助手の先生が診察室で突然、机に手をついたまま動かなくなり、床に崩れ落ちた。ペンがカルテの上を転がり、床に落ちる音だけが響いた。私は駆け寄って脈を取った。「先生、ごめんなさい」と彼女は泣きながら言った。検査の結果を聞いた瞬間、私は凍りついた。十年前に妻を殺したのと同じ病気だった。彼女はまだ若く、医者になったばかりなのに。「先生、私は医者を続けられますか?」と病室で彼女は尋ねた。答えを探して、私…
診察室の窓から、朝の光が畳の上に長く伸びていた。海の匂いが開け放たれた窓から流れ込んでくる。この町の朝は、いつも海から始まる。 最初の患者は、漁師の妻である宮原さんだった。膝の痛みを訴えて、月に二度ほど通ってくる常連だ。 「先生、また膝がね。雨が近いとわかるよ」 「昨日は孫さんが来てたんだろう? 抱っこしすぎたんじゃないか」 「あら、やだ。なんで知ってるの?」 宮原さんは笑った。俺は膝の腫れ具合を見ながら、当てずっぽうが当たったことに内心ほくそ笑んだ。最後に旦那の体調の話を聞いて、診察を終えた。 俺の名前は田島。四十五歳。この海沿いの町で診療所を営んでいる。先代の父の代から数えれば、もう五十年近くになる。 宮原さんが帰ると、入れ替わるように一人の女性が診察室に入ってきた。白い襟がピンと張っていて、立ち姿がまるで紋切型の教科書から抜け出してきたかのようだった。大学病院から研修に来た、梶木美里だ。 「梶木美里です。今日からお世話になります」 「ああ、聞いてるよ。東京の大学病院からだったね」 「半年間、よろしくお願いいたします」 頭の下げ方も立ち姿も、絵に描いたように完璧だった。ただ、目だけが少し冷たい。診察室の中をぐるりと見回し、古いカルテや年代物の血圧計、棚の上に置かれた錆びた聴診器を、一つ一つ値踏みするような目つきだった。 「先生、CTはどちらに?」 「うちにはないよ。必要な時は隣町の総合病院に紹介する」 「そうですか」 返事の間が、ほんの一泊長かった。 午前中、俺は十五人ほど診た。熱が下がらないという子供。嫁との喧嘩で眠れないと訴える女性。病気の話と暮らしの話と世間話が、診察室の中に混ざり合う。梶木は俺の後ろでずっと黙ってカルテを見ていた。時々、眉が少し動いた。 午後の往診の帰り、車のハンドルを握りながら助手席の梶木に声をかけた。 「お父さんも医者だったそうだね」 「聞いてたんですか?」 「紹介状に書いてあった。地方の診療所でずっとお一人でやってらしたとか」 梶木は少しだけ窓の外を見た。遠くで漁船が一そう、ゆっくりと港へ戻っていく。 「父はよく言っていました。患者の心まで見られる医者になれ、と」 「いい言葉だ」 「正直、意味はよくわからないままでした。心は見るものじゃなくて聞くものでしょ。私たちが見るのは数字とデータです」 俺は何も言わず、ハンドルを切った。診療所の建物が視界に入ってくる。 それから三日ほど経った午後だった。田所洋一郎さんが、息子に付き添われて診察室に入ってきた。元造船所の職人で、定年してからも町内会の世話役をやっている人だ。 「先生、親父が最近どうもおかしくて。同じ話を何度もするし、言葉も出にくくて」 「いや、そんなことはない。ああ、その、あれだ。あれ、なんだったかな」 田所さんは笑いながら、もどかしそうに手を動かした。息子は深いため息をついた。背後で梶木が小さくメモを取り始める。 「失礼ですが、物忘れが始まったのはいつ頃からですか?」 「一ヶ月くらい前です。かみさんも心配していて」 梶木のペンが「認知症疑い」と書くのが、視界の隅に入った。俺は田所さんの隣に椅子を寄せて、正面から向き合った。 「田所さん、今日の朝飯は何だった?」 「朝飯か。うちのがな、その、味噌汁とな、それからあの、白い、ほら、ご飯か。そう、それだ」 田所さんは答えようとしている。思い出せていないのではない。言葉と口がうまく動いていないのだ。俺は黙って田所さんの口元と右手を見ていた。 「田所さん、ちょっと字を書いてみてくれるか? 名前でいい」 紙とペンを渡した。田所さんは少し戸惑った顔をしたが、ペンを握って書き始めた。右手が小さく震えている。線がかすれ、最後の一画が紙の外まで流れた。 「もう一度、左手で書いてくれるか?」 左手で書いた字は、震えてはいたが最後まで紙の中に収まっていた。 「いつもは右利きだろ? 最近、箸や茶碗を落とすことはないかな?」 「そういや、この前、茶碗をな……」 「親父、そうだったのか!」 梶木がペンを止めて顔を上げた。じっと田所さんの右手を見ている。さっきまでとは、明らかに違う目だった。 「息子さん、悪いが隣町の総合病院に紹介状を書く。明日にでもCTを取ってもらってほしいんだ」 「先生、認知症じゃないんですか?」 「認知症だけなら、字の形は崩れない。右手だけに力が入らないってのは、別の話だ」 田所さん親子が帰った後、診察室には俺と梶木の二人だけが残った。梶木は田所さんの描いた字をじっと見ていた。 「先生、なぜ字を書かせたんですか?」 「字は嘘をつかない。本人が気づいていない不調が、線の震えに出るんだ」 「問診表では、何も分からなかったと思います」 「だから、書いてもらった。それだけだよ」 梶木は何かを言いかけて、やめた。窓の外で海猫が一声、長く泣いた。 それから五日後の朝だった。総合病院の脳神経外科から電話が入った。田所さんのCTに、小さな脳腫瘍が映っていた。場所も大きさも、早期と言える段階だった。 その日の夕方、息子さんがお礼の品を持って診療所に来た。 … Read more