「お前はもう俺の妻じゃない。親父の遺産は長男の俺のものだ。離婚届に判を押して、さっさと出ていけ。」…
葬儀の夜、義妹のkazu子が冷たい声で言い放った。「長男の嫁なんて結局は他人だからね。これからの遺産の話には口を出さないでちょうだい。」 その言葉が落ちた瞬間、親族たちのざわめきがぴたりと止まった。私は怒鳴らなかった。泣き叫ぶこともなかった。ただ膝の上で硬く組んだ自分の手を静かに見つめていた。エプロンのポケットの中で、指が小さな金属の鍵に触れていた。 夫の健一がビールのグラスを揺らしながら面倒臭そうに手を振った。「kazu子の言う通りだ。お前はもう奥に引っ込んでいてくれ。親族の大事な話し合いだからな。」彼の顔に父を失った悲しみは微塵もなかった。 15年間、私は義父の介護を続けてきた。倒れてからの10年間はほとんど寝たきりの状態だった。健一は「俺は仕事で疲れているんだ」と言って義父の部屋を覗くことすら避けていた。kazu子に至ってはお盆と正月に顔を出すだけで「おむつの匂いがするから換気してよ」と文句を言うだけだった。その15年間を、彼らはたった一言で「他人」と切り捨てた。 「健一さん、実家の土地の件なんだけど」kazu子が身を乗り出し、声を潜めた。「知り合いの不動産屋にざっと見積もってもらったのよ。」葬儀が終わってまだ数時間しか経っていないのに、彼女の目には露骨な欲が浮かんでいた。健一も待っていましたとばかりに頷いた。「ああ、実は俺も考えていたんだ。親父も亡くなったことだし、この古い家を残しておく理由もない。早めに処分して現金化した方がいいだろう。」 あまりにも早すぎる。まだ骨も拾ったばかりの夜だ。私は静かに立ち上がった。椅子の擦れる音にkazu子が露骨に嫌な顔をした。「何よ? まだいたの? 気を利かせてお茶くらい入れ直したらどうなの? 」 「お茶ですね。わかりました。」私は感情を殺し、台所へ向かった。背中越しに「これでやっと自由だな」「本当長かったわね」という身勝手な声が聞こえてきた。私はエプロンの紐に手をかけ、ゆっくりと結び目を解いた。白い布が畳に落ちる音は私にしか聞こえないほど小さなものだった。私はそのエプロンを拾い上げ、綺麗に畳んでシンクの横に置いた。 もう十分ですよね。私は誰に言うでもなく小さくつぶやいた。 彼らはまだ気づいていなかった。義父が亡くなる3日前の夜、私を枕元に呼び、震える手で何を渡したのかを。そして、彼らが探している実家の権利書がすでにこの家の中にはないということを。 私は台所の隅に置いてあった自分の小さなボストンバッグを手に取り、静かに玄関の引き戸を開けた。夜の冷たい風が頬を撫でていく。振り返ることはしなかった。ポケットの中のスマートフォンが短く震えた。画面には伊藤弁護士からのメッセージが届いていた。「ゆみさん。正尾さんからの手紙の通り準備は全て整っています。明日事務所でお待ちしております。」 その文字を見た瞬間、私の中で張り詰めていた糸が静かに解けていった。 ホテルの狭い部屋で、私はベッドに腰を下ろした。15年間、私の耳には常に何かの音が響いていた。義父の咳込む声、深夜になるナースコールの電子音、呼吸機の規則正しいリズム。それらの音が完全に消えた空間は、まるで世界の果てに取り残されたように感じられた。 15年前、義父が脳梗塞で倒れた日のことは今でもはっきりと覚えている。当時、健一は「俺は長男だから親の面倒を見るのは当たり前だ」と親戚の前で胸を張って言った。しかし実際に彼が介護をしたことは一度もなかった。「お前は専業主婦なんだから家にいるだろう。親父のことは頼んだぞ。」それが健一の言い分だった。 義父は口数が少なく不器用な人だった。「すまないな、ゆみさん。おむつを変える。」義父はいつも小さな声で謝っていた。私はその度に「気にしないでください、お父さん」と答えた。それは嘘ではなかった。身の親を早くに亡くした私にとって、義父は唯一の親だったからだ。 しかし健一の態度は年々冷たくなっていった。夜遅く帰ってきては泥酔して暴言を吐く日が増えた。「家の中が臭いんだよ。お前ちゃんと掃除してるのか? 」壁を殴る音が夜の家に響くこともあった。その度に、奥の部屋で義父が息を潜めているのが分かった。私は耐えた。この家が私の唯一の居場所だと思い込んでいたからだ。何より、私が逃げ出せば義父は誰にも世話されずに放置されてしまう。その恐怖が私をこの家に縛りつけていた。 ある日、義父が布団を汚してしまったことがあった。私が必死にシーツを洗っていると、kazu子が突然訪ねてきた。「うわ、臭い。」kazu子は鼻をつまみながら吐き捨てるように言った。「小岸さん、もっと清潔にできないの? 近所の人に笑われるじゃない。」そして仏壇の引き出しを勝手に開け、何かを探し始めた。義父はまだ生きているというのに、彼女の目は完全に遺産を物色していた。健一もkazu子も義父の命の終わりを心待ちにしている。その残酷な事実に気づいた時、私は震えを止めることができなかった。しかし、黙るしかなかった。私が何か言えば、健一はさらに機嫌を損ね、義父に当たるかもしれない。波風を立てず、ただ耐え忍ぶこと。それが私にできる唯一の抵抗だった。 ホテルのベッドの上で、私はバッグの中から義父がまだ元気だった頃の写真を取り出した。義父と一緒に温泉旅行に行った時のものだ。健一は仕事だと言って来なかった。写真の中の二人は少し照れ臭そうに笑っていた。私にとってこの15年は地獄ではなかった。苦しいこともたくさんあったが、義父と過ごした静かな時間には確かに温かいものがあった。 3日前の夜、義父が私を呼んだ時の声が蘇る。「ゆみさん。あいつらは必ずこの鍵を探し回る。絶対に渡してはいけないよ。」震える手で私に託された小さな金属の鍵。それが何の鍵か、私はまだ知らない。 朝、目を覚ますと、携帯が震えた。健一からの電話だった。「お前、どこにいるんだ? 」怒鳴り声の裏に、心配ではなく異常なほどの焦りが滲んでいた。「ホテルにいます。昨夜、家を出ましたから。」「そんなことはどうでもいい。親父の机の鍵だ。どこに隠した? 」電話の向こうから荒々しい足音が聞こえる。彼が血眼になって家中を探しているのが目に浮かぶ。「どうして今、その鍵が必要なんですか? 」私が尋ねると、彼は「お前には関係ない。どうしても権利書と実印がいるんだよ」と怒鳴った。 その言葉を聞いた瞬間、昨夜の出来事を思い出した。葬儀の後、健一がトイレに立った隙に、テーブルに置かれた彼のスマホが光った。画面には「まゆみ」という女性からのメッセージが表示されていた。「けんちゃん、早くあの家を売って。早く払わないと担保に入れた土地が差し押さえられるよ。」担保。差し押さえ。その言葉の意味を理解した時、背筋に冷たいものが走った。健一は義父に隠れて多額の借金を作っていたのだ。そして、実家の土地の一部を勝手に担保に入れていた。彼が葬儀の夜から早く家を処分しようと焦っていた理由はこれだったのだ。 「私は机の鍵の場所は知りません。」私はできるだけ感情を抑えた低い声で答えた。「ふざけるな。お前がいつも掃除してたんだろう。探せ。」「私はもうその家にはいません。探すならご自分でどうぞ。」「おい、待て。お前、まさか持ち出したんじゃ… 」健一の言葉が終わる前に、私は通話ボタンを切った。 約束の時間、私は伊藤弁護士の事務所を訪れた。伊藤先生は義父の学生時代からの友人で、昔からよく実家に顔を出していた。先生は私の話を深く頷きながら聞くと、デスクの引き出しから分厚い茶封筒を取り出した。封筒には義父の几帳面な字で「ゆみさんへ」と書かれていた。「彼らは今頃必死になって権利書を探しているでしょう。しかし無駄なことです。なぜなら、健一君たちが探しているものは最初からそこにはないからです。彼らはこれから自分たちがどれほど大きな過ちを犯したかを知ることになりますよ。」 その言葉に、私は息を飲んだ。義父はベッドの上から一歩も動けなかったのに、家の中で起きていることを全て見通していた。私の見えないところで伊藤先生と連絡を取り合い、ずっと私を守ろうとしてくれていた。その事実に胸の奥が熱くなった。「この封筒は、彼らが一番調子に乗った時に開けてください。それまではゆみさんが持っていてください。」 事務所を出て、私は実家の駅前に戻った。信用金庫に用があったのだ。ATMの列に並んでいると、町内会長の山田さんに声をかけられた。「ゆみさんじゃないか。いやいや、ゆみさんこそ本当にご苦労様だったね。15年も正尾さんの面倒を一人で見て。町内の人間はみんなゆみさんのこと立派だなって言ってたんだよ。」その優しい言葉に、私は少しだけ救われる思いがした。 「でも少し驚いたよ。ゆみさんたち、随分と急いで引っ越すんだね。」その何気ない一言に、私は耳を疑った。「え、引っ越しですか? 」「あれ? 聞いてないのかい? 先月の半ば頃だったかな? 健一君が急に町内会の役員会に顔を出してね。『来月には家を明け渡して更地にするから町内会を退会したい』って言ってきたんだよ。正尾さんもいよいよ長くないから、先のことを進めておくって言ってたよ。」人間の息子さんだと思ったけど、隣にいた女の人がね… 」山田さんは言いにくそうに言葉を濁した。「派手なスーツを着た、随分と若い女の人でね。不動産屋のコンサルタントだって名乗っていたよ。」 全てが一本の線で繋がった。義父が軽い肺炎を起こし、一番苦しそうにしていた時期に、健一はすでに家を壊す準備を進めていた。愛人の「まゆみ」と一緒に。義父が息を引き取るのを今か今かと待ち望みながら。私は怒りよりも先に、恐ろしいほどの冷たさを感じた。25年間連れ添った夫は、そこまで血も涙もない人間だったのか。 私はATМで自分の通帳を確認した後、バッグの奥からもう一冊の古びた赤い通帳を取り出した。3日前の夜、義父が鍵と一緒に私に託したものだ。「この通帳のことはあいつらには絶対に言ってはいけないよ。ゆみさん、これは君のこれからの人生のためのものだ。」その時、スマートフォンがけたたましく震え始めた。kazu子からのメッセージだった。「ちょっと小岸さん、お父さんの赤い通帳がないんだけど。あんた、まさか盗んで家を出たんじゃないでしょうね。今すぐ返しなさいよ。警察に言うわよ。」 私はそのメッセージを冷めた目で見つめた。指先はもう少しも震えていなかった。「警察を呼べばいいわ。」誰に聞こえるわけでもなく、私は小さくつぶやいた。警察が来て困るのは、借金を隠して勝手に土地を担保に入れた健一たちの方だ。 昼過ぎ、私は見慣れた古い家の前に戻ってきた。門の前で家の中から大きな物音が聞こえる。玄関の引き戸は鍵が壊れたのか、少し隙間が開いていた。音を立てないようにそっと中に入ると、信じられない光景が目に飛び込んできた。15年間私が毎日隅々まで掃除をしてきた家が、まるで泥棒に入られたかのように荒らされていた。押入れの戸は外され、畳は乱暴に剥がされている。義父が大切にしていた古いアルバム類が床に散乱していた。義父が静かに息をしていた場所を、血のつながった娘が土足で踏みにじっている。「どこよ? どこに隠したのよ。」部屋の奥でkazu子が髪を振り乱し、仏壇の下の引き出しをひっくり返していた。 私は柱の影からその狂気のような姿を冷やかな目で見つめていた。「kazu子さん、何をしているんですか? 」私が静かに声をかけると、彼女はビクっと肩を揺らして振り返った。「小岸さん、よくもまあこのこのこと戻って来られたわね。赤い通帳よ。お父さんの赤い通帳がどこにもないのよ。」「私は知りません。昨日出た時から何も変わっていませんよ。」「嘘よ。あんたが盗んだに決まってるわ。出しなさいよ。」kazu子が私のボストンバッグに手を伸ばそうとした。私は一歩下がり、冷たい声で言った。「触らないでください。警察を呼びますよ。」「はあ? 警察を呼ぶのはこっちよ。この泥棒! 」「呼べばいいじゃないですか。今すぐここで。遺産分割協議も終わっていないのに、勝手に個人の部屋を荒らしている。警察が来たら、どちらが困るでしょうか? 」 私の静かな言葉に、kazu子は言葉を失った。いつもなら反論することなどありえなかったからだ。その時、私は床に落ちている一枚の書類に目を止めた。kazu子が引き出しから放り出した書類の束に紛れていた。「借用書」と書かれた古いコピーだ。そこには健一の名前と、kazu子の名前が連帯保証人として書かれていた。金額は500万円。日付は義父が倒れてから3年目の春だった。「kazu子さん、あなたも健一さんの借金を知っていたんですね。」私の言葉に、kazu子の顔から血の気が引いた。 私はその紙をバッグにしまうと、背を向けて台所へ歩き出した。そして、床下収納の蓋に手をかけ、ゆっくりと持ち上げた。中からビニール袋に包まれた分厚い大学ノートが3冊出てきた。それはこの15年間の介護日誌だった。義父の血圧、食事の量、体調の変化、病院の領収書、ヘルパーさんとのやり取り。全てが細かく記録されている。同時に、健一とkazu子が何年何月何日に家に来て何分で帰ったかという記録でもあった。彼らが義父の介護に一切関わっていないという何よりの証拠だ。 私はそのノートをバッグの底に深く沈めた。これでこの家に思い残すことは何もない。私は足早に廊下を戻り、玄関を出た。その時、一台の黒いタクシーが実家の前に止まった。運転席から慌てた様子の健一が降りてきた。そして反対側からは、派手な赤いスーツを着た30代くらいの若い女性が降りてきた。彼女は実家を見上げると、焦ったように健一に言った。「ちょっと、けんちゃん。今の中に権利書が見つからないと、本当にあの土地差し押さえられちゃうよ。私の会社にも迷惑がかかるんだからね。」健一は女性にペコペコと頭を下げながら門の方へ振り返った。そして、そこに立っている私と完全に目が合った。健一の顔が一瞬にして凍りついた。 まゆみは私を見て不思議そうに首をかしげた。そして健一に向かって信じられない言葉を放った。「けんちゃん、このおばさん、新しい清掃業者の人? 」その無邪気な一言に、私は思わず小さく笑いそうになった。「違うよ、まゆみちゃん。こいつはただの… 」健一は必死に取り繕おうとした。私は彼を完全に無視して、赤いスーツの女性をまっすぐに見つめた。そして静かにはっきりと口を開いた。「初めまして。佐藤健一の妻です。」 … Read more