誰もがあの汚い薬草取りを笑った。血まみれで瀕死の女中の札を、全財産の三貫で買った私を。「正気か?」と。でも、私はあの女中の目を見逃せなかった。罪人の目ではない、何かを必死に背負った者の目だった。彼女を山の小屋に連れ帰り、名前を聞くと「おふ」とだけ答えた。数日後、傷を癒やし終えた彼女が、密かに古い布を開いているのを見てしまった。中には、父親を冤罪で陥れた大官の罪を記した密書と、偽の印判。彼女は…
村の広場で、血まみれの女中が地面に力なく座り込んでいた。誰も目を合わせない。誰も声をかけない。ただ一人、見すぼらしい薬草取りの男だけが、震える手で有り金をその場に差し出した。周りの者たちは腹を抱えて笑った。あの汚い男が死にかけの女中を身請けするとは正気か、と。だが誰一人知らなかった。この一瞬の決断が、後に一つの土地を救う鍵を引き金になろうとは。 全ての始まりは、山合の小さな村で起きた一日の出来事であった。 昔々、信濃の深い山合に、さちという薬草取りが暮らしていた。年は三十二。まだ嫁を迎えぬ一人者であった。両親は早くに亡くなり、譲り受けたものといえば、今にも崩れそうな一軒の小屋と、草を見分ける腕一本だけであった。手のひらは木の皮のように固く荒れ、顔は日に焼けて赤黒かった。さちは夜明けと共に背負い籠を担いで山へ入る。運が良ければ柴胡や桔梗の根を、さらに運が良ければ人参の一株を掘り当て、それを町の市で売り歩いた。そうして儲けた銭で、ようやくその日の粥を賄っていたのである。 「さち、お前さん今日も収穫は少ないようだな。」 市の隅で、年寄りの薬種屋の吉兵が声をかけた。さちの摘んだ草を情け深く買ってくれる、数少ない相手であった。 「気候が何問かございます。目をつけてくだされ。」 「良い良い。しかしお前さんもいい年だ。そのまま山で朽ち果てる気か。女房の一人でも持ってこそ、人の暮らしというものだぞ。」 さちは答える代わりに、苦く笑うほかなかった。自分一人の口を養うことさえ精一杯の身の上だったのだ。その日は冬越しの米をまとめて買うつもりで、甕の底に貯めていた銭まで懐に入れてきていた。彼は気候の代金をそこに納め、吉兵と別れて市の奥へ足を進めた。物を売る湯気やら魚売りの声やらで、いつも賑わう市であった。だが、小綺麗な身なりの者たちは、彼をちらりと見ては鼻をつまんだ。さちはそんな扱いに慣れきっていた。ただ黙って自分の分を売り、安い米を買って帰ればそれで良かったのである。 その日はことのほか市が騒がしかった。人々が一箇所に丸くなり、騒めいている。さちが首を伸ばして覗くと、人だかりの真ん中に口入れ屋の男が、札を片手に立っていた。 「さあさあ、良い働き手だ。台所仕事も畑仕事もこなす女子だ。札ごと安く譲るぞ。目のある方は早くお声がけを。」 口入れ屋は声を張り上げたが、人々は舌打ちして通り過ぎていく。それもそのはず。引き出された女中の有り様は、目も当てられぬほどのものであったからだ。女中は地面に膝をついて座り、頭を垂れていた。顔と言わず、首と言わず、傷だらけで、かわいそうにしか見えなかった。 「あんなものが引き取れるか。まともな肌が残っておらん。」 人々が囁き合ったところが、不思議なことに、あれほど打たれて引き出されながら、女中は身をよじりもせず、涙一粒も見せないのである。ただ口を固く結び、地面の一点をじっと見つめているだけであった。口入れ屋が女中の背を足先で小突くと、女中はゆっくりと顔を上げた。血にまみれたひどい顔であったが、その両の目だけは違っていた。死んだ目ではない。むしろ静かに鋭く光っていた。まるでこの世の全ての屈辱を心の奥に刻みつけようとするものの目差しであった。 さちはその目を見て、思わず足を止めた。胸の奥が冷やりとした。なぜかは分からない。ただ、あの目差しをこのまま見過ごしてはならぬという、妙な予感がしたのである。 「この女子の札ほどで、譲ってもらえるのか。」 さちが不意に口を開いた。口入れ屋は彼を上から下まで眺め回すと、鼻で笑った。 「ふん。薬草取りの不器量が、銭など持っておろうか。知った風な口を聞くな。」 「札の値は幾らかと聞いたのだ。」 さちの声が低く沈んだ。口入れ屋はしぶしぶ答えた。 「身請け金は三貫だ。厄介払いとはいえ、まだ働ける女子だからな。」 さちは懐から、埃だらけの銭袋を取り出した。冬越しのために貯めてきた、彼の全財産であった。 「三貫しかない。これで、札と引き取らせてくれ。」 その瞬間、市は笑いの渦に包まれた。 「あの薬草取り、頭がおかしくなったんじゃないか。」 「残金あれば米が買えるというのに、あんな死にかけの女中の札を引き取ろうとは。」 「自分の口さえろくに養えぬくせに。」 人々は指を差して勝手に笑った。さちの耳がカーッと熱くなった。だが彼は、口入れ屋が、どうせ他に引き取り手の付かぬ札だと思ったのか、しばし考えると、銭袋をひったくった。 「今日はついてない日だ。女ごと連れて行け。後から銭を返せなどと言うなよ。」 こうして女中は、さちの元で働くこととなった。周囲の笑い声が響く中、さちは女中に歩み寄り、手を差し出した。 「立ちなされ。参りましょう。」 女中はその手を取らなかった。たださちの顔をじっと見上げるばかりであった。どういう了見で自分の札を引き取ったのか、値踏みするような目差しであった。無理もない。男が女子の札を引き取るのには、大抵、よからぬ心があるものだ。さちはその目差しを読み取ったのか、淡々と言った。 「欲はない。ただ、あの目を見過ごして帰れば、一生気がかりになりそうだったのでな。不自由はさせぬようにしよう。それだけのことだ。」 女中はしばらくそうしてさちを見つめていたが、やがて自ら体を起こした。痛そうにしながらも、人の手を借りようとはしない。その姿には、札と引き取られる女中とは思えぬ、不思議な気高さがあった。さちはそんな女中を連れて、山道を登った。日が西に傾きかけていた。 「名は何と言うのか。」 さちが尋ねると、女中はしばらく答えなかったが、やがて低い声でようやく口を開いた。 「おふ、と呼ばれておりました。」 「おふか。ならばおふ、と呼ぼう。」 さちはそれ以上、深く詮索しなかった。呼ばれていたという言葉には、どこか引っかかるものがあったが、人にはそれぞれ、言えぬ事情があるものだと思ったのである。彼は先に立って歩きながら、おふが遅れぬよう歩幅を緩めてやった。山の小屋に着いた時には、すでに薄暗くなっていた。さちはかまどに火を入れ、米の飯を炊いた。塩漬けの山菜が少しあるだけの、実に粗末な膳であった。それでも彼は、飯を茶碗に山盛りにして、おふの前に置いてやった。 「どうぞ、お食べなさい。いくらか食べておらぬようだ。」 おふは茶碗を見下ろすばかりであった。そのうち、大きな目から大粒の涙がこぼれ落ち始めた。あれほど打たれても泣かなかった人だというのに。 「どうなされた。飯が悪かったか。」 さちが慌てて尋ねると、おふは首を振った。 「いえ。ただ、誰かがこうして飯を持ってきてくれたのが、あまりに久しぶりで。」 その言葉に、さちは何も言えず、ただおふが飯を食べる様子を見守った。おふはガツガツとは食べなかった。飢えていたはずなのに、箸を動かす指先が不思議なほど落ち着いていた。さちはそれを見て内心首をかしげた。長らく下働きをしてきた者の手つきではない。飯を食べ終えたおふは、空の茶碗を両手で丁寧に重ねた。そしてさちに向かって静かに頭を下げた。 「拾っていただき、ありがとうございます。」 その挨拶の仕草に、さちはしばし戸惑った。下働きの者がようにへこへこするのではない。まるで客人が主人に礼を尽くすように、背筋を伸ばしたまま頭を下げるのであった。 「礼など良い。ただ飯を一飯、振る舞ったまでだ。」 さちは照れ臭そうに手を振った。その時、ふと、おふの手を見た。打たれてあちこちに痣や傷があったが、指は細く長かった。荒仕事を長くしてきた者の手ではない。さちは不思議に思いながらも、あえて尋ねなかった。人の事情は、むやみに探るものではないからだ。 夜も更けた。 「休みなされ。明日には、傷に効く薬草も探してみよう。」 「薬草を、ご存知なのですか。」 おふが初めて、さちに何かを尋ねた。さちはにっこり笑った。 「それはもう。この山に生える草なら、大抵は分かる。傷によく効くものも、いくつかある。案じるな。」 おふの目がわずかに揺れた。薬草を知るというさちの言葉に、何か思い当たることがあるようであった。だが、その思いを口にすることはなかった。おふはただ、「はい」と短く答えるのみであった。 その夜、さちはおふに部屋を譲り、自分は囲炉裏の前で寝た。山風が隙間から忍び込む寒い夜であった。だが、さちの胸の奥は不思議と温かかった。長らく一人きりであった小屋に、初めて人の温もりが宿った夜であったからだ。 … Read more