四〇度の熱で意識がもうろうとする中、夫が運転する車の助手席で、私は病院へ連れて行ってもらうことに必死だった。すると夫は車を止め、私を車から引きずり下ろして言った。「これから仕事に行かないといけなくなった。病院まで歩いて行けよ」。夜の雨の中、スマホも奪われたまま置き去りにされた私は、夫の浮気も、息子の言葉も、まだ何も知らなかった。あの夜、病院で目を覚ましたとき、私はある決意を固めることになる。…

夫は車を止めると、外に回って助手席のドアを開けた。私は熱でぼんやりする頭のまま、必死にシートにしがみついた。40度を超える熱で意識がもうろうとする中、隣で運転していた夫は、病院へ連れて行く途中でこんなことを言ったのだ。 「これから仕事に行かないといけなくなった。あとは歩いて病院に行けよな」 薄暗い人気のない通りだった。私が熱を出して、夫に病院へ送ってほしいと頼んだ時、彼は嫌な顔をしていた。それでも、私が救急車を呼んだ時には「熱くらいで迷惑だろ」と、勝手に私のスマホからキャンセルしたのは彼なのに。 「お願い、止まって。戻ってきて」 声は届かないと分かっていても、私は立つ力さえ残っていなかった。雨の降る夜道に投げ出され、私はか細い声で助けを求めるしかなかった。 私の名前はナオコ。四十歳の専業主婦だ。夫のダイスケと十六歳の息子ユウジと三人で暮らしている。友人の紹介で知り合ったダイスケは、当時「俺はもっと出世するからついてきてくれ」とよく言っていた。向上心のある彼なら幸せにしてくれると思った。実際、結婚した当初は幸せだった。名の知れた大企業に勤め、休日は二人で映画を観に行ったり、ショッピングを楽しんだりした。しかし、息子のユウジが生まれてから、すべてが変わった。 ダイスケは育児に一切関わらなかった。おむつを替えたことなど一度もない。ユウジの運動会に休みが取れるのに、参加したこともない。三人で家族旅行へ行ったこともない。つまり彼は、親らしいことを何ひとつしてこなかった。そのせいで、今ではユウジとダイスケはほとんど会話をしない。 そんな関係を修復しようと試みたこともあった。しかし、ダイスケは「仕事で疲れているから」と、まともに話し合いすらさせてくれなかった。そして一緒に暮らすうちに分かったのは、彼は小心者だということだ。彼の大口は向上心からではなく、ただの虚勢だった。私が他の男のところへ行ってしまわないように、自分を大きく見せていただけだったのだ。 そんなある日、ユウジをサッカー部の朝練へ送り出し、ダイスケの朝食を用意した時のこと。寝室から出てきた彼は、テーブルに並んだ味噌汁を一口すすると、眉間にしわを寄せて「まずくて食えない」と言い放ち、席を立ってしまった。メニューはいつも通りの納豆と焼き鮭と味噌汁だったのに。 それからというもの、彼は私の作る料理にいちいち文句を言うようになった。弁当は「まずくて食べられなかった」とほとんど手をつけられずに戻ってきた。夕飯も「疲れているのにこんなものを食べさせるな」と、手をつけないことが増えていった。文句は料理だけに留まらず、洗濯や掃除にも及んだ。「洗濯物はもっとしわを伸ばして干せ」「窓のさんにほこりが溜まってる」と。今まで通りに家事をしているのに。 しかも、彼が文句を言う時は決まって「他の女性ならもっとしっかり家事をするのに」と、誰かと比べるような言い方だった。まるで、最近ほかの女性が家事をしているところをじっくり見ているような言い草だ。さらに、スマホを持ったままトイレや風呂に行ったり、仕事中と称して誰かとこそこそ電話をしたりと、怪しい行動が目立つようになった。 もしかして浮気をしているのか。私は証拠をつかもうと彼の鞄を調べたり、彼のスマホを覗いてみたりしたが、何も見つからなかった。探偵に依頼しようとも考えたが、家計はダイスケが管理しているため、自由になる金もなかった。 そんなモヤモヤを抱えたまま数週間が過ぎたある日の深夜、息苦しさで目を覚ますと、私は高熱を出していた。最近はダイスケと寝室を分けているため、助けを求めることもできない。なんとか起き上がり、リビングへ向かうと、スマホがテーブルに置いてあった。視界がぼやけていく感覚に、大げさかもしれないが命の危険を感じた。救急車を呼ぼうとスマホを手に取ると、偶然にもダイスケがリビングにやってきた。 「こんな夜中に何をしているんだ」 私は力を振り絞って事情を説明した。するとダイスケは無言で私の手からスマホを奪い取った。代わりに救急車を呼んでくれるのかと思ったが、彼はとんでもない言葉を放った。 「高が熱で救急車を呼ぶなんて、ご近所に知られたら恥ずかしいだろ。家事もまともにできないくせに、俺に迷惑をかけるのだけは得意なんだな」 心配どころか、悪態をついてくる夫に、私は半泣きで抗議した。 「お願いだから病院へ行かせて。救急車がダメなら、うちの車で連れて行ってよ」 ほとんど懇願のように言い続けた。するとダイスケは渋々ながらも車を出すことにした。だが、出発して五分もしないうちに、彼のスマホに着信があった。車を路肩に止め、短い会話を交わして電話を切ると、彼は言ったのだ。 「これから仕事に行かないといけなくなった。あとは歩いて病院に行けよな」 「え、仕事? こんな夜中に?」 そう言うと、ダイスケは怒った顔で「俺を疑うのか」と声を荒げた。 「じゃあ仕事に行ってもいいから、私を病院まで送り届けてからにしてよ。車だったらそんなに遠くないでしょ」 私は必死で助手席にしがみついた。この状態で大雨の中を歩くなんて不可能だ。しかし彼は助手席のドアを開け、私のシートベルトを外すと、肩を掴んだ。 「早く降りろよ」 その言葉とともに、私は車の外に放り出された。あまりの勢いで、膝と手のひらを擦りむいた。血が出ている。痛いと叫んでも、彼は鼻を鳴らして車に戻り、走り去ってしまった。 雨は勢いを増していく。熱も上がっている気がする。夜道には誰もおらず、スマホはダイスケに取り上げられたままだ。歩いて病院に行くしかない。 私は病院へ向かって歩き始めた。大輔が事前に連絡していたので、病院のスタッフは待っていてくれるはずだ。道に迷い、途中で休みながら、なんとか病院へたどり着いたのは、家を出てから二時間も経ってからだった。車なら十五分で着くはずなのに。 病院に入ろうと扉へ向かうと、ガラス越しに看護師と目が合った。その瞬間、安心した私は意識を手放した。 目が覚めると、私はベッドに横たわっていた。点滴が効いたのか、熱は引いているようだ。ぼんやりと天井を見つめていると、聞き慣れた声が聞こえた。 「母さん、大丈夫?」 息子のユウジだった。心配そうな顔で私の体を起こしてくれる。そして、その目の前には、なぜかびしょ濡れのダイスケが座っていた。髪はぐちゃぐちゃで、足が小刻みに震えている。顔はげっそりとやつれ、目の下にはくまができていた。 私は彼に何か言うことがあるだろう」と、ユウジが冷たい口調でダイスケに言った。すると彼は、小さな声で「すまなかった」と謝った。 ユウジが話してくれたところによると、ダイスケは私を車から引きずり下ろした後、家に引き返したらしい。異変を感じて起きていたユウジが私の居場所を聞くと、ダイスケははぐらかそうとしたが、結局、私を雨の中に置き去りにしたことを白状した。ユウジは父よりも体格がいい。小心者のダイスケがビビったのだろう。言い争いになったところへ、私がたどり着いた病院から電話が入り、ユウジは病院へ行こうと提案したが、ダイスケは「明日も仕事があるから」と断った。ついにぶち切れたユウジはダイスケに掴みかかり、「お前も歩いて病院へ行け」と詰め寄った。そして、自転車に乗ったユウジに監視されながら、ダイスケは雨の中をジョギングで病院まで来たのだという。車通勤で運動嫌いの彼には相当応えたようだ。 説明を終えたユウジは、真剣なまなざしで言った。 「母さん、こんなやつとは今すぐに離婚した方がいい」 その言葉に、私はショックを受けた。離婚したくないからじゃない。息子にそんなことを言わせてしまったことが、ショックだったのだ。私はユウジの手を握り、「ごめんね」と謝ることしかできなかった。 それから数週間、私はダイスケと冷戦状態だった。離婚したい気持ちはあったが、専業主婦の私にユウジを一人で育てていく自信がなかった。 ある日、家の固定電話が鳴った。相手は女性だった。 「大輔さんの奥さんですよね。私は部下のアケミです」 「はい、ですが何かご用ですか?」 すると、アケミと名乗った女は、衝撃的な言葉を放った。 「私と大輔さんは愛し合っているんです。だから、さっさと別れてくれますか?」 なんと、アケミはダイスケの浮気相手だったのだ。以前の疑いは間違っていなかった。 「私だって、離婚できるならしたいわよ」 私はとっさに叫んでいた。これが本心だった。あんな最低な男、欲しければくれてやる。罵倒されることを覚悟して、私はぎゅっと拳を握った。 しかし、アケミは嬉しそうな声をあげた。 「そうなの? これなら話が早いわね。私は大企業に勤めているから、慰謝料ぐらいなんぼでも払ってあげる。メールアドレスを教えてくれたら、大輔さんと浮気をしていた証拠をたくさん送ってあげるわ。それを使って、大輔さんに離婚を迫ればいいの」 まさかの提案に私は驚いたが、すぐに我に返った。こんなチャンスを逃してはいけない。私はすぐにメールアドレスを教えた。すると、すぐにたくさんの浮気の証拠が送られてきた。ラブラブなツーショット写真や、密会の約束をしたメッセージのスクリーンショット。十分な証拠だった。 その日の夜、ユウジが眠ったのを見計らって、私は晩酌をしているダイスケに話しかけた。 「ねえ、話があるんだけど」 ダイスケはテレビから目を離さず、どうしたという。私はむかついて、勝手にテレビの電源を切り、テーブルを叩いた。怒った彼がこちらを向くと、私は書類を突きつけた。 「離婚届よ。離婚しましょう。あなたには、大企業で家事が得意な女性が他にいるようだからね」 … Read more

6 September 2026

夜道で蹲る同級生を見つけて声をかけた瞬間、人生が変わった。同じクラスの斎藤七、有名な不良少女が顔中傷だらけでうずくまっていた。「殴られたのかよ。警察に行くか」と言うと、七は睨みながら言った。「やめろよ。私が勝手に殴られに行っただけだよ」。こんな風に彼女と関わるつもりはなかったのに、私は彼女を家に連れて帰り、翌朝、彼女を送ることにした。そこから毎日、一緒に登校することになるなんて、考えもしなか…

夜道で蹲る人影を見つけたのは、塾からの帰り道だった。もう数メートルで家という場所で、私は足を止めた。近づいてみると、それは制服を着た女子生徒で、顔中に傷を作っていた。同じクラスの斎藤七だった。昔から有名な不良少女で、それなのに勉強ができてこの進学校に合格した珍しい奴だ。 「おい、殴られたのかよ。警察に行くか」 「やめろよ。そう言うんじゃない。私が勝手に殴られに行っただけだよ」 そう言うと、七はまた蹲ったまま動かなくなった。このままじゃまずいと思い、私は彼女の腕を取って引きずるように自宅まで運んだ。インターホンを鳴らすと、母が驚いた顔でドアを開けた。母は看護師で、こういう時はやはり落ち着いている。 処置をしながら、母は淡々と指示を出した。私はリビングの隣の和室に布団を敷き、七を寝かせた。ほとんどが擦り傷で、骨は折れていないらしい。一晩置いて、翌朝動けるようになったら帰らせようということになった。 翌朝、リビングに行くと七と母が何か言い合っていた。母の作った朝ご飯を食べるか食べないかで揉めているらしい。父はニコニコしながらその様子を眺めていた。結局七は渋々ご飯を受け取り、黙って食べた。私は母の命令で七を家まで送ることになった。 「もう不良は卒業しようと思ったんだけどな」 「なんで急に?」 「せっかく新学校に入ったのに意味ないだろう」 七の家は私の家からそう遠くなかった。別れ際、何か手伝えることがあったら言えよと言ったが、七は「お前には何もできねえよ」と言い放った。 数日後、七は学校に来た。教室に入ると、みんながひそひそと噂話をした。また暴れたのだろうと。私は気になって声をかけたが、七は鬱陶しそうに「ほっとけよ」と言って席を立ってしまった。隣の席の長瀬には「関わってもろくなことないぜ」と忠告された。私は七がうちに来たことは言わなかった。 それでも私は心配で、昼休みにも帰り際にも声をかけた。七はうるさいと言いながらも、少しずつ傷が良くなっていることは教えてくれた。 塾の帰り道、また同じ場所で蹲る人影を見つけた。まさかと思って近づくと、また七だった。今度は顔が赤く腫れ、足首を引きずっている。 「お前、またかよ」 「今回は喧嘩じゃねえよ。一方的にやられたんだ。あいつら、私のことが許せないらしい」 私は七の肩を貸して家に連れて行った。母は夜勤でいなかったので、今日は私が手当てすることにした。足首を冷やし、包帯を巻く。 「包帯巻くのうまいな」 「一応これでも看護師目指してるからな」 七は驚いた顔をした。「でもビビリだから無理だろう」と言うので、「看護師は別に喧嘩できなくても大丈夫だよ」と笑って返した。母が作っておいたおにぎりと、私が適当に作った味噌汁で夜食を食べた。 「でも案外向いてるのかもな。看護師」 「なんだよ、急に」 「お前、母親に似てるからさ」 照れ隠しにそう言ったが、七に「向いている」と言われたのは正直嬉しかった。 次の日の朝、七を家に送りながら私は提案した。「誰かに襲われるなら、一人でいる時間を作らなきゃいいんじゃないか」と。そして「頼りないかもだけど、俺がついてれば違うんじゃないか」と言った。七は「ビリでもいないよりはましかな」と渋々ながらも受け入れてくれた。 そこから私たちは一緒に登下校するようになった。しばらくは誰にも襲われなかった。ある日、七がぼそっと「私も元宮みたいに勉強してみようかな」と言った。私は勉強を教えることになった。塾の日以外は図書館で勉強して帰るようになり、七は親に頼んで私と同じ塾にも通い始めた。 七はどんどん勉強を取り戻していった。もともと頭が良かったのだろう、何週間かで今の授業の内容に追いついてしまった。長瀬も途中から勉強会に加わり、最初は関わらない方がいいと言っていたくせに、七の真っ直ぐな努力に心を動かされたらしい。 期末テストを終え、七はついに全科目平均点以上を取ることができた。もう私が教えなくても大丈夫だなと思った。それでも、七を家に送ることは習慣になっていて、やめられなかった。 その日も七を家の前まで送った。別れ際、私はなぜかこんなことを言っていた。 「お前、来年俺と同じ大学受けろよ」 「そんなの無理だろう」 私は七の面倒を見なくて済むようになったら、もう七は離れていってしまうような気がしたのだ。続けてこう言った。 「来年も一緒に受験勉強できるだろう。あと学校へも一緒に登校するからな」 「なんでだよ。もうその必要もねえだろう」 私は七の鈍感さに、秘めていた感情が爆発した。 「お前、こういうのは頭悪いんだな。俺はお前のことが好きなんだよ」 七は言葉を失い、私をじっと見ていた。「それって女としてってことか?」と聞いてきた。 「それ以外何があんだよ」 私は恥ずかしくて早口で続けた。ビビリで平凡だけど、お前を守れる自信はある。夢も叶えるし、その姿をお前に見ていてほしい。七は驚いていたが、やがて強がった声で言った。 「あ、私を守るなんてお前には無理だよ。だから変な奴に絡まれたら私がお前を守ってやる」 私は七がたまらなく可愛く思えて、そのまま抱きしめた。こうして私たちは交際を始めた。 元ヤンキーと地味なガリ勉が付き合い始めたと知って、周りは驚愕し、変な噂もされた。しかし長瀬だけは祝福してくれた。「まさか付き合うとは思わなかったが、ま、お似合いだ」と。 受験生だったから、デートといえば勉強ばかりだった。それでも私たちは順調に付き合いを続け、結局同じ大学に合格した。私は看護学部、七は教育学部。あんなに教師に迷惑をかけていた七が教師を目指すなんて、誰も考えなかっただろう。 それから時は流れ、私は看護師の国家試験に合格した。合格が分かった日、私は七にプロポーズした。 「俺と結婚してください」 「しゃあな。してやるか」 七はあの頃と変わらずツンデレで、すぐ喧嘩を吹っかけてくるところも変わらない。でも一つ違うのは、歩く時は絶対に私の手を繋いでくるところだ。七だけが見せる可愛いところを、私は誰にも教えたくないと思いながら過ごしている。母と七は今でも遠慮なく言い合いをするが、二人とも元ヤンキーなだけあって、根本的にすごく気が合うらしい。強い女性に囲まれて、私はこれからも幸せに生きていくのだろう。

6 September 2026

「化け物は消えなさいよ。その顔を見ていると気分が悪くなるの」——井口部長は江野本さんの顔の痣を嘲笑し、会社中が聞こえる声でそう吐き捨てた。俺が抗議すると、彼女は笑いながら言った。「あなたが彼女の代わりに首になってあげたら?」その瞬間、俺は決めた。翌日、俺は退職届を出し、ある人物に電話をかけた。誰も知らない。俺の父が、今日の商談の相手の会社の社長だってことを。井口部長が満足げに笑っている顔を、…

「化け物は消えなさいよ。なんだかその顔を見ていると気分が悪くなるの。分かるかしら?」 営業部のフロアに、井口部長の鋭い声が響いた。いい年をしたお嬢様育ちの部長が、若い女性の部下を罵倒している。最初は仕事のミスについて叱っていたのだが、それはすぐに悪口へと変わり、そして彼女がコンプレックスにしている顔のことまで言い出した。 あんまりな言葉を浴びせられ続けて、俺は我慢の限界を超えた。 「待ってください。井口部長。それは間違っていますよ!」 「高田さん。これはあなたには関係ないことよ。口を挟まないで」 「関係あります。江野本さんは同じ営業部の仲間ですから」 そう言うと、井口部長は俺を馬鹿にしたように笑った。 「いつもあなたはそうやって江野本さんをちやほやして、随分気に入っているのね。だったら、あなたが彼女の代わりにこのミスの責任を取って、首になってあげたらどうかしら?」 俺はその言葉に、逆にかっとなった。 「分かりました。じゃあ、そうしましょうか。私が首になる筋合いはありませんが、私はもうこの会社をやめますよ」 俺はそう言い放ち、その日に退職届を出して会社を後にした。 俺の名前は高田。5年前に機械メーカーへ転職し、営業部に配属された。今日も営業部には、井口部長の高い声が響いている。部下に対するこういう高飛車な態度はいつものことで、俺たちはもう慣れっこだ。 井口部長は嫌みばかり言うから苦手だが、仕事自体にはやりがいがあり、俺の一生懸命働く姿勢を先輩や同僚たちは高く評価してくれるので、転職して良かったと思っている。 「江野本さん、あなたは仕事ができないのに男の人には媚を売って、本当に困った人ね。仕事はもっとテキパキとやってもらわないと」 井口部長が営業事務の江野本さんに目を釣り上げて、まだ文句を言っている。彼女を目の敵にしている井口部長は、日頃から江野本さんに特に当たりが強い。 井口部長は40代で、20代の江野本さんよりはずっと年上だが、資産家で名家出身というのが自慢で、何かと言うと実家の話をしている。いい年をしてお嬢様気質が抜けず、常に上から目線で物を言ってくるので、社員たちには人気がない。 「井口部長はどうして江野本さんに小事ばかり言うんだろうな。彼女が営業補佐についてくれると、仕事がしやすいのに」 「江野本さんは仕事ができるのに、いつも叱られてばかりで気の毒だよ」 「井口部長は、江野本さんが若くて美人だから気に入らないだけだろう」 井口部長が席を外すと、社員たちはこぞって影で愚痴っている。うちの会社は産業機器やその部品の開発、製造、販売まで手掛けていて、仕事は地味で正確さが要求される。江野本さんの仕事はいつも迅速で丁寧で、営業社員たちの間でも評判が良く、俺も彼女の仕事にはいつも助けられている。 お嬢様で負けず嫌いの井口部長は、そんな江野本さんのことを余計に腹立たしく思っているのだろう。普段は江野本さんに仕事を頼んでおけば完璧にやってくれると分かっていながら、それでも辛く当たっている。 「すみません。井口部長。報告書ならもうすぐできますので」 今日も急に報告書の作成を頼んだのは井口部長の方なのに、江野本さんは素直に謝っている。江野本さんはいつもこうして言われるままで、傍から見ていて歯がゆいほどだ。 社員たちの江野本さんに対する高評価は本人にも伝わっているはずだが、彼女は自己肯定感がかなり低い。実は江野本さんは顔立ちが整った美人なのだが、左の頬に大きな黒子があり、いつも髪を垂らして隠すようにしている。そのせいか、普段から俯いて仕事をしていることが多く、表情が暗く見えてしまう。 江野本さんの顔の痣は生まれつきだと聞いている。仕事もできるのだし、もっと堂々としていればいいと思うが、若い女性なら顔のことは気になるのは仕方がないのかもしれない。 ある日の夕方のことだ。俺が営業先から戻ると、部屋には江野本さんだけが残って仕事をしていた。 「今戻りました。江野本さん、残業ですか? もしかして、また井口部長に?」 「あ、ええ、まあ……」 江野本さんは頷きながら答えてくれた。 「江野本さん、これは大変だ。私も手伝います。1人では無理ですよ」 見ると、デスクには大量のファイルがうず高く積み上げられている。どうせまた井口部長が急に指示した仕事だろうが、この量ではいつ終わるのか分からない。しかもファイルの中身を見てみると、これは井口部長がやるはずの仕事だ。 最近よく見る光景だった。井口部長は夕方になると自分の仕事を江野本さんに押し付けて帰ってしまい、急ぎでもないのにせかして仕事をさせている。 後輩の営業社員が戻ってきたので、みんなで仕事を手伝い、何とか片付けた。 「ありがとうございました。助かりました」 江野本さんは丁寧に頭を下げてくれたが、俺たちもいつも彼女にはお世話になっているのでお相子だ。気がつけば時計は9時を過ぎていて、みんなで最寄りの駅まで歩いた。 俺たちがいなかったら、江野本さんはいつ帰れたか分からない。井口部長も分かってやっているのだろうから、これはかなり悪質な嫌がらせだ。いつもポーカーフェイスの江野本さんも、今日はさすがに疲労感が伺えた。 それから1ヶ月ほど経ったある朝のこと。 「本当に申し訳ありません。こちらのミスでご迷惑をおかけいたします。すぐに伺わせていただきます」 新人の営業社員がペコペコとお辞儀しながら電話で謝っている。電話を切った新人は、井口部長に近づくと自分の発注ミスを報告した。数量を1桁間違えて発注し、取引先に大量に部品を送り付けてしまったらしい。 「あら、こういうことは気をつけないとね」 「はい、分かりました」 「そうよ。こういうところは間違いやすいものなの。まあ、仕方がないわね」 「ええ、私もついうっかりして」 井口部長は新人に言い聞かせるように話している。大きなミスがあったという感じではなく、2人でのらりくらりと話し続けている。実はこの新人は井口部長のお気に入りで、入社して半年だというのにすでに大きな案件を多く任されていた。どう考えても、彼にできる量ではない。今回のミスもキャパオーバーが原因のように思えた。 「ちょっと、江野本さん」 しかし井口部長は突然立ち上がると、厳しい表情で江野本さんの背後に立ち、声をかけた。 「私はあなたに新人の発注を補佐するように言ったはずよ。それなのに、こんな大きなミスを起こして、これはあなたの責任ね。大量に余ってしまう部品を、一体どうしてくれるのよ」 井口部長は今まで新人とぬるく話していたのに、突然高い声で江野本さんを怒鳴りつけた。この豹変ぶりには営業部員たちもみんな啞然とした。江野本さんはみんなの面前で叱責され、小声で謝罪するだけだった。 江野本さんは新人の補佐役ではあったが、他の社員の営業補佐もしており、さらに井口部長に様々な雑用まで押し付けられていて、最近は飲み物や食事の買い出しまでさせられている。これだけ忙しいのだから、新人の仕事を全部補佐するのは不可能だということは、営業部のみんなもよく分かっている。 「江野本さん、そんな小さな声で謝って、あなたは本当に悪いと思っているの? 謝罪するなら、きちんと私の目を見てはっきり謝ったらどうなの?」 井口部長は江野本さんにさらに近づき、耳元で大声をあげた。周りを見れば、営業部だけでなく他の部署の人たちまでも何事かと二人を見つめている。新人社員はもう取引先に出かけてしまったが、あまりにも彼への態度とは違いすぎる。そもそもこれは新人のミスであり、入社半年の新人に大きい案件を任せたのは井口部長自身で、ミスが起きたのはそれをフォローしきれていなかった井口部長の責任だろう。 「申し訳ありません」 「あら、よく聞こえないわよ。だから声が小さいって言っているの。もう一度、私を見て大きい声で言ってくれる?」 … Read more

6 September 2026

婚約を決めた日の夜、凛は作業服姿の祖父と一緒に高級フレンチの個室へ足を踏み入れた。向かいには銀行取締役の家族。義母になるはずの女は、凛の両親が亡くなっていることを知ると、わざわざ「ご親族が誰もいないのも不安ね」と微笑んだ。凛は爪を握りしめて耐えた。祖父母は黙ったままだった。それから彼女はいつも通りの口調で言った。「底辺家族との付き合いはごめんだわ。二度と近寄らないで」。凛は深く頭を下げて、た…

その言葉が放たれた瞬間、個室の空気が凍りついた。 「顔合わせに作業服。非常識にも程がありますよね。親御さんがいない方がうちの洋介のお相手とは……底辺家族との付き合いはごめんだわ。二度と近寄らないでください」 高級フレンチレストランの完全個室。一般の客にはその部屋の存在すら知らされていない。核を持つ人間だけが使える場所だった。2026年12月10日午後7時18分。テーブルの上座に座っていたのは大塚明子、54歳。低斗銀行を取締まる大塚家の妻として、銀座の高級サロンに20年以上通い続けてきた社交界の女王だ。 向かいに座った相手を3秒で品定めし、格が違うと判断した瞬間、笑顔で縁を切る。それを明子の生きる矜持としていた。 その夜、明子の前に座っていたのは若い女性と作業服の老人だった。シャンデリアの光が静かに祖父の作業服を照らした。胸ポケットには工場の点検表が挟まったまま。安全靴の袖口には今日の工場の土が残っていた。 女性の名前は長瀬凛。24歳。飾り気のない顔立ちだったが、真剣な表情をしていた。祖父がここに来ると言い出した時、凛は「作業服で?」と聞き返した。祖父は答えなかった。ただ着替えなかった。 明子は二人を一瞥した。名前も聞かなかった。服と家柄だけを見た。それだけで答えを出していた。 「この子では洋介には釣り合わない」 明子が見下した時間は32分だった。 「分かりました」 凛の声は静かだった。怒りも涙も出てこなかった。「連れてきてしまった」という気持ちがその一言に押し込められた。祖父は何も言わなかった。ただ静かに凛を見ていた。その目に怒りも悔しさもなかった。ただ確かめるような眼差しだった。 これは人を服と肩書きだけで測った夜に、何かが静かに動き始めた物語だ。しかしこの時誰も知らなかった。翌朝、何が起きるのかを。あの無言の祖父が何者だったのかを。 時は少し遡る。2ヶ月前の秋、東京。2026年10月。共通の友人の結婚式。大塚洋介、27歳。銀行本店法人営業部に勤めている。偶然同じ席になり、話が合って番号を交換した。 「洋介さん、仕事の話しかしないですね」 「そうかな」 「凛さんは何が好きなんですか?」 「食べること」 「シンプルだな」 「それで十分じゃないですか?」 洋介は笑った。初めて仕事以外のことを話した気がした。 出会いから2ヶ月後、洋介は凛にプロポーズした。 「一緒にいたい。それだけです」 凛は少しの間目を閉じた。この人に見せていいか? この人なら大丈夫か? そう思ってから「はい」と答えた。 長瀬凛、24歳。都内の食品会社に勤める社会人2年目。4歳の時に両親を交通事故で失った。父・誠と母・沙紀。記憶は断片的だ。父の声、母の手、帰ってこなかった夜。以来、祖父・惣一郎が育ててくれた。「おじいちゃんがいれば自分は大丈夫」。本気でそう思っている女だった。 顔合わせの日が決まった時、凛は祖父に電話をかけた。 「12月10日、両家の顔合わせがあるの。来てくれる?」 「大丈夫じゃよ。行くぞ」 「でも当日、工場の施設があるって言ってたんじゃ」 「問題ない。午前で終わらせる」 「でも着替える時間が……」 「そのまま行けばいい」 「そのままって、作業服で?」 「服で人を測る相手なら、最初から縁がない」 凛は返す言葉が見つからなかった。問題はないとは言えない。問題があるとも言えない気がした。 2026年12月10日夜。東京港区の高級フレンチレストラン。大塚家は7時ちょうどに揃っていた。銀行取締役・大塚誠治、59歳。妻・明子、54歳。息子・洋介、27歳。三人とも正装だった。明子の目が時折り扉に向いた。 7時15分。扉が開いた。凛が先に入ってきた。シンプルなワンピース。緊張した顔。続いて祖父が入ってきた。作業服姿の祖父が高級レストランの個室に入ってきた。胸ポケットには点検表が挟まったまま。靴は現場で使う安全靴だった。 「この人、作業服で来たの?」 明子の表情が一瞬だけ止まった。洋介は俯いた。誠治は目を細めた。惣一郎は気にしなかった。 「初めまして、長田です」 静かに頭を下げ、腰を下ろした。 乾杯が済んだ。料理が運ばれた。明子の質問が始まった。 「凛さんは今どちらにお務めなんですか?」 「都内の食品会社です。営業事務をしています」 「そうですか。おじい様は会社員の方ではなくて?」 「会社をやっています」 「どちらの会社でしょうか?」 「長田グループと申します」 「ああ、そうですか」 知らないという顔だった。 「凛さん、ご両親はどちらに?」 テーブルに静かな間が落ちた。 「両方おりません」 「まあ……お育ちはどのような環境でしたか?」 … Read more

6 September 2026

O juiz interrompeu o meu marido a meio da sua acusação mais cruel. Durante uma hora, Markus explicou ao tribunal porque é que eu era uma heroína de uniforme e um fracasso em casa. Deixei-o falar,…

O tribunal cheirava a produto de limpeza de carpetes e a café frio. A capitã Elena Ruis estava sentada à mesa com as mãos cruzadas, na mesma postura que assumira em centenas de reuniões de missão, a ouvir o marido explicá-la a um estranho. “É excecional na sua profissão, Meritíssimo. Verdadeiramente. Condecorações, louvores. Todo o … Read more

6 September 2026

「年金暮らしとは絶縁するから。」——私が69歳の義母として、初めて嫁にそう宣告されたのは、夫が遺してくれた家賃収入のことを嫁が知った直後だった。長男のひと斗が結婚したのは半年ほど前のこと。穏やかで優しいあの子が、なぜあんな女と……。掃除を押し付けられ、「寄生中」呼ばわりされ、それでも言い返せずにいた毎日。しかし、家賃収入を「自分が引き継ぐもの」と当然のように話し始めた嫁の顔を見た瞬間、私は静…

「うちの家賃収入を引き継いで、年金暮らしのお前とは絶縁するから。」 嫁のあか里が平然と言ってのけた瞬間、私は言葉を失いました。 私はみつ子、69歳の主婦です。夫を早くに亡くし、長男のひと斗と娘のももかを女手一つで育て上げました。朝から晩まで働き詰めの日々。倒れそうな夜も何度もありましたが、子供たちの笑顔が私を支えてくれました。 幸い、二人とも本当に優しい子に育ちました。私が忙しい時は進んで家事を手伝い、互いに支え合ってくれました。 「母さんが働いてくれてるから、俺らが手伝わないとな」 「困ったことがあったら何でも言ってね」 そんな言葉に何度救われたことか。 夫が残してくれたのは、アパート経営による家賃収入。それが年間3億円もありました。このお金があったからこそ、二人を大学まで行かせることができたのです。これだけの財産があることは、家族の誰もが知っていましたが、家族以外には誰も知りませんでした。 時が流れ、ひと斗は30歳の会社員、ももかは28歳の小学校の先生になりました。二人とも大人になっても家で暮らし続けてくれていました。 「お母さんを一人にするわけにはいかないからさ」 「家族みんなで暮らした方が楽しいものね」 私は本当にいい子に恵まれたと思いました。ただ、二人とも結婚しないことだけが心配でした。 「今は家族でいることが幸せだから、まだ結婚はいいかな」 「私も母さんと兄ちゃんがいてくれたら、今はそれだけで幸せよ」 二人がそう言うので、私も無理に勧めるのはやめようと思いました。 そんなある日、ひと斗が急に家族に話があると言い出しました。 「実は俺、結婚しようと思うんだ」 驚きました。つい数ヶ月前まで結婚の話など一切なかったからです。相手はあか里さん、ひと斗と同い年の30歳。コンビニで週2日働くアルバイトだそうです。友人の紹介で知り合い、付き合って半年だと言います。 半年という交際期間に私は引っかかりました。ひと斗は恋愛経験がなく、とても純粋な子だったからです。ましてや、彼女がいたという話は一度も聞いたことがありませんでした。 「兄ちゃん、半年なんて早いよ。本当に大丈夫?」 「そんなに早いかな?もうすっかり何でも話せる仲になったと思うけど」 ももかも心配していました。私も夫とは1年近く付き合ってから結婚したので、半年は短すぎると感じました。 しかし、もう決めたことのようです。私は複雑な気持ちを抱えながらも、顔合わせの日を迎えました。 「こんにちは。ひと斗の母です。初めまして」 にこやかに現れたあか里さんは、第一印象では人当たりの良さそうな人でした。しかし、ももかが挨拶をした途端、その態度が一変します。 「あれ?ひと斗って妹いたんだっけ?」 「前に話したじゃないか。妹のももかだよ。幼い頃から仲良しなんだ」 あか里さんは「ふーん」と言って、ももかを上から下まで値踏みするように見ました。ももかは私に似ず、夫似の美人です。あか里さんはそれに引け目を感じているのだとすぐに分かりました。 そして、あか里さんはとんでもないことを言い出しました。 「まあ私たちは2人で暮らすし、実家の家族は関係ないわよね」 「離れるけど、これからも家族とは交流を続けるよ」 それを聞いたあか里さんの顔が曇りました。 「何言ってるの?結婚してから家族に定期的に会いに行くなんておかしいでしょ」 私が「あか里さんはご実家には会いに行かないの?」と尋ねると、「私はそんなことしないし信じられない」と鼻で笑われました。私は言葉を失いました。結婚しても家族は家族。お嫁さんになった人とも当然交流するものだと思っていたからです。 さらにあか里さんは言いました。 「私の手伝いをしてくれるなら、別に来てもいいわよ」 息子とお嫁さんの世話をするのは義母の務めですから、それは受け入れました。ところが、あか里さんはこう続けたのです。 「家にずっといる寄生中にはぴったりでしょ」 私は驚きました。なぜそんなことを知っているのか。家賃収入が年間3億円あることは、家族以外には誰も知らないはずなのです。ひと斗が話してしまったのでしょう。純粋な性格だから、隠し事ができなかったのでしょう。 その日から、私の苦難が始まりました。あか里さんは結婚するとすぐに私を呼び出し、掃除道具を押し付けてきました。 「ちょっとうちに来てよ。掃除して欲しいの」 私は言われるままに掃除をしました。すると、あか里さんは「仕事はやめたの」と平然と言います。 「ああ、仕事ならやめたから。生活はひと斗と私たちに任せるわ。うちの家賃収入もあるしね」 私は唖然としました。働いていないのなら自分で家事をすればいいのに。しかし、あか里さんは「いつも遊ぶ予定があって時間がない」と高圧的に言うのです。私は気分を害さないようにと、細心の注意を払って接するようになりました。 その後もいびりはエスカレートしました。掃除をした場所にケチをつけられ、買い物に行かされて帰ってくるとやり直しをさせられる。私はあか里さんの飯使いのように扱われていました。 「ちょっと本当に真面目に掃除する気ある?」 「ごめんなさい」 私は謝ることしかできませんでした。ひと斗に相談すれば、ふたりの関係に亀裂が入るかもしれない。それが怖くて、何も言えなかったのです。 ももかに相談すると、「そんなのはっきり嫌って言いなよ」と怒ってくれました。ももかはあか里さんにすっかり嫌われているようで、私が話題に出すと露骨に嫌そうな顔をします。だからももかが呼び出されることはありませんでした。 そして、あの日。あか里さんがまた私を呼び出しました。 「お母さんって要領悪くない?掃除下手すぎて笑えてくるわ。まあ、家賃収入で生きてる寄生中だし仕方ないか」 「あか里さん、ごめんね」 いつものように謝る私。虐待呼ばわりにも慣れてしまっていました。すると、あか里さんは凄んだ表情で言ったのです。 「年金暮らしとは絶縁するから」 私は耳を疑いました。 … Read more

6 September 2026

「お前、価値ゼロだよな。仕事もしていない上に不妊だし。今日で離婚だ。不要物は捨てないとな。」…

エリ、どうしてこんなところにいるの?私は急いでエリを物置きから連れ出し、汚れを払った。エリは埃でむせている。真冬の寒い時期に、物置きで寝ているなんて信じられなかった。 「いいんです。ルールですから。」 「は?ルールって何?物置きで寝ないといけないなんて知らない。」 エリはガタガタと震え、目に涙を浮かべて必死に私の顔を見つめていた。私の名前は野朝子。30歳になったばかりで、付き合って3年になる彼氏のケ太と一緒に会社を立ち上げ、順調に経営している。家族は母と、3歳年下の弟の守、そして彼の妻のエリ。守は昔から無口で無表情だったが、エリと結婚してから人が変わったように明るくなった。エリは優しくて穏やかで、母の介護も一手に引き受けてくれている。私はそんなエリに心から感謝していた。 正月に結婚報告のため実家に帰ると、母と守、エリが笑顔で出迎えてくれた。しかしエリの笑顔はどこかぎこちない。声に元気がなく、以前のように庭の花の話もしてこない。夕飯の支度をするエリの手はガサガサになっていた。 「エリ、夕飯は私が作るわ。ゆっくり休んで。」 「いえ、いいんです。いつものことですから。」 守は「俺は自分の部屋で仕事するから、できたら呼べ」と言って、さっさと部屋に籠もってしまった。母はソファで「年になると体が痛くてしょうがない」と横になったまま。エリはただ愛想笑いを浮かべるだけだった。 その夜、目が覚めた時には夜中だった。なんとなく外の空気を吸いたくなって庭に出ると、物置きから明かりが漏れている。長い間使っていない物置きから。不思議に思って確認すると、中ではエリがうずくまっていた。 「エリ、どうしてこんなところにいるの?母と守に何か言われたの?」 そう言った瞬間、エリは震え出し、涙を浮かべて訴えた。「お母さんと守るさんは何も悪くないんです。全部私が悪いんです。どん臭くて家事も要領よくできないので。」 エリが話し始めた内容は、あまりにひどいものだった。母と守は家事を全てエリに押し付け、自分たちはテレビを見たり、2人で出かけたり。家事が終わっていないと文句や暴言を吐くのだという。 「おい、働けない上にこんなこともできないのかよ。」 「本当にダメな嫁だわ。使えない嫁なんていらないわね。」 「夕方までに家事が終わらなかったら物置きで寝なさいよ。バツを与えた方が早く動けるようになるでしょ。」 物置きで寝るなど、正気の沙汰とは思えない。私はエリを抱きしめて謝った。「エリ、今まで本当にごめんなさい。私、何も知らなくて。」 その夜、エリを自分の部屋に寝かせ、翌朝、私はエリを連れて実家を出た。守と母のことは絶対に許さない。私は決意した。 彼氏のケ太に事情を説明すると、ケ太も激怒した。「お前の母親と弟は最低だな。」 私はケ太に協力を依頼した。私たちの会社は、守の会社と取引があったのだ。守の会社の社長は、ケ太の協力で会社を大きくすることができた恩がある人物だった。ケ太はその社長に守のことを話し、取引中止を告げてくれた。 数日後、守から電話がかかってきた。「ちょっと姉ちゃん、どういうことだよ。なんで俺の会社と取引してるって言ってくれなかったんだよ。しかも取引中止ってなんでだよ。」 「お嫁さんを物置きに寝させる人がいる会社と、なんか取引したくないわ。」 守はさらに言い放った。「なんであいつをかうんだよ。あんな鈍くてどん臭いやつ。家事をさせるために結婚したのに全然役に立たねえ。母さんの介護させるにはちょうどいい女だったから結婚したのに。」 母も横から口を出す。「そうよ。あんな女のためにどうして守の会社が取引中止にならなきゃいけないわけ。あ子、さっさと取引を再開しなさい。」 家事と介護をさせるために優しくして結婚させた。信じられない。エリは涙を流していた。私はこの人生で一番の怒りを感じた。 「とにかく、あんたの会社とは一切取引しない。あと、ケ太からあんたの会社の社長さんに伝えてもらったわよ。あなたの会社には嫁を物置きに寝させるクズ男がいますよってね。」 守は慌てた。「は?そんな俺が首になるじゃん。どうしてくれるんだよ。大体母さんがあいつを利用しようって言い始めたからこうなったんだ。」 「なんでそうなるのよ。言い出したのは守でしょ。全部朝子のせいよ。」 互いに責任をなすり合う守と母。エリに謝ることも反省することもない。「どっちが言い始めたとかどうでもいいから、クズなあんたたちにエリは渡さない。あと私にも2度と連絡してこないで。」 「待ってくれ。頼むから許してくれよ。これからは家事も介護も手伝うから。お願いよ。私たちがどうなってもいいの?」 「自業自得よ。」そう言って私は電話を切った。 後日、守の悪事は会社内で噂になり、評判はガタ落ち。守は退職に追い込まれ、新しい職場でも白い目で見られ、逃げるように会社を辞めた。守の稼ぎだけを頼りにしていた母は収入を失い、ボロボロのアパートで細々と暮らしているらしい。守が母の世話をしているが、喧嘩ばかりの毎日だという。 エリはこう話してくれた。「私、守さんに騙されているなんて分からなかったんです。最初はとても優しい人だったから、信じたかったんです。それに私には母がいないので、お母さんのことを本当のお母さんのように思っていたんです。」 「私の家族が本当にひどいことをした。申し訳ない。私はずっとエリを大切にしよう。」 その後、私とエリはまるで本当の姉妹のような関係を続けている。エリは自分で仕事を見つけ、好きだったガーデニングも再開。少しずつ、結婚した時のような可愛らしい笑顔を取り戻している。仕事ができないのではなく、母と守がそうエリにすり込んでいただけだったのだ。

6 September 2026

「その格好は何だ?…

放気が濡れた落ち葉をすくい上げる。朝6時の駅前広場は、まだ街灯がうっすらとともっている。手にしたゴミ袋を片手に、ベンチの下を覗き込んだ。空き缶が二つ、それから吸い殻。慣れた手つきで拾い上げ、袋に放り込む。冷たい風が首筋を撫でていく。俺は作業着のファスナーを上まで引き上げ、白い息を吐いた。この町に戻ってきて3年。朝の駅前を掃くのが、俺の一日の始まりだ。 商店街のシャッターが、一つ、また一つと開いていく。店の前で美代子さんが腰を伸ばしているのが見えた。ここで一人で店を切り盛りしている女性だ。俺は放気を止め、軽く頭を下げた。 「あら、田村さん、今日も早いね。」 「おはようございます。腰の調子はどうですか?」 「うん。湿布が効いたみたい。でもね、最近どうも息切れがしてね。階段が辛くて。」 俺は袋を地面に置き、彼女の顔を見た。顔色が先月よりわずかに青い。唇の縁に乾燥が見える。心拍に何かあるかもしれない。頭の中でメモを取った。 「美代子さん、今度健診に行ってくださいね。心配だから。」 「もう、田村さんは清掃員のくせにお医者さんみたいなこと言うのよね。」 笑いながら彼女は店の奥に消えていった。この町に診療所が一軒もなくなって、もう5年になる。最後の医師が引退してから、住民たちは隣町の病院までバスで1時間かけて通っている。そのバスも、最近本数が減った。 俺は放気を動かしながら、頭の中で数字を並べていた。美代子さん──息切れの頻度増加。八木さんの田中さん──高血圧の処方が3ヶ月途切れている。郵便局前の佐々木さん──最近食欲がないとこぼしていた。清掃の合間にかわす立ち話。それが俺のカルテだ。放気を動かすたびに、誰かの顔が浮かんだ。 夕方、仕事を終えてアパートに戻る。六畳一間。家賃は3万2000円。畳の上に古い座卓を置き、その上でいつもノートを広げる。電気ポットの湯を湯飲みに注ぐ。引き出しから分厚いノートを三冊取り出した。中を開くと、びっしりと文字と数字が並んでいる。ページの一番上には日付。その後に住民の名前のイニシャル、観察された症状、変化の傾向、家族構成、買い物の頻度。俺は今日の出来事を書き加えていく。 ペンを走らせながら、ふと手を止めた。壁にかかった古い写真——白衣を着た自分が、何人かの同僚と並んで写っている。10年前、大学病院の心臓外科にいた頃の写真だ。あの頃の俺はメスを握っていた。教授の椅子に手が届くかどうかという時期だった。論文を書き、学会で発表し、夜中まで手術室にいた。それが医師の務めだと信じて疑わなかった。 ある日、一人の男性が運ばれてきた。緊急の手術。俺は手術台に立ったが、間に合わなかった。家族に説明した後、カルテを見て息が止まりそうになった。その男性は、俺がこの町で育った頃、診療所をやっていた医師の親戚だった。俺が8歳の時、高熱で倒れ、町の診療所に駆け込んだ。その時、命を救ってくれた瀬戸先生の従弟にあたる人だった。瀬戸先生も、すでに亡くなっていた。 俺は気づいてしまった。大都市の病院でメスを振るっている自分は、本当に救うべき人を救えていない。本当に医療を必要としている町が、今まさに消えかけている。辞表を出した時、誰もが俺を変人扱いした。「将来を捨てる気か」と上司は怒鳴った。家族からも離れ、俺はこの町に戻ってきた。 戻ってきて最初の1年は、何もしなかった。清掃員の仕事を見つけ、朝早くから町を歩いた。顔を覚え、名前を覚え、暮らしを覚えた。2年目からノートを取り始めた。医師の目で見た町の健康データ。それを誰にも告げず、まとめ続けた。そして年に2度、その要約を匿名で国の構成機関に送っていた。 翌朝、駅前を掃いていると、商工会の朝倉が走ってきた。 「田村さん、ちょっといいですか?」 「おはようございます。何かありましたか? そんなに急いで。」 「これ見てくださいよ。」 差し出されたのは一枚の張り紙だった。『地域医療再編プロジェクト 現地調査のお知らせ』。国の機関の名前が印刷されている。日付は来週。担当責任者の欄に、『瀬戸ミス』と書かれていた。俺はその名前を見て、わずかに手が止まった。 「市長がね、もう前のめりですよ。医療センターを誘致できるかもしれないって。」 「そうですか。それは町にとっては大きな話ですね。」 「でも僕は簡単に行くとは思えなくてね。だってここ何年も国は地方の医療なんて見向きもしなかったでしょう。それが急にね。」 朝倉はそう言って俺の顔を見た。 「田村さん、あなた、よく住民の話を聞いてますよね。誰が体調悪いとか、誰が薬を変えたとか、普通の清掃員じゃそこまでしないですよ。」 「ただの世間話ですよ。毎日同じ道を歩いていれば、自然と顔見知りも増えますから。」 「いや、僕はね、あなたのこと勝手に信頼してるんです。何かあったら相談させてください。」 俺は曖昧に頷いた。朝倉は張り紙を電柱に張り、足早に去っていった。風が吹いて、張り紙の端がパタパタと鳴った。『瀬戸ミス』という文字が、もう一度目に飛び込んできた。3年間誰にも告げずに送り続けてきた報告書。それが、ようやく動き始めたのかもしれない。 1週間後の朝、駅前広場はいつもと違っていた。黒塗りの車が3台、ロータリーに止まっている。スーツ姿の男たちが降りてきて、市川市長が満面の笑みで出迎えていた。グレーのスーツに紺のネクタイ。町の医療センター誘致を長年の悲願としている人物だ。俺は放気を動かしながら、その様子を遠めに眺めていた。 車の後ろのドアが開き、一人の女性が降りてきた。朝倉が小走りに近づいてきて、俺の隣に立った。 「あの人ですよ。瀬戸さん。」 「国の責任者の?」 「そうですか。思っていたよりお若い方ですね。」 「35歳だそうです。地域医療再編プロジェクトの中心人物で、もう各地で実績を上げてるって話で。」 俺は放気を止め、彼女の横顔を見た。祖父の面影があるかどうかなんて、分かるはずもない。だが、その立ち姿には妙な懐かしさがあった。市長が大きな声で何か説明している。瀬戸ミスは静かに頷きながら、手帳にペンを走らせていた。時々町の通りに目をやり、商店街のシャッターを見つめている。 俺は放気を動かしながら、弁当屋の方を見た。美代子さんが店先で買い物客に何か話している。顔色は先週よりさらに悪くなっている気がした。唇に血色がない。俺は袋を肩にかけ、その場を離れようとした。その時、後ろから声がかかった。 「すみません。少しよろしいですか?」 振り返ると、彼女が立っていた。近くで見ると、目に強い光がある女性だった。 「道のご案内なら、商工会の方が詳しいですよ。」 「いえ、そうではなくて。この町で長く清掃されている方だと市長さんから伺いました。少しお話を聞かせていただけませんか?」 市長が遠くで慌てた顔をしているのが見えた。おそらく清掃員から話を聞くなど想定していなかったのだろう。 「お役に立てるかは分かりませんが、それでよければ。」 「住民の方々の暮らしぶり、特に最近の様子で気づかれていることはありますか?」 「気づくというほどのことは。ただ、お薬を切らしている方や、隣町まで通う方が増えているのは肌で感じます。」 彼女の手が、わずかに止まった。 「具体的にどなたか、思い当たる方は?」 「特定の方の話は差し控えさせてください。私はただの清掃員ですから。」 俺は頭を下げ、その場を離れた。背中に視線を感じたが、振り返らなかった。 その日の夜、俺は居酒屋にいた。朝倉に誘われ、断りきれずに連れて来られたのだった。 「田村さん、今日の瀬戸さんとのやり取り、なんか妙に堂々としてましたよ。」 「そうですか。普通に話しただけのつもりですが。」 笑いながら朝倉はビールを煽った。俺はふと入り口の方に目をやった。引き戸が開き、スーツ姿の男が入ってきた。50代後半。高級そうな時計をしている。俺はその顔を見て、息を止めた。黒沢誠一。大学病院時代の元同僚だった。向こうも俺に気づいた。一瞬目を見開き、それから居ぶかしげに眉を寄せた。ゆっくりと俺の隣の椅子に腰を下ろした。 「お前、田村か? … Read more

6 September 2026

「お前なんか介護するしか使い道ないんだよ。完全に女捨ててるくせに」――五月の曇った午後、夫の義友はそう言って笑った。横では義母がニヤニヤと私を見ている。私は五十五歳、夫の母親の介護を押し付けられ、毎日汚れた下着を手洗いし、車椅子の世話をしてきた。なのに夫は指一本動かさず、義母は私に暴言を吐き続ける。そして昨夜、義母は「遺産目当てで殺そうとしてるんでしょ」と私を罵った。もう限界だった。私はにっ…

「お前なんか介護するしか使い道ないんだよ。完全に女捨ててるくせに」 夫・義友は笑いながらそう言った。横では義母がニヤニヤと私を見ている。 ありがとう、二人とも。私の我慢の限界をようやく断ち切ってくれて。 私は裕子、55歳の主婦だ。子供は二人いるが、もう独立している。59歳の夫・義友と、平凡な二人暮らしだった。あの日までは――義友が突然、義母と同居すると言い出すまでは。 義母は我が家から車で一時間ほどの実家で、義友の姉夫婦と暮らしていた。そんな義母が階段から落ちて腰を強打し、車椅子が必要な体になってしまった。しばらくして義姉夫婦が介護を引き受けることになったが、それから一ヶ月も経たないうちに義姉がこう言い出したらしい。 「実は、旦那の実家の方に入るよう前から言われてたのよ。悪いけど、後はよろしくね」 どうやら数週間で介護に嫌気が差したようだ。それを義友から聞いて呆れたが、もっと驚いたのは義友の一言だった。 「姉さんたちが出ていったら、すぐに実家に引っ越すから」 「え、そんな話、決まったの? 私はあなたから一言も相談されてないけど。私たちのこの家はどうするの?」 「大丈夫だよ。お袋は優しいし、介護って言っても車椅子で動けるんだから。この家は貸すなり売るなりすればいいさ。もう姉さんと実家は俺が相続するってことで話はついてるから」 物事をあまりにも簡単に考えている。車椅子で動けると言うけど、車椅子がないと動けないってことなのよ。トイレに行くのだって一苦労なんだと必死に訴えた。 「ま、なんとかなるって。いざとなれば俺も手伝うし」 いざとなれば――つまり、ほぼ私に丸投げするということだ。腹が立ったし、それ以上に不安が押し寄せた。けれど、車椅子の義母を一人にしておくわけにもいかず、私はしぶしぶ同居を了承した。 同居が始まってから最初の一ヶ月は、特に問題なく過ぎた。もちろんお互い慣れないから失敗も多かったけれど、義母はできるだけ自分でやろうと努力してくれたし、何度も「ありがとう」と言ってくれたから、心の負担は軽かった。 しかし、体が思うように動かせないことが義母にとって大きなストレスだったのだろう。無理な体勢で物を取ろうとして車椅子から落ち、腰をさらに痛めてしまってから、だんだん性格が変わってきた。 「もっとちゃんと私の部屋を掃除してくれないかしら」と言ったかと思うと、次の瞬間には「ああ、もう掃除機の音がうるさいわ。早く部屋から出ていってちょうだい」と大声をあげる。そして義友に「裕子さんたら、私の世話が嫌で嫌で仕方ないみたい。嫌がらせばっかりするのよ」と告げ口をする。 それを聞いた義友が、「お前、夫の母親を敬おうって気持ちはないわけ? この家にただで住ませてやってるんだから、もっと感謝して介護しろよ」と私を怒る。この繰り返しだった。 さらに義姉からも苦情が来るようになり、私はもうへとへとだった。肉体的にも精神的にも限界を感じ、ヘルパーに来てもらうことを思いついた。義母は要介護3の認定を受けていて訪問介護を受けられるのだが、「赤の他人に世話をされるのは嫌だ」と拒否し、今まで一度も使ったことがなかった。 でも、もう義母の意思を尊重していられる状態ではなかった。私は自腹でヘルパーを呼ぶことにした。 それが大失敗だった。とても感じのいいヘルパーさんだったのだが、義母は彼女に向かってこう言ったのだ。 「あんた、私の部屋に入らないでちょうだい。何を盗まれるか分かったもんじゃない。あんた、いろんな家に出入りしてるんでしょ? そんな汚らわしい人に触れて欲しくないわ」 ヘルパーさんを「あんた」呼ばわりした上に、彼女の誇りを傷つける暴言のオンパレード。一ヶ月もしないうちに契約を解除されてしまった。 さらに義友は、私が勝手にヘルパーを頼んだことが気に食わず大激怒した。 「自分がサボりたいからって、勝手なことしやがって。そんなのに金を使うぐらいなら、お袋にもっとうまいもの買ってやれよ」 「だってもう耐えられないのよ。介護だけでも大変なのに、お母さん、私にすごくきつく当たるんだもの」 涙ながらに訴えたのに、義友は「何嘘をついてんだ。お袋が暴言なんて吐くわけないだろうが。本当にお前は心が歪んでるな」と怒鳴った。結局、また私一人で義母を介護することになってしまった。 私はこの時、腹を決めた。口先ばかりで指一本動かそうとしない義友に、介護がどれほど大変か思い知らせてやろうと。 最初は、義母の車椅子の乗り降りを義友に手伝ってもらうことにした。しかし義母は、私が手伝う時にはわざと全体重を私に預け、重くてうまく移動させられない私を罵倒する。なのに義友が手伝う時は、できるだけ自分の体を自分で支え、「義友は本当に優しいね。嫁とは大違いだわ」と猫なで声を出す。また私が悪者だ。 「介護なんて全然大変じゃないわ。悲劇のヒロインぶるのはやめろよ」 そう義友に言われ、私はぶち切れた。義母が脱ぎ捨てた下着を義友に投げつけてやったのだ。 「うわ、くせえ。なんだよこれ」 「お母さんの汚れた下着よ。こんなに臭いの。これを毎日私が手洗いしてるのよ。義友も一度洗ってみなさいよ」 義友は一瞬言葉に詰まり、「せ、洗濯機があるだろう」と反論した。 「いいわよ。洗濯機で直接洗っても、他の洗濯物に匂いや色が移るし、雑菌もつくと思うけどね。明日からあなたの服は全部、お母さんの汚れた下着と一緒に洗わせてもらうわ。それでいいわよね」 そこまで言ってやると、義友はもう言い返せなくなった。しかも翌日、私は有言実行で、夫のお気に入りのシャツを義母の汚れた下着と一緒に洗濯した。心なしか微妙に匂いと色の残るシャツを見た義友は、すぐにポータブル洗濯機を買ってきた。 「このくらい自分で買えよ」とぶつくさ言いながら、一言も謝らない。腹が立ったけれど、ほんの少しだけすっきりした。 しかし、義母の私に対する態度は悪化の一方だった。怠けてばかりでちゃんとリハビリをしなかった義母は、今やほとんど寝たきりになっていた。床ずれを避けるためしょっちゅう義母の体を動かすようにしていたのだが、元々太り気味だった義母は寝たきりになって七十キロ以上に増え、私一人で動かすのは無理だった。 そしてついに先日、力がうまく入らず、義母をベッドの反対側に落としそうになってしまった。すると義母は大声で言った。 「遺産目当てで私を殺そうとしてるんでしょ。愛憎ね。あんたには一円もやらないからね」 その言葉にぷつんと来た私は、彼女ににっこりと微笑んだ。 「ということは、私がお母さんを介護しても、私が損するだけってことですよね。じゃあ、もうやめようかな」 義母はぎくりとして、「あ、あんた、嫁の分際でなんてこと言うの?」と声を震わせた。 「うーん。実はその嫁っていうのも、やめようかなって考えてるんですけど」 そう返してやると、義母は真っ青になり、「出ていけ。この部屋から出ていけ」と金切り声をあげた。多分、義友に電話するつもりだろう。 案の定、それから二時間も経たずに義友が会社を早退してきた。 「お前、お袋の介護が嫌だからって、俺と離婚するって言ったんだって?」 「そうね。考えてるわ」 すると義友は私を小ばかにした目つきで見た。 「離婚してどうする気だ? 今更仕事なんかできっこないよな。他の男でも捕まえる気か? 無理、無理」 横で義母がニヤニヤしている。 … Read more

6 September 2026