毎日同じ電車に乗って、同じデスクで仕事をしていただけの普通の日常が、ある日突然終わりを告げた。部長の息子で、コネ入社した挙げ句にわずか一ヶ月で課長に昇進した男が、椅子にふんぞり返ったまま私を見上げてこう言い放ったんだ。「お前みたいな頭の悪い老害にしてやる。」勤務態度を注意しただけの私に、なぜそんな権限があるのか。呆れて言葉も出なかった。数日後、呼び出された会議室には彼の父親である部長もいて、…
「お前みたいな頭の悪い老害にしてやる。」 部長の息子で、父親の権限を盾にコネ入社してきた課長が、勤務態度を注意した俺に腹を立ててそう怒鳴った。一体何の権限があってそんなことを言えるのかと呆れてしまう。 「これ、なんだかわかる?」 いたずらを仕掛けた悪童のような顔で、課長が俺を見上げてくる。 「君が私の息子に何をしたかは、直接本人から聞いている。君は毎日、息子にひどい暴言を吐いているそうじゃないか。それを気に病んで、息子は精神科まで通っているんだぞ。」 部長の言葉に、俺は思わず絶句した。課長は自分に甘い父親を使い、本当に俺を首にしてきた。そして部長も、息子可愛さで完全に視野狭窄になっている。こうなっては何を言っても無駄だと悟り、俺はその場で解雇処分を受け入れるしかなかった。 しかし、退職日当日。俺を首にしたことで、親子揃って地獄を見ることになるのだった。 俺の名前は石部安弘。大手である今の会社で、新卒以来長年働いている。仕事内容や待遇に不満があるわけではないので、このまま定年まで働き続けるつもりでいた。 そんなある日、俺を何かと可愛がってくれていた先輩の部長が突然退職の意向を示した。驚いて理由を聞いてみると、起業したいのだという。そういえばこの先輩は、昔からこれと決めたら即行動するようなフットワークの軽さがあった。先輩らしいなと思いながら、俺は彼の成功を祈り、精一杯のエールを送ったのだった。 さて、俺が所属する部署では、先輩の退職に伴い新たに部長を選出することになった。最終的に、小松副部長が部長に昇進することが決まる。前任の退職が急遽決まったこともあり、他所から引っ張ってくるよりは業務に混乱もないだろうというのが理由だった。 小松さんの人事に、俺も特に不満はない。だが、内示が出た翌日の昼休憩、一緒になった部下が言いにくそうに口を開いた。 「けど、あの人、身内には何かと甘いところがあるじゃないですか。それも一人息子を可愛がりすぎて。俺、聞いちゃったんですけど、その息子があまり出来が良くない上に、努力するのも嫌いで、大卒でせっかく入社した会社を三ヶ月で辞めてしまったらしいんです。だから小松さんが部長になったら、その権限で無職の息子をうちの会社に入れるんじゃないかって噂になってて。」 その噂は、俺の耳にも届いていた。確かに小松部長は悪い人ではない。だが部下の言う通り、彼は物事に対して公平ではないというか、そういう勝手なところが目立つ人物であるのも事実だ。 そして二ヶ月ほど経った頃、残念ながら噂は現実のものとなってしまった。小松部長は人事や役員たちに根回しをして、本当に自分自身の息子である洋平君を我が社に、それも自分と同じ部署にコネ入社させたのだ。しかもそれだけではない。その息子は入社わずか一ヶ月で、部署の課長にまで昇進したのだから呆れる。 これには部署内だけでなく、他部署からも小松部長への不満が沸き上がった。当たり前だ。まだ二十代で、入社して一ヶ月の若造が、一気に課長になったのだ。後輩たちと飲みに行っても、出てくるのは小松部長への批判ばかりだ。だが、小松部長を糾弾したところで、彼から直接的に何らかの被害を受けているわけではない。上にかけ合うという手もあるが、根回しのうまい小松部長は、その方面にはすでに手を打っているだろう。だから、この度の一連の人事に不満を持つ社員たちも、結局それを飲み込むしかないのが現状だった。 ちなみに肝心の息子である洋平君は、確かに仕事もできないし要領も悪い。加えて勤務態度も決して良いとは言えない。かと言って、構えていたほどトラブルを起こしそうな様子も今のところ見受けられないので、周囲の評価は可もなく不可もなくといったところだった。 それならば、洋平君が手の回らないところをこちらがサポートすればいい。その時はそう、俺も思っていた。だが、洋平君は課長となって半月も経たないうちに、その本性を表すようになった。 まず、連絡なしの遅刻や早退は当たり前。来たと思ったら、自分の席から一歩も動かず、一日中仕事もせずにだらだらとゲームをしている。もちろん、自身の仕事は全て部下に丸投げだ。それなのに、部下の仕事が少しでも遅れようものなら、容赦のない叱責を飛ばしてくる。 「おいおい、あんたこの会社に何年いるんだよ。それでこんな仕事一つできないって、頭大丈夫?」 今日も、相手を小バカにしたような洋平君の怒鳴り声がフロア内に響いていた。だらりと椅子に腰かけた洋平君の前には、彼の部下がうなだれた様子で立ち尽くしている。 「すみません、すみません。」 と謝罪を繰り返す相手に、洋平君はあからさまに見下した態度で鼻を鳴らした。 「何それ? 謝ればそれで済むと思ってるわけ? 何言ってんのか全然聞こえないんだけど。」 そう言って一人で高笑いをする洋平君。この姿は彼を実に幼く見せていた。というか、そもそもその仕事は本来なら課長である洋平君が受け持たなくてはいけない案件なのだ。それを好き勝手に部下へと押し付けておいて、どの口がそんなことを言えるのか。俺は内心で呆れ果て、たまらず二人の間に割って入った。 「お話中に失礼します。」 「何だよ。」 突如現れたこちらを、椅子の背もたれに背中をぴったり付けたまま、洋平君が不機嫌そうに見上げてくる。俺はこの年齢にしては背が高い方なので、比較的小柄な洋平君としては何となく威圧感を覚えるのだろう。彼は目を細めて、警戒するようにじろじろと俺を睨みながら口を開いた。 「何? 俺、今大事なお話の最中なんだけど。」 話。自分の気分で部下を怒鳴っていただけだろう。そう思ったが、込み上げてくる不快感を押し隠し、俺は淡々と答えた。 「お言葉ですが、その仕事は元々課長案件ですよ。この部署では代々、課長がその案件の全責任を負っています。確か引き継ぎでも重要な項目として取り上げられていたはずですが。」 いかにも不思議だと首をかしげつつ洋平君をちらりと見ると、彼は少しばかり気まずげな色をその顔に浮かべる。その様子から、これは確信犯だなと俺は察した。だが、そんなことは顔にも出さず、俺はにっこりと笑う。 「何かの間違いで、部下に回してしまったんですよね。」 「あ、ああ、そうだ。単に間違えただけだ。」 洋平君は俺の問いかけに慌てて頷き、戸惑いながら立っている社員の手から書類をひったくるようにすると、 「以上だ。さっさと仕事に戻れ。」 と、彼を追い立てるようにして解放する。今まで理不尽な叱責を受けていた部下は、俺に感謝するように会釈するとその場を去っていった。 それにしても、洋平君が自身の仕事を放棄したり、周囲に対してあんな風に高圧的に振る舞うのはもはや日常茶飯事だ。それが元で、他部署とトラブルになることもこの頃は多かった。同部署内の部下たちは元より、彼と接する機会のある他の社員も、みんな洋平君から何らかの被害を受けていた。今のところ直接的な会社への損失にはなっていないが、このまま放っておけば、いずれとんでもない事態を引き起こすのは目に見えている。そこで俺は、余計なお世話だと怒鳴られるのを覚悟で、洋平君へと忠告することにした。 「小松課長、もう少し周囲への思いやりを持っていただけませんか? あんな調子で怒鳴られたら、部下たちも委縮してしまいます。それに、課長案件の仕事は今後はぜひご自分でやってください。わからないところがありましたらいつでも教えますので。」 と続けようとした俺だったが、それは顔を怒りで赤く染めた洋平君によってばっさりと遮られてしまった。 「うるさいうるさい! お前、いい加減にしろよ! 人が大人しくしてりゃ調子に乗りやがって。俺に説教とか、随分なことしてくれるじゃねえか。」 耳の中でガンと響くほどの大声だ。その怒鳴り声に、フロアのみんなが一斉に目を丸くしてこちらを見る。だが、そんなことなどお構いなしで、洋平君は怒鳴り続けた。 「お前、何様だよ。がき年だけ食ってる平社員の分際で、俺にあーだこーだ指図できると思ってんの? バッカじゃねえの? 俺とお前じゃ立場が全然違うわけ、分かってる?」 洋平君が体ごと揺らしながら捲し立てるので、その度に椅子がキーキーと哀れな音を立てている。そして彼は、ニヤリと口の端を釣り上げて俺を見てきた。 「まあ、お前その年でずっと平社員のダメ社員なんだもんな。そりゃ頭も悪いわ。相手と自分との立場の違いとか、頭の悪いおじいちゃんには難しくて理解できなかったかな。」 ひゃは、と下品な笑い声を上げて、洋平君が嫌味たらしく肩を揺らしている。ああ、この人の本質は、ただただ甘やかされてきた子供のままなんだなと俺は思った。一番身近な人物から適切に叱られることなく、甘やかされるだけ甘やかされて育った子供は、親の勝手に付き合わされたという点では、ある意味被害者でもある。だが、洋平君はもう立派な社会人だ。善悪の区別や道徳観念など、他人と共に生きる社会において必要なことは、自分で学んでいかなくてはいけない。 「小松課長、周囲に不機嫌を撒き散らして、自分の機嫌を取らせようとするのは、社会人としていささか褒められた行為ではありません。ましてここは会社。みんな仕事をする場所です。そのことをよく考えてください。」 俺は至って冷静に彼へと伝えた。しかし、やはりというべきか、俺の言葉は洋平君には全くと言っていいほど届かなかったようだ。彼は一瞬、こちらの言葉の意味を測りかねたかのようにぽかんと固まると、やがてその体ごとぶるぶると震え出した。 … Read more