「お前、この蔵の鍵は誰が握っていたと思っているんだ?」…
「お前、この蔵の鍵は誰が握っていたと思う?」 姑の科野が静かに、しかし鋭い目つきでそう問いかけてきたのは、蔵から穀物が消えたという騒ぎが起きて三日後のことでした。千代は涙を堪えながら答えました。 「私が疑われているのですか」 「疑うなとは言わぬ。ただ、本当に疑うべきは別におると言っておるのだ」 この家に嫁いで三年。全てが崩れ始めたのは、それからすぐのことでした。蔵を預かる萬造が「穀物が盗まれた」と騒ぎ出し、千代が蔵を調べていたことが逆に「盗みの証拠」へとすり替えられました。下働きの孫吉が偽の証言をし、千代の部屋からは見覚えのない帳面が何冊も見つかりました。 「私がやっていないことは、お調べになればすぐにわかります」 千代がそう訴えても、親類たちは耳を貸しませんでした。夫の直次郎が「私の妻はそんなことはせぬ」と庇っても、「女に惑わされて店の恥をさらす気か」と押し切られました。 ただ一人、科野だけが最後まで千代を信じていました。 「私の嫁は決してそんなことをする子ではない」 しかし、萬造が用意した偽の証拠と証人たちに、家の決定は覆りませんでした。千代は九人の子を連れて、雨の降りしきる中を霧谷家の門を出ることになったのです。 「お前たちは何も悪いことはしていない。ただ、しばらくここを離れるだけだ」 千代は泣く子どもたちをなだめながら、胸は張り裂けそうでした。門の外まで駆け出てきた科野が言いました。 「行くな。私が必ずお前の疑いを晴らそう」 千代は雨の中で深く頭を下げました。 「お母様、どうぞお身体を大切に」 直次郎も硬い顔で妻に近づき、低くささやきました。 「しばし辛抱してくれ。私が必ず真実を明らかにし、お前を迎えに来る」 千代は黙って頷き、子どもたちを連れて雨の中へ消えました。 全てを失い、かつての市場町に戻った千代は、また烹淋売りを始めました。しかし試練はそれで終わりではありませんでした。三番目の弟の病がまた重くなったのです。千代は薬を求めましたが、どの薬問屋も断りました。 「霧谷家の萬造様から、お前たちには薬も穀物も一銭も出してはならぬと言われておる」 千代はそこでようやく悟りました。萬造は追い出した自分の息の根まで止めようとしているのだと。薬代もなく、弟は死にかけているのに、薬一つ手に入れることができませんでした。千代は雨の中で腰を落とし、初めて声を上げて泣きました。 「姉さん、泣かないで。私が姉さんを守るよ」 末の妹がそう言って抱きついてきました。千代はその小さな体を抱きしめ、涙を拭いました。 「そうね、座り込んではいられない。道は必ずある」 千代は死にかけの弟を背負い、隣町の役問屋まで雨の中を駆けました。萬造の手が及ばない遠い町です。持っていた荷の品を全て売り渡し、ようやく薬を一服手に入れました。その帰り道、薬問屋の隣の米屋の前で、こんな話が耳に入りました。 「近頃、霧谷様の分限が穀物をやたら安く流しておるが、あれは一体どこから出ておるのか」 「あの店の帳場の孫吉が夜のうちに運んでくるという話ではないか」 千代の頭に光が差しました。千代は知らぬ顔でその米屋に近づき、尋ねました。 「霧谷様の穀物はいつ頃から受けておられますか」 「もう五年になろうか。孫吉という男がいつも夜に持ってくるのだ」 絶望の真ん中で、千代は自らの手で反撃の第一歩を踏み出しました。 「お前を絶対に手放さぬ。薬を飲めばきっと良くなる」 千代は弟にそう言い聞かせながら、細々と烹淋売りを続けました。その甲斐あって、弟は一命を取り留めました。しかし、荷の品も尽きた暮らしは、まさに風前の灯火でした。 一方その頃、下働きの孫吉は雨の夜道で、息も絶え絶えの弟を背負い、幼い子らを連れて歩く千代の姿を見かけていました。千代は子どもたちにこう言い聞かせていたのです。 「誰も恨んではならぬ。ただ正しく生きよ」 その一言が、孫吉の胸に深く刺さりました。孫吉自身も幼い頃に飢えに苦しみ、通りすがりの誰かに一膳の飯を恵まれて命を繋いだ覚えがありました。 「あの日の恩を、自分は忘れていたのではないか」 孫吉は雨の中に立ち尽くし、しばらく動けませんでした。 霧谷家に一人残された直次郎は、妻を送り出したその日から何も手につきませんでした。 「このまま黙って騙されてはおれぬ。萬造の不正を暴き、真実を明らかにします」 科野も頷きました。 「そうだな。萬造は手強い。本当の帳面がどこに隠されているのか、それを先に見つけねばならぬ」 母子は密かに調査を始めました。科野は蔵番の老人を問い詰め、こう聞き出しました。 「萬造様が夜中に穀物を抜くたび、孫吉という者がどこかへ帳面を持って消えるのでございます。おそらく、本当の帳面は孫吉があの者が別に隠しておるのでしょう」 糸口が見えてきました。萬造は勝ち誇っていました。 「あのエラぶった嫁も、もう終いだ」 孫吉は言いました。「それでも、あの方は心が折れておりませなんだ」 「薬問屋も米問屋も全て言い含めた。時が来れば自ら音を上げて出て行く」 萬造はそう言って高笑いしました。しかし、その一撃が後に己の首を締めることになるとは、萬造は思いもよりませんでした。千代は決して座り込む人ではなかったし、真実というものはいつか必ず現れるものだからです。 しかし、萬造の傍らにいる孫吉だけは、その日以来心が休まりませんでした。雨の中、追い出されても前を向いていた千代の姿が、目の前にちらついて仕方がなかったのです。 「萬造様、本当に奥方様が穀物を盗んだのでございましょうか」 萬造は睨みつけました。 「今さら何の戯れ言だ。我らは一つ船に乗った身だ」 孫吉は慌てて頭を下げましたが、一度揺れた心は容易に収まりませんでした。罪もない女を、それも幼い子を九人も抱える娘を落とし入れたという罪の意識が、胸を締めつけたのです。 千代が追われた後も、直次郎と科野は密かに萬造の調査を続けていました。そんな中、萬造はついに最後の手を打ちました。千代を永遠に立ち直れぬまで叩き潰す策です。ある日、町役から霧谷家に使者が訪れました。 … Read more