夫が私に温泉旅行のチケットを渡し、「たまには羽を伸ばしてこい」と言った。三十年間、誕生日すら覚えていなかった男からの突然の優しさに、私は心が温かくなった。でも、忘れ物に気づいて家に戻った時、私は二階から女性の笑い声を聞いた。夫は言った。「あの鈍感な女が気づくはずがない。今頃、人生最後の贅沢を楽しんでるさ」。そして、私の貯金を奪い、愛人と暮らすために、私を捨てる準備をしていた。私は震える手で、…
温泉旅行のチケットを差し出した夫の笑顔に、私は胸が温かくなるのを感じていた。結婚して三十年。家事を手伝ったこともなく、私の誕生日すら忘れるような夫からの、突然のプレゼント。以前から私が行きたいと言っていた伊豆の高級旅館の宿泊券だった。 「たまにはゆっくりしな。お前ももうすぐ還暦だろ。これまで苦労をかけたと思ってな」 不器用な夫なりの精一杯の感謝の印なのだと、私はその言葉を素直に信じた。しかし、この時の私はまだ知らなかった。夫の笑顔の裏に隠された、身の毛もよだつ冷酷な契約に気づいていなかった。 数日後、私は夫に見送られ、期待と少しの不安を抱えながら家を出た。駅の改札で見せた夫の穏やかな笑顔が、私に向けられた最後の夫としての顔になるとは、夢にも思っていなかった。 電車に揺られ、熱海を過ぎたあたりで、私は重大なことに気づいた。鞄の中をいくら探しても、持病の薬と、長年肌身離さず持っていた大切な日記が見当たらない。幸い、まだ家を出て一時間も経っていない。今戻れば、次の電車に乗っても旅館には間に合う。私は予定を変更し、家に戻ることにした。それが、私の運命を決定づける真実の扉を開くことになるとも知らずに。 自宅の最寄り駅を降り、足早に家へと向かう。ガレージには、見慣れない派手な赤い軽自動車が停まっていた。そして二階の寝室の窓からは、聞き慣れない女性の甲高い笑い声が漏れてきた。心臓の鼓動が一気に早くなる。嫌な汗が背中を伝った。 息を殺し、音を立てないように玄関の鍵を開ける。廊下には、脱ぎ捨てられた見知らぬ赤いハイヒール。そして、リビングから聞こえてきたのは、夫の声だった。 「今頃は、のんびり温泉に使ってるぜ。まさか自分が捨てられる準備をされてるなんて、これっぽっちも思ってないだろうな」 その言葉を聞いた瞬間、私の世界は音を立てて崩れた。夫の口から発せられたのは、三十年の歳月を粉々に砕く、残酷な裏切りの言葉だった。震える手でスマートフォンの録音ボタンを押し、一歩、また一歩とリビングへ近づいた。 リビングのドアを僅かに開け、中を覗き込む。そこにいたのは、夫の健二と、私の娘ほども年の離れた派手な女。女は私のエプロンを身につけ、我が者顔でキッチンに立ち、健二のために菓子を作っている。健二は、私には一度も見せたことのないような、蕩けるような笑顔でその女を見つめていた。 「健二さん、本当に大丈夫なの? 奥さん、明日には帰ってきちゃうんでしょ」 女が甘ったるい声で訪ねると、健二は鼻で笑った。 「大丈夫だって。あの鈍感な女が気づくはずがない。今頃、のんびり温泉に浸かって、高い料理でも食ってるさ。それが人生最後の贅沢になるとも知らずにな」 「人生最後の贅沢」。その不穏な響きに、私は目眩を覚えた。健二はビールを煽りながら、吐き捨てるように続ける。 「お袋の介護も終わって、やっと俺も自由になれると思ったんだ。なのにあいつと来たら、次は自分の老後の心配ばかりしやがって。介護なんて嫁の義務だろう。それを恩着せがましく、正直あいつの顔を見るのも嫌なんだ。ジジくさい顔で『お疲れ様』なんて言われると、ヘドが出る」 私は三十年間、どんな思いでこの家を守ってきたのか。熱を出して寝込んでいる時も、健二は「俺の飯はどうするんだ」と怒鳴る人だった。それでも、いつか分かり合える日が来ると信じてきた。この温泉旅行の誘いも、ようやくその日が来たのだと信じていた自分を、今すぐ殴ってやりたい衝動に駆られた。 「でも、離婚するって言っても、簡単にはいかないでしょ。慰謝料とか財産分与とか」 女の言葉に、健二は卑劣な笑みを浮かべた。 「そんなもの、一円も払うつもりはないさ。あいつは専業主婦だぞ。この家も貯金も、全部俺が働いて稼いだ金だ。あいつには一切の権利もない。それどころか、あいつが大事に溜め込んでる貯金も、全部俺の名義の口座に移しておいた」 私は耳を疑った。私が結婚当初からパート代や食費を切り詰めてコツコツと貯めてきた、あの口座のことだろうか。それは、万が一健二に何かあった時のため、あるいは二人の老後のためにと準備していた、大切な資金だった。通帳と印鑑は、一番上の引き出しに隠していたはずだ。 「じゃあ、この家も私の好きにしていいの?」 「ああ、あいつが旅行から帰ってくる頃には、鍵も全部変えてある。荷物は全部、三日で退去できるボロアパートに送り付けてやるさ。あいつには、せいぜい一人で孤独死してもらうのがお似合いだよ」 健二と女はグラスを合わせて笑い合った。その笑い声が、耳の奥で不快な耳鳴りとなって響く。怒りで体が小刻みに震え、今すぐドアを蹴破って怒鳴り込みたい衝動に駆られた。しかし、私は必死に自分を抑えた。ここで感情を爆発させても、何の解決にもならない。健二はきっと「お前が勝手に帰ってきたのが悪い」と逆切れし、私を力づくで追い出すだろう。そうなれば、私は何の準備もないまま路頭に迷うことになる。 私は深呼吸をし、静かに、音を立てずにその場を離れた。幸い、健二たちは酒と会話に夢中で、私の存在に全く気づいていない。玄関に置いてあった自分の鞄を掴み、外に出る。外の空気は冷たく、火照った頬を刺すようだった。 私は暗い夜道を歩きながら、冷徹なまでに冷静になっていく自分を感じていた。健二、あなたは大きな間違いを犯した。私がただの従順な妻だと思っていたのなら、それは大間違いよ。私は、健二が知らない秘密を、いくつも持っている。彼が奪ったと思っている貯金についても、彼が知らない事実がある。絶対に、ただでは済ませない。私は暗闇の中で一人、そう誓った。 翌日、私は予定通り温泉宿にチェックインするふりをする。でも、その間に私がやるべきことは、のんびり湯舟に浸かることではない。私はスマートフォンの連絡先を開き、ある人物に電話をかけた。 「もしもし、お久しぶりです。実は、お願いしたいことがあるんです」 電話の相手は、健二が最も恐れ、そして最も会いたくないであろう、あの人物だった。 「随分と楽しそうね、健二さん」 私の声がリビングに響いた瞬間、空気は一瞬で凍りついた。ソファにふんぞり返り、女に肩を揉ませていた健二が、まるで糸の切れた操り人形のように動きを止める。女の方も、手に持っていたビールの空き缶を床に落とした。 「お、お前、なんでここにいるんだよ。旅行に行ったんじゃなかったのか」 私は震える足を必死に地面に踏みしめ、一歩、また一歩と部屋の中へ入った。キッチンのカウンターには、私が大切にしていたブランドのカップが置かれ、中には安っぽい香りのついたコーヒーが入っている。その横には、私が毎日磨き上げていたシンクに、汚れた食器が乱雑に積み重なっていた。たった数時間家を空けただけで、私の愛した場所は、土足で踏みにじられたような状況に変わっていた。 「忘れ物をしたのよ。持病の薬と日記。でも、戻ってきて正解だったわね。まさか家の中で、こんな盛大なパーティーが開かれているとは思わなかったわ」 私の皮肉に、健二はようやく我に返ったようだった。彼は焦りを隠すように、わざと大きな声で怒鳴り始めた。 「ふん。バレちまったもんは仕方ねえな。そうだよ、見ての通りだ。こちらはリカちゃん。俺の新しいパートナーだ。お前みたいな古臭い、愛のない女とはおさらばなんだよ」 健二の隣に座る、リカと呼ばれた女は、私の視線に気づくと、これ見よがしに健二の腕にしがみついた。 「やだ、健二さん、怖い。この人が奥さん? 写真で見るよりずっと、その、お疲れっていうか、おばあちゃんみたい」 女の言葉に、健二は鼻で笑った。 「だろう? 家の中じゃ、いつもボロみたいな格好して、暗い顔して掃除ばかりしやがって。お前と一緒にいると、こっちまで滅入るんだよ。せっかくの温泉旅行も、俺がお前を追い出すための準備期間として用意してやったんだ。ありがたく思えよ」 私は何も言い返さず、ただじっと健二を見つめた。怒りを通り越し、深い悲しみと、そして言葉にできないほどの軽蔑が胸のうちに広がっていく。三十年間、この男のために尽くしてきた日々が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。それでも彼には良いところもある。家族のために働いてくれているのだからと、自分に言い聞かせて耐えてきた。その結果が、これだ。 「本気なのね。私を追い出して、その人とここで暮らすつもり?」 私の静かな問いかけに、健二は立ち上がり、私を指差して叫んだ。 「本気に決まってるだろう! 離婚届ならもう用意してある。お前の署名なんていらないんだよ。勝手に出しておいてやるからな。それから、この家の鍵も明日には変える。お前の荷物は全部ゴミ袋に詰めて、表に放り出しておいてやるよ」 「この家は、二人でローンを払って建てた家よ。私にも権利があるわ」 「権利? 笑わせるな。ローンを払ってきたのは俺だ。お前はただ、俺の稼いだ金で飯を食わせてもらっていた寄生虫だろうが。専業主婦が何を偉そうに。お前が家でダラダラしている間、俺がどれだけ外で頭を下げて働いてきたと思ってるんだ」 「まあまあ、健二さん、そんなに怒らなくても。このおばさん、もうすぐ行くところがなくなるんだから、かわいそうじゃない」 リカがクスクスと笑いながら言った。 「ねえ、おばさん。健二さんから聞いたわよ。貯金も全部、健二さんの口座に移したんだって。今騒いでも無駄よ。法律的にも、夫婦の財産は旦那さんのものなんでしょ。世間知らずって怖いわね」 「分かったわ」 私は短く答えた。健二が、面食らったような顔をする。もっと泣き叫んで、すがりついてくると思っていたのだろう。 … Read more