同窓生に「下受けでも高級ワインの味わかる?」と言われた瞬間、彼は手に持った赤ワインを私のスーツにぶちまけました。妻が「これを着ていればいいことがある」と願いを込めて贈ってくれた、私の大切なオーダーメイドのスーツに、シミがじわじわと広がっていきます。学生時代から私を「お菓子作りなんて女みたいだ」と馬鹿にしてきた男。今は元受けの担当者として、私の会社に無理な値下げや接待を強要し、断れば発注を勝手…

「飲めないなら、もう止めるぞ」 三谷が手に持ったワイングラスを、何の躊躇もなく俺に向かって傾けた。赤ワインが俺の胸元に飛び散り、妻がプレゼントしてくれた大切なスーツに、じわじわとシミが広がっていく。 四十三歳の俺は、小さな下請け会社でスイーツの試作品を作る一般社員だ。幼い頃から甘いものが大好きで、お菓子作りに関われる自分は世界で一番幸せ者だと思っている。だが、そう思わない人間もいた。 「男のくせにお菓子好きなんて、女みたいだな」 小学生の頃、そう言って俺を馬鹿にしてきたのが同級生の三谷だった。不幸なことに、三谷とは小学校から高校までずっと同じ学校だった。声も態度も大きい三谷が囃し立てると、周りの連中も釣られて俺を笑う。学生時代は三谷のせいであまりいい思い出がない。それでも俺はお菓子を嫌いになることはなかった。 高校三年生の春。俺が短大へ進学すると知った三谷は、上機嫌な笑顔でこう言ってきた。 「俺は国立大に行く。底辺の短大を選んだお前とは違うんだよ」 俺が短大に行くのは、お菓子作りを学ぶためだ。しかし三谷は俺の選択が失敗だと馬鹿にし、受験が終わるまでこれをネタに絡んできた。 三谷の嫌みが止まったのは、国立大の合格発表の日だった。あれだけ自分は国立大に行くと自慢げに言っていたのに、三谷は不合格になってしまったのだ。最終的に滑り止めの私立大に進学した。卒業後は交流が途絶え、三谷が今どこで何をしているのかは知らない。同窓会に三谷が姿を表したことは一度もなかった。 お菓子作りに熱中している時、ふと三谷のことを思い出すことがある。俺の知らないところで幸せに暮らしているなら、それでいい。そう思っていた。 ある日のこと、俺は両親と共に母方の実家を訪れていた。夕食をご馳走になっていると、同席した母の弟である叔父が俺に話しかけてきた。 「最近どうだ? 仕事の方は順調か?」 「まあね。最近、大手から下請け契約を依頼されて、売上もそこそこだよ。俺は商品開発部なんだけど、元受けとの窓口を任されてさ」 二ヶ月ほど前、俺の会社は大手食品メーカーと下請け契約を結んだ。全国に店舗があり、かなり知名度が高い。おかげで忙しい毎日を送っていた。 「へえ。どこの会社だ?」 俺が会社名を告げると、叔父が少し顔を寄せる。 「ああ、その会社か。まあ頑張れよ」 何か言いかけて口を閉じたような素振りに、俺は首をかしげた。何か気になることでもあるのかと聞き返すと、叔父は「いや、こっちの話だ」と笑って流してしまった。叔父は仕事柄、業界や規模を問わず多くの会社と関わりがある。何か知っているのだろうかと思いつつ、それ以上は追求しなかった。 元受け会社と下請け契約を結んでから三ヶ月後、担当者変更の連絡が届いた。元の担当者は転職で会社をやめるとのことだ。いい人だったが、仕方ない。新しい担当者とも良好な関係を築こうと決意し、挨拶をするため元受けの会社へ伺った。 「新しい担当者は三谷さんと言います」 同級生だった三谷と同姓同名だが、珍しい名前ではないし、他人だと思っていた。 「お前、織田」 案内された会議室で俺を待っていた新しい担当者は、俺に散々絡んできたあの三谷だったのだ。数十年ぶりの再開に、俺たちはしばらく黙り込んでしまう。先に口を開いたのは三谷だった。 「お前、まだお菓子作りなんかしてんの? 変わってないな」 そう言って、にやついた笑みを浮かべる三谷。これはあまり良くない笑顔だと、直感で悟った。 「まあ、知らない仲じゃないし。今後はよろしくな」 「ああ、うん。よろしく」 「おい、なんでため口なんだよ。俺は元受け様だぞ。下受けのお前とは対等の立場じゃねえよ」 突然の罵倒に、俺は再び驚いて目を丸くした。どうやら三谷は学生の頃から省みていないらしい。いや、権力を得た今の方がひどかった。 顔合わせは三谷の罵倒と自慢話で幕を閉じた。三谷は私立大学に進学後、今の会社に就職したらしい。今までは支社勤めだったが、一ヶ月前に本社へ移動となり、俺の会社との窓口業務を任されたのだ。 「俺はキャリアコースに乗ってるんだよ。本社に呼ばれるってのがどれだけのことか分かるか。将来は幹部候補だ」 三谷は胸を張り、自分の栄光を語る言葉に力を込めた。三谷の得意げな顔を眺めながら、俺は黙って頷くしかなかった。 これからどうしよう。誰かに担当を変えてもらおうかな。三谷の会社からの帰り道、げっそりしながら呟く。仮に担当を変えたところで、三谷の態度は変わらないだろう。じゃあ、三谷の会社に報告でもしようか。しかし下請けの話なんて信じてもらえるだろうか。望みは薄いと判断した俺は、自分が我慢すれば丸く収まるという結論を出した。 三谷の嫌がらせは、元受けという立場を使った質の悪いものだった。 「今の取引価格は高すぎる。三割減らせ」 顔を合わせるたびに無理な値下げ要求をされ、時には新商品開発という名目で実現不可能な仕様書を突きつけられた。無理だと要求を突っぱねると、三谷の会社からの発注数が突然半分以下に落ちた。事前通達なしの一方的な決定だった。 俺だけに迷惑をかけるならともかく、会社を巻き込むなら話は別だ。三谷に会いに行かないと。俺は大切な話し合いの時にだけ着るスーツに袖を通し、三谷の会社を訪れる。 「あ、下受けの癖に随分いいスーツ着てるな。どこで買ったんだ?」 にやついた笑みを浮かべながら俺を見る三谷に、予想外の質問だったため俺は素直に答えてしまった。 「妻からのプレゼントです。高級デパートで買ったと言ってました」 「下受けの身分で高級デパート? っていうかお前、結婚してたんだ。下受けの低収入のくせに。まあ俺も結婚してるけどな。俺にお似合いの美人の妻だぜ」 まるで俺に対抗するように自分の妻を自慢する三谷に、ふと学生時代のことを思い出した。テストを返却する際、三谷は毎回俺の点数を聞いてきた。そして毎回のように俺に負けていた。目の前にいる三谷は、学生時代の時と同じ目をしている。俺に負けるのが嫌だという目だ。おそらく三谷の理不尽な要求には、学生時代のこじらせた感情があるのだろう。 「発注についてですが、考え直していただけませんか?」 「無理だ。うちは最近コスト削減を目指しててな。発注を減らしたのは仕方なくだよ」 「しかし、急な削減はこちらとしても困ります」 三谷は何かを考える様子を見せ、ポンと手を打った。 「だったら、お前接待しろよ。そしたら考え直してやる」 「接待ですか? 分かりました。馴染みの料理屋があるんです。雰囲気もいいですし、料理も酒も美味しいんですよ。そちらを予約します」 「は? 接待って言ったら、キャバクラに決まってんだろ」 三谷の発言に俺は少しだけ焦る。 … Read more

6 September 2026

Beyonce’s Lawyers Just THREATENED 50 Cent — BIG Mistake

Rapper 50 Cent is escalating his public feud with Jay-Z and Beyoncé, openly suggesting he plans to produce a documentary centered on Jay-Z’s name appearing in court documents linked to convicted sex offender Jeffrey Epstein. The entertainer, whose legal name is Curtis Jackson, has used his social media platforms to taunt the couple, writing in … Read more

6 September 2026

「払えないとは言わせねえぞ。俺はヤクザなんだ。客がどうなってもいいのか?」…

お袋、来たよ。 店の扉を開けると、常連の高齢男性が一人、昼食を取っていた。彼は私を見て気のいい笑顔を向けてくれる。母はテーブルを拭きながら振り返った。 「おや、今日も早いね。いつも言ってるけど、無理して来なくてもいいんだよ」 「いいの。私が手伝いたいだけだから。洗い物やるから、お母さんは休んでなよ」 エプロンをつけると、時計は15時を過ぎていた。昼の営業は終わったばかりで、夜の営業は17時から。片付けと仕込みで母の負担は大きい。少しでも減らしたくて、私はいつもこの時間に来るようにしていた。 「そうかい。ちょうど外に用があったから助かるよ」 「任せて。シジさんもすぐ戻るんでしょ?」 シジさんは私と同じく週末だけ働く従業員で、幼い頃からの知り合い。兄のように慕っている、気のいい男性だ。母を見送った時、客が伝票を持ってレジへ向かった。 「あ、ありがとうございます」 私が足早にレジへ向かうと、その時だった。店のドアが乱暴に開かれる。そこにはサングラスをかけた、柄の悪い男が立っていた。彼は鋭い目つきで店内をゆっくりと見渡す。 「あの、すみません。昼の営業は終了してしまって…」 すると男は私に視線を向け、低い声で言った。 「おい、ここの店のババアと、目つきの悪い従業員はいるか?」 その物言いに苛立ちを感じながらも、私は答える。 「今は二人とも外出中です。何かご用でしょうか?」 男の顔がにやりと歪んだ。 「そうか、いないのか。そりゃちょうどいい。俺は中田組のヤクザ、鈴木竜也だ。みかじめ料を払ってもらおうか」 みかじめ料?母からは何も聞かされていないし、私は何度も店に来ているが、そんなものを支払っている姿を見たことがなかった。 「母が不在なので、私の一存で支払うわけにはいきません。また母がいる時に来てください」 「何言ってんだ。わざとババアがいない時間を狙って来たんだよ。てめえの母親も、もう一人の従業員も支払いを拒んでるんでな」 「それなら尚更、勝手に払えません」 きっぱりと断ると、鈴木の表情が一変した。彼はレジ横のゴミ箱を蹴り飛ばした。派手な音に、食事をしていた客が縮こまる。 「冗談じゃねえぞ。こっちはもう3ヶ月も待ってやってんだ。今日こそ全額払ってもらうぜ」 「暴力はやめてください」 「俺に命令できる立場だと思ってんのか?」 黙り込む私を見て、彼は続ける。 「未払い分、3ヶ月で1000万だ。払えないとは言わせねえぞ」 「そんな、高すぎます!」 叫ぶと、鈴木は客のテーブルを強く蹴り上げた。激しい音とともに食器が床に落ちて割れる。そしてそのまま店内の物を投げ、蹴り飛ばし、暴れ始めた。客の顔は恐怖で真っ青になっている。 「やめてください!お客さんがいるんです!」 「じゃあ早く金を出せよ。それとも、このじじいがどうなってもいいのか?」 鈴木は客の肩を掴んだ。 「お客さんは関係ないでしょう!」 「この店を利用してるなら無関係じゃないだろうが。金を払えば解放してやるよ」 私は唇を噛みしめ、拳を握りしめた。 「…わかりました。でも、そんな金額はここにはありません。取りに行ってきます」 「いいぜ。だが、客が大事なら逃げんなよ」 私は客に「すぐ戻りますから」と言い残し、店を飛び出した。スマホで母に電話するが、繋がらない。仕方なく、店から歩いてすぐの叔父の家へ走った。 叔父に状況を説明すると、彼は驚きながらも力強く頷き、家の奥へと引っ込んだ。少しして、紙袋に入った1000万を持って戻ってきた。 「ありがとうございます。必ず返します」 私はそれを受け取り、店へと急いだ。扉を開けると、鈴木は椅子にふんぞり返り、客はすぐそばに立たされている。 「お、思ったより早えじゃねえか。ちゃんと用意できたのか?」 ニヤニヤしながら近づく鈴木に、私は紙袋を突き出す。 「その前にお客さんから離れてください」 鈴木は小さく舌打ちをし、客を見て顎をしゃくった。客はおどおどしながら私の元へ来た。私は安心させようと客の手を握り、微笑んだ。 「おら、次はてめえの番だぞ」 鈴木は紙袋を奪うように受け取り、中身を確認してにやりと笑った。 「もう帰ってもらえますか?」 「待て待て。急ぐなよ。本当に1000万入ってるか確認しねえとな。おい、茶でも出せよ」 鈴木は椅子に座り、札束を数え始めた。その時、店の扉が音を立てて開いた。 「なんだこれ…。どういうことですか?」 シジさんだった。彼は呆然と店内を見渡し、椅子に座って金を数える鈴木を睨みつけた。 「ああ、うるせえな。客ならさっさと追い出せよ」 鈴木は金を数えることに夢中で、シジさんに気づいていない。 「大丈夫でしたか?」 … Read more

6 September 2026

出張先の旅館の部屋を開けた瞬間、そこには同じ会社の社長令嬢がいた。しかも、予約された部屋は一つだけ。明らかに誰かの仕業だと気づいたのは、彼女が「何よ、あなた何か知ってるの?」と睨んできた時。俺の頭には、いつも嫌がらせをしてくる上司の顔が浮かんでいた。その上司は、商談のことを俺に何も知らせず、失敗させるつもりだった。そして今、彼女は泣きそうな顔で俺に言った。「ごめんなさい。あの商談、ダメだった…

俺はあるメーカーの営業マンとして働いている。入社して3年が経つが、職場には毎日のように悩まされる上司がいた。仲間さん。若手への当たりが強いことで有名なその男は、無理な仕事を押し付け、学歴の話を持ち出しては見下してくる。 「おい、お前まだこんなこともできねえのかよ。資料は今日の昼までに作れって言ったよな」 「すみません。昨日も外回りがあって、どうしても時間がなくて……」 「そうしたら外回りが終わった後に残業してでも作れよ。甘えてんじゃねえぞ」 それでも俺は会社を辞めようとは思わなかった。いつかこいつを見返してやる。その思いだけが支えだった。 ある日、仲間さんから呼び出された。 「明日、新しい取引先に挨拶してこい。出張になるから宿はこっちで手配しておいてやるよ」 「え、明日ですか? 明日は別の取引先との予定で埋まってるんですけど」 「そっちは別のやつに任せろ。社会人なんだからもっと柔軟に働けよ」 結局、俺は無理やり出張に行くことになった。元々入っていた仕事は同僚に頭を下げて代わってもらい、準備のためにその日も残業を強いられた。疲れきった体を引きずってオフィスを出ると、そこに現れたのは俺が一番会いたくない人物だった。 「あら、数明。どうしたの? そんな疲れた顔しちゃって」 「蒼井さん……どうしてここに?」 「まあ仕事で色々ありまして」 「そう。敬語なんてやめてよね」 「いや、さすがに社長の娘さんに向かってため口は……」 彼女の名前は蒼井。俺と同い年で、学生時代は同じ大学のキャンパスに通っていた。当時はため口で話していたが、この会社で彼女が社長令嬢だと知ってからは、どうしても距離を感じてしまう。俺のかしこまった態度に腹が立ったのか、蒼井は表情を曇らせ、わざと俺の肩にぶつかってその場を去っていった。 翌日、俺は仲間さんの指示通り遠方の取引先へ向かった。ところが、そこには蒼井がいた。 「ちょっと遅いわよ」 「え? どうしてここに?」 「どうしても何も、この取引は私からお父さんに提案したんだから。私が商談に来るのは当然でしょ」 「ちょっと待って。商談? 今日はただの挨拶じゃないのか?」 「はあ? 今更何を言ってるの? 今日は大事な商談があるのよ」 「そんな話は聞いてない。仲間さんからは挨拶をするようにって言われただけだ」 どうやら仲間さんは、俺に商談のことを一切知らせず、失敗させるつもりだったらしい。その上、蒼井が絡むほどの大きな取引だった。俺は想定外の出来事に取り乱したが、蒼井の落ち着いた態度でなんとか冷静さを取り戻した。 結局、俺は蒼井と共に商談をすることになった。最初はどうなることかと思ったが、蒼井の見事なプレゼンで取引はうまくまとまった。俺はタイミングを見計らって商品の説明をする程度で情けなかったが、蒼井は意外にも褒めてくれた。 「何も聞かされていなかった割にはちゃんと喋れたじゃない。うちの製品について詳しいのね」 「一応これでも普段は営業してますから」 出張は無事に終わった。そう思っていた。食事を終えて、会社が手配してくれた宿に向かうと、そこは普段使うビジネスホテルとは明らかにグレードの違う立派な旅館だった。受付で名前を伝えると、係の人が言った。 「お連れ様がすでにいらっしゃっておりますので、すぐにお部屋へご案内いたしますね」 お連れ様? 違和感を抱えながら部屋に通されると、そこにいたのは蒼井だった。 「え……どうしてここに?」 「やっぱり蒼井さんでしたか」 「同じ部屋で予約されてるなんて、何かの手違いかしら」 「手違いだといいんですけどね」 「何よ、あなた何か知ってるの?」 「いや……心当たりがあるというか」 俺の頭には仲間さんの顔が浮かんでいた。商談のことを当日まで黙っていたのも、宿のことで俺がミスをするように仕組んだのも、全部あいつの仕業に違いない。俺が蒼井と昔からの知り合いだったことで、仲間さんの期待した展開にはならなかったが、あいつは俺と蒼井が同じ部屋になることで問題が起きることを狙っていたのだろう。 「この時間から別の宿なんて見つからないわよ」 「多分そうですよね。でも、蒼井さんと同じ部屋に泊まるわけには……」 「いいわよ、ここに泊まっても。会社の手違いなら、あなたに余計な苦労をかけるわけにはいかないでしょう」 「社長令嬢が同じ会社の男と一緒の部屋に泊まる方がまずいんじゃないですか?」 「だから今日に関しては会社の不手際なんだから仕方がないでしょう。まあでも……一つだけ条件があるわ」 蒼井は何かを企んでいるかのように笑った。 「やっぱりあなたの敬語は落ち着かないから、今日だけはどうにかしてくれる?」 「そっか、分かったよ。じゃあ遠慮なくお邪魔します」 ため口で話すと、蒼井はなぜかそっぽを向いてしまった。相変わらず分からないやつだと思いながら、俺は彼女の部屋に入っていった。ルームサービスで酒を頼み、俺たちは学生の頃に戻ったように気楽に話すことができた。 「ちょっと夜風に当たってくるよ。少し飲みすぎたな」 「私も一緒に行くわ。せっかく綺麗な旅館なんだから」 … Read more

6 September 2026

「こんな仕打ちは初めてだ。もう一度言う。全取引を解約する。五十億円を下ろす。支店長を呼びなさい」…

「こんな仕打ちは初めてだ。もう一度言う。全取引を解約する。五十億円を下ろす。支店長を呼びなさい」 「申し訳ありませんでした。そのような方とは存知らず…。この件につきまして、お目こぼし願えないでしょうか」 若造は頭を下げたが、こいつはこういうことにだけは頭が回るようだ。 「知らなかったのですか? それで許されるなら、日本はもっといい国になっていたでしょうね」 私は鼻で笑った。 私は上田譲二、六十二歳。趣味は貯金と投資だ。暗号資産や株、投資信託などを行い、その利益を得ている。仕事もあるので投資家というほどではないが、妻が株主優待を楽しみたいと言うので、優待の質が高い企業の株をそれなりに保有している。外貨中心のデイトレードは外国為替のオープン時間に張り付く必要があり、睡眠時間がなくなるので、暗号資産のガチホオンリーだ。 仕事はまあそれなりに利益を出せる会社で働いている。仕事を楽しみながら、時折株取引をするといった感じだ。投資と仕事のバランスは、投資二割、仕事七割、付き合い一割といったところか。 今夜はお得意様を招待して食事会を行うところだ。定期的に接待をして、互いに情報交換をするのだ。情報交換とは聞こえがいいが、酒が入れば仕事の話は二の次になる。それでも懇親を深められれば、次の引き合いにつなげることも可能だ。 取引先の重鎮をお迎えして、地域で人気の高級料亭へ足を運ぶ。地元の議員たちも利用する老舗で、ここの刺身と天ぷらが絶品なのだ。取引先の重鎮もこの店をひいきにしているため、女将にはいつも世話になりっぱなしだった。 ただ、今日はいつになく女将が困っている様子だった。品のない若造が一人、怒鳴り散らしているのだ。 「おい、なんだよ。客二人くらい入れるだろうがよ。なんで断られなきゃいけないんだよ」 「本日は予約が入っておりまして、飛び込みのお客様はお断りしております」 「いくつも個室がある店なのに、そんなに客もいねえだろうが。腹減ったんだよ。うまい天ぷら食べさせてくれるって言ったじゃん。ほら、妻も腹を空かせてんだよ」 女将が私たちの姿を認めると、そのカップルを二の次にして深々とお辞儀をした。 「お見苦しいところをお見せして申し訳ございません。上田様とお連れ様、お待ちしておりました。どうぞ」 女将は仲居に私たちを引き渡し、部屋へ通すように言いつける。 「なんだよ。俺らよりも後に来た連中を先に通すのかよ。差別すんのもいい加減にしろよな。今日はこいつの誕生日なんだ。うまいものを食わせてくれよ」 若造のスーツは見たところいいブランド品のようだが、肩のラインや袖の長さ、色合いも若造には全く合っていなかった。おそらくブランド専門店で販売されている中古品だろう。それに、妻と呼ばれた女性はこの料亭にふさわしくない服装だ。紫色のドレスは体の線を強調させたデザインで、露出が多すぎる。ドレスと一応言ってみるが、布をまとっただけと言っても過言ではない。見かけもミセスという印象は全くない。 「あのう、当店は完全予約制なんですよ。食材なども予約を受けてから集めますので、飛び込みでおいでになってもお食事はご用意できません。それに…」 女将は何かを言いかけて口ごもった。 「なんだよ。そこまで言いかけてやめるのかよ。そういうところも納得できねえんだよ」 「おそらく、このお店の飲食代を女将さんは心配してくれているんだろうね。お通しだけで三千円。いい酒と刺身、天ぷらのお任せで大将に頼めば、一人分五万円コース。それに消費税とサービス料が加算されるからな。君に支払い能力があるかって聞きたかったんだろう」 女将はぶんぶんと首を横に振って否定していたが、あながち間違いではないようだった。私の一言に、取引先の重鎮たちが笑い出す。 それに、一見の客がこの店の性質上断らざるを得ない。地方議員や国会議員などの政治家たちがこの店でよからぬ相談をすることもある。聞かれてはまずいことも多いので、信用できる人間しか予約を受けないのだ。 「やい、爺さん。俺は都内にある国立大を首席で卒業したエリートだぞ。後客の短いお前らの席を俺たちに譲れ」 「それは構いませんが、女将さんに五人分の食事代を現金でお支払いくださいよ」 「はあ? 五人分なんて俺とミキで食い尽くしてやる。いくらだよ」 女将さんもこくりとうなずいている。前払いなんて不粋なことはこの店ではしていない。サイズの合わないスーツに安っぽいドレスを着て入店する客が信用できないから、追い返しているのだ。女将さんは、あらかじめ用意してあった五人分の食事代の請求書を見せる。 若造の表情を見て、お得意先の重鎮は満足したように大笑いする。若造は「え、あの…」としどろもどろになりながら、一目散に逃げていった。紫色の安っぽいドレスを着た、誕生日を迎えるであろうミセスを置き去りにして。 「え、ちょっと…置いていかないでよ」 「ちょっと奥さん、あんな男とはすぐに別れなさい」 また笑いが巻き起こる。 「やあ、面白い客だったな。女将さんも大変だったね。食事と美味しい酒を、今日もまた頼むよ」 この十分ほどの出来事を肴に、今日の情報交換会は楽しく時間が過ぎていった。女将からは集合のお詫びにと天然鯵の塩焼きをサービスしてもらった。 それからしばらくの時間が経過した。私は朝一で銀行の待合ロビーにいる。普段なら妻に用足しを頼むのだが、このところの銀行は融通が利かない。本人が出向いた方が話がスムーズに進むため、時間を作って銀行へ向かったのだ。午後から用事があったので、朝一で処理を済ませようと、九時のオープンと共に大きな銀行の本店に足を踏み入れた。 大きな銀行は都銀の中でメガバンクと言われる存在だ。行員が声を揃えて「いらっしゃいませ」「おはようございます」と声をかけてくれる。私は合併前の一番銀行の頃から取引があり、とても頼りにしている銀行だ。 窓口にいた行員と目が合ってしまった。その行員は、先日高級料亭で門前払いを食らったあの若造だった。窓口担当らしく、中井戸健と書かれたプレートが置かれている。やはりあの体に合わないスーツを着ており、他の行員とはどこかずれているような印象を受けた。私がにこやかに会釈をすると、営業担当とは到底思えない表情でこちらを睨みつけてきたのだ。 「ほう、怖いな」 小さな声で呟くと、すでに五人の顧客の順番待ちがあったので椅子に座って待つことにした。大きな銀行の本店は窓口がいくつもあるので、すぐに呼ばれるだろう。 「お取引の都合上、順番を変更させていただきます。番号六番でお待ちのお客様、四番窓口へお越しくださいませ」 いつもなら電子音声で聞こえる呼び出し案内だが、今回は係員が案内をしている。私の番号札は五番だ。 「ほお、抜かされてしまったか」 そのうち電子音声が七番、八番、九番と、私より後の人間を呼び出している。呼び出しが十二番にまで至ったところで、私は窓口の担当者に聞いてみることにした。 「あの、五番って呼ばれましたかね」 窓口の行員は呼び出し状況を確認し、「もうすでにご案内済みで、お手続きは完結しています」というのだ。 「おかしいですね。私ずっと待っているんですが、一向に呼ばれませんよ」 そう言うと行員は素っ気なく、もう一度番号札を取って待っていてほしいというのだ。 「ほお、そうかい」 私も気が長くなったものだと思う。もう一度番号札を取ると、七十二番の表示が出た。 「七十二番か…」 その番号を見て軽くため息が出る。今急いで手続きが必要だというわけではなかったので、帰り直しても良さそうだったのだが、私は見逃さなかった。番号札を取り直した時に視界に入った、あの中井戸とかいう若造のほくそ笑む表情が気になったのだ。 「これは報復だな」 うすうす気づいてはいた。しかし、時間がない割に、めにあってみようかという好奇心が勝った。 … Read more

6 September 2026

「田舎の野蛮人はちょっと無理なのよね。可愛い娘に暴力でも振われたら困る」…

俺の名前は大西。父の大西辰志と二人暮らしだ。 物心つく前に母を病気で亡くし、父は男手一つで俺を育ててくれた。父は田舎町の小さなネジ工場を経営しているが、経営はあまり良くない。家は貧しく、父は気難しくて無口だった。 そんな父だから、どこかに遊びに連れて行ってもらえたことは一度もない。遊び場はもっぱら工場の敷地内だった。幼い頃から父が働く姿を間近で見ながら遊んでいたおかげで、俺は物づくりに興味を持つようになった。 物づくりに興味を持った延長で、俺はエンジニアを目指して工業高校に進学した。男手一つで育ててくれた父の助けになりたいと思ったからだ。しかし、学生生活を送るうちに外の世界にも興味が湧き、仕事について悩むようになった。 父の工場ではネジしか作っていない。俺は父と同じ道を歩むだけでいいのだろうか。外に出れば、もっと様々なものに触れて選択肢も広がるのではないか。卒業を控え、俺は思い切って父に相談した。 怒られるかもしれないと緊張したが、父は相変わらずの仏頂面で一言だけ言った。 「好きな場所で好きなことを極めろ」 それしか言わないものだから、逆に不安になる。 「でも父さん、経営大変なんじゃないのか?俺がいたら手伝えるかもしれないけど」 「そんなことお前が心配することじゃねえ。お前はお前のやりたいことをすればいいんだ」 父が背中を押してくれたおかげで、俺は地元を出ることを決意した。 高校卒業と同時に、俺は精密機械を扱う会社にエンジニアとして就職した。それから10年が過ぎ、俺はエンジニアとして一目置かれる存在になっていた。学生時代に培った知識と技術は年月を経て成長し、今では後輩の指導も行っている。 ある日、同僚がこんな話を持ちかけてきた。 「大西、知ってるか?今度大手自動車メーカーが宇宙ビジネス事業部を設立するんだってよ」 「宇宙?そんなことできるのか?」 「もうロケットと火星探索の開発を始めたんだってよ」 「すげえ。そういう仕事って憧れるよな」 夢物語のような話に、エンジニアとして関わってみたいという気持ちが湧き上がる。 「いいなあ。俺もそういう仕事をしてみたい」 「あら、そんな大西君にいい人を紹介しちゃおうかしら」 同僚が言うには、その開発をしている会社の社長令嬢と同級生なのだという。少しでも近づきになれれば、その仕事に関われるかもしれない。俺はお願いして、その令嬢が参加する飲み会に参加することにした。 社長が参加する飲み会ということで非常に緊張した。実際に行ってみると、学生時代の同級生の飲み会のような雰囲気で、俺はかなり場違いだった。来るんじゃなかったと後悔しかけたその時、唯一の知り合いである同僚が俺を一人の女性に紹介してくれた。 「りん、大西さんを紹介するわね。私と一緒に働いているエンジニアなの」 「初めまして。菅野りんです。エンジニアさんってすごいですね」 「初めまして。大西です。いやいや、そんなにすごくはないですよ」 りんは俺が想像していたような金持ちのお嬢様ではなく、ごく普通の女性だった。気さくで人当たりが良く、肩の力を抜いて話ができた。 ロケットや探査機に興味があり、令嬢と近づきになろうとしていたはずなのに、結局その話は一切しなかった。それくらい、りんとのおしゃべりがただただ楽しかった。そして、それはりんも同じだったのだと思う。 俺たちは連絡先を交換し、それから頻繁に連絡を取り合うようになって、すぐに交際に発展した。そして1年ほどの交際期間を経て、俺たちは婚約した。 りんが実家で俺の話を両親に伝えたところ、印象は良かったらしい。俺たちの頭の中ではすでに結婚の段取りが始まっており、早めに行動に移すことにした。 就職してからというもの、仕事が忙しくて父に連絡することが少なくなっていた。父も口数が少なく不器用なため、あっちから連絡してくることもない。改まった電話に少し気まずくて緊張したが、それでも俺は結婚の第一歩として、久しぶりに父へ連絡を入れた。 「父さん、俺、婚約したんだ」 「いつの間に?」 父は俺の爆弾発言にも大した感情を見せないような反応だった。息子が緊張しながら電話しているのだから、もっといい反応をしてほしいものだ。 「父さんに彼女を紹介したいから連れて行こうと思ってるんだけど、いつがいいかな?」 「そっちに仕事で用があるから、ついでによる」 タイミングが良かったのか、父は仕事のついでにこちらへ出てくるつもりなのだという。俺としては全てがうまくいっており、気分はだいぶ良かった。父が反対するとは夢にも思っていなかった。 父に予定を聞くと、その日はりんの両親に挨拶に行く日だった。そこで父には俺のアパートで待ってもらうことにした。 それから俺は部屋を念入りに掃除した。父が来るというのもそうだが、ここでりんを紹介することになるのだから、散らかっていては格好がつかない。最後に掃除を忘れている箇所がないか部屋を見渡すと、視線は自然と壁にかけられたスーツで止まった。 彼女の両親に挨拶するということで、ビシッと決められるように少し高めのスーツを用意していた。 当日、スーツに身を包んで待っていると、インターホンが鳴った。玄関には父が立っていた。何年かぶりに見た父は少し老けたように感じたが、雰囲気はあまり変わっていなかった。 「父さん、いらっしゃい」 「邪魔する」 父は少しの荷物と、明らかにスーツが入っている袋のようなものを持っていた。 「俺がいない間は好きにくつろいでおいて。でも、彼女が来る時はちゃんとしててくれよ」 「分かった、分かった」 留守番を父に任せ、俺はりんの実家へと向かう。事前にリサーチしておいた、美味しいと言われている菓子を手土産にするのも忘れなかった。 高級住宅街へ足を踏み入れ、教えられた場所へ足を運べば、映画でしか見ないような豪邸が視界に飛び込んできた。俺が育った田舎では全く見ることがなかった光景だ。 緊張で震える手でインターホンを押すと、にこやかなりんが迎えてくれて、俺は家の中へと足を踏み入れた。 「いらっしゃい」 「お邪魔します」 「あらあら、いらっしゃい。よく来てくれたね。さあ、上がってくれ」 りんの両親は丁寧に持てなしてくれた。俺が結婚の挨拶に訪れた時の頑固な父親というイメージは崩れ去った。俺の心配をよそに、りんの両親はとても優しい人物だった。強い口調で話すこともなく、俺の話に静かに耳を傾けてくれていた。 しかし、話の流れで俺の両親の話題になると、二人の態度は一変した。 「お母様が早くに亡くなったのですか。それは苦労なさったでしょうね」 「ええ、父が一人で頑張ってくれまして。だからこそ、エンジニアの道を選んだんです」 … Read more

6 September 2026

「女将、1週間以内に土地の契約書にサインしろ。断れば、店を更地にして埋めてやる」…

「女将、出てこい。1週間以内に土地の売買契約書にサインしろ。今日から毎月18万円、みかじめ料を納めてもらう。断れば、店を更地にして埋めてやる」 令和8年1月2日、新年最初の営業日の午後。47年間続いてきた銭湯「橘湯」に、5人の男が押し入った。番台にいた女将の田代あかり(23)は、くちびるを噛みしめながら、指先で入浴券の端を押さえていた。 河浪会の若頭補佐、春日功(37)は白いコートの襟を立て、土地の買収覚書を掲げた。 「おい、女将はお前か。1週間以内に契約書にサインしろ。今日から毎月18万円の払いだ。断るなら、店を潰して埋めてやる」 「この銭湯は、祖父の代から家族で守ってきた場所です。売りません。そんなお金もありません」 あかりは膝が震えていたが、声は震えさせなかった。 「ガキがでかい口を利くな。従わなかったらどうなるか分かってるんだろうな」 常連客たちは逃げるように脱衣所を出て行き、木戸の鐘が間遠に鳴った。その時、浴場の片隅で、一人の老人が静かに髭を剃っていた。 「騒がしいぞ」 78歳の常連客、岩松忠蔵だった。濡れたタオルを腰に巻き、湯気で湿った布が暗く色づいている。岩松は春日を一瞥すると、また無言で髭剃りに戻った。 「おい、くたばりかけのじじい、お前も出て行け!」 老人は答えず、手だけを動かして剃り続けた。構成員の関口が老人を蹴ろうとした瞬間、岩松は振り返り、眉をひそめて関口を睨みつけた。関口は足を止め、春日も岩松の肩から手を引いた。 この時点で、春日の一味はまだ気づいていなかった。この黙った老人が、かつて関東の裏社会で恐れられた存在だったとは。 数日後、この細い路地の前で、若頭補佐は逃げ場を失い、列の先頭に押し出されて頭を下げることになる。 「おじいちゃん、見ていてください。私、ちゃんとやりますから」 あかりは3年前、祖父の源一郎から橘湯を引き継いだ。学費も休みも捨てて、銭湯を守るために。橘湯の釜場には錆びた鉄の階段があり、毎晩、祖父はデジタルとアナログの温度計を比べていた。0. 1度の狂いでも、客の信頼を失うことになる。 「夜は火を落として、温度を記録しておけ」 小学校の卒業アルバムの修学旅行の欄は空白で、あかりは欄外に「店番」とだけ書いていた。あかりが10歳の冬、父が配達中に心臓発作で倒れた。救急車は銭湯の前を通り過ぎた。母は看病と銭湯の手伝いで身を削り、翌年の春に心不全で亡くなった。あかりは一人残され、源一郎が引き取った。 源一郎は、父の位牌と母の写真の前に無料入浴券を置き、言った。「母さん、父さん、頑張るよ。あかり、これからはじいちゃんが養う。銭湯もお前も守るからな」笑顔を作ったが、目の端は赤かった。 月の売り上げが18万円を下回ることも珍しくなかった。あかりは袖を繕い、古い筆箱を使い続けた。「田代のとこ? 銭湯だろ。いつも貧乏そうだな」と言われても、あかりは言い返せず、うつむくだけだった。 家に帰ると、源一郎は番台の温度計を眺めていた。「ただいま。学校も今日は楽しかったよ」あかりは作り笑いだけを返した。冬の朝、排水溝に白い湯気が立ち、あかりの指先はひび割れて乾いた。痛くても、祖父には見せなかった。 中学に入ると、あかりは新聞配達とスーパーのレジの仕事を掛け持ちした。「田代さん、成績はいいのに。進学を考えたことは?」「先生、私は銭湯を継ぎます。じいちゃんを一人にしたくないんです」「分かった。でも、無理はしないで」高校では清掃と深夜のコンビニ勤務を増やし、休みはすべて捨てた。制服の肘は補修テープで塞がれ、雨の日は靴下まで濡れた。終電を逃した夜は、釜場の椅子で毛布にくるまり、ボイラーの音を子守唄にして眠った。 「大学に行きたかったけど、銭湯が先だ」大学の学費は紙の上にしか存在しなかったが、あかりは諦めると口にしなかった。 卒業後、あかりは朝5時に起きてボイラーを焚き、床を磨き、番台に座った。浴槽の縁を磨くたび、祖父が同じことをしていた夜を思い出した。「水は嘘をつかない。背中に仕事が染みつく」 源一郎が入院した夜、彼は廊下の自販機の前の硬い椅子に座り、銭湯の鍵を握りしめていた。「ここで休まれますか?」「家に銭湯があってな。孫娘が待っているんだ」源一郎は病院を抜け出し、真夜中に釜場に戻ってきた。湯気の匂いを確かめるためだけに。「じいちゃん? なんで病院に……」「大丈夫だ。お前は寝てなさい。明け方の火は私が焚く」 そして3年前、79歳の源一郎は倒れ、短い入院の後、介護施設に移った。「じいちゃん、約束は忘れません。銭湯とお客さんを守ります」葬儀の控え室には常連客が並び、煙の向こうであかりは祖父の口癖を唱えた。 葬儀の後、見知らぬ老人が一人、立っていた。端の擦り切れた古いタオルを腰に巻いて。「昔、世話になった。これからも来させてもらう」あかりは老人の袖を見つめた。祖父が銭湯に掛けていた布と同じ色だった。「じいちゃんの知り合いなのかな」老人は何も言わず、列に戻った。それが岩松忠蔵との最初の出会いだった。 それから3年間、岩松は毎日午後4時に湯に来た。「岩松さん、いつもありがとうございます」「ただ湯が好きなだけだ」客が減り、融資も断られ、あかりは法定検査の見積書と銀行の整理番号を握りしめた。「売上予測が立てば、またご相談ください」事務員は書類の角を揃え、金利の表に指を滑らせた。「分かりました」あかりは頭を下げ、帰り道で拳を握った。「まだ諦めない」 1月2日の乱入の後も、春日の圧力は激しくなった。1月3日、春日は初めてカウンターに肘をつき、笑みを浮かべて値段を言った。「聞け、女将。18万円、今日からだ」あかりが首を振ると、春日は舌打ちして去った。1月4日からは、池田たちが銭湯の入り口の前に椅子を置いた。「客が来ないみたいだな。噂は早いな」買い物客が集まる方を見て、構成員がスマホを弄った。 1月4日の夜、あかりは相談窓口のパンフレットを開き、警察の番号を丸で囲んだ。電話しようと思ったが、指が近藤さんの名前に触れた時、丸は鉛筆で濃くなった。「女将、明日までにサインしろ。印鑑は俺が持ってくる」翌朝、春日は空の印鑑ケースを番台に置き、蓋を開けたまま去った。「これは使わない」あかりはケースを入り口の外に出した。 「見ろ、女将。客は一人もいないだろ?」「そんな金はありません」「じゃあ、客をゼロのままにしておけ。簡単だろ?」春日は池田たちの肩を叩き、入り口の看板を激しく揺らした。「聞け、じじい。この辺りの銭湯は、今度から俺たちが見張ってるんだ」常連客は来なくなり、商店街には「橘湯はヤクザの支配下だ」という噂が広がった。入浴者は一桁まで減り、午後の帳簿は真っ白なままだった。あかりは鉛筆を研いだ。 新聞配達の少年は、入り口の前で足を止め、ビラを抱え直して引き返した。「あかりちゃん、この卵持ってきなよ。返さなくていいから」「近藤さん、ありがとうございます」「でも、店は……」「怖いけど、一人で抱え込ませるわけにはいかない」近藤は箱を番台の下に押し込み、自転車で急ぎ去った。「まだ一人じゃない。いらっしゃいませ」呼び鈴は鳴らなかったが、午後4時、岩松はいつものように現れた。 「岩松さん、危ないです。来ないでください」「ただ湯に入りに来ただけだ。心配するな」岩松は浴槽の縁に座って小銭を数えた。あかりはお釣りを出さずに受け取り、台帳に記入した。池田が嘲笑した。「毎日来るなよ、くたびれたじじい」岩松は答えず、浴場へ向かった。「じいちゃん、ごめん。私、弱いかもしれない」あかりは家の前で肩を震わせ、涙を拭うとボイラーのスイッチに手を伸ばした。「地域の人を大事にしなさい。銭湯は人と人をつなぐ場所だから」 夜、あかりは売上台帳に線を引き、電卓の電池を替えた。「明日も開く」ボイラーが唸り、ガラスが湯気で曇り、あかりは袖で拭いて笑顔のマークを描いた。「じいちゃん、怖いけど逃げないよ」1月5日、あかりはまた銀行に行き、同じ答えを聞いた。その夜、春日たちは番台に肘をついた。「考える時間はやったぞ、女将。答えは決まったか?」「売りません。何度聞かれても同じです」「頑固な女だ。後悔するぞ」その日、売り上げは二人分だけだった。 1月6日、常連客もついに来なくなった。あかりは一人で番台に座り、木戸の鐘は一度も鳴らなかった。「今日も入らせてもらうぞ」「ありがとうございます、岩松さん」岩松は、隅の湯を沸かす蛇口で剃刀の刃を浸した。夕方、春日が再び手下を連れて現れた。「諦めたか、女将? サインしろ」「しません」「なら今夜で終わりだ。まずはドアを壊す。覚悟しろ」「待ってください」「待たないよ。弱い者を待つ者はいない」 春日たちが去ると、あかりは膝をついた。「足が動かない。でも、水は止めない。止めたら負けだ」あかりは壁に寄りかかり、深呼吸を三回だけした。ボイラーの火は点いたままだった。脱衣所で岩松が着替えを整えた。「女将、今夜も湯を焚くのか?」「はい」商店街の灯りは遠く、路地の地面だけが暗かった。「あかりちゃん、俺も警察に言うよ」「近藤さん、大丈夫です。今夜も水を回します」近藤はくちびるを噛み、店のシャッターを下ろす音が路地に響いた。 午後10時、春日が道具袋を持って戻ってきた。あかりは番台の下にしゃがみ込み、祖父が彫った木の札を握りしめた。「壊されるなら、最後まで見届ける」春日がドアを破ろうとしたその時、脱衣所のドアが静かに開いた。岩松が、薄い寝間着に羽織を羽織っただけで立っていた。「騒ぐのはもうやめろ」「関係ないじじいだ。邪魔をするな」春日が襟を掴もうとした。「俺の名前を知っているか?」「知るか、そんなもの」「岩松忠蔵だ」 その名を聞いた瞬間、村井は膝をついた。「若頭、まさか……『鬼』の岩松さん?」春日の喉が引きつり、覚書が指から滑り落ちた。「まさか。あの伝説がまだ生きているのか?」春日は後ずさりし、白いコートの襟が湯気で暗くなった。「湯気に紛れて俺たちを騙したのか?」春日は村井を振り返り、拳を震わせた。「調べろと言っただろ! 本当に何もないのか?」「若頭の経歴は、本当に……」「黙れ! 言い訳か!」春日は岩松と天井を交互に見て、喉を乾いた音をたてた。「岩松が店先で髭を剃っている——そんな冗談があるか」岩松の表情は変わらず、春日の膝はわずかに震えた。「本気か? 聞いたことがない。これは……冗談じゃない。契約と違う。これは裏切りだ」 40年以上前、源一郎はヤクザだと知っていながら、銭湯で誰にでも平等に手当てをし、傷を洗った。警察の手から逃がすため、湯気で「イチゴ」の匂いを隠したこともあった。「恩を売るつもりはないが、孫娘を捨てるわけにはいかない」あかりは膝の上で拳を握り、爪が食い込む痛みで現実を確かめた。祖父が守った人が、今、私を守ってくれている。あかりは言葉を失い、家の方を見つめた。 その時、引き戸が開き、黒いコートの男たちが入ってきた。先頭は堂島修(59)。12人の男が後ろに並んだ。「親分、街は確保済みです」「声を抑えろ。ヤクザがいるなら先に名乗れ」「岩松兄、若頭補佐がとんでもない真似をしました」堂島は畳に額を押し付けた。「言い訳はありません。ここで決着をつけます」春日は何か言おうとしたが、舌が上顎に張り付いて声が出なかった。 「親分、盲点だったんです! 俺一人のせいじゃない……」「盲目だったのはお前の欲だ。床を見て黙れ」春日は手のひらを壁に押し付け、肩で息をした。堂島の後ろから、黒いコートの男が進み出た。佐伯剛(54)、河浪会の若頭補佐だった。佐伯は畳に額を押し付けた。「岩松兄、報告を遅らせ、若頭補佐の暴挙を見逃したのは私です」「佐伯、何をやってるんだ」「ためらいが欲望を止めなかった。組に損害を与えたのは私です」「佐伯、お前は若頭を焚きつけた。見て見ぬふりは、親分の責任を奪う行為だ」佐伯は声明を述べた。「言い訳はありません。処分を受け入れます」「お前は補佐を解任、3ヶ月の停職、給与の30%を没収する。処分状は今日出る」「承知しました」「田代さん、商店街の皆さん、本当に申し訳ありません」佐伯は深く頭を下げ、春日は肩を慰めようとした。「俺は無職になるから、もう用済みか? 放せ、春日」「佐伯は罰を受けた。お前はまだだ」「親分、お願いします。知らなかったんです」「『知らなかった』では済まない。組の名を泥に塗った。俺が前線の副官だ。ここで潰れれば、組全体が笑いものになる」「お前一人だけじゃない。だから、この者たちを集めた」堂島は春日を見下ろし、電話に短く指示した。「今夜は引き上げる。明日の朝、全員ここに集めろ」「全員ですか?」「お前が侮辱した連中全員の前で、お前が始末をつけろ」堂島は春日の腕を掴み、門の外へ引きずった。「明日ここに来い。一人でも欠ければ、お前の担当が増える」 「もう終わりだ。本当に終わった」春日は立ち上がれず、路面に覚書の切れ端が張り付いたままだった。「副官、俺たちはどうすれば?」「お前も列に並べ。一人逃げるごとに、借りが増える」春日は歯を食いしばり、手下を連れて立ち去った。あかりは震える手で銭箱を拾い上げ、岩松に頭を下げた。「岩松さん、あなたは一体……」「柚木の堂島親分だ。頭を下げて、面倒ごとを避けろ」岩松はそれだけ言って、路地に消えた。 その夜、あかりは岩松に銭湯の台帳を見せ、数字の列を指で辿った。「昨夜と同じ量で止めろ。超えるな」「はい。じいちゃんも、毎晩同じ列を見ていました」「そうだ。銭湯だからな」岩松は台帳の端を折り、行の高さを目で測った。 1月7日の朝、堂島は一人で橘湯を訪れ、下駄を揃えて門前に並べた。「組の者は、この湯に近づけるな。お前たちの仕事は、この紙の数字だけだ」「ありがとうございます。何だか重いです」「重いのは金じゃない。償いの重さだ」堂島は両手で封筒を押し出し、深く頭を下げた。 同日午前10時、路地で詫びが始まった。橘湯の前の狭い路地に、黒いスーツの男たちが一列に並んだ。河浪会とその関連組織、約150人が黙って並んだ。商店街の店主たちが首を出し、近藤は胸の前で腕を組んだ。堂島は春日を蹴って前の列に押し出した。「全員、頭を下げろ」150人のヤクザが一斉にひざまずき、息を殺す音が路地に満ちた。列は郵便局の角まで続き、警察官が遠くから交通監視だけをしていた。 「全員が俺を見ているのか。ここまでやる必要が?」「終わらせるのはお前だ。ひざまずいて、全部吐き出せ」春日は歯を食いしばったが、すぐに額を地面に押し付けた。鋭い小石が皮膚を切り、声が割れた。「すみませんでした。近所の皆さん、私のせいです。全部私のせいです。組をここに連れてきたのは私です」前の列のスーツの男が膝をつき、手を地面に置いた。「脅したことも、すみませんでした」高木剛(50)、関連組織の高木組若頭がくちびるを噛み、額を地面に押し付けた。「私が手を出しました。止めの命令を遅らせたのも私の誤算です」「高木、お前は数に乗せられて、遊郭を商売の道具にして目を逸らした。件は凍結だ」「承知しました。帳簿は明日、総務に提出します。抜けはありません」関口と村井も手を地面に置き、肩を震わせた。佐伯は昨夜の罰を受けた身で、春日の隣で何も言わず額だけを地面に押し付けた。 … Read more

6 September 2026

「おい、役立たず。飯はまだか?ダメ嫁の分際で待たせるんじゃない。」…

「おい、役立たず。飯はまだか?ダメ嫁の分際で待たせるんじゃない。本当に、つくづく臭い子ね。本当に夏美さんは、天井で嫌になっちゃう。」 「お言葉ですけど、両亭の切り盛りも家事も雑務も、ほとんど私一人でやっていますが、自分のご飯くらい用意できないんですか?」 夫のハルトと義母は、驚いた様子で私を見ていた。これまで従順に従ってきた私が、突然、口答えしたのだ。二人の表情が、劣化のごとく燃え上がる。血管が切れそうな音が聞こえてくるほどだった。 「なんだ、その口の聞き方は。お前なんて、ここを出たら誰からも必要とされないんだ。寄生中の嫁のくせに。嫌なら出てけ。」 「夏美さんには、まだ教育が足りないのかしらね。ハルトに捨てられたら生きていけない貧乏人のくせに。許して欲しければ、床に頭をついて謝罪しなさい。私の気は長くはないわよ。さあ、早く。」 いつも通りの態度に、ため息しか出てこない。さらに、もう一人、私の態度に不満を持っている人物が現れる。 「早く謝っちゃいなよ、夏美さん。お兄ちゃんやお母さん、怒り出すと何をするかわからないよ。私のご飯も早く作ってね。お昼ご飯と晩御飯、それと夜食もね。私、夏美さんと違って多忙だから。」 不遜な態度で私を見下してくるのは、ハルトの妹であるあきちゃんだ。人気漫画家なのをいいことに、人を見下してばかりの、可愛げのない子だ。しかし、そんな関係性も今日で終わりだ。 「寄生中の嫁は出てけって言われたんで、じゃあ、実家に帰ります。」 私の言葉に、三人とも笑い出した。本当にバカな人たちだ。私は全て知っているというのに。せいぜい、今のうちに好きなだけ笑っておくといい。しばらくすれば、まともに笑える日々さえ、来なくなるのだから。 私がスマホで連絡を取ると同時に、玄関の扉が開く。それは、復讐劇の始まりの合図となった。現れたのは、所々が土で汚れたジャージを着ている男性。何事かと驚いていた義家族たちだが、男性を見て、再び声を上げて笑い始める。私は無視して、現れた男性と外に向かった。 直後、ハルトたちの笑い声はぴたりと止まった。そこにあったのは、知らぬ人間はいない有名メーカーの超高級車だ。すでに家を出る準備をしていた私は、私物を詰め込んだ鞄を手に車へ向かおうとした。 「ちょ、ちょっと待って、夏美。なんだ、そのバカみたいに高い車は。それに、そいつはお前の親父だろ。だったら、なおさらおかしい。お前の親父が、なんでそんな高級車を乗り回しているんだ?」 「別におかしい話ではないわよ。父さんは社長をしていてね。この中の誰よりもたくさんのお金を稼いでいる、すごい人なのよ。」 ハルトと義母、そしてあきちゃんは顔を見合わせる。そして三人で声を上げて笑い出した。 「バカも休み休み言えよ。お前の親父が社長なんて、聞いたことない。それに、こんな小汚いジャージ姿の奴が社長なわけないだろう。」 「本当に、冗談が得意なのね。夏美さん、そこまでして見栄を張りたいの? そんないい車、どこかで借りてきたに決まっているでしょ。私たちの家だって、そんな車買うなんてできないわよ。」 「夏美さんって、本当おかしくて面白いね。この話、次に書く漫画のプロットにしたいから、詳しく聞かせてね。」 私は父さんと顔を見合わせて、やれやれと肩をすくめる。笑いたければ笑えばいいわ。 「父さん、話してもいいのよね?」 「ああ、構わないよ。」 「父さんは、今の母さんと結婚する前に、一度離婚していてね。それ以来、仕事関係の人以外には、自分の正体を明かさないようにしているのよ。最初の奥さんは、父さんの財産目当てだったの。その経験があるから、あまり自分のことを人に話さないようにしてるのよ。私の父さん、何かとおかしなトラブルに巻き込まれがちでね。こんな乞食みたいなジャージ姿で来たのも、悪かったね。」 「階段や営業などの場以外では、あまり格好を気にしないことにしているんだ。元々、着飾った格好は嫌いでね。まあ、君たちみたいな人間に取り繕う必要がなかったというのもあるがね。だけど、今日は――」 そう言って、父さんはコツンと、無造作に五千万もする高級車を叩く。 「何か自分を証明できるものがないと、君たちに馬鹿にされかねないと思ってね。今日のために、わざわざいい車を買ってきたんだ。まあでも、他の証拠も見せた方がいいだろう。」 父さんは義母に近づくと、一枚の名刺を差し出した。呆けたような顔のまま名刺を受け取る義母。そこに書かれていた名前を見た瞬間、義母の表情が凍りついた。ハルトも、さすがに焦りを見せる。ただ唯一、分かっていないのが、あきちゃんだ。すっとぼけた顔で、ぽかんとしている。 「な、夏美さんの父親が、うちの両亭に仕入れをしている会社の社長?」 「そうだ。私は亡くなった、あなたの旦那さんと古い付き合いでね。それなのに、私の顔すら覚えていないとは。だが、今日でそれも、全部終わりだよ。あなたは、生前の旦那さんに全てを丸投げしていたんだろう。だから、旦那さんと私の関係も知らなかった。旦那さん亡き今は、夏美に全部押し付けているらしいね。」 正直、私の父親は、素性を隠そうが隠しきれないほどの人間だ。一人で農業の事業を始めた後、コツコツと経営を軌道に乗せた。そして、農家などの一般的な販路以外に、ネット販売や故郷納税に販路を広げたところで、需要が急増。設備や人員に膨大な投資をしなければいけないほどの会社に急成長した。両亭や高級料理店に食材を卸し始めた販路も、その一つ。農業業界の革命児としてメディアにも取り上げられており、調べれば当たり前にネットに顔が出ている。さらにSNSには、父さんが社長になった経緯を題材にした漫画が投稿されている。そして、その漫画は出版され、百万部を突破した。我が父ながら、赫々たる実績を誇っている人物なのだ。 「あきちゃん、よく聞いてね。あなたのところの両亭は、うちのお父さんからほとんどの食材を仕入れているの。その販路がなくなってしまえば、お店の経営が立ち行かなくなるほどね。漫画しかやってこなかったあきちゃんには、分からないかもしれないけど。」 「はあ? 夏美さんのくせに、私をバカにしてるの?」 「あき、黙ってくれ。お父さんが社長とは知らずに、大変失礼いたしました。あなたのおかげで、今のうちがあるようなものです。あ、よければ、上がっていってくださいね。夏美さんも、ほら、一緒にお茶でも」 さっきまで、ジャージ姿の貧乏親父と見下していたくせに、父さんの正体が分かると同時に、ぐるんぐるんと手のひらを返すハルトと義母。どこまでも卑屈になって、父さんにすり寄っていく。そんな彼らに、父さんはにっこりと笑う。 「ああ、お構いなく。私の機嫌を取る必要はないよ。今日限りで、そちらとの契約は打ち切らせてもらうからね。」 「な、ちょっと待ってください。俺たちは何も知らなかったんです。お父さんの会社に契約を切られたら、うちの会社は潰れてしまう。」 「そ、そうですよ。夏美さんには、お嫁さんとしての必要な教育はしてきましたが、ひどいことはしていません。今日もたまたま、口喧嘩が過ぎてしまって、出ていく話になっただけで――」 その言葉に、父さんの雰囲気が一変する。鋭く目を細め、言い縋るハルトたちを睨みつける。 「自分たちは何も知らなかった、必要な教育をしてきた、ねえ。私が聞いているのが、昨日今日の話だけだとでも思ってるのか。君たちの悪態は、これ以上聞きたくないほど聞いている。ヘラヘラと、人の神経を逆撫でするような態度を取るな。」 突然の雷声に、ハルトたちは体を震え上がらせる。 「私が過去に結婚した相手から受けた仕打ちは、さっき夏美が話した通りだ。家族であるはずの私を、元妻とその家族は財産以外に目もくれなかった。君たちと同じように、私のことをお金を生み出す装置くらいにしか思っていなくてね。だから私は、君たちのような人間が、どこまでも嫌いなんだ。」 「そ、それはだから、誤解があって。お父さんだって、俺の父親とは親しい関係だったのでしょ? そ、それなら、これからも取引は続けてくれても」 「ああ、君の父親は素晴らしい人だったよ。私は彼の人柄ややり方に惚れ込んで、いい食材を安く提供させてもらっていた。何度も店に足を運んでは、食事も食べさせてもらっていたよ。君たちは、全く知らなかったようだが。」 「え、それは謝ります。だから、取引はこれからも」 「それはできない相談だ。契約は打ち切り。その決定に変わりはない。今日のことで、君たちという人間がよくわかった。」 父さんは五千万の高級車に目を向け、鼻で笑う。 「私は普段から、こんな高級車を乗り回さないんだがな。特定のバカには、この手の小道具は、とても役に立つんだ。君たちも、金に目がくらんですぐ手のひらを返した。それなりの出費だったが、娘からゴミ虫をひっぺがすには、安いものだ。」 何も言えなくなったハルトと義母。しかし、ずっと話に入れなかったあきちゃんが、父さんの前に立った。 「ちょっと待ってよ。お兄ちゃんやお母さんが謝る必要なんてないじゃない。こんなの、全部嘘に決まってる。社長だろうと何だろうと、関係ないわ。それに、夏美さんのお父さんの会社なんて、どうせ大したことないんでしょ。」 「あきちゃんは、何も知らないのね。私たちの結婚は、元々約束みたいなものがあったのよ。」 「はあ? 何よ、わけのわからないこと言わないで。」 あくまでも噛みついてくるあきちゃんに、私は父さんに目配せをして続ける。 … Read more

6 September 2026

「結局、嫁の家に入ったんだな」――同窓会で旧友に放たれたその一言が、胸に突き刺さったまま地方の病院へ戻った夜、私は廊下の古い集合写真に足を止めた。そこには、見覚えのある顔があった。25年前にこの病院で亡くなったはずの、父に瓜二つの若い男が写っていた。父は、「弟なんていなかった」と断言していたのに。…

朝の回診を終え、院長室に戻る。窓の外には見慣れた地方都市の風景が広がっている。低い家並みと田畑。東京の大学病院にいた頃とはまるで別の世界だ。机の上には決済待ちの書類が積まれている。院長になって3年、毎日この椅子に座っている。それなのに、この椅子がどうにも体に馴染まない。 吉田亮平、42歳。地方の大学病院で外科医として12年働いた。今は妻・綾乃の実家である朝倉総合病院を継ぎ、2代目の院長を務めている。姓は変えなかった。亡き父の、たった一つの願いだった。「吉田の名前だけは残してくれ」。入院先のベッドで父はそう言った。俺はその約束を守った。守ったつもりだった。 書類に判を押していると、ノックの音がする。看護師長の柏木が湯呑みを乗せた盆を持って入ってきた。 「院長、お茶をどうぞ。それから302号室の松井さん、午後の処置をご家族が見学したいそうです」 「ああ、構わない。ちゃんと説明するから14時頃に呼んでくれ」 「かしこまりました」 柏木はそう言って湯呑みを置く。立ち去る際、ちらりと俺の顔を見た気がした。何か言いたげな視線だった。俺は気づかないふりをして書類に目を落とす。院長と呼ばれることに、まだ慣れない。それでも廊下を歩けば、ベテランたちは口を揃えて言う。「手が若い頃の仙太郎先生そっくりです」と。 仙太郎、つまり義父・朝倉総治郎のことだ。総治郎は67歳になった今も週に2日は外来に出ている。患者は皆、義父の名前を呼ぶ。「朝倉先生に見てもらいたい」と。俺はその声を毎日聞いている。聞きながら思う。この病院で俺は何者なのだろう。婿として迎えられ、院長の椅子に座らせてもらった男。 昼前、廊下を歩いていると見覚えのある後ろ姿が見えた。妻の綾乃だ。事務として毎日この病院の経営を支えている。綾乃は受付に立ち、年配の女性患者と話していた。 「事務さん、いつもありがとうね。あんたの顔を見ると元気が出るのよ」 「嬉しいことを言ってくださって。今日もお薬、忘れずに飲んでくださいね」 俺は柱の影で足を止めた。妻の声は静かで澄んでいる。誰もが振り返る美しさでありながら、それを誇る素振りは一度もない。綾乃の周りだけ空気が違う。患者の車椅子を押す職員が綾乃に深く頭を下げる。通りすがりの看護師たちが綾乃に挨拶をする。誰もが綾乃を「朝倉さん」と呼ぶ。俺の妻でありながら、彼女はこの土地で朝倉家の娘としてずっと愛されてきた人だった。 綾乃が顔を上げ、俺に気づいて微笑んだ。 「お疲れ様。お昼まだでしょ?下の食堂で一緒にどうですか?」 「ああ、そうだな。あと10分だけ片付けたら行く。先に行っててくれ」 「待ってますね」 軽く頷き、綾乃は事務室へ歩いていった。すれ違う職員が自然と道を開ける。誇らしい。本当に誇らしい妻だと心から思う。ただ、もう一つの感情が胸を掻む。俺は妻の隣に立つにふさわしい男なのか。朝倉の名を背負わず吉田のままで院長の椅子に座る男。苗字を変えなかったというだけのことが、時々ひどく情けないことのように思える。考えても仕方のないことだ。俺は息を吐き、院長室へ戻った。 その週の土曜の夜、俺は東京にいた。医学部の同窓会だ。ホテルの宴会場には見覚えのある顔が並んでいた。大学教授になった者、製薬会社の役員に転じた者、開業して都心にビルを構えた者。皆それぞれの場所で旗を立てている。俺の席にグラスを片手に近づいてきたのは三島高晴だった。学生時代から派手な男で、今は六本木の近くで美容外科を経営している。胸元を開けたシャツに、腕時計の文字盤が照明を反射していた。 「おお、吉田、久しぶりだな。元気にしてたか?」 「ああ、なんとか。三島こそ相変わらず繁盛してそうじゃないか」 「まあな。お前は今どこにいるんだっけ?」 俺は地方の病院の名前を答えた。朝倉総合病院。三島は一瞬目を上げ、それからにやりと笑った。 「ああ、聞いたよ。お前、嫁さんの実家の病院なんだってな」 「ああ、3年前にな」 「結局、嫁の家に入ったんだな」 軽い口調だった。悪気もなかったのだろう。ただ、その一言は俺の胸にまっすぐ刺さった。 「いいよな、お前は。企んでさ。大学に残るには論文が足りない、開業するには金がないって時に、ちゃんと収まる場所を見つける。さすが吉田だよ」 「俺は俺なりに毎日精一杯やってるだけだ」 「分かってる、分かってる。怒るなって。羨ましいって話だよ」 三島はそう言ってグラスを軽く合わせ、別のテーブルへ歩いていった。俺は手元のビールを見つめた。その夜の新幹線で俺はほとんど眠れなかった。窓に映る自分の顔が、夜景に疲れて見えた。「結局、嫁の家に入ったんだな」。三島の声が頭の中で何度も繰り返された。 病院に着いたのは日付が変わる頃だった。明日の朝の回診のために、書類を一つだけ確認しておきたかった。長い廊下を歩いていると、壁に掛かった古い集合写真が目に入った。何度も通った廊下だ。それなのに、その夜はなぜか足が止まった。額に入ったセピア色の写真。病院創立30周年の記念写真だと、下のプレートに書いてある。中央に若い総治郎が立ち、その周りを白衣の医師たちが囲んでいる。俺は何の気なしに写真の隅に目をやった。そして息を止めた。総治郎の少し後ろ、2列目の右の方。白い服ではなく、紺のジャージを着た青年が一人映っていた。年は20歳前後だろうか。他の医師たちと並んで、少し恥ずかしそうに笑っている。その顔を俺は知っていた。亡き父・吉田武尊に驚くほど似ていたのだ。顔の輪郭、眉の引き方、口元の癖。若い頃の父の写真を何枚も見たことがある。それと目の前の青年は瓜二つだった。ただ、父であるはずがない。父はこの土地の人間ではない。朝倉総合病院とは、生前何の関わりもなかったはずだ。 俺は廊下に立ち尽くしたまま、しばらくその写真を見つめていた。窓の外で遅い春の風が桜の枝を揺らす音がした。 翌朝、俺はいつもより早く病院に出た。昨夜の写真のことが頭から離れなかった。再び創立30周年の集合写真の前に立つ。昼の光の中で見ても、青年の顔は父によく似ていた。似ているどころではない。若い頃の父がそこに立っているとしか思えなかった。 ナースステーションで申し送りを終えた柏木が、廊下の奥から歩いてきた。俺の姿に気づき、足を止める。 「院長、こんなところでどうされました?」 「柏木さん、少し聞きたいことがあるんだ。この写真、創立30周年とあるが、ここに映っている若い男性が誰か分かるか?」 柏木は眼鏡を掛け直し、写真に顔を寄せた。 「ああ、この人ですか?」 「ご存知か?」 「ええ、覚えております。私が看護師になってまだ3年目の頃でしたから」 柏木はそっと写真に手を伸ばし、額の縁に指を触れた。 「この方は職員ではないんですよ。当時、入院していらした患者さんです。リハビリのジャージで記念写真に混ざってしまって。本当は行けなかったんですが、先生方が『いいから一緒に映ろう』と」 「患者さん?」 「ええ。事故で大怪我をなさって、一度はもうダメだろうと言われていた方でした。それを治郎先生が執刀されて命を取り止めて、一時はリハビリで歩けるまでに回復されたんです」 柏木はそこで言葉を切った。 「一時は、ということは」 「ええ、この写真の3ヶ月ほど後に容態が急変しました。残念ながら、お亡くなりになりました」 廊下の窓から朝の光が差し込んでいた。 「もう25年も前のことになりますね。治郎先生は、随分長くこの患者さんのことを引きずっていらっしゃいました」 「お名前は覚えていますか?」 「お名前は……すみません、私もはっきりとは。確か若い男性で、ご家族の方が何度もいらしていました。記録を調べれば、すぐに分かると思いますが」 「いや、いい。自分で調べてみる」 俺は写真の前に残り、青年の顔をもう一度じっと見つめた。父に似た青年が25年前にここで死んだ。偶然だと思おうとした。だが、胸の奥のざわめきは収まらなかった。 その日の午後、外来を終えた俺は地下の記録庫へ降りた。古いカルテは20年を区切りにダンボール箱に詰め直され、奥の棚に並んでいる。「25年前」と書かれたラベルの箱を、片っ端から開けていく。若い男性、事故、手術。その三つを手がかりに。2時間ほど経った頃、一枚のカルテに手が止まった。 患者名・吉田。年齢・21。死亡日・平成10年9月20日。死因・外傷性出血及び心不全。執刀医・朝倉次郎。患者名・吉田颯斗。 … Read more

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