会長室の天井裏で点検作業をしていた俺は、その日、人生を変える密談を聞いてしまった。10年前に俺を左遷した遠藤社長が、会長を追い落とそうとしている。会長の大切な第一工場を裏で売却しようと計画し、偽の認知症診断書まで用意していた。「会長は俺を信頼してるからな。一切疑わなかったよ」——そう笑う声を、俺は必死に握ったスマホで録音した。しかし翌日、社長の部下に呼び止められ、スマホを探し始められた。俺は…
「絶対にサインを押さないでください」 慌ただしい空気に包まれた会議室で、俺はこっそり会長に近づいてささやいた。驚く会長の目には、作業着姿の俺が映っている。次の瞬間、会議室が騒然となる。ある人物の悪事が白日のもとにさらされた結果、俺はただの作業員から一転し、会社を救ったヒーローとなった。 俺の名前は木村。65歳。昔は大手の設備会社でバリバリ仕事をこなしていた。 しかし今の俺は作業着にヘルメット姿だ。今日は朝から気温が高い。汗を手で拭いながら、作業員用の裏口から会社に入った。 「おはようございます」 若い社員とすれ違いざま挨拶をするが、相手は俺を無視。小さくため息をつき、点検表に目を落とした。 俺は元々この会社に勤めていた。しかし10年前、新しく会社のトップになった遠藤社長が打ち立てたIT・デジタル化投資への全面転換に、俺は真っ向から反抗した。 「うちは製造業です。本業をないがしろにするべきではない」 我が社は昔から現場で働く技術者を大切にしてきた。しかし遠藤社長は効率重視と人件費のコストカットばかり重視し、社員のことは念頭にない。社員を大切にした上での方針転換なら賛成できるが、遠藤社長が考えているのは目先の利益だけだ。 社長の言動からそう判断した俺は、反対意見を書類にまとめて提出した。すると翌月、左遷の辞令が届いた。 広いオフィスで、俺を見送る後輩の藤岡が泣いていた。藤岡は激怒し、社長に抗議しようとした。しかし俺はそれを止めた。 「お前を巻き込むわけにはいかないからな」 俺が本社を去る日、藤岡は一目も隠さず泣いていた。あいつのおかげで俺は腐らずに済んだのだ。 定年まで勤め上げた後、のんびり引退生活を送っていたが、ある日意外な人物から電話がかかってきた。 「戻ってきてくれないか?」 電話から聞こえてきたのは、創業者である細川会長の声だ。本社にいた頃、会長とは何度か話をしたことがある。会長は俺の腕や考え方を買ってくれていた。 「あの時君を守れなかった償いをさせてくれ」 思っていた以上に会長は俺に肩入れしてくれていたのだと、この時初めて知った。 「会長が必要としてくださるのなら、是非」 そして俺は今日も誰にも気づかれず、設備点検という形で本社ビルを守っている。 今日は俺の恩人である会長の部屋、会長室の点検作業日だ。会長は仕事で不在なので、1人で黙々と作業を進める。ふと吹き出し口に小さな異常を見つけた。 真夏になったら故障になるな。報告書を出してから修理するのが規則だが、承認を待っていたら会長が熱中症で倒れてしまう。道具を取り出し、こっそり直した。 翌朝廊下を歩いていると、会長とすれ違う。 「昨日空調を直してくれたのは君だね」 会長の問いかけに静かに返す。 「点検の範囲内です」 愛想も何もない答えだが、会長は柔らかい表情で頷いて返した。 「ありがとう。助かったよ」 そう言い残し、俺の前から立ち去る。短い会話だったが、俺の中に充足感が広がった。 夏の暑さが増しつつあったある日のこと。俺は役員室の空調点検をしていた。今日の作業場は天井裏。夏場は40度を超える過酷な環境だ。汗が目に入りとても染みたが、声は一切あげず点検を続ける。 すると役員室に誰かが入ってきた。10年前、俺を左遷した遠藤社長だ。あまりにも静かに点検作業をしていたからか、社長は天井裏の俺に気づいていないらしい。 スマホを取り出すと、誰かに電話をかけ始めた。 「俺だ。ああ、予定通り会長には担保に入れるだけと言ってある。会長は俺を信頼してるからな。一切疑わなかったよ。まあ、実際は担保じゃなく第一工場の売買契約書だがな」 作業の手を止め、社長の声に耳を傾ける。 「賄賂の見返りは俺の裏口座に集めてある。経理担当者には絶対に外に出すなと言っておけ。印鑑を押させたら、用意しておいた認知症診断書を役員に見せる。そして会長を退任させるんだ」 工具が手から滑り落ちそうになり、慌てて握り直した。 第一工場は細川会長がゼロから作った我が社の工場だ。現在は全国に複数工場があるが、あの工場は別格だった。細川会長は戦後何もない土地に第一工場を作り、会社をここまで大きくさせた。社としても大きな役割を担っている工場で、充実した設備と高額な機械が大量に置いてある。売却したら相当な値段になるだろう。 ポケットからスマホを取り出し、録音する。うまく記録できているかわからない。しかし何もしないわけにもいかなかった。 遠藤社長が部屋を出て行った後、俺も天井裏を後にする。誰もいない地下の設備室で、スマホをそっと取り出す。 スマホを握りしめたまま悩んでいた。 「俺みたいな最末端の作業員に何ができるんだ?」 昔の俺は会社でそこそこの地位にいた。当時の俺が声をあげれば、何人かは耳を傾けてくれただろう。しかし今の俺は、若い社員にスルーされるような存在だ。そもそも10年前、俺は正しいことを言ったのに会社に潰された。今更声を上げる勇気も気力もない。 スマホを落としそうになり、慌てて掴む。ちょうど指が再生ボタンを押していたようだ。悪事を企んでいる社長の声がスマホから聞こえてきた。 会長の大切な場所を、この人は潰そうとしている。 「今夜のうちにUSBメモリーへコピーしておこう」 証拠は分散させるに限る。俺は悩みながらも、できることをしようと決めた。 翌朝、俺は会長に話をするため会長室へと向かっていた。しかし途中で一番会いたくない人物と遭遇する。 「ん? お前は」 そこにいたのは遠藤社長だ。因縁の人物は俺をじろじろと見ながら、何でもない風に口を開く。 「点検か」 俺に向ける視線に熱はない。俺のことをすっかり忘れているようだ。 「はい、点検です。失礼します」 遠藤社長は俺から視線を外し、その場から離れた。 ドクドクと脈打つ胸を抑え、足早に会長室へ向かう。しかし途中で足を止めた。 … Read more