「ただのボケた老いぼれだと思っていたでしょう?」…
旅行に行っていたはずの私の携帯電話に、息子の絶叫が響き渡った。 「母さん、どうして家が空っぽなんだ?」 思わず私は耳からスマホを少し離した。私はただの裕子、71歳。高級マンションの最上階から東京の景色を眺めている。 「母さん、聞こえてるのか?」 「はい、聞こえていますよ。そんなに大声を出さなくても大丈夫です」 私は落ち着いた声で答えた。電話の向こうで、息子の幸介が息を荒げているのがわかる。 「家具も家電も全部なくなってるんだ。何があったんだよ。お母さん、どうしてこんなことに?」 今度は嫁のみさの声だ。パニック状態になっているのがよくわかった。 「温泉はいかがでしたか? ゆっくりできましたか?」 「そんなこと聞いてる場合じゃないでしょう。今どこにいるの?」 私は窓に映る自分の姿を見つめた。5日前、この決断をした時の自分を思い出す。あの時、私は静かに呟いたのだ。 「高都合ね」 4泊5日の旅行に出かける2人を見送りながら、私の心はすでに決まっていた。 私がなぜこのような行動に出たのか、その理由をお話しする前に、まず私という人間について知っていただく必要があるだろう。私は大手企業で30年にわたり秘書として従事し、最後の数年間は秘書室長を務めた。年収は1500万円を超え、退職金と長年の貯蓄や投資を合わせて、1億2000万円ほどの資産を築き上げた。夫と2人静かに暮らしながら、堅実に蓄えてきたのだ。 5年前、最愛の夫が他界した。その時、息子の幸介が同居を申し出てくれたのだ。 「母さん1人じゃ寂しいでしょう。一緒に暮らそう」 優しい言葉に、私は心から感謝した。息子が私を心配してくれている。そう信じて疑わなかった。 同居が始まってすぐ、みさが言った。 「お母さんの貯金があれば生活は安心ですね。私たちも助かります」 その時は素直な感想だと思った。私は喜んで毎月15万円の生活費を負担し、家事全般を引き受けた。朝5時に起きて朝食の準備をし、掃除、洗濯、夕食の支度まで、全て私がこなしていた。孫の世話も任された。保育園の送り迎え、習い事の付き添い、病気の時の看病、全て引き受けていた。 「お母さん、本当に感謝してます」 みさは時々そう言ってくれた。でも今思えば、その言葉の裏に別の感情が隠されていたのかもしれない。私は献身的に尽くした。家族のために生きることが私の幸せだと信じていたのだ。 しかし、その幸せはある日を境に崩れ始めることになる。最初の違和感を覚えたのは、同居から3年が過ぎた頃だった。 「お母さん、この味噌汁、また薄いですよ。もう少し濃い味にしてって何度も言ってるじゃないですか」 みさの口調が以前とは明らかに違っていた。私は丁寧に謝り、味を調整しようとした。しかし翌日には別の文句が飛んでくる。 「今度は濃すぎます。お母さん、味覚がおかしくなってきたんじゃないですか?」 私は困惑した。同じ分量で作っているはずなのに、なぜ毎回文句を言われるのだろうか。 そんなある日、リビングから聞こえてきた会話に、私は凍りついた。 「あの日、なんか匂うのよね。お母さんのカレー臭かしら?」 「仕方ないだろ。年寄りはそういうものだろ」 私のことを話している。私は毎日入浴し、清潔を心がけているつもりだった。それなのに、まるで汚物のように扱われることに深く傷ついた。 やがて金銭的な要求も増えていった。 「お母さん、来月から生活費20万円にしてもらえませんか? 物価も上がってますし」 私は了承した。家族のためならお金は惜しくない。しかし要求はさらにエスカレートしていく。 「孫の習い事代もお母さんが出してくれますよね。月謝が8万円なんです」 「車の車検代、30万円かかるんですが。お母さん、お願いできますか?」 「家のリフォームに200万円必要なんです」 もちろん私が断ろうとすると、みさは不機嫌になった。 「お母さんにはたくさん貯金があるんでしょう。家族なんですから出し惜しみしないでくださいよ」 まるで私が金庫のように扱われていることに、違和感を覚え始めた。 ある日の夕食時、私が作った煮物を一口食べたみさが、露骨に顔をしかめた。 「お母さん、これ本当に食べられるものですか?」 「どうしたの?」 「味がおかしいです。もしかして賞味期限切れの食材使ってません?」 私は驚いた。全て新鮮な食材を使っている。 「そんなことはありませんよ」 「でも、こんな味……お母さん、最近もの忘れもひどいし、認知症じゃないですか?」 幸介も同調した。 「確かに、最近母さんの様子がおかしい気がする。病院で検査してもらった方がいいかもな」 私は言葉を失った。確かに71歳という年齢だが、頭はまだしっかりしている。現役時代に培った記憶力と判断力は、今も健在なのだ。 その後も嫌がらせは続いた。 「お母さん、その服装、時代遅れですよ。迷惑だから外出する時は気をつけてください」 「お母さん、私の友達が来る時は部屋から出ないでもらえますか? … Read more