空港の出発ロビーで、私は信じられない言葉を耳にした。嫁の七菜さんが冷たく言い放ったのだ。
「旅費だけ置いて帰ってもらえますか?」
私は藤崎稽古子、67歳。42年間看護師として働いてきた。夫を亡くしてから、女手一つで息子の健太を育て上げた。この日をどれほど楽しみにしていたことか。人生で初めての海外旅行だった。家族みんなでハワイへ行く。そう聞いた時、私は迷わず200万円を援助した。パスポートも初めて作り、新しい服も買って、この日を心待ちにしていた。
なのに、七菜さんに続いて健太もこう言った。
「悪いけど、今回の旅行、母さんは行けないから」
「え、どういうこと? 私も一緒じゃないの?」
私の声が震える。その横で、七菜さんの母である雅代さんがにっこり笑っている。
「私は行きますけどね」
胸が締め付けられるような感覚が広がっていく。一体何が起きているのか。
思い返せば、私はこれまで家族のために全てを捧げてきた。大学まで出して、今ではメーカーで立派に営業マンとして働く息子のために。42年間の看護師生活で貯めた退職金と貯金。その多くを、息子家族のために使ってきた。結婚式に250万円、マンション購入の頭金に400万円、車の購入に200万円。孫の陸と桜の教育費は月6万円を5年間、それだけで360万円。さらに孫の保育園や学童への送り迎えは週に3回、夕食作りも週に4回、全て無償でやってきた。援助したお金は、気づけば1000万円を超えていた。
それでも私は働き続けてきた。息子家族のために、少しでも役に立ちたいと思って。今も週5日の訪問看護のパートで働いている。
でも、七菜さんの母である雅代さんとは、扱いが全く違った。雅代さんは海運業の妻でとても裕福。健太夫婦は月に1回、雅代さんを高級レストランに招待している。誕生日には15万円のエルメスのバッグをプレゼントしたそうだ。私の誕生日は、3000円くらいのお花だけだった。
そんな中で迎えた今回のハワイ旅行。2ヶ月前、健太が私に相談してきた。
「母さん、家族でハワイに行きたいんだ。陸も桜も喜ぶと思う。でもお金がね」
「いいわよ。私も一緒に行ってもいいんでしょう? 初めての海外旅行だから」
健太は笑顔でこう言った。
「もちろん、母さんと一緒に行きたいんだ」
その言葉を信じて、私は200万円を援助したのだ。67歳にして初めてパスポートも作り、新しい服も買って、この日をどれほど心待ちにしていたか。
でも、出発前日に七菜さんから来たのは、冷たいメッセージだけだった。
「明日は10時に空港集合です」
それだけだった。
そして今、空港で突きつけられたこの現実。私は3人に追いすがった。
「待って。どういうことなの? 私も一緒に行って」
健太が面倒そうに言う。
「母さん、実は最初から3人分しか予約してないんだ」
「でも200万円は、4人分の旅費として渡したはずよ」
すると七菜さんが遮るように言った。
「お母さん、現実を見てもらわないと。あなたと一緒じゃ、私たちが恥ずかしいんですよ」
その言葉に胸が押しつぶされそうになる。
「顔だってシワだらけだし、ファッションセンスもないし、英語も話せないでしょう。私の母は、こう見えて70歳だけど若く見えるでしょう? 海外旅行にも慣れてるの」
七菜さんがさらに追い打ちをかける。
「それに、お母さん、教養がないじゃないですか」
健太も言った。
「母さんと一緒だと、ハワイのレストランに行った時に恥をかくんだよ。マナーとか分からないでしょ」
「健太、あなた、本当にそう思ってるの?」
健太は目をそらした。
「しょうがないだろ。七菜だって、自分の母さんの方が一緒にいて楽しいんだよ」
そして、こう言ったのだ。
「お金だけ出してくれればいいから。それくらい分かってよ」
周りの人たちが私たちを見ているのが分かった。あのお年寄り、置いていかれるのかしら。かわいそうに。そんな声が聞こえてくる。私の目に涙が浮かんだ。
すると七菜さんが小声で言う。
「あ、泣かないでください。周りに見られて恥ずかしいので」
健太も冷たく言い放つ。
「母さん、いい加減にしてよ。もう子供じゃないんだから」
雅代さんが勝ち誇ったように笑った。
「あら、お金出したからって一緒に行けると思ったの? 世間知らずね。空気読めないんですか? あなたみたいな価値のない老害。誰が一緒に旅行したいと思うのよ」
さらに衝撃的なことを、七菜さんが言い始めた。
「そういえば、陸と桜にも、おばあちゃんは貧乏だから旅行には行かないよって話したんです」
孫たちにそんなことを。健太が平然と答える。
「だって本当のことだろ。母さんの退職金なんて大したことないし」
七菜さんが続ける。
「私の母は海運業の妻だから年金も多いし、品があるんですよ。お母さんとは違って」
雅代さんがにっこり笑った。
「そうそう。私たち、本当の家族ですものね。お母さんは外の人ですから」
3人はもう保安検査場に向かおうとしていた。せめて説明を。67年間生きてきて、こんな扱いを受けるなんて。
七菜さんが1000円札を数枚取り出し、私の足元に投げつけた。
「もういいですから。タクシー代、これで足りるでしょう」
健太が言う。
「じゃあね、母さん。もう連絡しないでよ。静かに余生を過ごしてくれればいいから」
雅代さんが最後に言った。
「私たち、本当の家族の邪魔しないでください。これからハワイで素敵な時間を過ごすから」
3人は笑いながら去っていく。すると、陸と桜が振り返ってこう言った。
「バイバイ、貧乏ばあちゃん」
私は床に散らばった1000円札を見つめていた。この瞬間、私の中で何かが完全に切れたような気がした。
震える手でスマートフォンを取り出した。いや、手は震えていなかった。目は冷たく光っていたように感じる。
さあ、始めましょうか。
私は空港ロビーのベンチに座った。もう涙は流れていない。冷静にスマートフォンを操作する。旅行予約サイトにログインしたのだ。
この旅行は、やはり私の名義で予約されていた。それなのに、私だけが置き去りにされる。こんなに不条理なことがあるだろうか。
さらに画面をスクロールすると、オプション追加の履歴が次々と出てくるではないか。高級ホテルへのアップグレードに10万円、スパ予約、レンタカーの豪華版に8万円、高級レストランの予約に14万円。これらも全て、私のクレジットカードから引き落とし予定になっている。合計すると245万円。私が必死に働いて貯めたお金。その私のお金を、息子夫婦は何の罪悪感もなく使おうとしていた。
ふと、七菜さんのSNSを見てみようと思った。以前、孫の陸と桜の写真を見せてもらうためにアカウントを教えてもらっていた。
そこに投稿されていた内容に、私は息を飲んだ。
3週間前の投稿。『義母説得成功。お金だけ出させて、私の母を連れて行くことに。あのババアと旅行とか絶対無理(笑)』
心臓がドキドキと音を立てるのが分かる。コメント欄には友人たちからの返信。『天才』『義母様、老害は金だけ出してろ』。そんな言葉がたくさん並んでいる。
私はさらにスクロールした。2週間前の投稿。『ギボったら、まだ自分も行けると思ってるみたい(笑)。初めての海外旅行だって(笑)。当日まで黙ってよ』
私が初めてパスポート申請に行った頃だ。あの時の私の嬉しそうな顔を、七菜さんは笑っていたのだ。
1週間前の投稿。『空港で置き去りにする計画、完璧。ババアの顔が楽しみ。絶対、泣くでしょ』
新しい服を買って健太に見せた日のことだろうか。
「母さん、その服、旅行に着ていく服? すごく似合うよ」
健太はそう言って笑っていた。あれも全部、演技だった。
そして、昨日の投稿。『明日がついに本番。義母の絶望した顔、写真撮ってやろうかな。#義母 #老害 #金だけ出せ』
いいね数は247件もついていた。247人もの人が、私の屈辱を楽しみにしていた。
全て計画的だった。最初から私を騙すつもりだった。そして、ネタにして笑い物にするつもりだった。
私は健太とのメッセージ履歴を開いた。2ヶ月前の健太からのメッセージ。
『母さん、家族でハワイ行きたいんだ。陸も桜も喜ぶと思う。でもお金が…』
それに対する、あの時の私の返信。
『家族みんなでいいわよ。パート代で貯めたお金だけど、家族のためなら200万円、私が出すわ』
あの時、私はどれほど嬉しかったか。孫たちと一緒に海外旅行に行ける。そう思うだけで胸がいっぱいになった。
健太の返信。『ありがとう、母さん。子供たちといっぱい思い出作ろう。初めての海外旅行、楽しもうね』
この言葉を、何度読み返したことだろう。
1ヶ月前のメッセージ。『予約完了。母さんの席もちゃんと取ったから。ビジネスクラスにしたよ』
私は嬉しくて「楽しみね」と返していた。ビジネスクラス。健太は私のことを大切に思ってくれているんだと、そう信じていた。
そして、1週間前の七菜さんからの冷たいメッセージ。『明日10時、空港集合です』。それだけだった。
あの優しい言葉も、全部嘘だった。騙してお金だけ奪う計画。それが最初からあった。
ふと、半年前の出来事を思い出した。偶然、雅代さんと会った時のことだ。
「あら、稽古子さん、まだパートやってるの? 大変ね」
雅代さんは嘲笑うように言った。私は答えた。
「ええ、訪問看護は体力いりますが、やりがいがありますよ」
雅代さんは鼻で笑った。
「私の主人は海運ですから、優雅に暮らしてますの。70歳なのにこの若さ。七菜たちには、貧乏な方のおばあちゃんには近づかないようにって言ってあるんです。教育に悪いから」
あの時、私は何も言えなかった。「ああ、そうですか」と答えるのが精一杯だった。今思えば、あの頃から全て計画されていたのかもしれない。
私は深呼吸をした。スマートフォンの画面を見つめる。そこには「予約キャンセル」というボタンが表示されていた。
67年間、誠実に生きてきたつもりだ。42年間、看護師として人の命と寄り添ってきた。夜勤も厭わず、患者さんのために働いてきた。息子のために全てを捧げてきた。美味しいものを食べさせたい。良い教育を受けさせたい。そう思って、自分のことは後回しにしてきた。
でも、もう我慢する必要はない。今度は私の番だ。
私の指が、ゆっくりとボタンに向かっていく。心は不思議なほど静かだった。これが正しい選択なのだと、そう感じていた。
指がボタンに触れた。画面が切り替わり、キャンセル手続きの画面が表示される。私は一つ一つ丁寧に確認していった。
まずフライトのキャンセル。返金額は178万円。キャンセル料が20万円。次にホテルの5泊分。返金額は9万円で、キャンセル料は1万円。レンタカーのキャンセル。返金額7万円、キャンセル料1万円。そして、スパや高級レストランなど全てのオプションをキャンセル。返金額12万円、キャンセル料2万円。
総返金額は206万円、キャンセル料の合計は24万円になった。
画面に表示される。『キャンセル完了しました。返金は3営業日以内に口座に振り込まれます』
206万円戻ってくる。24万円の勉強代は安いものだと思った。67年間の人生で学んだ、最も大切な教訓の代金だ。
次に、私は証拠を集め始めた。七菜さんのSNS投稿を全てスクリーンショットで保存する。『義母説得成功』『ババア老害』。そんな言葉が並んだ投稿、一つ一つを記録していった。健太とのメッセージ履歴も保存する。旅行代金の振り込み履歴も、スマートフォンで写真を撮った。クレジットカードの明細も確認して保存しておく。
証拠は全て揃った。長年、看護師をやってきた私は、記録の大切さをよく知っている。カルテの記録、患者さんの状態の記録。全ては証拠になる。それは今回も同じことだった。
私はタブレットを取り出して、弁護士事務所にメールを送った。『詐欺罪での相談を希望します。証拠は多数あります』
すぐに返信が来た。『明日14時に面談可能です。お待ちしております』
弁護士との相談もこれで準備が整った。
でも、私の準備はこれだけではない。ふと思い出したことがあった。健太夫婦のマンション。実は、連帯保証人は私だった。以前、契約書の写真をスマートフォンで撮っていたことを思い出した。月15万円の家賃。契約書を確認すると、やはり私の名前があった。
そして、私はある電話をかけることにした。健太の会社の人事部長さん。実は40年以上前、私が看護師として働いていた病院で一緒に勤務していた方なのだ。今では健太の会社で人事部長をされている。
「もしもし、田中さん? お久しぶりです。藤崎です」
「稽古子さん、お久しぶりですね。お元気でしたか?」
「ええ、元気にしていますよ。実は、息子のことで少しご相談が」
「健太さんのことでですか? どうされたんですか?」
私は深呼吸をしてから話し始めた。
「息子が、私のお金を騙し取ったんですよ」
電話の向こうで、田中さんが息を飲む音が聞こえた。
「まさか…。でも、それが本当なら大変です。詳しく聞かせていただけますか?」
私は経緯を説明した。田中さんは静かに聞いてくれた。
「稽古子さん、それは会社としても看過できない事態かもしれません。お手数ですが、会社での評価に影響することをご理解いただけますでしょうか?」
「わかりました」
電話を切ってから、私は自分の銀行口座を確認した。これまでたくさんのお金を援助してきて、貯金はだいぶ減ってしまった。でも、幸いなことに大きな病気もせず、67歳の今も元気に働けている。体が動く限り、まだまだ働ける。
そして、3営業日後にはキャンセルした206万円が返金される。これまで息子家族のために使ってきたお金。これからは、自分のために使う。
何より、誰にも縛られない自由が手に入った。それが何よりも価値があると思えた。
私は弁護士にもう一通メールを送った。健太夫婦のマンションの連帯保証人契約を解除したい、と。それから、孫たちへの教育費、月6万円の停止手続き。夕食作りも、保育園や学童への送り迎えも、全て今日で終わりにします。
さあ、始めましょうか。積み上げてきた私の人生を取り戻す時だ。
私は空港のカフェに入った。コーヒーを注文して、窓際の席に座る。温かいコーヒーの香りが心を落ち着かせてくれた。窓の外を見ると、遠くに健太たちの姿が見えた。ここからは、ちょうど保安検査場がよく見える。3人ともまだ笑っている。まさか自分たちの旅行がキャンセルされているなんて、夢にも思っていないのだろう。
私は静かに微笑みながら、コーヒーを一口飲んだ。
そろそろ気づく頃だ。
時計を見る。健太たちが保安検査場に向かう時間。
さあ、どうなるでしょうか。
私は窓越しに、健太たちの様子をこっそりと見ていた。3人は笑顔で、保安検査場の係員にパスポートを渡そうとしている。楽しいハワイ旅行が始まると信じて疑っていないのだろう。
その時だ。係員が何か言っているようだった。健太の表情が変わったのが、遠くからでも分かった。驚いたような、信じられないような顔をしている。七菜さんも慌てて係員に何か言っている。雅代さんは怒っているようにも見えた。3人とも激しく動揺している様子が、ここからでもよく分かる。
そして、健太がスマートフォンを取り出した。
私のスマートフォンが鳴る。予想通り、健太からの着信だった。私は静かに微笑んで、電話に出た。
「もしもし」
「ちょっと、母さん、何してるんだよ! 今すぐキャンセルを取り消せ!」
健太の声はパニックに満ちていた。窓の向こうで健太が激しく動いているのが見える。私は冷静に答える。
「あら、健太じゃない。どうしたのよ。もう保安検査場かしら?」
「順調じゃないよ! 母さん、お願いだ。今すぐ予約し直してくれ!」
「え、だって、あなた、私だけ置いて帰れって言ったでしょう? だから、旅費は返してもらいましたよ」
私の声はとても穏やかだった。電話の向こうで、七菜さんが叫ぶ声が聞こえる。窓越しに見ると、七菜さんが健太から電話を奪ったようだ。
「お母さん、ふざけないでください! 今すぐ予約し直してください! 私たち、ハワイに行くんです!」
七菜さんの声が震えている。遠くからでも、その焦りが伝わってきた。私は優しく答えた。
「あら、七菜さん。老害の私に、何を期待してるんですか?」
「何ですって?」
七菜さんの声が裏返る。窓の向こうで七菜さんが何か叫んでいるのが見えた。
「それに、私はもう外の人ですから。本当の家族の旅行に、口出しできませんよ」
「そんなこと言ってる場合じゃ!」
「あなたがそう言ったんですよ。私は外の人だって」
今度は健太が電話を奪い返したようだ。窓越しに、健太が頭を抱えているのが見えた。
「母さん、頼む。後で謝るから。今は本当にお願いだ」
健太の声は泣きそうになっていた。でも、私の心は動かない。
「謝罪は結構です。それより、楽しい思い出、作れそうですか?」
「母さん…」
「あ、そうだ。ハワイの素敵な写真、SNSに載せるんでしたよね?」
雅代さんが電話を奪ったようだ。窓の向こうで、雅代さんが激しく身振りをしているのが見える。
「稽古子さん、あなた、何考えてるの? 楽しみにしてたのに、どうしてくれるの?」
私は静かに言った。
「雅代さん、あなたは私に、お金だけもらっておけばいいとおっしゃいましたよね」
「それは…そんなこと言ってないわ!」
「言いましたよ。半年前、偶然お会いした時に。だから、お金は返してもらいました。それだけのことです」
「稽古子さん、あなた…」
「それに、シワだらけで教養のない私では、一緒にいて恥ずかしいんでしょう?」
健太の声が割り込んできた。窓越しに見ると、健太が電話を奪い返したようだ。
「母さん、聞いてたのか、空港での話を…」
「ええ、全部。空港で言われたことも、七菜さんのSNSも、全部聞いていましたよ」
七菜さんの悲鳴のような声が聞こえてくる。
「SNS?! どういうこと?」
窓の向こうで、七菜さんが真っ青な顔をしているのが見えた。
「『#義母』だっけ? 私の絶望した顔を写真に撮る予定だったんですよ」
「そ、それは…その…冗談で…」
「大丈夫。私もスクリーンショット、全部取らせていただきました。証拠としてね」
健太が慌てて聞いてくる。
「証拠?! 母さん、何をする気だ? まさか…」
「ええ、明日、弁護士と相談するんです。詐欺罪について」
「詐欺?!」
「そんな…母さん…」
窓越しに、健太が絶望的な表情をしているのが見えた。
「健太、あなたの会社の人事部長さん、田中さんにもお話ししましたよ」
健太の声が裏返る。
「何? 田中部長に?!」
「ええ。息子が母親の私からお金を騙し取ったこと、とても重々しく聞いてくださいましたよ」
電話の向こうで、健太が呻くような声を出した。窓の向こうでも、健太が崩れ落ちそうになっているのが見える。
「母さん、そんな…」
「でもね、まだ伝えることがあります。それから、マンションの連帯保証人、解除させていただきますからね」
「母さん、それは困る! そんなことされたら…」
健太が叫ぶ。
「外の人が連帯保証人というのも、おかしいですものね」
「母さん、お願いだ…」
「それから、あと陸君と桜ちゃんの教育費、月6万円。今月から停止します」
七菜さんが悲鳴のような声をあげた。窓越しに見ると、七菜さんが泣き崩れているようだった。
「そ、そんな…子供たちの習い事、全部できなくなるじゃないですか!」
「貧乏ばあちゃんには、お金がありませんから」
私は淡々と続ける。
「それと、夕食作りも、保育園や学童への送り迎えも、全て今日で終わりです」
「お母さん、待ってください! 私たち、どうやって暮らせばいいんですか!」
健太が泣きそうな声で言った。
「母さん、頼む。謝るから。本当にごめん。許してくれ」
窓越しに、健太が項垂れているのが見える。
「許す? 健太、あなたは私に『もう連絡しないで』と言いましたよね」
「それは…あの時は…」
「だから、これが最後の連絡です」
雅代さんが怒りをぶつけてくる。
「稽古子さん、あなた、本当にこんなことして、許されると思ってるの?」
私は静かに答えた。
「雅代さん、本当の家族でハワイ旅行、楽しんでくださいね」
「当たり前でしょう! 私たちは本当の家族なんだから!」
「はあ、でも…飛行機のチケット、ありませんでしたね」
雅代さんが絶句するのが分かった。電話の向こうで、七菜さんが泣き崩れる声が聞こえてくる。窓越しに見ると、七菜さんがその場に座り込んでいた。
健太が必死に言う。
「母さん、待ってくれ! 今からでもなんとか…お願いだ! 俺が悪かった!」
「さようなら。そして、2度と私の前に現れないでください」
「母さん…」
私は最後にこう言った。
「誠実に生きてきた私を、お荷物扱いした報いです」
そして、電話を切った。
窓の向こうで、健太が私の名前を叫んでいるのが見えた。でも、もう声は届かない。すぐにまた着信が入る。健太から、七菜さんから、雅代さんから。何度も何度も着信が続く。窓越しに見ると、3人とも必死に電話をかけている様子だった。
でも、私はもう出ない。静かに着信拒否の設定をした。
カフェのウェイトレスさんが声をかけてくれる。
「お客様、お変わりいかがですか?」
私は微笑んで答えた。
「ええ、お願いします。今日はいい日だから、ゆっくり過ごしますわ」
温かいコーヒーがまた運ばれてくる。一口飲むと、とても美味しく感じた。窓の外を見ると、健太たちは呆然と立ち尽くしていた。空港の出発案内板には『出発済み』の表示。もちろん、3人は乗っていない。
私はコーヒーを飲み終えて、カフェを出た。空港の外に出ると、タクシーの乗り場があった。タクシーに乗り込む。
運転手が聞いてきた。
「お客様、どちらまで?」
私は答えた。
「素敵なホテルへ、お願いします」
「ホテルですか? お泊まりで?」
「ええ、今日は自分へのご褒美なんです」
運転手さんが微笑む。
「それは良いですね。承知しました」
車が動き出した。窓の外の景色を見ながら、私は思った。初めて自分のために生きる。そんな日が来たんだ。
その夜、私は都内の高級ホテルにチェックインした。
「藤崎様、スイートルームへご案内いたします」
フロントの方が丁寧に案内してくださる。部屋に入ると、大きな窓から美しい夜景が広がっていた。東京タワーがキラキラと輝いている。こんな贅沢をしたことはなかった。
私はルームサービスで夕食を注文した。美味しそうな料理が運ばれてくる。一人でゆっくりと味わった。スマートフォンを見ると、健太からの着信履歴が147件もあった。七菜さんからメッセージも届いている。
『お母さん、お願いです。許してください。全部私が悪かったんです』
雅代さんからも。『稽古子さん、大人なんですから、話し合いましょう』
でも、私は全て無視した。今更、何を言っても遅い。
翌日、私は弁護士事務所を訪れた。弁護士の先生が、証拠を丁寧に確認してくださる。
「藤崎さん、これは明確な詐欺罪が成立する可能性があります。SNSの投稿、メッセージ履歴、お金の流れ。全てが証拠として揃っています。しかも計画的で、悪質です。刑事告訴も可能ですよ」
でも、私は少し迷った。実の息子を刑事告訴するというのは…
弁護士の先生は優しく言ってくださった。
「お気持ちは分かります。では、民事での損害賠償請求はいかがでしょう?」
「それも考えておきます。私は正直に伝えました。ただ、もう2度と関わりたくないんです。私には、残りの人生を穏やかに過ごす権利があると思うんです」
あの日から1週間が経った。健太たち家族には、次々と問題が降りかかっていたようだ。
健太は会社で人事部長に呼び出されたそうだ。ボーナスの査定に影響が出ても、仕方ありません。マンションの管理会社からも連絡があったとか。連帯保証人が解除されたため、保証会社と契約することになり、追加費用が発生したそうだ。陸と桜の習い事も、月6万円が払えず、3つのうち2つをやめることになった。夕食作りや送り迎えも、全て七菜さんが負担することになり、疲れきっているようだ。雅代さんに頼もうとしても、「私は忙しいの」と断られたとか。七菜さんが実家に泣きついても、「自業自得でしょ」と冷たく言われたそうだ。
健太は欝鬱としていると、風の噂で聞いた。
「母さん、俺、取り返しのつかないことをしてしまった」
そう呟いているそうだ。
一方、私の新しい生活はとても充実していた。返金されたお金で、せっかくだから国内旅行を楽しむことにした。京都の高級旅館に泊まった。温泉にゆっくり浸かり、美味しい懐石料理もいただいた。一人旅の自由さ。誰にも気を使わない幸せ。こんなに心が軽いなんて、思いもしなかった。旅先で出会った同年代の女性たちとも仲良くなった。「やっと自分の人生を生きられるようになった」と話すと、みなさん共感してくださった。
訪問看護のパートは、少し減らすことにした。自分の時間をもっと大切にしたいと思ったのだ。その時間で、水彩画教室にも通い始めることにした。それから、読書会にも参加している。友人たちとの旅行も計画することにした。
穏やかで充実した日々が続いている。
それから1ヶ月が経ったある日のこと。外出から戻ると、自宅の前に健太が立っていた。随分やつれた顔をしていた。疲れ切った様子が、見てすぐに分かった。
「母さん…」
健太はその場で土下座をした。
「健太…」
私は静かに名前を呼んだ。
「本当にごめん。俺が全部悪かった。許してくれとは言わない。ただ、謝りたくて」
私はしばらく黙っていた。そして、聞いた。
「健太、あなたは私に何と言ったか、覚えてるの?」
健太は俯いたまま答える。
「…外の人だと。老害だと言った」
「そうよね。だから、外の人に謝る必要なんて、ないの」
「母さん…」
「母さんは、あなたたちが本当の家族で幸せに暮らせることを願っています。さようなら」
私は健太に背を向けて、家の中に入った。ドアを閉めると、健太の嗚咽が聞こえてきた。でも、私は振り返らなかった。もう涙は出なかった。
私はリビングで温かいお茶を入れた。窓から差し込む柔らかな光が、部屋を優しく照らしている。テーブルには、京都旅行の写真。水彩画教室で描いた作品。それらを見ながら、私は穏やかな笑顔になった。
ずっと我慢してきた。でも、もう我慢する必要はない。自分を大切にしてくれない人のために、自分を犠牲にする必要はない。
今、私は本当に自由で幸せだ。これが、私の新しい人生の始まりなんだ。


