子供を守ることさえ考えられないぞ。君のその小さなギャラリーで、僕がしてやれるだけのことを子供にしてやれると思うのか?」
「あなたほどお金持ちじゃないかもしれないけど、私は子供に平穏をあげられるわ」
「平穏?フッ。シングルマザーという世間の視線を避けられるとでも思うのか。藤堂健二の元妻が、見窄らしいアパートで子供を育てている。世間の人々が黙って見ていると思うか。君はあまりにも世間知らずだ」
議論はノックの音によって中断された。黒いスーツを着た秘書が入り、ケンジに頭を下げると書類の束を机の上に置いた。
「代表、全ての手続きが完了しました。結婚式はキャンセルし、レナ様のご実家は大騒ぎになっております。あちらの会長が直ちに代表にお会いしたいと」
「後で連絡すると伝えておけ。今は忙しい。それから出て行け」
秘書が慌てて退出すると、ケンジは書類の束から一枚の紙を取り出し、私に差し出した。
「これは何?」
「契約書だ」
私は紙を受け取り、太字の文字をざっと読んだ。目の前が真っ暗になった。それは養育及び親権に関する契約書だった。内容は、ケンジが全ての費用を負担し、家を買い与え、家政婦と個人的な世話人を雇う代わりに、彼はいつでも子供に面会する権利を持ち、息子は藤堂の姓を名乗り、戸籍に名を連ねなければならないというものだった。
「いつから準備していたの?子供のことを聞いてからまだ数時間しか経っていないじゃない」
「僕は常に代替案を用意しておくんだ。そして、これは君の意見を聞いているんじゃない。通告しているんだ」
私は手の中の紙をくしゃくしゃに丸めて、彼の顔に投げつけた。
「出て行け!何もサインしないわ!私の子を奪うなんて、夢にも思わないで!」
ケンジは動じなかった。彼は身をかがめて紙を拾い、シワを伸ばしてベッドのヘッドボードのテーブルに置いた。
「考えてみろ。体も弱っているんだから、興奮するな。明日また話そう。ボディガードを外に立たせておくから、子供を連れて逃げようなんて考えは、夢にも見るな」
その言葉を残し、彼は背を向けて去っていった。私の後には、込み上げる怒りと、徐々に閉ざされていく黄金の檻に対する恐怖だけが残った。
その夜、ケンジが戻ってきた。彼は別の服に着替え、きちんとアイロンのかかったシャツ姿だった。彼は何も言わず、部屋の隅に座ってノートパソコンを開き、仕事を始めた。
翌朝、彼は私のところに近づいてきた。彼の手には、上流階級の間で噂される強力なブラックカードが握られていた。
「これを手に持っていてくれ。限度額のないカードだ。子供のものでも君のものでも、買いたいものがあればこれで払え。暗証番号は君の誕生日だ」
「いらないわ。私のお金で十分に子供を育てられる」
「意地を張るのはやめろ。君が絵を売って稼ぐわずかな金で、子供に最高の人生を提供できるとでも思うのか?輸入の粉ミルク、オーガニックのおむつ、個人教師、将来はインターナショナルスクールまで。何で賄うつもりだ」
「私のやり方で子供を育てるわ。一番高価なものだけを使うのが一番良いことじゃない。世の中のたくさんの子供たちが、あなたのそのブラックカードがなくても健康にちゃんと育っているわ」
「フッ。この程度の藤堂健二の息子を、平凡で不自由な暮らしをさせるつもりか。僕は絶対に許さない」
「何の権利があって!?」
怒りが爆発し、痛みさえも忘れさせた。
「何の権利があって、その子の人生を決めるの!?あなたが父親だから?じゃあ、この半年間、あなたはどこにいたの!?私がつわりで死にそうだった時、あなたはどこにいたの!?私が暴風の中、一人でタクシーに乗って病院に行った時、あなたはどこにいたの!?私が一人で手術の同意書に署名しなければならなかった時、あなたはどこにいたのよ!?」
長い間抑え込んできた息詰まりが、堰を切ったように溢れ出た。
「私に権利なんて言わないで!あなたはその権利、自分で放棄したのよ。出張を、あなたのその女を、この家庭の代わりに選んだ瞬間からね!」
ケンジは凍りついたように立っていた。カードを握った手が、力なく下がった。
「僕が悪かった」
彼の声は低くかれて沈んでいた。
「時間を巻き戻して、その過ちを正すことはできないだろう。でも、現在と未来のために償いたいんだ。僕のためじゃない。子供のためにも、チャンスをくれ」
彼は誰かが手入れしたかのような赤いバラの花瓶の横にカードを置いた。
「この金は子供のものだ。君が使おうが使うまいが、それは君の自由だが、ただ僕が憎いという理由だけで断るのはやめてくれ。子供のことを考えろ」
その言葉を残し、彼はバルコニーに出てタバコに火をつけた。灰色の空を背景にした、彼の孤独な後ろ姿が映った。
2日目の朝、病院の静寂は大規模な物音によって破られた。目を開けると、大勢の人々があらゆる品物を部屋の中に運び込んでいた。最新型の哺乳瓶消毒器、空気清浄機、自動調乳器。そして私が名前さえも知らない数多くの品物だった。ケンジは部屋の真ん中に立ち、タブレットPCを手に従業員に配置を指示していた。
その時、一人の初老の女性が入ってきた。彼女は薄い青色の制服を着て、プロフェッショナルな雰囲気を漂わせていた。胸には「キム・ソニョン、新生児ケア専門家」という名札があった。
「奥様、初めまして。私は藤堂代表が若様のお世話をするために雇われました。キム・ソニョンと申します」
「知らない人に私の子を任せたくないわ」
「君は手術を終えたばかりで体も弱いのに、徹夜で子供の世話はできないだろう。キムさんが赤ちゃんの世話を全てやってくれる。君はただ休んで回復に専念すればいい」
キムさんは私の同意を待たなかった。彼女が「若様」と呼ぶ故障に、私は鳥肌が立った。私の子は生まれてまだ2日しか経っていないのに、もうそんな距離感のある呼び方をされている。
「私は直接授乳するわ」
「奥様はまだ抗生物質を投与されておりますので、母乳は今すぐには最善とは言えないかもしれません。代表が日本で一番良い粉ミルクを準備しておられます」
私は助けを求めるようにケンジを見つめたが、彼はキムさんの言葉に同意して頷いた。
「彼女の言う通りにしろ。専門家なんだから」
無力感が私を襲った。私は目の前で、母親になる権利を剥奪されている気分だった。
その日の昼、弓が戻ってきた。部屋に入るなり、山のように積まれた品々と機械のように動くキムさんを見て、彼女は目を丸くした。
「これ、全部何?私、デパートにでも迷い込んだかと思ったわ」
「藤堂健二の仕業よ。専門の新生児ヘルパーまで雇ったの。私はもう完全に余計者よ」
弓は警戒心に満ちた目でキムさんをちらりと見ると、私の耳に近づき小さく言った。
「状況は深刻よ。さっき聞いたんだけど、藤堂健二の家の方で、孫を引き取るための法的手続きを準備しているんですって。あのお母様、もう弁護士と接触したみたい。あの女がどれだけ怖い人か、あんたも知っているでしょう」
心臓が凍りつくようだった。私の元姑は、名誉や家柄を命よりも重んじる鉄の女だった。どんぐりの存在を知れば、彼女は手段を選ばずに子供を連れ去るだろう。
「私、これからどうすればいいの?ゆみ」
「逃げるのよ。ここにいたらおしまいよ。藤堂はあんたを言いくるめて安心させようとしているだけ。子供がもう少し大きくなったら、すぐに態度を変えるわ」
「どこに逃げるの?藤堂健二には、至る所に目と耳があるわ」
「箱根よ。うちの遠い親戚のおばさんの別荘がそこにあるの。杉林の奥深くにあって、人目にもつきにくい。私が鍵を持っているから、とりあえずそこに行ってしばらく隠れていなさい。子供がもう少し大きくなったら、私が書類を準備して海外に送ってあげる」
私はためらった。この計画はあまりにも危険だった。しかし、子供を失うかもしれないという恐怖が、全てを圧倒した。
出発前日の夜、ケンジは私のために、専属の料理人に作らせたお粥を持ってきた。彼は優しくスプーンで粥をすくい、冷ましてから私の口元に運んでくれた。私はその気遣いに、罪悪感を覚えた。私はもうすぐ彼を騙し、彼の子供を連れて逃げようとしているのだ。
「明日の朝早く、重要な会議があるんだ。少し遅くなるから、キムさんの言うことをよく聞いて。何か必要なものがあれば、いつでも電話してくれ」
「うん。仕事のこと、気にしないで」
ケンジは身をかがめて子供の額に軽くキスをし、少し躊躇してから私の額にもキスをした。
「お休み」
彼が去り、ドアが閉まった。私はその場に座ったまま、左胸を抑えた。心臓が恐怖と罪悪感で狂ったように打っていた。
「ごめんなさい、ケンジさん。私には他に選択肢がないの」
その夜、私はほとんど眠れなかった。こっそり子供に必要な服などを小さなバッグに詰めて、ベッドの下に隠した。外では雨が激しくなり始めていた。
午前7時、雨の降る灰色の朝が病室を満たした。私は厚手のダウンジャケットを羽織り、どんぐりを二重の布団に暖かく包んだ。
ケンジは株主総会に遅れないように、6時半には出発した。彼は急ぎ足で私の額にキスをしに去っていった。残された唯一の問題はキムさんだった。彼女は部屋の隅で粉ミルクを作っていた。明け方、弓がこっそり彼女が好んで飲む紅茶に弱い下剤を混ぜておいたのだ。
「奥様、若様のミルクができました」
キムさんが哺乳瓶を持って振り返った。顔が少し歪んでいた。
「そこに置いておいてください。後で私が飲ませますから。ちょっと赤ちゃんを見ていてください。トイレに行ってきます」
キムさんは頷いたが、突然、彼女が腹を抑え顔色が変わった。言葉を言い終える前に、哺乳瓶をテーブルに置き、トイレに駆け込んだ。ドアが閉まる音が響いた。
チャンスは今だ。
私は躊躇なく立ち上がり、バッグを手に取り、どんぐりを腕に抱いた。私はケンジが買い揃えたあの高価な品々を振り返る暇もなく、矢のように病室を飛び出した。それらは全て飾りに過ぎない。私が必要なのは自由だった。
朝の病院の廊下はガランとしていた。私は職員用のエレベーターに向かって早足で歩いた。手術の傷がズキズキと痛み、背中に冷汗が流れた。
「頑張って、息子よ。もうすぐ脱出できるわ」
エレベーターのドアが開くと、冷たい風が吹き込んできた。私は外に出て辺りを見回すと、弓の運転する赤い軽自動車が大きなゴミ箱の影に隠れるように駐車されていた。ヘッドライトが2回点滅した。
「早く乗って!」
私は後部座席に飛び乗り、ドアをバタンと閉めた。弓はすぐにアクセルを踏み、車は矢のように走り出した。
「成功よ!」
「まだ安心するのは早いわ。東京を抜け出さないと」
私たちの車は通勤ラッシュで混雑する町を抜け出し、高速道路に向かった。雨は次第に強まり、ワイパーが休みなく動いていた。
「多分、後2時間くらいで着くと思う。心配しないで、少し眠りなさい」
「どうして眠れるっていうの?」
私は時計を見た。8時15分。今頃、キムさんはトイレから出てきて私がいないことに気づいただろう。彼女はケンジに電話するだろう。
「ケンジさんは私たちを見つけられるかしら?」
「まさか。この車は遠いところから借りたものよ。ナンバープレートも違う地域のだし。あなたの携帯は電源を切って、SIMカードを抜いて捨てたんでしょう?」
私はポケットを探った。ケンジが数日前に渡してきた新しいスマートフォンがその中に静かにあった。私は指示通り電源を切っておいた。
「うん。そうだといいけど」
しかし、女の勘は、全てがそう簡単にはいかないだろうと警告していた。
車で30分ほど走った頃、突然、けたたましいベルの音が鳴り響いた。音は私のコートのポケットからなっていた。ケンジがくれたあのスマートフォンだった。
「SIMカードを抜けって言ったでしょう!」
「電源は切っておいたのに。どうして鳴るの?」
私は慌ててスマートフォンを取り出した。画面が明るく光り、見知らぬ番号が表示されていた。私は震えながら弓を見た。
「出るな!捨てろ!今すぐ窓の外に投げ捨てて!」
私は窓を開けようとしたが、指が止まった。私が出なかったら、ケンジはどうするだろうか。彼は止まらないだろう。私は深呼吸をし、勇気を出して通話ボタンを押した。
「もしもし」
受話器の向こうは静かだった。長い沈黙の後、彼の声が聞こえた。
「ドライブは楽しいかい?」
ゾっとするほど平穏な声だった。怒鳴り声も怒りもなかった。ただ残酷な冷笑だけがあった。
「どうして分かったの?」
「そのスマートフォンが、ただ通話ができるだけの白物だと思っていたのか?独立した衛星追跡チップが内蔵されていて、安全区域から出ると自動的に作動するんだ。君が病院から一歩足を踏み出した瞬間から、僕のコンピュータに警告が来ていた」
私は凍りついた。全てが彼の手のひらの上での出来事だったのだ。
「何を望むの?」
「今すぐ戻ってこい」
「絶対に戻らないわ!あなたのあの牢獄には絶対に戻らない!私と子供はもっと遠いところに行くのよ!」
「右の窓の外を見てみろ」
私は首を回して右を見た。巨大な黒いSUVが一台、私たちの車と並走していた。車の窓が下がり、黒いサングラスをかけた男が私に手を振ると、威嚇するように私たちの車を指差した。
「僕のボディガードだ。君が湾岸線に乗った時からずっと付けていた。30分やる。車を止めて戻ってこい。もしそうしなければ、君だけを捕まえるのではなく、君のその親友にも一生後悔させてやるからな」
「弓に何をしようっていうの?」
「弓さんのインテリアデザイン会社は、うちのグループのブルーリゾートプロジェクトを受け負っている。彼女のキャリアの中で最大の契約で、何年もかけて築き上げてきた結果だろう。僕の電話一本で、その契約は即破棄される。弓さんの会社は不動産協会のブラックリストに載り、東京では永遠にどんなプロジェクトも受けられなくなるだろう。君のせいで友人が破産し、借金まみれになる姿を見たいか?」
彼の脅迫は晴天の霹靂のようだった。私は彼が言った通りにできる人間だということを知っていた。
「やめて!ケンジさん、お願いだから!私たちの問題に他の人を巻き込まないで!」
「決めるのは君だ。戻ってくるか?それとも友人が全てを失うのを見ているか?30分だ。始めよう」
ツーツー。長い信号音が通話が切れたことを知らせた。私は熱いスマートフォンを手に持ったまま座っていた。全世界が目の前で崩れ去るような気分だった。
弓はまだ運転していたが、彼女の手はハンドルを白くなるほど強く握りしめていた。彼女にもスピーカーフォンを通して全てが聞こえていた。
「あの男の言うことなんて聞かないで!ただの脅迫よ。あんな契約、いらないわ。1からやり直せばいい。あんたが、あの男から逃げられるなら」
私は弓を見た。硬いが、心配で一杯の友人の顔。私は弓が本気だと分かった。しかし、私がその犠牲を受ける権利があるだろうか。弓は何年もどれだけ苦労して、血と汗を流して今日の地位にたどり着いたのだろうか。
「だめよ、ゆみ。私がそんなに自己中心的になるわけにはいかない」
「本当に戻るつもりなの!?気でも狂ったの!?戻ったら、子供を奪われるのよ!」
「他に方法がないのよ。藤堂健二は私の弱点を握ったの。あなたを利用して私を追い詰めているのよ。私が負けたわ。車を戻して、ゆみ」
弓は唇が血が出るほど噛みしめ、ハンドルを強く叩きつけた。彼女は路肩に車を止め、ハザードランプをつけた。彼女はハンドルに頭をうずめ、肩を震わせた。彼女が泣いていると分かった。
「ありがとう、ゆみ。私のために命をかけてくれて。でも、この戦いは私のものよ。私が直接立ち向かわなきゃ」
弓が顔をあげた。目は真っ赤だった。
「しおり、ごめんね。私があまりにも無能で」
「そんなことないわ。あなたは世界一の友達よ」
小さな軽自動車は、来た道を寂しく引き返していった。私を待っている東京の都心に向かって。帰り道、私は子供を抱いて窓の外を見ていた。雨は止むことなく降り続いていた。
病院の裏口に着くと、ケンジのキラびやかな黒いラグジュアリーカーがそこに堂々と止まっていた。車を降りると、ケンジが何の感情もない目で私を見ていた。
「時間通りだな。弓さんに感謝するんだな。あと30分遅れていたら、君の会社は廃業していたところだ」
「子供をこちらへ」
私は一歩後ずさりし、子供を片腕に抱きしめた。
「いやよ!あなたは私が戻ってくればいいと約束したじゃない!」
「子供を渡せ。雨が降って寒いだろう。子供を風邪引かせるつもりか。さっさと車に乗れ」
私は抵抗できないと分かった。歯を食い縛り、近づいて彼の腕に子供を渡した。ケンジは慎重に子供を受け取り、雨から守った。
「車に乗れ、家に帰るぞ」
「弓と少し話をさせて」
「必要ない。これからは、その友人に会う必要はない。夫を捨て、子供を捨てろと勧めるような友人と付き合う資格はない」
彼は私を後部座席に押し込み、ドアをバタンと閉めた。私は車窓の向こうで、弓が雨の中で悲しげに泣きながら、無力に私が連れて行かれるのを見守っているのを見た。
車は水の上を滑るようにスムーズに動き出した。車内は暖かく、高級車の匂いとケンジの慣れ親しんだ香水の匂いが微かにした。しかし、私にとってここは、永遠の監禁場所へと私を運ぶ棺でしかなかった。ケンジは隣の席に座り、子供を抱いて一言も話さなかった。その沈黙が、何千もの言葉よりも恐ろしかった。
車は20分ほど走り、住田川沿いの最高級タワーマンションに入った。ケンジは私を最上階に連れて行った。数百平米にも及ぶペントハウスは、窓が全面ガラス張りで広大な住田川が一望できた。
「ここが僕たちの新しい家だ」
私は部屋の真ん中に立ち、自分が限りなく小さく孤独に感じられた。ここは家じゃない。黄金の檻だ。
「いつまで私をここに閉じ込めておくつもり?」
「一生。それとも、子供が大きくなるまで、君がもう僕の子を連れて逃げようなんて考えがないと確信できるまでだ。ここでは全てを手に入れることができる。家政婦、個人教師、料理人、クレジットカード。欲しいものは何でも。ただ一つを除いてな。僕の許可なく、このドアの外に出ることだ」
「結局、私はあなたのガラスの陳列ケースの中の人形に過ぎなかったのね」
「君は僕の子供の母親だ。そして僕は、僕の子供が完全な家庭を持ってほしい。たとえバラバラになった家庭だとしても、父親がいないよりはマだからな」
「家庭?愛も尊敬もなく、ただ強制と支配だけがある場所を、家庭と呼ぶの?子供がこんな環境で幸せになれると思う?」
「僕たちにも愛はあった。しかし、それを捨てたのは君だ。離婚しようと言ったのも君だ。今更、何の愛を要求するんだ」
私は言葉に詰まった。そうだ。離婚を要求したのは私だった。しかし、その愛を先に殺したのは誰だったのか。
「もう言い争うのはやめよう。入って休め。君の寝室は右側。子供部屋はその隣だ。キムさんがもうすぐ赤ちゃんの世話をしに来る」
「キムさん、あの女、まだあなたの下で働いているの?」
「もちろんさ。ただの軽い腹痛だっただけだ。そして今回は、従業員を全員入れ替えた。二度と君や君の友人に金で買収されて裏切るようなことはないと保証する」
その言葉を残し、彼は書斎の方へ歩いていき、ドアを閉めた。私はその場に釘付けになったように立ち、ガラス窓の外を見た。眼下の住田川は雨の中で灰色だった。波が当てもなく岸を打っていた。押し流され、ぶつかり、どこへ流れていくのかも分からない。私はあの波と自分が同じだと感じた。
私は自分の部屋へと足を運んだ。部屋は広く、全ての快適な設備が整っていた。しかし、この豪華さは私の心の空虚さを満たすことはできなかった。バスルームで顔を洗い、顔を上げて鏡を見た時、私は驚いた。鏡の隣の最も目立つ場所に、湿気から守るために丁寧にガラスの額に入れられた小さな油絵が一枚かかっていた。
日差しの下でまぶしいひまわり畑を描いた、私の美大時代の最初の作品だった。駆け出しの頃の絵なので筆は拙なく、色合いも単一だった。私は失敗作だと思って捨てようとしたが、ケンジが持っておくと言ったのだ。
「僕はこれが好きだ。君に似ている。いつも太陽の方を向いているじゃないか。何があっても、この花のように強く眩しく生きなければならないよ」
私は彼が、この絵もとっくに捨てたと思っていた。しかし、彼はまだ持っていた。自身の最もプライベートな空間に、丁寧に額に入れて保護していた。なぜ?なぜ彼は夫婦の情を捨てながら、この安物の記念品は持ち続けているのだろうか。
私は絵の前で長い間、無言で立っていた。涙が静かに流れ落ちた。ひまわりはいつも太陽の方を向く。しかし、私の太陽はとっくに沈んだ。今、私はこのペントハウスの冷たい人工照明に頼って生きる、ガラスの檻に閉じ込められた枯れかけの花に過ぎなかった。
闇が訪れ、ペントハウスの明かりが華やかに灯った。ケンジが夕食の時間だと言って私の部屋のドアをノックした。広い食卓には山海の珍味がずらりと並べられていた。しかし、私を驚かせたのは、ケンジがキッチンに立ち、お玉でスープをすくっている姿だった。彼はジャケットを脱ぎ、薄手のTシャツにエプロンをつけていた。
「座れ。今日は料理人が早く帰ったから、僕が君のためにスペアリブのスープを温め直したんだ」
「そんな演技は必要ないわ。私たち、新婚夫婦じゃないんだから」
「演技じゃないさ。ただ、ちゃんとした食事がしたかっただけだ。僕たちが一緒に食事をするのも久しぶりじゃないか」
「最後に一緒に食事したのが、いつだったかしら。ああ、思い出したわ。あなたが食卓の上に離婚届を投げつけて、私の粗末な食事にうんざりだと言った。あの日だったわね」
ケンジは固まった。彼の手にした箸が、空中で止まった。
「僕が君を傷つける言葉をたくさん言ったのは分かっている。すまなかった」
「謝れば済むの?その言葉が私の心の傷跡を消してくれるの?失われた私の青春を取り戻してくれるの?」
「食べろ。スープが冷める。子供に母乳をあげるなら、しっかり食べないと」
私たちは沈黙の中で食事をした。山海の珍味が並んでいたが、私はまるで藁を噛んでいるようだった。食事が終わり、ケンジは温かいお湯を一杯差し出した。
「二度といなくならないでくれ。お願いだ」
彼の声には、命令ではなくかすかな懇願が込められていた。
「じゃあ、いつまで私を閉じ込めておくつもり?子供が大きくなるまで?」
「分からない。僕が分かっているのは、二度と君と子供を失うあの気持ちには耐えられないということだけだ。あの空っぽの病室を見た時、心臓が凍りつくようだった。怖かったんだ。生まれて初めて恐怖を感じた」
私は沈黙した。しかし、信じられなかった。また別の甘い罠ではないかと恐れた。
「疲れたわ。部屋に戻る」
翌日、ケンジは早く出勤した。彼はキムさんとボディガードに私を徹底的に監視するよう指示した。私はアパートに閉じ込められ、子供のそばをうろつくか、ガラス壁の中を歩き回る以外にすることがなかった。
退屈に耐えかね、本でも読もうとケンジの書斎に入った。書斎は広く、何千冊もの本が並んでいた。私は古書を眺めながら古典小説を一冊選んだ。本を引き抜いた時、偶然、本棚の小さなスイッチに触れた。カチッという音と共に、隣の木製の壁面が滑り、近代的な壁金庫が現れた。
私は好奇心に駆られ、金庫を見つめた。電子式のロックだった。そのまま立ち去ろうとしたが、奇妙な衝動に足が止まった。暗証番号は何だろう?ケンジの誕生日を入力してみた。エラー。私たちの結婚記念日。エラー。どんぐりの誕生日。エラー。私はしばらくぼんやりと立ち尽くし、記憶を辿った。ふと、私たちが初めて会った日を思い出した。美大の校舎の下でイーゼルを抱えてうんうん唸っていた、あの日。10月17日。私は震えながら数字を入力した。
緑色のランプが点灯し、金庫の扉が開いた。
彼がまだあの日を暗証番号に使っているなんて。私でさえ、ほとんど忘れてしまっていたあの日を。あの無神経な男が、まだ覚えていて、しかも最も重要なものを守るために使っていたなんて。
金庫の中には、金や宝石はなかった。いくつかのファイルと、小さなベルベットの箱が一つだけだった。私は箱を開けた。中には、三日月型の銀のネックレスがあった。私たちが離婚届に判を押した日、私が住田川に投げ捨てた、まさにあのネックレスだった。それは傷一つなく、輝いていた。どうやってこれを探し出したのだろう。あの広い住田川で、潜水士でも雇って探したというのか。私が捨てた安物の品一つを取り戻すために。
私はネックレスを置き、隣のファイルを手にした。それは「藤堂公信託基金」という名前の信託設立書類だった。基金の額は30億円。設立日は昨日。彼が私をここに連れてきた直後だった。私は震える手で書類をめくった。ファイルの間には、手書きのメモが一枚挟まれていた。
「息子へ。お前の存在をもっと早く知ることができず、すまなかった。残りの人生を、お前に償いながら生きていく。この金は、お前が最も強固な未来を持つことを保証するための始まりに過ぎない。父さんはお前に世界の最高のものを全て与える。昔、父さんが血と汗を流して手に入れなければならなかった全てのものを。愛している、息子よ。父より」
私はその文面を何度も何度も読み返した。息子への彼の愛は本物だった。しかし、私の胸を刺す一つのことがあった。「藤堂」という名前。彼は私に一言も相談せず、子供の名前を決めていた。彼の目には、私はただ子供を産んだ人間に過ぎず、決定権は課長であり経済権を持つ彼にあるのだ。私は阻害感を感じた。彼がどれだけ子供を愛していようとも、彼は私を尊重していなかった。
その日の午後、ケンジはいつもより早く帰宅した。彼の顔は晴れやかで、手に遺伝子検査センターのロゴが入った大きな封筒が握られていた。
「DNA検査の結果だ。99. 99%、父子関係。もはや疑いの余地はない。どんぐりは僕の実の息子で、うちの藤堂家の嫡男なんだ」
「最初から言ったじゃない。信じられないなら確認してみればって。これで満足?」
「満足だとも」
彼は笑いながら近づき、私をぐっと抱きしめた。
「ありがとう、しおりさん。こんなに素晴らしい息子を産んでくれて、本当にありがとう。これからは僕たち、やり直そう。僕が二人を何一つ不自由させないから」
私は彼の手を振り払い、後ずさった。
「勘違いしないで。DNA検査の結果は、あなたが生物学的な父親だということを証明しただけよ。あなたが父親として資格があるかどうかは、これから見ていかなきゃ分からないことだわ」
ケンジの口元から微笑みが消えた。
「まだそんなに僕を憎んでいるのか?僕はできることは全部した。仕事を放棄し、君をここに連れてきて、子供のために基金まで作った。これ以上、何を望むんだ?」
「私は、あなたが『父親になる』ということが、子供の顔にお金を投げつけることじゃないって理解して欲しいの。父親っていうのは、真夜中に起きてミルクを作ってあげて、子供が熱を出したら一晩中濡れタオルを変えてあげて、子供の最初の一歩を見守る人よ。あなたにできる?また海外のパートナーと会議で忙しいんでしょう?また子供を新生児ヘルパーに任せて、長期出張にでも行くんでしょう?」
「子供を食べさせていくためには、仕事をしなければならないじゃないか!この豊かな生活を誰が作ってやったんだ?僕だ!僕が昼も夜も働かなかったら、子供がこんなに良い環境を享受できたと思うのか?」
「じゃあ、あなたのお金でも抱きしめて生きていきなさいよ!あなたがレナさんと婚約破棄したのは、私を愛しているからでも、子供がかわいそうだからでもない。ただ男としてのプライドのため、後継ぎが必要だっただけよ。あなたはひどく自己中心的だわ!」
「黙れ!」
ケンジが手を上げた。私を殴ろうとして、空中で止まった。彼の手が震え、目は怒りで赤く充血していた。私は顔を上げ、挑戦的に言った。
「殴りなさいよ。あなたの本性がどんなものか、はっきりと見せて」
ケンジは手を下ろし、重いため息を吐いた。彼は振り返り、壁を強く殴った。ドン。
「そうだ。君の言う通りだ。僕は自己中心的で野心的だ。だが、子供を愛しているのは本心だ。そして絶対に子供を僕のそばから離さない。君がどう思おうと関係ない」
激しい言い争いの末、家の中の空気は葬儀場のように沈み込んだ。私は長い間、考えた。私は養育権争いでケンジに勝てないことを知っていた。法廷に行けば、私は間違いなく負けるだろう。そして私は、私の子供が両親の争いと憎しみの中で育って欲しくなかった。
私はリビングへ出た。
「話があるの。提案があるわ。取引とでも言うべきかしら?」
「何の取引だ?」
「あなたが子供を欲しがっているのは分かるわ。そして私にあなたに勝つ力がないことも。だから私が折れるわ。養育権放棄の覚書にサインするわ。全ての権利をあなたに譲渡する」
ケンジは息を呑んだ。
「本気か?」
「でも、条件があるわ。条件は、子供が満3歳になるまで、私がここで直接子供の世話をすること。この3年間、あなたは全てを支援しなければならないし、最も重要なのは、私の育児方針に干渉しないこと。あなたはただ子供と遊んであげて、愛してあげる。父親の役割だけをするの。絶対に子供を私から引き離してはだめ」
「なぜ3年なんだ?」
「人生の最初の3年間が、子供の人格と情緒を形成する上で最も重要な時期だからよ。私は私の子が完全な情緒的基盤を持ってほしいの。母乳を飲み、母の腕に抱かれて、最も弱い時期に母親の愛が不足して育って欲しくない。3年後、子供の3歳の誕生日に、私は出ていくわ。ずっと遠くへ行く。あなたと子供の人生から消えるの。その頃には子供も丈夫になって保育園にも通うだろうから、あなたがもっとちゃんと面倒を見られるでしょう。私はもうあなたを患らわせない。あなたも私を探してはだめ」
ケンジは沈黙した。彼は私をじっと見つめた。
「子供を捨てるというのか」
「捨てるんじゃないわ。子供のために犠牲になるのよ。一度だけ辛い思いをして、子供は権力のある父親のそばで安定した未来を持つ方が、この終わりのない争いに子供を巻き込むよりはマシよ。私にはもう、あなたの愛を信じる勇気も、あなたの家族と戦う力もないの」
ケンジは俯いた。彼は長い間考えていた。
「分かった。この取引を受け入れよう。3年間だ。僕たちには3年間ある」
私は背を向けて寝室へ向かった。足取りは鉛のように重かった。私はたった今、自分の心臓に死刑宣告を下したのだ。3年間、私には子供を抱き、子供の匂いをかぎ、子供が成長するのを見ることができる。その後、私は他人になるのだ。
私はドアを開けて入った。どんぐりは目を覚まし、ゆりかごで手足をバタバタさせていた。私を見ると、その子がにっこりと笑った。その無邪気な笑顔に、胸が張り裂けそうになった。
「坊や」
私は子供を抱き上げ、腕の中に強く抱きしめた。子供の胸に顔をうずめ、悲しげに泣いた。
「ごめんね、ママが。ごめんね」
私の鳴き声は防音壁に遮られ、外には漏れなかった。リビングの外では、ケンジがまだ座っていた。彼は電気をつけておらず、闇が彼を包んでいた。彼はタバコに火をつけた。赤い火種が闇の中で燃え上がり、消えていった。
彼は勝った。彼は息子を手に入れ、これから3年間の私の服従を手に入れた。それなのに、なぜ心はこれほど空っぽなのだろうか。彼は理性では勝ったが、感情では完全に敗北したことを悟った。彼は人を手に入れたが、彼が最も愛した女性の心は永遠に失った。彼女は彼を愛しているからではなく、子供を哀れんでここにいるのだ。
ケンジはタバコを揉み消した。彼は椅子の背にもたれ、目を閉じた。熱い涙が一筋、その男の目尻から静かに流れ落ちた。もしかしたら、それは幸福の涙だったのかもしれない。



