「炊飯機のスイッチも入れられないの?」 嫁のその言葉が、静かなキッチンに突き刺さった瞬間、私は全てを悟った。68歳の薬剤師として36年間働き、息子夫婦に結婚資金の300万円、毎月15万円の生活費と教育費を渡し続けてきた私が、たった一度の炊飯器の失敗で「認知症の役立たず」扱いされたのだ。…
「炊飯機のスイッチも入れられないの?」 嫁の高い声が、静かなキッチンに突き刺さった。 私は岡部みさ子、68歳。薬剤師として36年間働き続けてきた私が、まさかこんな言葉を浴びせられるとは思ってもみなかった。 夕食の準備に追われていた私は、確かに炊飯機のスイッチを押し忘れていた。たったそれだけのことだ。 でも嫁の目には、明らかな軽蔑の色が浮かんでいた。 「お母さん、最近こういうの多いですよね。認知症じゃないですか?」 胸が締めつけられるような痛みを感じた。長年地域の人々の健康を守り、薬の専門家として信頼されてきた私が、炊飯機ひとつで人格まで否定されるなんて。 そこへ息子の高志が帰宅した。助けを求めるように彼を見つめた私だったが、返ってきた言葉はさらに冷たいものだった。 「母さん、もう役に立たないね。嫁の言う通りかもしれない」 私の中で何かが音を立てて崩れていった。息子夫婦の結婚時には300万円を援助し、孫の教育費も毎月10万円負担している私が、炊飯機のスイッチひとつで役立たず扱いされるなんて。 震える手を必死に隠しながら、私はゆっくりと顔を上げた。そしてなぜか自然と口元に浮かんだのは、静かな微笑みだった。 その夜、私は眠れなかった。36年間、薬剤師として地域医療を支えてきた日々が走馬灯のように蘇る。朝5時に起きて朝食を作り、薬局で8時間勤務。年収600万円を稼ぎながら、息子の高志を大学まで育て上げた。夫が10年前に他界してからは、女手ひとつで家計を支えてきたのだ。 高志と嫁の清美が結婚する時のことを思い出す。 「母さん、マイホームの頭金が足りなくて」 迷わず300万円を渡した。2人の幸せそうな笑顔を見れば、苦労なんて吹き飛んだ。 孫が生まれてからはさらに忙しくなった。もう歳だが、週3日は薬局で働き、残りの日は孫の世話に明け暮れる毎日。教育費として月10万円、食費として月5万円、合わせて月15万円を息子夫婦に渡し続けている。 「お母さんのおかげで助かってます」 以前は清美もそう言って感謝してくれていた。いつから変わってしまったのだろう。 私は薬剤師として、認知症の症状も熟知している。炊飯機のスイッチを忘れたのは、単に他の家事に追われていただけだ。でも息子夫婦にとって私は、もうお荷物でしかないのかもしれない。 それから2週間が過ぎた頃、息子夫婦の態度は日に日にエスカレートしていった。 ある朝、私が朝食の準備をしていると、清美が薬箱を持って現れた。 「お母さん、この薬の説明書、全然分からないんですけど、もっと新しい薬はないんですか?」 私は丁寧に薬の効能を説明した。 「これは最新の処方薬で、副作用も少ない優れた薬です」 しかし清美は鼻で笑った。 「お母さんの薬の知識ってもう古いんじゃないですか? 今はAIの時代ですよ。スマホで調べた方が正確かも」 36年間培ってきた専門知識を、まるでゴミのように扱われた瞬間だった。胸の奥が熱くなり、言葉が出なかった。 その夜、高志が帰宅すると、清美はすかさず告げ口を始めた。 「今日もお母さん、古い知識を押し付けてきて、正直迷惑だったよね」 「母さん、もう歳なんだから仕事もやめた方がいいんじゃない? 患者さんに迷惑かけたら大変だよ」 息子の言葉に、私は凍りついた。地域の患者さんから「先生」と慕われ、同僚からも信頼されている私が、迷惑だというのか。 翌日、さらに追い討ちをかけるような出来事が起きた。 「お母さん、来月から生活費をもっと入れてもらえませんか?」 清美が切り出した。すでに月15万円も渡しているのに、さらに要求してきたのだ。 「物価も上がってますし、月に10万円は必要です。お母さん、まだ働いてるんでしょ。それに母さんの貯金もあるはずだよね」 高志も便乗してきた。まるで私のお金を当然のように絞り取ろうとする。その態度に愕然とした。 最も辛かったのは、孫との関係に制限をかけられたことだった。 「おばあちゃんと遊びたい」 5歳の孫がそう言っても、清美は冷たく遮った。 「だめよ。おばあちゃんは汚いから触らないで」 私の目の前で、そんな言葉を平然と口にするのだ。心臓を鋭利な刃物で切り裂かれたような痛みが走った。 「それにお母さんの古い考えを子供に教えられたら困ります。変な知識を吹き込まないでください」 薬学の知識だけでなく、人生経験まで「変な知識」扱いされた。孫に絵本を読んであげることさえ、時代遅れの価値観を植えつけると禁止されたのだ。 ある日曜日、私は庭で洗濯物を干しながら、隣の家から聞こえてくる3世代の笑い声に、涙が込み上げてきた。同じ屋根の下にいながら、私はまるで透明人間のような扱いを受けている。食事の時も私の意見は完全に無視され、まるで存在しないかのように会話が進んでいく。 「正直言って、邪魔なんだ」 ある日、酔った勢いで高志が呟いた言葉が、私の心に深く突き刺さった。 「嫁の実家のお母さんはまだ若くて元気だし、孫の面倒も上手。比べると、母さんは本当に使えない」 「そうよね。うちの義母ならもっと家事も完璧にこなすし。お金の援助もしてくれるわ」 清美も追い打ちをかける。私は黙って聞いていた。手が小刻みに震え始めていることに気づき、テーブルの下で拳を握りしめた。 これまでの人生は、何だったのだろう。必死に働き、息子を育て、老後も家族のために尽くしてきた。その存在価値が日々否定されていく。薬剤師としての誇りも、母親としての愛情も、全て踏みにじられていく。 でも、私の中で何かが静かに、しかし確実に変化し始めていた。 運命の日は、ある火曜日の夕方に訪れた。 私はいつものように夕食の準備をしていた。煮物を火にかけ、サラダを作り、汁物の具材を切っていた時だ。清美が仕事から帰宅し、キッチンに入ってきた。 … Read more