夜のテニスコートで、二人きりの特訓中でした。ラケットを教えるために彼女の腰に手を伸ばした瞬間、それまで抑えていた感情が爆発して、気付いたら先生である私が、バツイチの生徒である彼女を強く抱きしめていました。「ここじゃだめです…」と、彼女は震える声で言いました。それから彼女とは気まずくなり、音信不通に。もう会えないと思った矢先、コーチの仕事が終わる最後の日、彼女が突然、名前で私を呼びながら追いか…
テニスコートの照明の下で、俺の心臓は運動のせいではない高鳴りを打ち続けていた。ラケットを持つ彼女の手を直そうと、無意識に腰へ伸ばした手が、触れるか触れないかのところで止まる。俺の理性は、彼女の艶やかな表情を見た瞬間、どこかへ消え去っていた。次の瞬間、自分の意思とは関係なく、松岡沙織さんをきつく抱きしめていた。 「ちょっと、コーチ…」 彼女は戸惑いながら、体をひねって逃れようとする。 「ここじゃ、だめです…」 俺の名前は里田深夜。どこにでもいる、平凡なアラサーサラリーマンだ。三十歳を過ぎてからは彼女もおらず、仕事だけの毎日だった。学生時代からテニスに打ち込んできたが、相手もいなくなり、いつの間にかラケットから遠ざかっていた。そんなある日、会社の上司から声がかかった。 「里田、お前、学生時代テニスしてたんだろ」 「はい、自分で言うのもなんですが、結構うまいですよ」 「俺の知り合いがテニスコーチをしてるんだが、手を骨折したらしくてな。代理のコーチを探してるんだ。区のテニスクラブで報酬は少ないが、どうだ?」 「いいですよ。自分も体を動かしたかったので」 休みの日も暇だった俺には、ありがたい話だった。上司の「生徒さんは年配か主婦が多いらしい」という言葉に、俺の心は密かに躍った。俺は年上の女性に惹かれる傾向があったからだ。落ち着いた雰囲気と、余裕のある仕草がたまらない。今まで付き合ってきた人も、みんな年上だった。 初めてテニスコートへ行くと、そこには真面目に練習する生徒たちがいた。みんな真剣にテニスに向き合っていて、俺は期待していたような不純な気持ちを、いつしか忘れかけていた。しかし、通い始めて数週間が経った頃、新しい生徒が加わった。 「初めまして、松岡沙織と申します。テニス初心者なので、どうぞご指導のほどよろしくお願いします」 深々と頭を下げた彼女は、似合っているかどうか分からないくらい短いテニスウェアが様になる、四十代とは思えない美人だった。娘さんが高校生になり、自分の時間ができたので新しい趣味を始めたらしい。俺のどストライクな顔に、心臓がドキリとする。 「よ、よろしくお願いします。代理コーチの里田です」 彼女は本当に初心者で、他の生徒と一緒に練習するのは難しかった。俺はコートの隅で、彼女に基本から教えることになった。 「まず、素振りからやりましょう。…こうです。そう、そう。いいですね」 「ありがとうございます。嬉しそうにニコニコ笑う彼女の顔が可愛くて、俺の心臓はまた高鳴った。 それから、日曜日のテニスが待ち遠しくなった。彼女が「娘とテニスがしたい」という夢を持っていることを知り、俺はもっと上達させてあげたいと思った。 「沙織さん、もし時間があるなら、平日の夜に特訓しましょうか。その方が早く上手くなるかもしれないですよ」 「え、いいんですか? コーチもお仕事でお疲れなのに」 「大丈夫ですよ。仕事の後に汗を流すのも悪くないですから」 こうして、二人だけの秘密の特訓が始まった。人に内緒で、夜のテニスコートに集まる。彼女は「追加の分は払わせてください」と言ったが、俺が断った。「俺のストレス発散にも付き合ってください」と言うと、彼女は嬉しそうに「じゃあ、お言葉に甘えて」と笑った。 特訓中、俺は彼女の腰に触れるのを躊躇した。 「もしかして、気にしてくれてます? 大丈夫ですよ。若い子じゃないんだから、セクハラとか言いませんよ」 彼女は明るく笑い飛ばしたが、俺の方は全然平気じゃなかった。彼女の腰を支え、ラケットを持つ手を掴んで振り方を教える。体が密着しすぎて、俺は自分の反応を必死に抑えていた。強く腰を支えると、彼女は「ひゃっ」と小さな声を上げた。 「ごめんなさい。無意識に声が…男の人とこんなにくっつくの、久しぶりだから」 振り向いた彼女の顔は真っ赤で、照明に照らされたその表情は艶っぽかった。俺の何かが弾けた。次の瞬間には、彼女を強く抱きしめていた。 「沙織さん、ずるいですよ。そんな、誘ってるみたいなこと言わないでください」 「こ、コーチ、こんなところで…だめです」 彼女は困惑しながら、必死に逃れようとする。俺は慌てて手を離した。 「ごめんなさい」 「…気にしないで、なんて嘘ですね。私の方こそ、コーチを意識してたみたい」 彼女はそう言うと、ラケットと荷物を持って、走るように帰ってしまった。夜のテニスコートに一人残された俺は、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。 それから、沙織さんからの連絡はなかった。どうしても謝りたくてメールを打とうとしたが、何と送ればいいのか分からない。「あれは一時の気の迷いだった」なんて嘘は言いたくなかった。俺は自分の正直な気持ちを伝えたかった。 次の土曜日、テニスの練習日が来てしまった。どんな顔をして会えばいいのか分からなかったが、他の生徒が待っているから行かなくてはならない。コートに着くと、沙織さんの方から明るく声をかけてきた。 「こんにちは、コーチ」 「こんにちは…あの、沙織さん、この前のことは…」 「大丈夫です。気にしてないです。だからコーチも忘れてください。やっぱり、こんなバツイチ主婦と若いコーチがそういう関係になるのはダメだと思うので。また、コーチと生徒としてよろしくお願いしますね」 彼女の勢いに押されて、俺は「はい」と返事をするしかなかった。それから俺たちは元のようにテニスの指導を再開した。彼女はめきめきと上達し、特訓がなくてもみんなと一緒に試合ができるようになった。それは嬉しいことだったが、同時に、二人きりで会う機会がなくなってしまう寂しさもあった。俺は週一回の練習で、遠くから彼女を見つめるだけになってしまった。この気持ちは諦めなければ、と思い始めていた。 そんな時、怪我をしていた正規のコーチが復帰することになった。俺の仕事はそこで終わりだ。 「里田さん、助かりました。もう僕が行けるので大丈夫ですよ。今までご苦労様でした」 「ありがとうございました」 みんなに挨拶をして、最後の練習を終えた。荷物をまとめて車に積んでいると、後ろから声がかかった。 「深夜さん、待って!」 沙織さんがテニスウェアのまま、コートの外まで追いかけてきた。みんなからは離れているから、見られてはいないだろう。 「どうしたの、沙織さん。…ていうか、今、名前で呼んだ」 「だって、もうコーチはやめちゃうんでしょ」 「ああ…そうだね」 気まずい空気が流れる。彼女は言いにくそうに、うつむきながら言葉を紡いだ。 「深夜さん、あのね。私からあんなこと言ったのに、ごめんなさい…。私、やっぱりあなたのことが好きです」 「え…」 まさか、彼女の方から告白されるなんて思ってもみなかった。このままお別れで、二度と会えないと思っていたのに。 「このままお別れで、二度と会えないと思っていたんです。でも、私みたいな関係はダメだって、諦めようと頑張ったんだけど…ますますあなたのことが好きになってしまって」 … Read more