「お母さん、潮が満ちてくればすぐ終わるから。」そう言い放ったのは、私が身を削って医者に育てた、たった一人の息子でした。家族で行く初めての温泉旅行。喜び勇んで車に乗り込んだ私を待っていたのは、保険金目当てで私を海に沈めようとする、我が子と嫁の完全犯罪の計画でした。折れた足を引きずりながら、冷たい波に体を浸す中、私は聞いてしまったのです。「どうせ生きるだけ生きたんだから、犠牲になったと思ってくだ…

「お母さん、潮が満ちてくればすぐ終わるから。」そう言い放ったのは、私が身を削って医者に育てた、たった一人の息子でした。家族で行く初めての温泉旅行。喜び勇んで車に乗り込んだ私を待っていたのは、保険金目当てで私を海に沈めようとする、我が子と嫁の完全犯罪の計画でした。折れた足を引きずりながら、冷たい波に体を浸す中、私は聞いてしまったのです。「どうせ生きるだけ生きたんだから、犠牲になったと思ってくだ...

息子の口から出たその言葉は、冷たい塩風よりも、もっと冷たく私の胸に突き刺さった。
「お母さん、潮が満ちてくればすぐ終わるから。」
一生をかけて手足がすり減るほどに尽くし、医者の白い服を着せてやった我が子が、私を島石の隙間に荷物のように押し込みながら、嫁は私の目を見てはっきりと言った。
「お母さん、病院に行ったらお金がかかるだけじゃないですか? どうせ、生きるだけ生きたんですから、私たちのために犠牲になったと思ってください。」
遠ざかる車のヘッドライトを見ながら、私は足から流れる血よりも、胸から流れる血の方が熱く感じられた。
我が子、私の命よりも大切に思っていた我が子が、私を捨てたのだ。
その時はまだ知らなかった。
この瞬間が、私の残りの人生の全てを根底から揺さぶる、巨大な嵐の始まりになるとは。

ほんの1日前まで、私はこの世で一番幸せな老婆だと信じていた。
「お母さん、今週末、伊豆に旅行に行きましょう。春の花を見て、お母さんの好きな寿司を思う存分食べてきましょうよ。」
嫁のその甘い声が、今思えば蛇が舌なめずりする音だったのに、なぜあの時はあんなにも甘く聞こえたのだろう。
普段は顔を見ることさえ難しい息子夫婦が、急に2泊3日の親孝行旅行に行こうと言い出したのだから、私は疑うより先に胸がときめいてしまった。
タンスの奥にしまっていた花柄のカーディガンを取り出して、鏡の前で何度も着こなしを整えた。
しわだらけの顔に咲いた笑顔が、実は私の墓前に飾られる菊の花だとも知らずに。

旅行当日、家の前に停まっていたのは見慣れない黒塗りの高級リムジンだった。
「まあ、家族3人で行くだけなのに、なんて大きな車なの。ガソリン代がもったいないわ。」
私がわざとそう言って車のドアを開けると、息子が運転席から降りてきて荷物を受け取った。
「お母さん、今回の旅行は僕が最高にエスコートするって言ったでしょう。楽に横になっていてください。」
息子のその言葉、その笑顔が、どれほど頼もしく見えたことか。
私は近所中に自慢したくて、口がむずむずした。
しかし、その親孝行な息子の手が、かすかに震えていたことに、あの時気づくべきだった。

車は東京を抜け、高速道路を気持ちよく走った。
窓の外には黄色い菜の花やピンクの桜が咲き乱れ、温かい春の日差しが車内に降り注いでいた。
全てが完璧に見えた。
ただ一つ、車内の空気が妙に重いことを除けば。
ラジオからは陽気な歌謡曲が流れているのに、嫁は窓の外をぼんやりと眺めているだけ。
息子はハンドルを握る手に力が入りすぎて、関節が白くなっていた。
「ねえ、病院で何か嫌なことでもあったの? 顔色が悪いわよ。」
私が心配して尋ねると、息子ははっとしたように驚き、バックミラーで私を見た。
「いいや、何でもないよ。昨日が当直でちょっと疲れてるだけだから、気にしないで。」
そうは言うものの、声はかすれていた。
嫁もその時になってようやく無理に笑顔を作って後ろを振り返った。
「お母様、果物はいかがですか? 今朝、私が剥いてきたんです。」
彼女が差し出すりんごの一切れを受け取ると、その指先は氷のように冷たかった。
その時、ふと不吉な予感が頭をよぎったが、私は懸命に首を振った。
疲れているからだろう。
嫁も病院の仕事で大変だろうに、連れて行くのだから緊張しているのだろう。

サービスエリアに立ち寄った時のことだ。
私はトイレから戻る途中、駐車されたリムジンの後ろで、ひそひそと話す声を聞いた。
息子と嫁の声だった。
私は嬉しくなって近づこうとしたが、何かただならぬ雰囲気に、思わず柱の影に身を隠した。
「おい、本当にこの方法しかないのか?

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お母さんに正直に話して、助けてもらえないだろうか? 」
息子の声には涙が滲んでいた。
すると、嫁の鋭い声が刃物のように突き刺さった。
「あんた、確信してるの? お母様があのお金をくれると思う? あんたが病院を担保に闇金から金を引き出したって知ったら、その場で失神するわよ。そしたら遺産も何もかもパーよ。」
「それに、闇金の連中、明日までに3億円返さないと、あんたの腕を切り落とすって言ってたじゃない。医者免許取り消されて、一生片腕で生きたいの?


私の心臓がどくんと落ちた。
闇金、3億円、腕。
これは一体何という話だろう。
真面目にだけ育ったと思っていた我が子が、投資なのか株なのか、闇金にまで手を出していたなんて。
足が震えて、立っていられなかった。
私が市場の隅で、生臭い魚の腹を触りながら、1円でも切り詰めて育てた息子だ。
その息子が借金取りに追われ、腕を切り落とされる危機にあるなんて。
今すぐにでも飛び出して、このバカ者、なぜそんなことをした、と胸ぐらを掴みたい気持ちだった。
しかし、続く嫁の言葉に、私はその場に凍りついてしまった。
「今回、お母様の保険金と遺産を整理すれば、大体3億円になるわ。目を瞑ってやりなさい。今回さえ乗り切れば、私たちはまたやり直せるんだから。」
「分かった。あんたと私が生きるためには、この方法しかないの。」

保険金、遺産。
その言葉が私の頭の中をぐるぐると回った。
ああ、そうだったのか。
この旅行は、親孝行旅行ではなかったのか。
私を生贄に捧げに行く道だったのか。
私の息子、私の嫁が、金のために私を殺しに行く道だったのか。
私は口を押さえて、その場にしゃがみ込んだ。
涙が溢れたが、声を出すことはできなかった。
逃げなければ、ここから逃げなければ、と本能が叫んだ。
しかし、どこへ? ここは高速道路の真ん中だ。
そして、怖かったのだ。
私がここで逃げたら、借金取りたちが我が子に危害を加えるのではないかと。
実に愚かな母親だ。
我が子が私を殺そうと企んでいるというのに、その子の心配をしているなんて。
これが、血というものなのだろうか。

私は震える胸を落ち着かせ、何事もなかったかのように車に戻った。
演技をしなければ。
私が気づいたと知られたら、あの2人がここで何をしでかすかわからない。
それから、旅行先まで行って、人が多い場所で隙を見て逃げよう。
そう考えた。
「お母様、お戻りになられましたか? 温泉まんじゅうを買いましたの。温かいうちにどうぞ。」
嫁が差し出すまんじゅうの袋が、まるで毒薬の袋のように見えた。
私は震える手で袋を受け取った。
「あ、ありがとう。あなたたちもお食べなさい。」
声がうまく出ず、咳払いをした。
息子は私の目から逃げるように、急いで運転席に乗り込んだ。
「早く出発しよう。予約した寿司屋に遅れてしまう。」

車は再び出発し、伊豆半島へと入っていった。
いつの間にか日が傾き始めていた。
黒い海が見え始めた。
普段なら「まあ、気持ちがいいわね」と言ったであろうその海が、今日は口を大きく開けた怪物のように見えた。
あの黒い水のどこかに、私の墓場があるのだと思うと、身がすくんだ。
「ねえ、道が少し険しくなってきたわね。お寿司屋さんは大きな道沿いにあるんじゃないの? 」
私が恐る恐る尋ねた。
車はカーナビが示す大きな道を外れ、街灯一つない狭い海岸道路に入っていたからだ。
右側は切り立った崖で、その下では波が白く砕けていた。
「あ、うん。景色のいい場所があるから、ちょっと見ていこうと思って。お母さん、海が好きでしょう。」
息子の声が細く震えた。
嘘だ。
私は直感した。
来るべき時が来たのだと。

その時、息子の携帯電話が鳴り響いた。
息子は電話に出ずに携帯を裏返したが、着信音は鳴りやまない。
嫁が鋭く叫んだ。
「出ないで!

出るなって言ったでしょう! 」
車内の空気が、張り詰めたゴムのように緊張感で満ちた。
息子は脂汗を雨のように流しながら、ハンドルを固く握り直した。
「みさ、俺にはできない。やっぱり引き返そう。お母さんに土下座して謝ろう。お母さんが、まさか俺を見殺しにするわけないよな。」
息子が泣きながら言った。
瞬間、私の胸の中で小さな希望の火が灯った。
そうだ。今からでも言うんだ。
お母さんが家を売ってでも、私の臓器を売ってでも、お前を助けてあげるから。
頼むから、この仕打ちだけはやめておくれ。
私は唇を噛みしめ、息子の次の言葉を待った。
しかし、その希望を打ち砕いたのは嫁だった。
「この馬鹿野郎! ここまで来て何を言ってるのよ! 戻ったら、闇金があんたの腕を切り落とすだけで済むと思ってるの?

私たちの子供たちの学校まで嗅ぎ回るって言ってたじゃない! あんた、子供たちをどうするつもり? しっかりしなさい! 」
嫁の叱咤に、息子は押し黙った。
「う、お母さん、ごめん。お母さん…」
それは、残下げの涙ではなかった。
自分の弱さを、自分の卑怯さを正当化しようとする、ワニの涙だった。
私は固く目を閉じた。
我が子は、もう死んでしまったのだ。
金という怪物が、我が子を飲み込んでしまったのだ。

「今よ!


嫁の叫び声が聞こえた。
タイヤがアスファルトを引っかく、鳥肌が立つような音が鼓膜を破った。
体が宙に浮くような感覚とともに、車体が右側に急激に傾いた。
ガシャン、ゴゴゴ……凄まじい衝撃と共に、世界がひっくり返った。
窓ガラスが割れ、エアバッグが作動する音、鉄の塊が潰れる音が混ざり合い、阿鼻叫喚の地獄と化した。
私は後部座席から弾き飛ばされ、前の座席の背もたれに頭を強く打ち付けた。
目の前が暗転に包まれ、温かい液体が額を伝って流れ落ちた。

どれくらいの時間が経っただろうか。
意識を取り戻すと、車はガードレールに突っ込んで止まっていた。
体中が砕けるように痛む。
特に右足は感覚がない。折れてしまったようだった。
「あんた、大丈夫? 怪我はない? 」
前の座席から嫁の嗄れた声が聞こえた。
「お、俺は大丈夫だ。お前は? 」
「私も平気。エアバッグのおかげで助かったわ。」
彼らは互いの安否を尋ね合っていた。
後部座席で打ち捨てられ、血を流して横たわっている母のことなど、眼中にもないのだ。
「お母様は?


嫁の声が冷たく変わった。
息子が後部座席に体を向けた。
暗闇の中で、息子の虚ろな目と会った。
その目は、恐怖と狂気にギラついていた。
「お母さん、お母さん。」
息子が震える手で私の鼻の下に指を当てた。
「…いい。息をしてる。生きてる。」
息子の声には、安堵ではなく、絶望が滲んでいた。
『死んでいるべきだったのに。即死してくれれば、楽になれたのに。』
そんな心が読めて、私は息子を呼ぶことができなかった。
「生きてるですって? …仕方ないわね。」
嫁が呟いた。
彼女が後ろのドアを開け、私の方へ近づいてきた。
潮の香りがむっと流れ込んできた。
波の音が、すぐ近くで聞こえる。
「お母様、意識はありますか? 」
嫁が私の頬を軽く叩いた。
心配からではなく、意識を確認するための手つきだった。
「病院…」
私がかすれて口を開いた。助けてほしいという言葉だった。
それでも嫁なのだから。それでも、人間なのだから。
しかし、嫁は柔らかく笑った。
「お母様、救急車を呼んだら、面倒なことになるんですよ。警察が来て、保険会社が来て、ややこしくなるじゃないですか。それに、お母様は足を骨折されたようですし、このお年で手術だの何だのしたら、苦労するだけですよ。」
彼女は息子に顎で合図した。
「あんた、運んで。そこの下の岩場に。あそこは潮が満ちたら沈むじゃないか。」
息子が躊躇した。
「だから、そこへ行くんでしょう。水死体に偽装するには、水に落ちないといけないんだから。早くしないと時間がないわよ。」
嫁の叱咤に、息子はびくっと驚き、私を抱き起こした。
いや、起こしたのではない。荷物のように担ぎ上げたのだ。
折れた足がぶら下がるたびに、凄まじい痛みが襲ってきたが、私は悲鳴を上げることもできなかった。
あまりにも呆気に取られて、あまりにも惨めで、声さえ出なかった。
息子は私を背負い、よろよろと崖の下へと降りていった。
我が子の背中。幼い頃はあんなにも広く温かく見えた背中が、今はじっとりと冷たい。
彼の心臓の鼓動が、私の胸に伝わってきた。
どくん、どくん。まるで罪悪感が脈打つ音のようだった。

息子は、岩場の最も深く、波が打ち寄せる隙間に私を下ろした。
背中が避けるように痛む。
海水が、もうすぐそこまで来ている。
冷たい水が服を濡らし、染み込んできた。
寒さで体がガタガタと震えた。
息子は私と顔を合わせることができず、顔を背けた。
そして、あの言葉を言ったのだ。
「お母さん、潮が満ちてくれば、すぐ終わるから。」
その言葉が、私の心臓に打ち込まれた杭となった。
嫁は私のポケットを探り、財布と携帯電話を取り出した。
「身分証とカードは、私たちが預かっておかないとね。遺体の発見が遅れないといけないから。」
彼女は、私の指にはめられていたカワセミの指輪まで、無理やり引き抜いた。
私の母の形見の指輪だ。
「お母様、これ、いただきますね。どうせ持っていっても意味ないですし。」
彼女は指輪を自分の指にはめてみて、満足そうに微笑んだ。
悪魔の形をした悪魔がいるとすれば、まさにその姿だった。
「行くわよ。潮が満ちてくる。」
嫁が息子をせかした。
2人は一度も振り返らず、暗闇の中へと消えていった。
崖の上で車のエンジンがかかる音が聞こえ、やがて遠ざかっていった。
その音が、まるで私の命が途絶える音のように聞こえた。

私は一人になった。
漆黒の闇。冷たい岩。そして、だんだんと満ちてくる黒い水。
恐怖が津波のように押し寄せてきた。
死ぬのか。こんなにも惨めに死ぬのか。
悲しみが込み上げてきた。
一生を捧げて育てた子に殺される母親の心情。
それは悲しみではなかった。凄まじい無念だった。
水が腰まで満ちてきた。
歯がガチガチと音を立て、体中が麻痺していくようだった。
意識がもうろうとしてきた。
このまま目を閉じれば、楽になれるのだろうか。
いいや。目を閉じるわけにはいかない。
悔しくて、無念で、このまま終われるものか。
あの獣以下の者たちが、私の金で贅沢に暮らすのを許すわけにはいかない。
生きなければ。地獄に落ちようとも、まずあの者たちを地獄に送ってからだ。
水が胸まで満ちてきた。
もう、本当に終わりかと思った。
空を見上げた。一つとして見えない真っ暗な夜空は、まるで私の運命のようだった。

その時だ。
遠くの岩場の向こう、闇を切り裂く、一筋の光が見えた。
揺れる光。人だ。誰かいる。
私は残された力を振り絞り、手をばたつかせた。
声は出なかったが、生きたいという意思が私の腕を動かした。
光がだんだん近づいてきた。
「兄貴、ここ大物のポイントで間違いないっすね。」
「うん。ちょっと待て。あの岩間に何か。…あれ、人じゃないか! おい、ちょっと見てみろ!


釣り用のベストを着た屈強な男たちが、私の方へ走ってきた。
懐中電灯の光が私の顔を照らした。
「なんてこった! おばあさん、生きてますか? しっかり! 」
彼らの無骨な手が、私の冷たい体を抱きしめた。
温かかった。我が子の背中よりも、100倍も1000倍も温かかった。
「119番!

早く通報しろ! 人が死にかけてるぞ! 」
釣り人たちの切羽詰まった叫び声を聞きながら、私はようやく安堵のため息をついた。
そして思った。
神が私を生かしておいた理由は、ただ一つ。
あの恩知らずどもに、天罰を下すために。
我が子が捨てた私を、見知らぬ他人が救った。
この瞬間、私の血塗られた復讐は、すでに始まっていたのだ。

薄れゆく意識の中で、私は見た。
岩の間で白く砕ける波を。そして、はるか遠くの空に、突き刺さるように冷たい星が一つ、輝いているのを。
あの星が、まるで私を見下しているかのようだった。
「見ていろ。私がこのまま死ぬものか。我が子ではなく獣を育てたのなら、その獣を屠る、竜になってやる。」
救急隊員たちが担架を手に、険しい岩場を降りてくるのが見えた。
「患者さん、私の声が聞こえますか? どこが痛みますか?

お母さん、もう少しの辛抱ですよ。すぐに病院へ連れて行きますから。」
私は担架に乗せられ、救急車へと運ばれた。
白い天井が目の前でぐるぐると回る。
意識を手放すわけにはいかなかった。まだ、やらなければならないことがあった。

病院は騒然としていた。
医師たちが私の足に触れ、レントゲンを撮り、点滴を打った。
「大腿骨の粉砕骨折です。出血量が多いので、まず輸血が必要です。」
「おばあさん、保護者の方と連絡は取れましたか? 」
看護師の問いに、私は目を閉じた。
今頃あの者たちはどこにいるのだろうか。
母親を海に沈め、晴れ晴れとした気持ちで寿司屋で飲んでいるのか。
それとも、空港へ駆け込み、飛行機のチケットを手配しているのか。
考えただけで、吐き気がした。
その時、救急処置室の自動ドアが開き、聞き慣れた革靴の音がした。
黒いスーツを着た中年の男性が、汗をダラダラと流しながら駆け込んできた。
西田さんだった。
私の資産を全て管理しながらも、1円とも無駄遣いしない、私の忠実な執事。
私がただの魚屋の老婆だと思っている西田さんだけが、私を「会長」と呼び、長年使えてくれる唯一の人間だ。
彼がベッドに横たわる私を見て、顔色が真っ青になった。
「一体全体、これはどういうことですか? 会長、ご旅行に行かれるとお聞きしておりましたが。」
西田さんが私の手を握った。彼の手は震えていた。
私は酸素マスクを外して欲しいと合図した。
「いいから聞け。」
私は残された力を振り絞り、絞り出すような声で言った。
「あいつらが、私を捨てた。」
西田さんの目が、大きく見開かれた。
「はあ? お捨てになった?

事故ではなく、海に突き落としたと? 」
瞬間、西田さんの顔から血の気が引いた。
「西田、今すぐ。プランBだ。」
西田さんが息を飲んだ。
プランB。それは私が万が一の事態に備えて作っておいた、非常事態マニュアルだった。
認知症になったり、昏睡状態に陥ったり、あるいは子供に裏切られた時のために。全ての資産を凍結し、相続を取り消し、即座に法的措置を取る。最後の手段。
「会長、本当に実行なさるのですか? これを実行すれば、ご子息は破産です。社会的に抹殺されます。」
しかし、私は躊躇しなかった。
「我が子は、もう死んだのだ。今生きているのは、我が子の皮を被った怪物に過ぎない。今すぐやれ。」
西田さんは、決然とした表情で頷いた。
「承知いたしました。会長のご命令通りに。」
彼はすぐに携帯電話を取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。
「もしもし、法務部長か。今すぐ非常事態を発動しろ。会長の特別指示だ。そうだ。周囲名義の全ての法人カード、支援口座をこの瞬間から全面凍結する。事由は存続殺人未遂及び窃盗だ。それから、警視庁に連絡を入れろ。緊急逮捕を要請すると。」

西田さんの通話の声を子守唄のように聞きながら、私は再び意識を失った。
しかし、今回ばかりは怖くなかった。
私の復讐が、始まったのだから。

夢を見た。
息子がよちよちと歩き始めた頃の夢だ。
「お母さん、お母さん」と私の胸に飛び込んでくるあの子。
私はその子を抱き上げて、くるくると回った。
世界の全てを手に入れたような気分だった。
「お母さんが、一生守ってあげるからね。何も心配しないで、大きくなるんだよ。」
あの時、その言葉は本心だった。
場面が変わった。息子の医大の卒業式の日だ。
誇らしげな息子が私の手を握って言った。
「お母さん、お疲れ様でした。これからは僕が楽をさせてあげますから。」
その時に流した涙が、どれほど甘かったことか。
しかし、その画面が砂嵐のようになり、岩の上の息子の顔に変わった。
「お母さん、潮が満ちてくれば、すぐ終わるから。」
その冷たい声が、はっきりと私の心臓を突き刺した。
私は悲鳴を上げて、夢から覚めた。

窓の外は、すでに明るくなっていた。
「会長、お目覚めになられましたか? 」
西田さんがベッドの脇で突き添っていてくれたらしい。一睡もしていないようで、目は真っ赤だった。
「報告しろ。」
喉が焼けつくように乾いていたが、私はいっぱいの水よりもその答えが聞きたかった。
西田さんが私に水の入ったコップを渡しながら、低く落ち着いた声で報告した。
「処理いたしました。成田空港の出国審査の直前で、身柄を確保しました。最初は激しく抵抗したそうです。自分は何も知らない。母親が失踪したと思っていた、と。しかし、警察が踏み込んできて、特別公務執行妨害及び墜落殺人の容疑だと告げると、ようやく顔色が蒼白になったそうです。」
「嫁は?


「あちらが一枚上手でしたね。警察官を見るなり、ご主人の背中に隠れて、『全部、夫がやらせたんです。私は止めました』と叫んだそうです。」
呆気にとられて、笑いが漏れてしまった。いかにも彼女らしい。殺せと扇動したのは自分なのに、いざとなると夫を盾にするとは。
「それから、会長。釣り人たちが撮影していた、ドライブレコーダーの映像も確保しました。釣り場へ向かう途中、ご子息の車が路肩に停まっているのを撮影していたそうです。残念ながらお2人が会長を背負って降りていく場面は遠すぎてはっきりとは映っていませんでしたが、車が急発進して去っていく場面は鮮明に記録されていました。」
天が味方してくれた。あの深夜、あの人里離れた場所に、釣り人が、しかもドライブレコーダー付きの車でやってくるなんて。これは、我が子を捉えよという天の啓示だ。

「車椅子を持ってきてくれ。」
「はい!? なりません。手術をされたばかりです。絶対安静です。」
「いいや、行く。行かなければ。この目で見なければ。あの者たちが私の前で膝まずき、許しを乞う姿を。互いに罪をなすり付け合って争う姿を。この目でしかと見届けなければ。」
西田さんはしばらく躊躇したが、私の決意のまなざしを見て、頭を下げた。
「承知いたしました。医師の許可を得て、準備いたします。」
「準備をしなければ。ただ行くだけではダメだ。弁護士を呼んで、今すぐに。遺言書を書き直す。それから、相続放棄の手続きを。」
「会長、私の金は1円ともあの者たちの口には入らせない。全て社会に還元する。孤独な老人、いや、私のように子に捨てられた老人たちの訴訟を支援する財団を作るんだ。」
言葉を紡ぐにつれ、力が湧いてきた。
私はもはや被害者ではない。審判者だ。

成田空港警察署の取調室へ向かう道。窓からの風景は昨日と何ら変わりはなかったが、私の心は天地がひっくり返ったようだった。
警察署の前に到着すると、記者たちが雲のように群がっていた。
「佐藤さん! ご子息を許すおつもりですか!? 」
フラッシュが激しく焚かれた。
刑事の案内で、取調室の前に立った。
「佐藤さん、ご準備はよろしいですか?


私は深く息を吸い込み、頷いた。
「開けてください。」
鉄の扉が、重い音を立てて開いた。
透明なアクリル板の向こうに、囚人服を着た男女が2人、うなだれて座っていた。
我が子、週一。そして、我が嫁、美咲。
私を見るなり、息子が弾かれたように立ち上がり、アクリル板にへばりついた。
「お母さん! お母さん! 」
その声。昨日私を捨てた時のあの冷たい声はどこにもなく、幼い頃に母を呼んでいた、あの哀れな声だった。
しかし、私は騙されない。それは演技なのだから。生きるための足掻きなのだから。
私は車椅子を動かし、アクリル板の真ん前まで近づいた。
そして、息子の目をまっすぐに見つめ、柔らかく微笑んでやった。
「どうしたの? 週一。潮が満ちてくれば、すぐ終わるんじゃなかったの?

まだ、終わっていなかったのね。」
「お母さん! 僕たちが間違っていました! 一度だけ! どうかお許しください!


息子が泣き叫んだ。
「お母様! 私、どうかしていたんです! 狐にでも憑かれていたんです! どうか助けてください、お母様!


嫁も隣で、涙と鼻水を流しながら震えていた。
狐のせいだなんて、実に便利ないいわけだ。人を殺そうとしておいて、狐のせいにするとは。
私はアクリル板にぐっと近づき、彼らの目をまっすぐに見つめた。
「お前たちが岩場で私を捨てた時、私が何を考えていたか分かるかい? 」
私の声は落ち着いていたが、その中には鋭い刃が隠されていた。
「助けてくれとは祈らなかったよ。どうか生きて、この姿をお前たちに見せてやれますように、と祈ったんだ。」
息子の瞳が、恐怖に揺れた。
私は懐から、西田さんが用意してくれた書類封筒を取り出した。
茶色い封筒が、アクリル板の前の台に落ちた。
「それは何ですか? 」
嫁が震える声で尋ねた。
「開けてご覧。お前たちにやる、最後の贈り物だよ。」
刑事が封筒を手に取り、彼らに渡した。
息子の手が、封筒を開ける間もガタガタと震えていた。
中から出てきた書類を見た瞬間、息子の顔が紙のように真っ白になった。
「親子関係不存在確認及び接近禁止…。そして、相続放棄及び財産社会還元…。ほ、これは何ですか? 親子関係不存在!?

相続放棄!? 」
息子が悲鳴をあげるように叫んだ。
「言葉の通りだよ。私は今日を持って、お前との母子関係を断ち切る。法的に。そして、人間として。」
「お母さん! どうしてそんなことができるんですか!? それでも僕はお母さんの息子じゃないですか!?

血が繋がっているじゃないですか! 」
私は乾いた笑いを漏らした。
「そうね。血は繋がっている。私が40年間、私の血を吸わせてやった血筋だもの。でもね、知っているかい? 蛭だって、血を吸い尽くしたら、自然と離れていくものだよ。ましてや、人間が自分の母親の血を吸うだけでは飽きたらず、骨までしゃぶろうとするのなら、それは血筋ではなく、癌細胞だ。」
「癌細胞は、切り取らなければ自分が死ぬ。だから私は、お前たちを切り取ることにしたんだ。」
「ダメです! 絶対にダメです!

お母様の財産、全部社会に還元するって!? じゃあ、私たちの借金は!? あの3億円はどうなるんですか!? 」
嫁が金切り声を上げた。
ようやく本性が出た。自分の命がどうなるかという状況でも、借金の心配が先に来る。その強欲な口から出る「お母様」という言葉に、これまで騙されてきたとは。
「それはお前たちの事情だろう。私の知ったことではない。闇金が押しかけてこようが、強制執行の手続きを踏まれようが、お前たちで何とかするんだな。ああ、そうだ。一つ良いことを教えてやろうか。刑務所の中が一番安全かもしれないぞ。借金取りも、そこまでは追いかけてこられないだろうからな。」
「お母様!

お願いです! 一度だけ! 助けてください! 子供たちはどうするんですか!?

あの子たちの父親が刑務所に入ったら、誰が育てるんですか!? 」
孫たち。目に入れても痛くないほど可愛い、私の孫たち。
そのことを思うと、胸の片隅がズキリと痛んだ。
しかし、私は歯を食いしばった。
「あんな親の元で育つくらいなら、施設に預けた方がマシだ。そして、私が生きている限り、孫たちを不幸にはさせない。ただ、お前たちが私の金で、子供たちまでダメにするのを放ってはおかないと言うだけだ。心配するな。子供たちのことは、私が何とかする。その代わり、お前たちはその汚い手であの子たちに触れるな。」
私は車椅子を回した。
後ろから、息子と嫁の哭声と悲鳴が入り混じって聞こえてきたが、私は一度も振り返らなかった。
鉄の扉が、どすんと音を立てて閉まった。
その音が、まるで私の過去40年間の、断ち切れないと思っていた縁を断ち切る刃の音のように聞こえた。

病院へ戻る車の中、私はぼんやりと窓の外を眺めていた。
胸がすっとするだろうと思っていたのに、胸の片隅にはポッカリと穴が開いたように虚しかった。
私の生涯の誇りだった息子。私の人生の理由だった息子。
この手で切り捨てたのだから。
涙が、すっと流れ落ちた。
西田さんがバックミラーで私をちらりと見て、静かにティッシュを差し出してくれた。
「会長、大丈夫でございますか? 」
「大丈夫なわけないだろう。痛いよ。肉をえぐり取られたように、痛い。」
私は正直に言った。
「でも、腐った肉を切り取らなければ、私が死んでしまう。だから、耐えるんだ。」

病室に着くと、すぐに弁護士たちが押し寄せてきた。
「会長、ご指示通り、財産還元の手続きに関する書類です。そして、こちらはご子息名義の病院建物の差し押さえを申し立てた件です。」
「差し押さえ? 」
「はい。ご子息が会長の名義を冒用し、病院を担保に融資を受けていた形跡が確認されました。これを根拠に病院建物と医療機器一式に対して差し押さえを申し立てれば、即座に病院の運営は不可能になります。」
「結構なことです。あの病院は、私がもやしの値段を切り詰めて立ててやった病院です。私の血汗で建てた病院で、あんな負債の借金を作っていたとは。閉鎖させるのが当然です。進めて、今すぐに。」
「それから、会長。お嫁様のカード利用明細が届いております。」
西田さんがタブレット端末を差し出した。画面には、真っ赤な数字がびっしりと並んでいた。
デパートのブランド品、高級エステ、ホテルのレストラン。1ヶ月のカード代金だけで、数百万円にも登っていた。
「これが全て、会長に内緒で使われた明細です。生活費が足りないと会長から受け取っていたお金は、全てこちらに流れていたようです。」
呆気にとられて、言葉も出なかった。
私が市場で200円のうどんで食事を済ませていた時、あの女はホテルで1万円の食事をしていたのか。
私が縫い直した下着に穴が開くまで着続けていた時、あの女は100万円のバッグを買っていたのか。
「これも全て回収しろ。私の声が低く響いた。バッグだろうが、宝石だろうが、私の金で買ったものは全て差し押さえろ。タンス1枚まで、全部取り返してこい。」
「承知いたしました。お嫁様のご実家の方にも、内容証明を送付いたします。不当利得返還請求も合わせて進めます。」
やはり金は良いものだ。金さえあれば、これほど有能な人材を雇うことができるのだから。
しかし、肝心の私の心を分かってくれる人間は、金では買えないというのが、悲しいばかりだ。

その日の午後、病室のテレビからニュースが流れてきた。
「恩知らずの医師夫婦、母親への殺人未遂容疑で逮捕・送検。」
アナウンサーの言葉と共に、モザイク処理された息子と嫁の顔が画面に映し出された。
手錠をかけられ、うなだれた姿。
病院のホームページには非難のコメントが殺到し、病院の前には「人殺し」と書かれたプラカードを持った人まで現れていた。
完璧な社会的抹殺。私が望んでいた光景だった。
なのに、なぜこんなにも心が痛むのだろうか。
画面の中の息子の力なく垂れた後ろ姿が、幼い頃、私の背中で眠っていたあの小さな背中と重なって見えるからだろうか。

そこへ、見知らぬ中年の男性たちが訪ねてきた。
日に焼けた肌に、無骨な服装。釣り人たちだった。
あの夜、私を救ってくれた、命の恩人たち。
「おばあさん、具合はいかがですか?


彼らが照れ臭そうに果物の籠を差し出した。
「あの夜は、本当にありがとうございました。死にかけていた老婆を助けてくださって。この恩は、どうお返ししたら…」
私が泣きながら言うと、釣り人の中で年長者らしい男性が手を振った。
「いえいえ、とんでもない! 人の命を助けるのは、当たり前のことですよ。おばあさんがこうして生きていてくださるだけで、私たちは嬉しいんです。」
当たり前のこと。その当たり前のことを、我が子はどうして知らなかったのだろう。
見知らぬ他人でさえ知っているその道理を、なぜ私がお腹を痛めて生んだ子は、踏みにじったのだろう。
私は西田さんに目配せした。西田さんが、あらかじめ用意しておいた封筒を3つ取り出した。
「これ、私のささやかな気持ちです。どうかお断りにならずに、お受け取りください。」
分厚い封筒だった。一人当たり100万円ずつ入れた。
釣り人たちは驚いて、手を引いた。
「いえ! とんでもない! お金をいただくために助けたわけじゃありません!

そんなことをされたら、私たちはがっかりします。」
彼らは最後まで封筒を受け取らず、逃げるように病室を出ていった。
「おばあさん、早く元気になってくださいね! 退院されたら、美味しいお寿司でもご馳走してくださいよ! 」
彼らの後ろ姿を見ながら、私はわんわんと泣いた。
金さえあれば、何でも手に入ると思っていた。
金で息子を医者にし、金で嫁の関心を買い、金で親孝行を受けようとしていた。
しかし、本当の人間の心は、金では買えないものだった。
あの釣り人たちは、1円も受け取らずに私を助けてくれたのに、我が子は何十億もの金を受け取りながら、私を殺そうとしたのだ。
私の人生は、無駄だったのかもしれない。

その夜、私は遺言書を書き直した。
震える手で、一文字一文字、力を込めて書き記した。
「私の全財産100億円は、私と同じように子に捨てられ苦しむ独居老人たちのための財団設立に寄付する。ただし、1円とも我が子、週一及び美咲に相続させない。」
句点を打った瞬間、ペンを握る手から力が抜けた。
これで、本当に終わりなのだ。我が子の縁も、私の40年間の虚しい夢も、全て。
窓の外を見ると、丸い満月が浮かんでいた。
あの月は、知っているのだろうか。この引き裂かれるような私の心を。
私は月を見ながら、祈った。
「来世ではどうか、金持ちの親ではなく、賢い親として生まれさせてください。金を与えるのではなく、愛を与える術を知る親にならせてください。」

しかし、復讐はまだ終わっていない。
まだ、やるべきことが残っている。裁判。法廷で、あの者たちの罪を一つ残らず明らかにし、この手で審判の槌を下さなければ。
私は涙を拭い、拳を固く握った。
「弱気になるな、佐藤和子。今、崩れ落ちたら、あの場で死んでいった自分があまりにも哀れではないか。最後まで行くんだ。行けるところまで、行ってみよう。」

裁判の日。
私は赤いジャケットの代わりに、きちんとしたグレーのスーツを着て車椅子に座っていた。
審判者の怒りよりも、冷静な被害者の品格を見せたかった。
裁判所の前は黒山の人だかりだった。
「佐藤和子さん、頑張ってください! 」「恩知らずを処罰しろ!


デモ隊、YouTuber、記者たちが入り乱れ、騒然としていた。
私は車椅子を押す西田さんに言った。
「行きましょう。」
法廷の中へ入ると、被告人席に座る2人の姿が見えた。
囚人服を着て、髪は乱れ、顔はやつれていた。
私を見ると、息子が弾かれたように立ち上がろうとしたが、刑務官に静止された。
「お母さん! 」
彼の声は、枯れ果てて金属音のようだった。
私は彼から冷たく目をそらし、検察側の証人席に座った。
裁判が始まった。
検察官が起訴事実を読み上げた。
「被告人、佐藤週一及び佐藤美咲は、保険金を目的とし、実母を意図的に殺害しようとした容疑で…」
裁判官の表情が硬くなった。
弁護人が反対尋問を始めた。国選弁護人だった。
「証人。被告人、佐藤週一が、普段は孝行息子であったという事実は認めますか? 」
孝行息子。私は思わず乾いた笑いを漏らしそうになったが、ふっと答えた。
「金を渡している時だけは、孝行息子でした。」
私の短い返答に、傍聴席から失笑が漏れた。弁護人は戸惑って咳払いをした。
「そ、それでも、岩場に置き去りにした際、救助される可能性もあるとは考えなかったのでしょうか。殺意が明確であったとは、断定するには…」
「弁護士さん。私は言葉を遮った。真冬の夜、人気のない岩場。折れた足。満ちてくる潮。そこで70歳の老人が生き残る確率が、何パーセントあるとお考えですか? もし釣り人たちが来なければ、私は今頃魚の餌となり、骨だけになっていたでしょう。あの者たちは、それを狙ったのです。」
弁護人は口を閉ざした。もはや言うことはないだろう。
その時、嫁が突然、手を上げて叫んだ。
「裁判長!

私は無実です! 全て、夫がやらせたんです! 私は止めました! 」
息子が嫁を睨みつけて叫んだ。
「何だと!

この女狐め、気でも狂ったか! お前が言ったんじゃないか! 『病院に行ったら金がかかる』『お母さんが死ねば保険金が出る』って! 」
「ふざけないで!

あんたの借金が原因でしょう! 私が死ねなんて言った? 言ったじゃない! 」
法廷は一瞬にして修羅場と化した。
互いを指差し、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせ合う2人。
裁判官が気槌を打って「静粛に!

」と叫んだが、彼らの激昂は止まらなかった。
私はその醜悪な光景を、冷ややかに見下ろしていた。
これが、我が子の素顔なのだ。私が40年間、骨身を削って働き、医者の白衣を着せてやった結果が、これだったとは。
恥ずかしさで、私は目を閉じた。もう、見たくなかった。

裁判は、夕方まで続いた。
釣り人たちの決定的な証言、そして西田さんが提出した金融取引の履歴や通話記録が証拠として採用された。
全てが、彼らの有罪を指し示していた。
私は結果を待たずに病院へ戻った。結果は、もう分かりきっていたからだ。

その夜、病室に1本の電話がかかってきた。
震える子供の声。孫娘だった。
「おばあちゃん…、うちのパパとママ、刑務所に行っちゃうの? 」
子供は泣いていた。
「おばあちゃんが、パパとママのこと、警察に行ったんでしょう? だから、警察のおじさんたちが連れて行っちゃったんでしょう? 」
胸が、ズキリと痛んだ。
子供たちに、何の罪があるというのだろうか。大人たちの強欲の犠牲になっただけなのに。
しかし、子供たちの目には、私が両親を刑務所に送った魔女のように映っているのだろう。
「…違うんだよ。おばあちゃんは、ただ…」
「おばあちゃん、大嫌い!

おばあちゃんは悪い人! うちのパパとママを返して! 」
ガチャッ、と電話が切れた。
孫娘の泣き声が、耳元で響いた。
私は一晩、眠れなかった。
息子を切り捨てることは簡単だったが、孫たちを切り捨てることは、自分の肉を切り刻むよりも痛かった。
これが、天罰というものなのだろうか。

翌朝、西田さんが硬い表情で病室に入ってきた。
「会長、少々厄介なことになりました。」
「何があった? 」
「週一様が、反訴の準備をしているそうです。」
「反訴?


「いえ…。国選弁護人ではなく、私選弁護人を選任したそうです。それも、かなり有名な法律事務所の弁護士を。金はどこからかというと…、お嫁様のご実家が用意したそうです。離婚を条件に、お嫁様は週一様に全ての罪を着せ、自分だけ助かろうという考えのようです。そして、その弁護士が、会長の認知症の診断書を要求してきたそうです。」
認知症。私は弾かれたように起き上がった。
「私を、認知症だと? 正気な人間を認知症患者に仕立て上げ、私の供述を無効にしようというのか! 」
「はい。会長が普段から物忘れが激しかったという点を悪用し、岩場での事件自体が会長の妄想、あるいは壊れた記憶であると主張するつもりのようです。」
怒りが、逆流した。
我が子が私を殺そうとしただけでは飽きたらず、今度は私を狂人に仕立て上げようとしている。
生きるためなら、母親を精神病患者にすることも厭わないのか。
「そうか。行くところまで行こうというわけか。西田さん。準備して。第2ラウンドだ。今度は私の足で、出向いてやる。その弁護士事務所だろうが、拘置所だろうが、どこへでも。」
「会長、お体も万全ではないのに…」
「構わん。私の精神が正常であるということを、この目で、この口ではっきりと見せてやる。そして…孫娘も連れてこい。」
「お子様たちを、ですか? 」
「そうだ。嫁の実家が子供たちを盾に、ふざけた真似をできないように、私が連れてくる。殺人犯の親の元で、強欲な祖父母の元で、子供たちがダメになるのを、見過ごすわけにはいかない。私の血筋は、私が守る。」

裁判当日。息子側の弁護士は、用意周到に偽の診療記録を振りかざした。
「3年前から物忘れがあった」「事件当日はショックによる錯乱状態だった」など、悪意のある作り話を並べ立てた。
私は車椅子に静かに座り、まるで奇形を見るかのように、彼らの茶番劇を見守った。
息子は俯いていたが、その歪んだ口元がかすかに上がったのを、私は見逃さなかった。
そうだ。お前が頼りにしていたのは、高がそれだったのか。母親を狂人に仕立て上げること。
裁判官が私に反論の機会を与えた時、私はゆっくりとマイクの前に進み出た。
そして、懐から録音機を取り出した。
それは、西田さんが拘置所の接見室に仕掛けておいた、我が子の醜悪な素顔が記録された、パンドラの箱だった。
再生ボタンを押すと、法廷中に息子と嫁の声が響き渡った。
「医者を買収して、偽の診断書を書かせればいい。」
「年寄りは、怒ると認知症が進むだろう。その時を狙え。」
彼らの声は、まるで自らの首を絞める縄の音のように聞こえた。
法廷内の空気が、一瞬にして凍りついた。
息子の顔が真っ白になるのを見ながら、私は心の中で冷たくつぶやいた。
認知症?

とんでもない。私の記憶は、私が40年前に息子の父を諫めていた台詞まで覚えているほど、鮮明だ。
狂っているのは、私ではなく、金に目がくらみ天輪を踏みにじった、お前たちの方だ。
私は裁判官の目をまっすぐに見つめ、
「40年前の築地市場でのサンマの値段は一尾いくらだったか、言いましょうか? それとも、週一の小学校の入学式の日のラーメンの値段を? 」
私は、そらんじてみせた。
その数字こそが、私が正気であるという証拠であり、私がお前をどれほど大切に育ててきたかを示す、血の涙の領収書だった。
裁判官は頷いた。弁護士は、穴があったら入りたいというように、逃げ出した。

裁判が終わり、私は勝利の喜びに浸っているわけにはいかなかった。
私には、まだ救わなければならない者たちが残っていた。
そう、私の孫たちだ。
西田さんが見せてくれた写真の中の子供たちは、嫁の実家の前で、薄汚れた顔で立っていた。
私は車を回し、嫁の実家へと向かった。
崩れかけたアパートの玄関の前には、赤いスプレーで落書きが書かれていた。
家の中からは、怒鳴り声と子供たちの鳴き声が聞こえてきた。
私は躊躇なく、インターホンを押した。
ドアが開き、嫁の母親が出てきた。私を見るなり、鬼の形相で飛びかかってきた。
しかし、私は彼女の金切り声に付き合うつもりはなかった。私の目的は、ただ一つ。子供たちだけだ。
私は財布から、1000万円の小切手を一枚取り出した。それは、子供たちの身代金であり、嫁の母親の最後のプライドを買い取る金だった。
小切手を見た瞬間、彼女の瞳が揺れた。
彼女は小切手をひったくるように受け取ると、子供たちを突き飛ばした。
「行きなさい。あんたたちのおばあちゃんのところへ。」
その一言に、子供たちがおずおずと私の元へやってきた。怯えた瞳。何日も洗っていない、匂う体。
私は子供たちを強く抱きしめた。この小さな者たちに、何の罪があるというのだろうか。
申し訳なさと安堵が入り混じり、涙が込み上げてきた。
私は子供たちの手を引き、その地獄のような場所を後にした。一度も振り返らなかった。
そこには、強欲と絶望だけが残っているだけで、もはや私が引き戻される場所は何もなかった。

子供たちを連れて家に帰る車の中で、私は西田さんに密かな指示を出した。
嫁の兄が運営しているという違法な風俗店と、私の孫たちを売り渡したその汚い金の流れを、断ち切らなければならなかった。
私の1000万円は、子供たちを連れ戻すための餌に過ぎない。その金が、彼らの懐を肥やすのを、見過ごすつもりは毛頭なかった。
警察への通報、マスコミへのリークは、迅速に進められた。
数日後、ニュースで嫁の実家の家族が次々と連行されるのを見ながら、私は一杯のお茶を飲んだ。
彼らが犯した罪は、ブーメランとなって彼らの後頭部を打った。私が投げた1000万円は、犯罪収益として国に没収された。
結局、彼らは金も家族も、自由さえも失うことになったのだ。
これで、私の周りに巣食う悪意は、全て片付いた。
残るは、この幼い命を守ることだけ。

「おばあちゃん、パパとママはいつ帰ってくるの? 」
孫が尋ねる言葉に胸が痛んだが、嘘はつけなかった。
「とても遠いところへ行ったんだよ。ずっとずっと後で、帰ってくるんだ。」
子供たちは、頷きながら私の胸に顔を埋めた。
その小さな体温が、私の冷たい胸を温めてくれた。
そうだ。これでいい。私の子育ては失敗に終わったけれど、この子たちだけは、正しく育てあげよう。
金ではなく愛を知る人間に、血の重みを知る人間に、育てあげよう。

それから半年後。
私は、息子が勾留されている拘置所へ向かった。
返事は返さなかったが、彼は何度も手紙を送ってきていた。
「お母さん、申し訳ありませんでした。一生、罪をつぐなって生きます。」
まっすぐに書かれた文字。幼い頃から、字だけは本当に上手な子だった。
その筆跡を、私は何度も撫でた。涙で滲んだ。

接見室へ続く廊下は、長く暗かった。足音だけが空間に響く。
透明なアクリル板の向こうから、囚人服を着た男が歩いてきた。短く刈られた髪。やつれた顔。我が子、週一だった。
彼が私を見るなり、がっくりと膝をつき、泣きじゃくった。
「お母さん…!


その声に、胸の片隅が好きりと痛んだ。母親であるということが、罪なのだろうか。
しかし、私は心を鬼にした。今、揺らいでしまえば、この子は永遠に人間になる機会を失ってしまうかもしれない。
私は椅子に座り、受話器を取った。息子も震える手で受話器を掴んだ。
「お母さん、体はどうですか? 足はもう大丈夫なんですか? 」
震える声。昔なら、「まあ、うちの子が私のことを心配してくれている」と感動したであろうその姿。
しかし、今の私の目には、別のものが映っていた。彼の視線が、私の顔ではなく、私の指にはめられた指輪に留まっていること。そして、チラチラと刑務官の顔色を窺っていること。
「週一。手紙は受け取ったよ。『罪を償っていきます』と書いてあったね。」
「はい。本当に骨身に染みて後悔しています。僕は、どうかしていたんです。お母さんにあんなことをするなんて。」
息子は涙をぽろぽろと流しながら、言葉を続け、そして決定的な一言が続いた。
「お母さん。ところで、孫娘たちは元気ですか? 妻の実家からは、子供たちの様子も教えてもらえなくて…」
「子供たちは、私が連れてきた。」
「ええ!?

お母さんがですか!? 」
息子の目が、一瞬驚きに光り、その奥に隠された何かが、ちらりと見えた。
「ああ、よかった。やっぱりお母さんしかいない。妻の実家の連中は金のことしか考えていないから、子供たちには関心もないでしょうし。お母さんが、子供たちをしっかり育ててくださるんですよね。僕の分まで。」
僕の分まで。勘違いもはなはだしい。自分が捨てた子供たちを、置き去りにした母親に押し付けながら、それを親孝行であるかのように見せかけている。そして、おそらく心の中では計算機を弾いているのだろう。お母さんが子供たちを連れて行ったのなら、お母さんの遺産は結局、子供たちに行くことになる。そうすれば、後で自分が出所して、子供たちの後見人になれば…。
私は彼の目をまっすぐに見つめ、低く言った。
「週一、夢を見るのはやめなさい。子供たちは私が育てる。しかし、私の金は、子供たちには1円も渡さない。」
息子の表情が、硬くなった。
「そ、それは、どういうことですか? 」
「私の全財産は、全て財団に寄付した。もう法的な手続きは終わっている。孫娘たちの学費や生活費は、財団から奨学金という形で出すことになる。お前が出所して、子供たちを言い訳に金を引き出そうなどという考えは、一切するな。」
息子の瞳が、激しく揺れた。涙に濡れた孝行息子の仮面が剥がれ、その下に隠されていた強欲な怪物の素顔が現れた瞬間だった。
「お母さん、ひどいじゃないですか! どうして全財産を寄付するんですか!?

血のつながった者よりも、他人がそんなに大事なんですか!? 」
彼は興奮して声を荒げた。
「…そうね。血は大事だ。だから、私はお前を生かしておいた。そうでなければ、お前はもうあの岩場で死んでいた。私がお前を産んだという罪悪感のために、法の裁きだけを受けさせてやったのだ。よく聞きなさい。これが最後の面会だ。私はもう、お前のことを私の息子だとは思わない。お前はただ、私がかつて知っていた、道に迷った哀れな魂だ。」
「やめてください! お母さん! お母さん!


息子がアクリル板を叩き、泣き叫んだ。しかし、それは母親を呼ぶ声ではなかった。消え去った500億円を呼ぶ、絶叫だった。
私は受話器を置いた。そして、席を立った。
背後から息子の怒鳴り声が聞こえてきたが、私は一度も振り返らなかった。
廊下の突き当たり、固く閉ざされた鉄の扉が開き、眩しい日差しが降り注いできた。
その光の中へと歩いていく私の足取りは、いつになく軽く、そして力強かった。

東京へ戻る車の中で、私は深い眠りに落ちた。
夢を見た。築地の市場。若き日の私が、魚の露天の前に座っている。
生臭いエプロンをかけ、赤ん坊の週一を背負いながら、魚をさばいている。
「へい、らっしゃい! ケトレの新鮮なサバだよ! 」
声を張り上げる自分の姿が、哀れでもあり、愛おしくもあった。
その時、誰かが私の肩を叩いた。振り返ると、今の私が立っていた。
しわだらけの顔だが、赤いジャケットを着て、明るく笑っている。
若い私は驚いて尋ねた。
「どなたですか? 随分、ご苦労なさったんですね。その顔、そんなにやつれて。」
私は、若い私の手を固く握りながら言った。
「苦労はしたけれど、無駄な人生ではなかったよ。あなたのおかげで、私がここまで来られた。ありがとう。本当に、ありがとう。」
若い私は、わけがわからないという顔をしていたが、やがてにっこりと笑って見せた。
「それなら、良かったです。私の人生、息子さえ立派に育てば、それ以外に望むことはありませんから。」
夢から覚めた時、私の頬には涙が流れていた。
悲しい涙ではなかった。過去の自分に送る、慰めと感謝の涙だった。
そうだ。和子。お前は本当に一生懸命、生きてきた。
結果は思うようにはならなかったけれど、そのプロセスだけは、誰も笑うことはできない。
お前は最善を尽くした。だから、今ここにいるのだ。

家に到着すると、子供たちが駆け寄ってきた。
「おばあちゃん!


孫娘たちが私の胸に飛び込んできた。子供たちからは、石鹸の香りがした。瑞々しい、命の香り。
私は子供たちを固く抱きしめた。
「おばあちゃんはね、昔の友達にちょっと会いに行ってきたんだ。もう二度と行かないよ。これからは、あなたたちとだけ遊ぶからね。」
庭では、財団で知り合った釣り人たちやボランティアの人々が、白菜を漬けていた。
「理事長、今日は独居老人のお弁当配達ボランティアの日だったの、お忘れですか? 白菜漬け、100株も漬けないといけないんですよ。」
私は杖を置き、エプロンをかけた。
白菜を漬けながら、ふと空を見上げた。青い空が、目に染みるほど高かった。
その空の下で、これほど多くの人々が共に笑い、語り、汗を流している。
金で買った偽りの幸福ではない。汗で作り上げた、本物の幸福が、ここにはあった。
40年前、市場で感じたあの活力、あの生命力が、再び私の血管を流れているようだった。
違うのは、あの時は私一人だったけれど、今は私の傍らに、本当の家族がいるということだ。

夜になると、私たちは庭で豚汁パーティーを開いた。
焚き火を囲み、歌を歌い、踊った。
この平和な光景を、私はあれほど望んでいた。しかし、息子からは得られなかった。
「血は水よりも濃い」というけれど、愛は血よりももっと濃いものだ。私は今になってようやく、家族とは何か、分かったような気がした。

夜が更け、人々が帰り、焚き火も小さくなっていった。
私は縁側に座り、夜空を見上げていた。月明かりが庭を明るく照らしていた。
西田さんが、温かいお茶を持ってきた。
「会長、お幸せでございますか? 」
彼が尋ねた。私は湯飲みを両手で包み込みながら、微笑んだ。
「幸せだよ。とても幸せで、死んでも悔いはないくらいだ。」
「そんなことをおっしゃらないでください。これから100歳まで生きなければなりませんよ。財団の仕事もしなければなりませんし、孫娘たちの結婚式も見なければ。」
「そうね。悔いが残らないように、長生きするよ。私の金が良いことに使われるのを、最後まで見届ける。そして、うちの子たちが正しく育つのも、見届けなければね。」
私は立ち上がった。杖がなくても歩けそうだった。東の空が、赤く染まり始めていた。
夜が明けようとしていた。最も深い闇の果てに訪れる、その柔らかな光。
私は胸いっぱいに息を吸い込んだ。冷たい夜明けの空気が、肺の奥深くまで染み渡り、私を目覚めさせた。
ああ、いいな。思わず、歓声が漏れた。
そうだ。人生は、これからだ。佐藤和子の本当の人生は、まさに今日、この夜明けから始まるのだ。
私は昇る太陽に向かって、両腕を広げた。まるで世界を全て抱きしめるかのように。
我が血筋を断ち切り、我が欲望を空にした場所に、もっと大きく、もっと温かい愛が満たされていくのが分かった。
黒い波は消え、今、私の前には、穏やかで眩しい黄金色の海だけが広がっていた。