夜中に胸を握りつぶされるような痛みで目が覚めたとき、この病院で「面倒な患者」と呼ばれている自分の正体を、もう誰にも隠せないと分かった。十年前、妻を同じ病気で失った。今度は十二歳の娘が同じ遺伝子を持っているかもしれない。私は医者として日本一と呼ばれた男として、新薬の治験に自分の体を差し出している。なのに若い担当医は私の苦痛の訴えを「神経質すぎるだけ」と聞き流し続けている。そして娘が言った。「体…
明け方、胸の奥に重い鉄の塊を押し付けられるような痛みで目が覚めた。時計は午前4時を指している。俺はナースコールに手を伸ばしかけて止めた。記録することが先だ。枕元のノートを開き、時刻と痛みの位置、脈拍を書き込む。指が少し震えていた。 俺の名前は黒沢。大学病院に入院してもう三ヶ月になる。表向きは「面倒な患者」だ。若い医師の岡崎には毎朝同じように告げている。左胸に鈍い痛みがある。三十分に一度、脈の乱れも感じる。カルテに書いておいてほしい。 岡崎はカルテを開きながら、また細かいことを言っている、という空気を背中越しに漂わせた。それでいい。俺はこの病棟でうるさい患者でいなければならない。副作用の兆候はデータが命だからな。 「痛みの程度は十段階で言うとどのくらいですか?」 「三か四だ。だが場所と時間を記録してほしい」 「分かりました。まあ、投薬量から考えれば大きな問題はないと思いますよ」 問題はある。副作用のパターンには確かに変化が出始めている。だが言葉を重ねてもこの男には届かない。 岡崎が出ていくと、入れ替わりに看護師の高島主任が入ってきた。この病棟で一番信頼されている看護師だ。体温を測りながら、彼女は穏やかな口調で言った。 「随分細かく気にされるんですね」 言葉の端にわずかな戸惑いがあった。そう思われて構わない。細かい記録の一つ一つが、この治験の意味を決めるのだから。 昼過ぎ、病室のドアが二回、丁寧にノックされた。入ってきたのは相馬涼太。かつて俺が指導した教え子で、今はこの病院の循環器内科准教授。そして俺が参加している新薬治験の責任者だ。彼はドアを閉めると、いつもの穏やかな表情を少しだけ崩した。 「昨夜のデータを見ました。心電図に微細な変化が出ています」 「分かっている。俺も感じた。ST部分の揺らぎだろう」 「先生、今回の投薬量を一段階下げませんか?このまま続けると心臓への負担が…」 俺はゆっくりと首を横に振った。 「俺たちの目的を忘れるな。この薬は遺伝性の心臓病を根本から治すためのものだ。量を下げれば効果の測定ができなくなる」 「ですが、先生の体が」 「俺の体はそのために差し出したものだ」 相馬は口を閉じた。彼は俺の妻がどうやって死んだかを知っている。そして娘のユイナが同じ遺伝子を持っている可能性があることも知っている。この病院で真実を知る人間は二人しかいない。相馬と病院長の宮坂だけだ。 「岡崎が先生のことを面倒な患者だと言っていました。若い医師たちは誰も先生が黒沢だと気づいていません」 「それでいい。名前が知られれば治験の公平性が疑われる」 「十年前、日本一と言われた心臓外科医が自分の命を実験台にしていると知ったら、あいつは何と言うでしょうね」 「言わなくていい。医師が過去で評価される必要はない」 相馬は目を伏せた。恩師を治験に縛りつけている自分を、彼が責め続けていることを俺は知っている。だがこの道を選んだのは俺だ。彼を苦しめるためではない。 夕方になると病棟の空気が少し柔らかくなる。面会時間だ。廊下から聞き慣れた小さな足音が近づいてきた。 「お父さん、来たよ!」 ドアを開けて入ってきたのは娘のユイナだ。十二歳、小学六年生。黄色いランドセルを背負ったまま、学校帰りに走って来たらしい。 「ユイナ、廊下は走るなと言っただろう」 「歩くのと走るの、同じだよ」 「転んだらどうするんだ」 ユイナはベッドの脇の丸椅子に座ると、ランドセルから小さな封筒を取り出した。中には折り紙で作った鶴が入っている。毎週こうやって何かを持ってくる。先週はお花、その前は学校で描いた絵だった。 「今日はね、家庭科でりんごの皮むきをやったの。私、一番きれいにむけたんだよ」 「そうか。母さんに似たな。母さんも器用だった」 「お母さんも上手だったの?」 「ああ、俺よりずっと上手だった」 ユイナは嬉しそうに笑った。母親の話をするといつもこうやって目を輝かせる。写真の中でしか知らない母を、それでも大切に思っている。 俺はその笑顔を見るたびに胸の奥が締め付けられる。この子にはまだ言えない。母親を奪った遺伝子が自分の中にもあるかもしれないこと。そして父親が今、その病気を治すために自分の体を差し出していることを。 「お父さん、いつ帰ってこられるの?」 「もう少しだ。この薬がきちんと効くと分かるまでは、ここにいなきゃいけない」 「病気、治りそう?」 「ああ、治る。父さんの病気だけじゃなくて、たくさんの人の病気が治るようになる」 ユイナはしばらく黙って俺の手を握った。細い指。妻の指に似ている。俺はその手を握り返した。握る力の加減さえ慎重にしなければならない自分が悲しかった。 「おばあちゃんが明日お迎えに来るって。今日は一人で帰るね」 「暗くなる前に帰れよ。寄り道はするな」 「はい、分かりました」 ユイナが病室を出ていく後ろ姿を、ドアが閉まるまで見送った。 ドアが閉まると病室に再び静けさが戻ってきた。俺は枕元の引き出しから一枚の紙を取り出した。今朝、相馬から渡された最新の血液検査の結果だ。数値の一部に赤い印がついている。副作用の兆候。心臓への負担を示す指標が少しずつ上昇している。 窓の外はもう暗くなり始めていた。町の明かりが一つ、また一つと点いていく。その光の中にユイナが今歩いている。あの子の未来を守るためなら、この体はいくらでも差し出せる。 次の朝、脈拍が戻ったところでドアがノックもなく開いた。 「黒沢さん、朝の検診です。あれ?汗すごいですけど、暑かったですか?」 「明け方、胸痛が三十分続いた。強めの痛みだ。脈拍は最大で百二十まで上がった。ノートに記録してある」 岡崎はノートを受け取ると、ざっと目を通して首をひねった。 「黒沢さん、失礼ですけど、こういう症状って少し神経質になりすぎている方に多いんですよ。データも大事ですけど、あまり自分の体ばかり気にしていると、かえって症状を強く感じてしまいますよ」 「岡崎先生、聞いてほしい。今日の心電図、ST部分に注目してみてほしい。それとトロポニンの値を早めに測ってくれないか?」 「トロポニンですか?そこまでの症状ではないと思いますよ。定期検査は明日の予定通りで大丈夫です」 … Read more